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雪舟の「山水長巻」

2021-06-22 21:24:47 | 日記
前々回に引き続き、雪舟の国宝作品を取り上げたい。今回は彼の最高傑作とも評される「四季山水図」である。全長16メートルにも及ぶ長い長いこの巻物には、春夏秋冬の壮大な時空の流れが描かれており、非常にゆっくりと歩みを進めながら、また時には足を止めてその場に佇みつつ、変幻自在なその四季の移ろいを鑑賞するのが大変お薦めといえる。そして特筆すべきは山水を中心とした自然の風景だけではなく、小さな点景ではあっても人間が確りと絵の世界で生きていることだ。しかもそこに点在する人々の姿からは中世の人間社会の息吹がかなりリアルに伝わってくる。

「四季山水図」は、一般的に「山水長巻」と呼ばれているわけだが、これは実に言い得て妙であろう。なぜなら16メートルの長さはやはり半端ではない。迫力が段違いである。まず絵との最初の邂逅で、強い磁力に引き寄せられてしまう。それは冬景色が控えている左奥から、右手前の春景色に至るまでの2次元空間全域に漂う、澄み渡った大気の影響かもしれない。雪舟がなぜこんな長過ぎるほどの巻物に、自ら生み出した絵を封じ込めたのかは推測するしかないのだが、流石は雪舟である。彼はこの特別な巻物の素材を見事に生かしきっている。

そして私たち鑑賞者は、ここで貴重な体験をすることになる。それは3次元空間にいながらにして、否応もなく2次元の長大な平面に吸い込まれてゆくような感覚を味わえるからだ。私たちは眼前の巻物に沿って右から左へ移動していくことで、雪舟という画聖のフィルターを通した春と夏と秋と冬に出会っていく。ところが同時に、左から右に流れてくる悠久な大河のような驚異に身を任せてもいる。これは死後500年以上を経た雪舟の情念ともいえる強く大きな想いが作品に滲み出ているからだ。しかもこの相乗効果は、芸術の本来性や希少性、つまり作り手と作品と受け手の3つが、時空を超えてもなお共鳴し、共振し感動を生むことを証明している。

ところがである。この「山水長巻」はそこからさらに飛躍を見せるのだ。それは豊穣な実りの秋の後に訪れる冬の光景が私たちの視界に入った瞬間、そこで様相が一変してしまうからである。雪舟は生前、風景が全てを教えてくれると語っているが、彼が認識していた風景には人間も区別なくその範疇に入っているように思われる。そして春と夏と秋の風景において、牧歌的に自然と調和するポジティブな人々が、厳粛とした白い雪が印象的な冬の風景では、堅固で巨大な城壁や建物の内部に収まっており、この描写では人々が動かない状態でネガティヴに拘束されてしまった観さえもあるのだ。

では何故に、雪舟は冬の風景において、そのような険しく厳しい表現をしたのか。これは彼が絵師である前に禅僧の仏教者であったことと、その時代背景も考慮していく必要がありそうだ。前々回のブログで応仁の乱が勃発する以前に、彼は京都を離れてしまう事実を書いた。その理由は絵師としての才能が、京都では開花しなかったこともあったが、室町時代という天災や人災が打ち続く荒んだ乱世において、本来なら仏の教えを活かし苦難に満ちた貧しい民衆を救うべき僧侶が、室町幕府の権力の中枢に属し、いわば民から搾取する官の側の役人に近い存在に成り果てていたこともその一因であろう。

雪舟を現在の山口県の周防へ招聘したのは、守護大名の大内教弘である。この人は分家から有力守護大名の本家の大内家へ養子に入った苦労人で、周防を含めた領国を小京都のような地方文化圏にする計画を持っていた。この為、雪舟に限らず、歌人や絵師や僧侶といった文化人を多数呼び寄せている。この流れに雪舟は好感し、少なからず希望を見出せたのかもしれない。

しかし室町時代は政変や内戦が頻発した時代であった。政情不安定な中、幕府も討伐令を乱発している。雪舟の庇護者の大内教弘が家督を継いだのは、第六代将軍足利義教が暗殺された政変が因で、当主の大内持世も巻き込まれ重傷を負い死亡してしまったことによる。まさに青天の霹靂であり、大内教弘にとって、これは突如として空から雷撃を浴びたような大事件であった。

