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豊臣秀吉の辞世の句

2023-10-29 16:45:25 | 日記
 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

 これは日本の室町時代末期、戦国の世に織田信長に仕え出世街道を直走り、信長が本能寺の変で憤死して以降は、ライバルの戦国大名たちを薙ぎ倒して、天下人にまで昇り詰めた豊臣秀吉の辞世の句である。

 このブログで以前、頂点を極めた権力者が人生の最期の最期、宗教心に目覚めて終始替えするケースがそこそこ見受けられると述べた。そして彼らが生命の終点で向き合ったその宗教の姿とは、彼ら自身がそれまで狡猾に政治利用してきた宗教ではなく、無辜の人々がささやかな日常で神仏を信仰する次元に近いこと。つまりどん詰まりに来て、やっと支配者が被支配者への共感力や想像力を持つに至ることを、古代ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世を主題にして書いた。

 豊臣秀吉の場合、墓所が数カ所も存在し、寺院では真言宗の不動院や高野山、それに曹洞宗の国泰寺にあり、なおかつ朝廷から豊国乃大明神の神号を与えられて豊国神社にも祀られている。しかしこの死を受容した辞世の句から判断する限り、詠んだ時の秀吉の心境を推し量るなら自分の墓所のことなど、もうどうでもよかったのではないか。

 コンスタンティヌス1世と豊臣秀吉に共通するのは、晩年に人間不信に陥り親族殺しや残酷な虐殺をしたことだ。特に秀吉の場合、関白職を譲った甥の秀次を秀頼が誕生すると切腹させて、その眷族まで尽く処刑してしまう。これはかつての主君で恐怖支配の織田信長が憑依したような有様だが、対外戦争を仕掛けて朝鮮半島や中国大陸まで侵略するような暴挙を敢行した為政者は、秀吉以前の日本史には登場していない。古代において伝承に近い三韓征伐や、記録に残った白村江の戦いも朝鮮半島周辺の話である。そして秀吉の野望は中国大陸の明帝国の征服に留まらず、その後はインド亜大陸の天竺まで制覇する目的であった。その意味で豊臣秀吉は源頼朝や足利尊氏や徳川家康のように幕府を創建することがなかったにせよ、破格の天下人であった。

 豊臣秀吉が絶対君主のように強力な独裁者になって、ブレーキの効かないダンプカーの如く暴走しだすのは、補佐役で弟の秀長が病没して以降である。またこの兄弟は父親が違うとはいえ、固い絆を保ちながら有能な人材を纏めて政権運営をしていたようだ。しかも秀長が他界するほぼ1年前に日本全国を平定し、文字通りの天下統一を成し遂げており、やはり秀長の貢献は大きかった。

 室町時代末期の戦国の世は、古代の弥生時代に匹敵するほど戦死者の数が膨大であったことが判明している。そして当然のこと、そんな世界では為政者は戦争という選択肢をとることが多い。しかしその人災のせいで、犠牲者が湯水の如く沸き出てしまったわけである。それこそ死の行進の如く。中でも凄まじかったのは戦国大名と一向一揆の殲滅戦だ。特に信長が指揮する織田軍は根切りと称し、敵が降伏した場合も皆殺しにすることが多かった。これは現代にも通じる、戦争が憎悪の連鎖を発生させる典型的なケースであろう。また能力主義を重視してもノルマが異常に厳しかった。正直、こんなブラック企業でやりたい放題するリーダーの下で働いていた光秀や秀吉や家康は相当なストレスを味わっていたはずだ。多分、明智光秀が本能寺の変で決起しなければ、いずれ秀吉か家康がそれをやった可能性はある。

 この為、秀吉は関白に就任した段階で、朝廷の権威を傘に惣無事令を発し、軍事力だけではなく外交努力で敵対する戦国大名を臣従させている。恐らく秀吉や秀長は、逆らう者は滅ぼし、邪魔者は消すという信長のやり方を反面教師にしていたであろう。しかし折角、天下を統一していながら、秀長の死後に実施された刀狩りや太閤検地、それに石高制における収入が、豊臣氏にほぼ独占されてしまったのは馬鹿げている。無論、醍醐の花見などの大々的なパフォーマンスで大盤振る舞いをしてはいるが、それに要した歳出は秀吉の巨大な財布からほんの少しばかり捻出した程度であった。つまり秀吉は天下統一で貪った暴利から最大の恩恵を受けていたのだ。この辺り、秀吉も例外に漏れず搾取体質の権力者であった。

 ここで辞世の句を今一度抜粋させて頂く。

 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

 仮に秀吉が天下統一後に、この辞世の句の心境になれたとしたら、甥の秀次や千利休を切腹させることはなかったし、ましてや海外への軍事侵攻もしなかったのではないか。しかもこの言葉が出てきた背後には、透徹した宗教心さえ垣間見える。天下人が天下人を超える存在を認めているからだ。そしてそれは1人の人間の秀吉を露が滴り落ちるようにして、この世に現出させた存在である。

 秀吉は織田家の重臣であった頃、一向宗の死をも恐れぬ門徒軍団と闘っているし、関白の時代にバテレン追放令を発してキリシタン信徒を弾圧し、天下統一後もこの路線はエスカレートして処刑された信徒数が増えた。しかし大坂の石山本願寺を本拠地とする一向宗は仏教徒でありながら、軍事的に組織化されてもいた。また日本に渡来して宣教師が布教を広めるイエズス会も、ローマ教皇庁に認可されたカトリックの組織だが、スペイン帝国やポルトガル王国の軍事力を後ろ盾にしている。この為、頭脳明晰な秀吉は、宗教全般に対して兼ねてから胡散臭さを感じていたはずだ。しかもその上で利用価値があれば大いに利用するというスタンスであろう。朝廷から神号を得ようと画策した行動はその最たるものといえる。

 ただこの辞世の句を読むと、生前のある事件が少なからず彼に影響を与えた可能性はある。それはバテレン追放令によって、臣下のキリシタン大名の高山右近が神への信仰を捨てずに、追放を受け入れて地位も名誉も領地も本当に放棄してしまったことだ。この大名から乞食同然に成り果てる右近の行動は、当時の秀吉には不可解千万であろうが、ひょっとすると心の片隅に小さ過ぎるほどの小石程度ではあっても、置き捨てにされた状態でずっと残り続けたのかもしれない。つまり目前に死が迫っていた秀吉に、こんな天下人らしからぬ辞世の句を詠ませたのは、やはり地上の権威や権力とは無縁の神様仏様であったように思えてならない。

 中世から近世の狭間を生きて天下人の頂点に立った豊臣秀吉は現代でいうならば、国政を左右できるほどの力を有する超富裕層であろう。今、私たちが生きている世界では悲惨な戦禍が増えつつある。国を動かす為政者で戦争への道を選んでしまう人々が、この秀吉の辞世の句の心境になってくれることを切に願うばかりだ。

 今回の画像は20世紀に画家の安野光雅さんが描いた、豊臣秀吉の出身地でもある愛知県の農村の風景である。辞世の句の、浪速のことはとは、大坂城を築いて巨大な商業都市となった大坂のことであり、夢のまた夢とは、その時代に秀吉が体現した栄耀栄華も夢の中で見た夢のように儚かったと、そう語っているように思える。生まれてきたからには、富める者にも貧しき者にも必ず死は訪れる。秀吉が最期に吐いた言葉には、権力の乱用により葬った屍の山に築かれた栄光など愚かしく虚しいという自戒さえ感じられる。

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