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コンスタンティヌス大帝

2022-05-04 02:05:44 | 日記
古代ローマ帝国でキリスト教を公認した皇帝はコンスタンティヌス1世だ。この写真の画像はその皇帝の彫像である。3世紀から4世紀を生きた彼の在位期間は30年以上になり、歴代皇帝の中では最長であった。大帝という称号を元老院から与えられているが、後世においてもローマ皇帝としての歴史的評価は高く、それは自ら戦場を駆け抜けた歴戦の強者であると共に、キリスト教を国家権力が政治利用する形でその宗教的影響範囲を拡大及び発展させた実績が決め手であろう。つまり現代も全世界に膨大な信者を有するキリスト教の組織にとっては非常に有り難い為政者だったといえる。また彼が収めた期間の帝国領土も古代ローマ史上最大に及ばずとも最大規模に相当する。そして皇帝自らキリスト教徒になった最初の人であり、この為に旧教や正教を問わずキリスト教の様々な宗派で聖人の列に迎えられている。つまりキリスト教の歴史上、この古代ローマ皇帝は最重要人物の1人なのだ。

古代ローマ帝国領が広大になり過ぎて東西に分割統治されたのは、3世紀の危機とよばれた時代になる。軍事力の暴走や政治腐敗が進んだ乱世であり、そんなコントロールの効かない状態を収拾する打開策として西半分と東半分をそれぞれ正帝と副帝が治めることになった。つまりこの時期、帝国世界には4人の皇帝が実在している。しかし政策の決定権は、この4頭体制を立案し実現させた東の正帝ディオクレティアヌスが握っており、その意味では専制君主が君臨する支配体制であった。ただそのディオクレティアヌス帝の死後、分割統治のバランスが崩れて内戦に転化すると、当時の新しい西の副帝であったコンスタンティヌス1世は帝国領土を20年ほどかけて武力で再統一してしまう。恐らくこの道程は困難ではあっても、軍人出身の彼にしてみればライフワークだったのではないか。

この彫像はそんなエネルギッシュで剛気な資質が見事に表現されており、巨漢の体躯が想像できる太い首と共に、射抜くような大きな瞳からは頭脳明晰で、人間観察にも秀でていたであろうその内面さえ理解できる。歴代皇帝の中では悪評高いカリグラやネロのような暴君とは明らかに違い、コンスタンティヌス1世の風格は暴君とは所詮は小物なのだと語ってくるようだ。しかしそれでも恐怖支配を匂わせる威圧感は、やはり何かしら何処かしら漂う。そして彼の生涯が波瀾万丈なことこの上なく、強大な権力を勝ち得て野望の達成に至ったにもかかわらず、家族愛には恵まれなかったことを踏まえると、強靭な意志と表裏一体の虚無感がその堅い表情に潜んでいる。

コンスタンティヌス1世がキリスト教に改宗するのは、70年近い激動の生涯を終えるその臨終間際のことだ。最高権力者の皇帝としてそれまで帝国内で異教として弾圧されていたキリスト教を公認したのが313年という人生の半世紀を過ぎたあたりで、死去するのが337年であったことを考えると、彼本人がキリスト教に深く帰依していたとは言い難い。やはりキリスト教に国家のお墨付きを与えて政治利用することが公認の最大の理由であったと思われる。ただこの発想は、彼のオリジナルではなく先人の事績を参考にして生まれたのではないか。

3世紀の危機の時代には、軍人出身の皇帝が輩出した。そして対外戦争や内戦が多く、しかもクーデターや皇帝の暗殺も頻発した。要は平和とは程遠い時代で、それは現在のウクライナやミャンマー、それにシリアやパレスチナ自治区の惨状を鑑みれば、私たち現代人の視点からも戦禍に巻き込まれた民衆が、いつの世も最大の犠牲者になってしまうことは容易に想像できる。それゆえ酷い現世に絶望し来世に希望を託したい人々は、帝国政府から異端視されてはいてもキリスト教徒になり、その信者数は増え続けていった。これを懸念し不安視したディオクレティアヌス帝は凄まじい大弾圧を断行する。この頃、コンスタンティヌス1世はまだ若僧で勇猛な武将として蛮族の侵入を阻んだり、対外侵略を敢行したりして各地を転戦し、独裁者の一挙手一投足によって動いていたが、同時に自身の将来を見据えて独裁者の治世を注意深く観察してもいたであろう。