暗殺劇で生涯の幕を閉じた足利義教は元々は比叡山延暦寺の貫主、つまり天台座主であり大僧正まで務めた人物だが、後継者が指名されなかったハプニングにより籤引きで選出されて室町幕府の将軍に就任しており、非常に数奇な運命の持ち主である。そして将軍就任後は、父親の第三代将軍足利義満を真似るような独断専横の路線を突き進み、将軍権力の強化を図ったが、この時期は室町幕府の将軍職そのものが有力守護大名に支えられた合議制で成立していた為に、歯車が噛み合わない暴走の末に崩壊してしまったようだ。残念ながらそんな状況下で、大内氏は独裁を目指す将軍を支持していたわけである。

ただこの大内氏は古代の朝鮮半島の百済王朝の末裔と称し、古くから海外貿易で富み栄え、幕府に従い功績を積んだ名門でもあった。しかし遡ること第三代将軍足利義満が、その大内氏の武力と財力に脅威を感じると、謀略を駆使して反乱を誘発し、出る杭を打つ形で鎮圧軍を差し向けている。その結果、隆盛を誇った大内氏も一端は滅亡の危機に瀕したが、それでも大内氏の海外貿易は莫大な利益が稼げるほど旨味があった為、幕府は殲滅せずに以後、大内氏の懐柔と利用に舵を切っていく。つまり大内教弘は火種を宿した危険な家の跡継ぎにされてしまったのだ。

当主に就いて以降の教弘は幕命を受けて各地を慌ただしく転戦し、領地を増やして利を得た幸運もあったが、疲弊した挙句に波瀾万丈な大内家の歴史を繰り返すようにして幕府へ反旗を翻した結果、官位や当主の地位を剥奪されてしまう。こうした経緯もあり、大内教弘は基本的に地方へ介入してくる中央の幕政に対する不信感が根深った。また人生の最期が戦地での病没であったにせよ、亡くなる数年前に出家していたことから考えると、彼が文化に傾倒したのは厭世的な人生観ゆえであろう。

恐らく雪舟と大内教弘は、腐敗した室町幕府に辟易していたという点では、共感できる似た者同士で信頼関係も厚かった。そうでなければ都落ち同然の雪舟がすんなりと日本列島の周防から中国大陸の明へ遣明船で渡航できたわけがない。「山水長巻」は雪舟が明国から帰国後に制作を開始した作品だが、実はある特定の人物に献上すべく作られたものだ。そしてその人物とは大内教弘の息子で後継者の大内政弘である。

この大内政弘は歴史の重大な局面において、相当な影響力を持っていながら誤った決断をしたことで有名だ。この為に、決して無能なわけではなく、世俗的な成功も手にしているにも関わらず、随分と評価を下げてしまっている。では何をやらかしたのかというと、応仁の乱の戦火を煽るように拡げて、ずるずると長びかせてしまったのだ。

無論、大内政弘の個人的な所業の範囲で、応仁の乱の拡大化と長期化が実現できたわけではない。それに将軍家が跡目相続で揉めて東軍と西軍に分断し、その2大勢力のそれぞれを実質的に掌握し指揮していたのは、当然のこと御所に隠棲していた第八代将軍足利義政などではなく、東軍の総大将の細川勝元と、西軍の総大将の山名宗全である。ただ大内政弘が応仁の乱のキーマンになり得たのは、山名宗全が母方の祖父に当たるからだ。

雪舟が明国へ渡る為に遣明船に乗ったのは、大内教弘の死後2年目のことであった。つまり大内家の当主は、もう政弘の代になっていたことになる。この時点で応仁の乱はまだ勃発していないが、京の都には不穏な空気が蔓延していた。再三述べたように室町時代は内戦のような人災だけではなく、地震や津波、台風や疫病それに飢饉といった天災が幾度となく日本列島に襲来している。

特に応仁の乱が起こる約13年前には、21世紀の東日本大震災クラスの超巨大地震が東北地方の太平洋沖を震源として発生していたのだ。これは私たち現代人の生々しい記憶から想定可能な話だが、恐らく東日本をメインにして全国規模で復興の目処が立たない各地から、行き場を失った被災民が、富の集中する京の都にも流入し続けていたはずである。

そして元寇に遭遇した鎌倉時代後半とは異なり、室町時代は中国の明王朝に朝貢する勘合貿易を通して、明の貨幣を使用することで、曲がりなりにも国際的な経済システムに組み込まれていた。その影響で土木を含めた農工業の技術も進歩し、商業や金融業も発展している。この為、経済成長で潤った幕府が富を吐き出す福祉事業ともいえる施行の記録も一応残ってはいるのだが、為政者が貧民の救済にどこまで注力したかは判然としない。また公的食料供給を含めた施行よりも、治安の悪化や暴力支配の実態の方が顕著であることから、本当のところ福祉的に行動したのは、一部の宗教者やボランティアであったようだ。

