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雪舟伝説 (前)

2024-06-30 17:17:12 | 日記
 先月、京都国立博物館へ行った。そこで開催されていた「特別展 雪舟伝説」を鑑賞する為である。今回展示されていた雪舟の絵とは、過去に出会った作品ばかりなのだが、新しい発見もあったように思う。また記憶を紐解くと東京在住の頃に、殆どの絵を東京国立博物館で鑑賞していたようだ。多分、この京都国立博物館に所蔵されている国宝作品も、東京国立博物館に貸し出された時期に拝見しているはずである。また毛利博物館に所蔵の「山水長巻」は21世紀になってから東京国立博物館で鑑賞した。ただ今回この「山水長巻」が巻物全体を広げた展示にはなっておらず、そこは誠に残念であった。ただし原寸大の複製も壁面展示されており、その全貌は丁寧に把握できる。それでも来場者の多くは巻物の方に行列をつくっていたが。
 
 なおこの展覧会は雪舟の大回顧展ではない為、雪舟の作品数は、彼の影響を受けた数多くの絵師たちの作品数よりも少ない。しかしそのように多勢に無勢ではあっても、雪舟の絵の存在感が孤高なのは、やはり疑いようがなかった。また雪舟の影響力も、絵師によってその受容の仕方がそれぞれ違う。今回の展示で感触を得た、個人的な新しい発見もそこにあった。そして雪舟に尊敬の念を抱いた絵師たちの視点も、多種多様な印象を受ける。

 そんな中で、特に理解し易いのは狩野派であろう。狩野派の絵師たちの作品には、雪舟の技巧を消化し換骨奪胎する情熱や執念は感じられても、その行き着く先は様式美の構築だといえる。そしてその様式美はそれを需要する権威や権力への貢献にも結びつく。しかもその貢献は癒着の過程であり、狩野派という職業絵師が属する組織の成功と繁栄が、権威や権力との共存共栄という形で実現することにもなる。事実、狩野派は室町幕府と江戸幕府という2つの武家政権に跨って400年近く画壇の中心で隆盛を極めた。それゆえ狩野派の絵師たちは元来、血縁も重視する組織を構成する一員としての職業人の意識が濃厚だ。
 
 この辺り狩野派作品は、長谷川等伯、雲谷等顔、尾形光琳、伊藤若冲、それに円山応挙らとはかなり趣きを異にする。またこの5人の中で、流派に属していないのは伊藤若冲だけだが、等伯の長谷川派も等顔の雲谷派も光琳の琳派も応挙の円山派も、狩野派のような400年も続く、統制のとれた大組織ではなかった。また何よりこの5人は雪舟の絵と向き合った時、純粋な邂逅に近い感覚を大切にし、そこから起動して絵筆を走らせていたように思える。つまり彼らは個と個で対峙し、時空を超えて雪舟から学んでいたはずなのだ。

 たとえば今回展示されている尾形光琳と円山応挙の絵には、雪舟の「破墨山水図」からの影響が如実に感じられる。特に墨の濃淡と筆触にそれは顕著だが、殆ど直感に左右された発作的かつ本能的な反射から絵が生まれているといっても過言ではない。一方、狩野派の絵には障壁画や屏風絵や襖絵といった幕府や寺社へ納品するモデルケースを想定した上で、雪舟の素晴らしい絵の要素を見本として、どう取り入れて狩野派のプロジェクトに活かすかを考案した形跡が見える。つまり狩野派の絵はとてつもなく用意周到で強かなのだ。
 
 しかしその方向性で雪舟の絵に敬意を払い続ける狩野派が、如何に連続性や共通項を強調しても、その内実は雪舟から遠く離れていくことに気付かざるを得ない。皮肉にも江戸時代において、雪舟を高らかに称賛していたのは狩野派の絵師たちであったにも関わらずだ。尤もこれは近世の文化的な視点を踏まえた正論には反する。なぜならその正論とは、当時の画壇をリードする狩野派こそが、中世の室町時代中期から安土桃山期を経て近世の江戸時代に至るまで、雪舟の真髄を伝承してきたという説であり、なおかつ幕府のお墨付きにより一般化したその定義だ。

 ところがである。大名家の城や寺社も含めた建築物の内部において装飾的に構成される障壁画や襖絵や屏風絵を、それこそ幕府の威光を示すように制作してきた狩野派のスタイルは雪舟とは全く相容れない。また15世紀の室町時代に画僧であった雪舟が、京都から離れた理由は画壇で評価されていなかったこともその一因だが、無論それだけではなく、彼が属した相国寺が主に幕府からの要望で、障壁画や襖絵や屏風絵や庭園の制作を請け負うシステムに、率直な違和感を抱いていたことも考えられる。恐らくこの制作システムは、絵師の仕事も兼ねる画僧にとって心身に支障をきたすほど多忙を極めたのではないか。しかしこのシステムこそ、後に狩野派によって運営されていく大規模な工房が踏襲し発展させたものである。