ディオクレティアヌス帝の大弾圧は、かつての暴君ネロの皇帝時よりも酷かったようだが、それはキリスト教の神が、皇帝よりも超越的存在だったからである。そして皇帝自らを神格化して、帝国臣民から生き神のように崇められることを望んだ彼にしてみれば、キリスト教は危険思想であった。さらにこの危険思想のような宗教の神は全知全能の唯一神であり、いずれ帝国領全域で皇帝権力さえをも遥かに凌いでいくことを、この独裁者は予知していたに違いない。

しかし歴史が証明していることだが、ディオクレティアヌス帝のような強力なリーダーシップを備えた為政者に限らず、神仏を超えるような個人崇拝を具現化した権力による統治体制というのは、神仏で権力を補強した統治体制よりも短命なことが多い。そしてコンスタンティヌス1世はそこを確りと把握していた。彼は2世紀の五賢帝時代の皇帝たちと比べると軍人出身であるが故に教養は豊かではなかったが、過去の経験則や直感も含めた選択肢の幅は広かったし、歴史的な客観性もよく理解していたようだ。

そして古代ローマ帝国の外側の世界へも深い興味や関心を示している。当時の最大最強の敵国は中東で国境を接するササン朝ペルシャであったが、この中東から西アジアを支配した巨大帝国はゾロアスター教を国家宗教にしていた。これは紀元前に同じペルシャ人が築いたアケメネス朝ペルシャがゾロアスター教を国家宗教にしなかったのとは好対照だが、アケメネス朝ペルシャよりも領土は広くないササン朝ペルシャの方が、王朝が勃興し滅びるまでの期間は400年以上と、倍近くも長かった。

また古代ローマ帝国は海外貿易において、インドの王朝とは国境を接することがない分、古くから地政学的に友好関係がずっと続いており、特にマウリヤ朝やクシャーナ朝といった仏教を国家宗教にして富み栄えた王朝のシステムを、当然のことコンスタンティヌス1世は知っていたはずである。そしてペルシャのササン朝、インドのマウリヤ朝とクシャーナ朝にはある共通項が存在する。それは紀元前4世紀のアレキサンダー大王の大遠征で伝来した古代ギリシャ哲学の影響を帝国支配層が少なからず受けていた可能性があったということだ。しかもバルカン半島から中東、西アジアを経て中央アジアから北西インドに至る一帯は、古代オリエントとギリシャが融合したヘレニズム世界が現出していた。

古代ギリシャ哲学において、概ね戦争は国益を生む国策として肯定されている。これは古代ギリシャの都市国家群がギリシャ人同士で頻繁に戦争をしたり、傭兵を諸外国に輸出したりすることで、それが国家経済の基盤にさえなっていたことに起因する。つまり好戦的に対外戦争を繰り返すことで侵略により領土拡張を図る古代ローマ帝国にとっては、皇帝を含めた支配階級がギリシャ語をマスターし、哲学を含めたギリシャ文化を吸収していくことは、国家の運営において実に都合が良いわけである。

無論、古代ギリシャ哲学者の中にはアリストテレスのように、戦争で勝つことよりも平和をつくることの方が大切だと語った哲学者もいるにはいた。しかしそのアリストテレスさえ、アレキサンダー大王の例のように、その哲学における思想信条を取捨選択されて侵略戦争に利用されてしまう。ここである意味、落胆させられるのは、哲学という学問分野が宗教ほどの救済力を有してはいないということだ。それは哲学が教育を受ける機会均等の無い人々には難解だからであろう。ところが一方、宗教における信じて祈るという行為は、身分の差や違いに関係なく誰にでもできる。しかしながら宗教を権力の側にすり寄った短絡的な哲学的視点で解釈すると、危険な攻撃性を帯びる可能性さえあるのだ。たとえばそれは、国王や国家元首といった地上の権力が神に祝福されている、異教徒は巨大な悪魔のような敵であり、それを滅ぼす軍隊は神に正当化されて当然だといった理屈や論理だ。

恐らくコンスタンティヌス1世がペルシャのササン朝とインドのマウリヤ朝やクシャーナ朝に目をつけたのは、為政者が哲学を重視しながら政策決定を行い、宗教を国家の軸に据えることで、信仰心の篤い国民を無難に支配できるという点ではなかったか。事実、唯一の皇帝として帝国の頂点に立った彼は、首都を自らの名を冠したコンスタンチノープルへ遷都したり、内政においても外政においても数多くの改革に着手していくのだが、その為に必要となる財源の殆どは国民から徴収する税であった。そこで政府は忠実に納税義務を果たす国民をつくらなければならない。帝国内で増え続けるキリスト教徒を弾圧せずに公認することで、キリスト教徒は従順な国民になっていったはずである。つまり地上の最高権力を超えた神の存在を、皇帝自らが認めることで広く国民の支持を得て、支配体制を強固に確立できた。