多分、一休宗純や雪舟といった体制側にあっても、現行の仏教の存在価値に疑問を抱いていた禅僧は、災厄下において福祉活動には幾分か携わっていたはずである。そして雪舟の描いた「山水長巻」は、人災や天災に見舞われ続けた、彼が生きた時代の日本の風景とはどうも少し違う。むしろそこには中国大陸の土を踏み、明国で暮らした残影のような景観が再生された色合いさえ感じられる。それというのも、雪舟にとって明という異国は、壮年を経てやっと辿り着けた約束の地でもあったからだ。

明が念願を叶える異国であった理由、それを紐解く前にここで、雪舟の師である周文について少し述べておきたい。相国寺において雪舟に水墨画を教授したのは、この周文その人だが、彼は弟子の雪舟とはかなり個性が異なる。しかしながら、2人の師弟関係は良好であったようだ。特に晩年の雪舟が残した言葉には、周文への尊敬の念が如実に感じられる。

周文は禅僧の絵師である以上に、室町幕府の官僚としても有能な人物であった。主に相国寺の財務に従事していたが、外交の仕事もこなし朝鮮半島を支配した李王朝にも派遣されている。ただ公務に忙殺されていた為、我が道を行くタイプの雪舟にとって、師が絵の才能に恵まれながら、それとはほぼ無縁の仕事漬け状態になっている姿は、気の毒な境遇に思えたのではないか。また自分にはそんな師の生き方は到底無理だと、そう悟っていたはずである。これは多分、周文も同様に弟子の資質と才能を見抜いた上で、組織に順応した自らの道を雪舟が踏襲することを望まなかったであろう。

周文の絵の大きな特徴は、日本が輸入した中国の宋や元の時代の水墨画をそれこそ心眼の域で解釈し、未だ見ぬ中国大陸の主に山水の景観を想像から創造するというスタイルだ。しかもこれは単なる模造品のレベルではなく、空想の産物だとしても、描かれた世界はその様式美を究極まで突き詰めた、周文固有の内向宇宙である。

恐らく周文の絵が存在しなければ、雪舟の絵は生まれなかった。そして周文の弟子たちが師から絵を学び、間近で師の絵を見て感銘を受けることで、宋や元の時代の中国大陸の風景に想いを馳せ、波濤を越えて当時の明へ渡ることを夢見たとしても不思議ではない。特に後年その目的を果たせた雪舟にしてみれば、なおのことそうであったはずだ。

周文は朝鮮半島までは行けたが、ついに中国大陸へは到達しなかった。その意味で、周文の絵と雪舟の絵の大きな違いは、本人自身が中国大陸に降り立ったかどうかによる。しかし水墨画における山水の世界は、事物を克明に写生し復元する西洋絵画とは違い、絵師の心象が絵画表現のその核にある。従って自然界の明暗や陰影はさして重要ではない。この為、絵師が描く此処は、此処ではない何処かであるともいえる。そしてあの「山水長巻」における此処とは、雪舟が足跡を刻んだ中国大陸であり、周文にとっての此処とは、異国の先人たちが創造した中国の風景の絵の中に存在する。

それでも周文と雪舟がそれぞれの此処から導き出した何処かは、静謐さの漂う異界だという点では共通している。ところが周文の絵には重厚な沈黙が感じられるのに対し、雪舟の絵からは静かに何かを問いかけてくる魅力があるのだ。そしてこの「山水長巻」に潜む問いかけを向けられた相手とは、あの応仁の乱で10年近く京都を含めた畿内各所を戦場にして暴れ回った大内政弘である。

「山水長巻」が1486年に完成した時、応仁の乱は終息して既に9年の歳月が過ぎていた。ただし応仁の乱が泥沼状態に陥っていた頃、雪舟は大内氏の本拠地である周防には定住せず、今の北九州の豊後や山陰地方の石見で創作活動を行っており、日本の中央の畿内からも遠く離れている。この行動は庇護者の大内氏を避けている印象も受けるが、ひょっとすると当主の大内政弘とは確執があったのかもしれない。また応仁の乱で西軍の巨大勢力として参戦中の大内政弘は領国を留守にした為、東軍に唆された親族の反乱にも遭遇し、大規模な畿内の内戦のせいで、大内氏家中にも波乱が巻き起こっていた。