 ここまでの話で気付かれた方も多いと思うが、恐らく雪舟と狩野派の絵師たちは水と油ほど溶け合えない。これは絵の作風以前の問題だ。作風に関して述べるなら、狩野派は周文や雪舟ら相国寺の画僧が制作してきた漢画の作風に連なる。つまり古代から中国大陸で延々と築かれてきた絵画様式の範疇に収まる。これは今回の展覧会の全作品が共有している。要するに雪舟伝説を謳う以上そうなってしまうのだ。ただ仮にそうした作風とは別に、現代社会に置き換えてビジネスライクに考えると、雪舟は利益の追求を殆ど無視した個人事業主であり、一方の狩野派は常に利益の追求を念頭に据えてそれを経営基盤とする会社組織のようなものである。この為、狩野派が捉えた雪舟とは、貴重な商材のような存在だ。

 そしてこの異なる制作姿勢を鑑みると、芸術の根本的な命題に辿り着く。それはいったい何の為に創造するのかということである。恐らく雪舟の場合、絵師である前に禅僧である自覚を常に持っていたはずだ。また禅僧にとっては絵を描くことも修行の一つで、それは絵が仏の教えを示すことにもなるからである。この為、絵を描く側も絵を鑑賞する側も、絵と出会うことで欲に支配されてしまう心やその執着から解放される瞬間を体験していることが理想であり、この感動体験を実現できるほどの作品を完成させること、これが雪舟を含めた画僧たちの創造行為の大きな理由であろう。

 一方、狩野派の場合、絵師たちの制作姿勢にこの意識を要求するのは無理がある。彼らは組織に属する職業画家であり、商品としての絵が売れて利益を出さなければ、組織の存立は厳しい。また中世から近世の時代的変遷の中で4世紀も続いた狩野派は、興隆と共に停滞も経験しているはずなのだ。そして恐らく停滞からの脱出に一役買ったのが雪舟の存在であろう。それも埋もれていた雪舟を再評価し、雪舟を師と仰ぎ歴史の表舞台に出すことによって、狩野派は飛躍することになる。今回の展覧会では漢画風の絵が多いことを先に述べたが、狩野派は安土桃山期には漢画よりも大和絵の豊穣で絢爛とした作風に傾斜する。そして時代を大きく動かした織田信長や豊臣秀吉に庇護されるのだが、太閤の秀吉が鬼籍に入り徳川家康が江戸幕府を創建した辺りから雲行きが怪しくなっていく。家康は秀吉のような派手好みの性格ではなかったのだから、時の権力者に取り入る為に、路線変更を余儀なくされたのかもしれない。実際、漢画から大和絵に傾倒しだしたのは狩野派二代目の狩野元信だが、織田信長や豊臣秀吉に仕えた四代目の狩野永徳によってこの流れは決定的になっている。しかし信長や秀吉が姿を消した後に、雪舟を讃え漢画に傾倒し直したのは六代目の狩野探幽であった。それを象徴するように、この展覧会でも狩野派の作品群では、探幽の絵が突出して多い。

 ここで雪舟の生前の話をしたい。これは随分と皮肉めいた歴史的展開なのだが、実は雪舟は生前に狩野派と接触している。狩野派の始祖の狩野正信との交流で、希少な逸話さえ残していた。その逸話とは単純明快に言うと、雪舟が正信に仕事を譲っている一件だ。時期的には中国大陸の明から帰国した後で、既に還暦を越えていた雪舟は、第八代室町幕府将軍の足利義政から依頼された東山山荘の障壁画の制作を固辞して正信を推薦した。この時、壮年期の正信は未だ富も名声も得ておらず、このチャンスを逃す手はなかった。

 この点で狩野派の初代の正信は、雪舟には大変な恩義があるわけだ。ひよっとすると狩野派が延々と雪舟を持ち上げ続けた理由の1つとして、このエピソードは非常に重要な出来事なのかもしれない。今回の展覧会では雪舟と同時代を生きて実際に交流した絵師は皆無なので、狩野正信の絵は企画外ではあるものの、例外的に展示されても良かった気がする。なぜなら狩野正信の師は宗湛であり、その宗湛の師は周文だからだ。つまり周文を師とした雪舟にとって、正信の絵には何か親和性を感じさせる魅力もあったように思える。それゆえ雪舟は足利義政に正信を推薦したのではないか。

 しかしここで忘れてはならないのは、雪舟があくまでも、時の最高権力者たる将軍の義政の要請を丁重に断っていることだ。要するに雪舟には工房の制作システムに関わる気が無かった。また固辞した理由として、自分が禅僧だから引き受けられませんとも答えている。この義政への意思表示は、ある意味で雪舟の絵から解釈するよりも、彼の本質を理解できる肉声であり言葉だといえよう。つまり仏に仕える身からすれば、仏の教えを示す絵の創造に値する仕事ではなかったということだ。この雪舟の仏教者としての存在意義を理解し共鳴していた絵師は、今回の展覧会においては長谷川等伯と雲谷等顔と伊藤若冲の3人であったように思う。今回は主に雪舟と狩野派の話に焦点を絞らせて頂いたが、次回は今述べた等伯や等顔や若冲を中心に書く予定です。

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