しかし先に述べたように、コンスタンティヌス1世本人がキリスト教に改宗するのは臨終の時である。これは古代インドのクシャーナ朝のカニシカ王が仏教を国家宗教にしても、王自身が仏教徒にはならなかったのとは対照的だ。きっとコンスタンティヌス1世は人生の終焉を迎えるにあたって、自らの罪業の深さに恐れ慄き、神に縋るようにして悔い改めたのではないか。なぜなら彼は殺し合いの戦場で生き延びてきただけではなく、恐ろしいことに自らの意思で親族殺しもしている。権力を死守する為の猜疑心に囚われ、妻と息子を殺していたからだ。

コンスタンティヌス1世に限らず、頂点を極めた権力者が人生の最期の最期で、宗教心に目覚めて終始替えするケースはそこそこ見受けられる。そして彼らが生命の終点で向き合った宗教の姿とは、彼ら自身がそれまで狡猾に利用してきた宗教ではない。それは権力者に比べれば無力極まりない無辜の人々が、ささやかな日常の中で神仏を信仰する次元に近い。つまりどん詰まりに来て、やっと支配者が被支配者への共感力や想像力を持てたということかもしれない。

ここで話を現代へ移したい。ロシアがウクライナへ侵攻してから、既に50日以上経過しているが、まだこの戦争は終わりそうにない。ロシア連邦大統領ウラジミール・プーチンが決断した特別軍事作戦は、客観的には明確な対外侵略である。そして非常にショッキングだったのはモスクワのロシア正教会のキリル総主教が、この侵略戦争を神の祝福を与えるように支持していたことだ。これではまるでキリスト教が国家宗教になった古代ローマ帝国の再来である。

ここで危惧すべきは、もし古代ローマ帝国に現代のインターネットのインフラが整備されたとしたら、皇帝権力はとてつもなく強大化するということだ。実際、今のロシア社会の情報統制は、20世紀の全体主義社会よりも格段に進化している。だがそれは同時に無数に想定できるパターンの1つでしかない。そしてこのロシアのウクライナ侵攻の現状を目にして、最も焦燥しているのは世界中の独裁者たちであろう。多分、彼らの予測ではロシアは2014年のクリミア併合時のように、短期間で電撃的にウクライナの首都制圧を実現すると踏んでいたはずだ。しかし現実はそうなってはいない。

悲しいかな、人類が戦争を未だに放棄しないのは事実だが、歴史上始まった戦争が終わらないことはなかった。だからこのスラブ民族同士が兄弟で争っているような戦争も、いつかどこかのタイミングで終わる。それはロシアの政権崩壊かもしれないし、プーチン大統領が変心してロシア軍を撤退させるか、あるいはウクライナが領土を割譲するか、また祖国防衛を完遂するか。しかし今はまだ闇の中で光の出口は見えない。

もし希望があるとするなら、それは勝者と敗者や敵と味方という単純な図式ではなく、むしろ加害者と被害者という図式の中から、本当の真実や事実が炙り出されてくることではないか。戦争によって市場の通貨や原油や穀物価格の乱高下で大儲けする投機家の超富裕層は、戦争の当事者ではなくとも加害者の側に立っている。一方ウクライナで大量に殺害された民間人が被害者であるのと同様に、兵士となった息子を戦場で失った母親たちは、ウクライナにもロシアにも存在する。彼女たちもまた敵味方関係なく被害者である。特にロシアの人々は刻々と変化していく厳しい日常生活の中で、神の声を聞くようにして、何れは真相に気づいていくように思われる。いかに政府のプロパガンダが巧妙であろうとも、敬虔な信仰心を歪ませることはできないからだ。そしてとどのつまり経済制裁以上に、ロシアの人々は良心が壊れていくことに耐えられなくなる可能性がある。

21世紀の今、国際社会においてこのような剥き出しの暴力が再び現出したことに、一種異様な絶望を感じざるを得ない。プーチン大統領が権力の座にあっても、コンスタンティヌス大帝のように自ら悔い改める時が来れば、ウクライナの大地からロシア軍は撤退し、この戦争は終結するであろう。現段階ではそれは望み薄だが、第3次世界大戦に発展せずにこの戦争が終わった時、私たち人類は大きな教訓を得るようにも思える。それは戦争はもう国益にはならないということだ。そしてこの大きな危機を乗り越えれば、戦争は一切必要ないという段階に、人類はやっと進めるのかもしれない。

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