戦争は政治的勢力の拡大だけではなく、経済的利権の増大もその主目的とする。応仁の乱の場合、大内政弘は海外貿易において博多商人と組んでいたが、瀬戸内海の制海権を巡る強力なライバルが堺商人と組んでいた東軍の総大将の細川勝元であった。そして祖父である西軍の総大将の山名宗全とは当然のこと利権を共有している。

応仁の乱の原因をつくったのは、畿内の守護大名畠山氏のお家騒動に介入し、子ができずに将軍職を弟の足利義視に譲ろうとした第八代将軍の足利義政と、その正室でタイミング悪く懐妊して後継ぎの足利義尚を生んだ日野富子なのかもしれない。ところが実際に応仁の乱の始動スイッチを押したのは、畠山義就を利用して畠山氏のお家騒動を混乱させて大きくし、日野富子と足利義尚の後見人になって権勢を誇示した山名宗全だ。しかもこの豪放磊落で老獪な人物は細川勝元の舅である。つまり足利将軍家が跡目相続で分断したように、山名宗全と細川勝元も身内で抗争を繰り広げていた。そして西軍がかなり劣勢に傾きかけた戦況下で、孫にあたる大内政弘に大軍を率いて上洛させている。この段階で大内政弘は自ら進んで、火に油を注ぐ役目を果たしてしまった。

しかし歴史の流れの中で、大内政弘は応仁の乱の初動で戦火を拡大させただけではなく、確信犯的に応仁の乱を長期化させている。それはこの内戦の主力エンジンでもあった山名宗全と細川勝元が互いに1473年に病死した後も西軍の総大将として君臨し、東西の陣営がゴタゴタに揉めるこの戦争を継続したことによる。しかも終息までの3年間は徐々に小規模化しつつも、制御された戦争のような様相を呈していく。つまり投下した軍事費を回収し利益を稼ぐばかりか、さらにボロ儲けする為に戦争状態を引き延ばしたような印象さえ受けるからだ。

どうやら大内政弘は地方に根を張ろうとした父親の教弘とは違い、かなりエネルギッシュな中央集権指向であった。ただ最終的に矛を収めて領国へ帰郷するに及んだのは、大内家に当主を諫め忠告ができる賢明な家臣が存在したからだと思われる。特に大内教弘に招聘された雪舟のような文化人が、その大内教弘の死後も粗略に扱われずに明国へ渡航できた事実が、それを証明している。

そしてそのような当時の大内家の状況も踏まえると、この「山水長巻」からは画聖雪舟の強い意志が垣間見えてくるのだ。恐らくそれは為政者に対し、圧政ではなく善政を敷くべきだという真摯な問いかけであろう。この四季を主題とした長大な絵画世界には天災や人災の爪痕は感じられない。特に点在する人々が春と夏と秋を謳歌する様子は平安そのものである。ただ冬の到来と共に内乱の予感のような一抹の不安が、不吉にも静止した人々の影に幽玄さを秘めて漂う。ここで応仁の乱で焼け野原と化した京の都を象徴とする荒れ果てた室町時代の日本の風景がフラッシュバックして重なる。

きっと大内政弘は初めてこの「山水長巻」に接した時、じっくりと巻物を開いて春夏秋冬が推移する情景を見終わった刹那、すとんと腑に落ちたはずだ。為政者の心一つで、彼が収める領国の人々を含めた美しい風景が廃墟と化すことを。この最高傑作に値する大作で、雪舟は現実に見た中国大陸の風景から変幻自在にイメージを膨らませて、桃源郷のような世界を雄大に描き切っているが、やはりそれだけでは定義できない凄みが、その奥底に隠れているように思われてならない。

現在「山水長巻」は、山口県の毛利博物館に所蔵されている。雪舟や大内政弘が鬼籍に入って久しい室町時代末期の戦国の世に大内氏は滅び、現在の広島県の安芸を本拠地に版図を広げた毛利氏が大内氏の領国に取って代わる形になった。毛利氏は人智を超えた謀将と形容された毛利元就が、西日本最大の戦国大名になったことで有名だが、領国内では恐怖支配とは程遠い善政を行っていたことでも知られる。その元就の遺訓には「われ、天下を競望せず」ともあり、毛利氏は天下統一を目指してはならならないと明確に意志表明をしている。ひょっとすると、毛利家には当主や重臣も含めて、この「山水長巻」を何かの機会に拝見する人々が一定程度いたのかもしれない。
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