ベルクソンの逆さ円錐はどうかというと、やはり、ペン先であると同時に紙と接触する瞳孔である疑いは浮かんでくる。彼は視覚という言葉を極力避けて、その哲学的な観点から、知覚という言葉で置き換えていると思われる。周知のとおり、視覚は、聴覚・触覚・味覚などほかの感覚と比べようもないほど、多くの情報量を含んでおり、知覚の代表たるにふさわしい。彼の著作には、視覚あるいは眼球の構造に対する執着が、ポオと同じように、大きな役割を果たしている。視覚の構造こそ、物質世界から、そのイマージュを切り取り己のために分割して精神の領域へと変換する精密極まるメカニックな装置なのである。そこに記憶がつけ加われば、具体的な知覚が出来上がる。
逆さ円錐の記述における知覚という言葉をすべて視覚に置き換えてみると、その構造ははるかに分かりやすいように、私には思える。ベルクソンは『物質と記憶』のなかで、何度も、その内部構造について説明しているが、いまだ逆さ円錐図が登場していない第二章で書いている。
「完全な知覚は実際、われわれがその知覚の前に投げかけるイマージュ想起とその知覚の融合によってしか定義されないし、それと見分けられない。注意がかかる融合の条件であり、注意なしには、機械的な反応を伴う諸感覚の受動的な並置があるだけだ」「イマージュ想起それ自体は、純粋想起の状態に還元されれば無効のままだろう。潜在的なものとして、この想起は、それを引き寄せる知覚によってしか現実的なものとなりえない。無力なものとして、この想起はその生命と効力を現在の感覚から借りていて、現在の感覚のなかで物質化される」「つまり、判明な知覚は、一方の外的対象から来る求心的な流れと、他方のわれわれが『純粋想起』と呼ぶものを出発点とする遠心的な流れという反対方向の二つの流れによって引き起こされるということだろうか。第一の流れはそれだけでは、受動的な知覚とそれに伴う機械的な緒反応しか与えないだろう。第二の流れは自分だけでは、流れが強まるにつれて益々現実的になるような、現実化された想起を与えようとする。結びつけられることで、これら二つの流れは合流点において、判明でかつ再認された知覚を形成する」(同書171~172頁)
逆さ円錐の記述における知覚という言葉をすべて視覚に置き換えてみると、その構造ははるかに分かりやすいように、私には思える。ベルクソンは『物質と記憶』のなかで、何度も、その内部構造について説明しているが、いまだ逆さ円錐図が登場していない第二章で書いている。
「完全な知覚は実際、われわれがその知覚の前に投げかけるイマージュ想起とその知覚の融合によってしか定義されないし、それと見分けられない。注意がかかる融合の条件であり、注意なしには、機械的な反応を伴う諸感覚の受動的な並置があるだけだ」「イマージュ想起それ自体は、純粋想起の状態に還元されれば無効のままだろう。潜在的なものとして、この想起は、それを引き寄せる知覚によってしか現実的なものとなりえない。無力なものとして、この想起はその生命と効力を現在の感覚から借りていて、現在の感覚のなかで物質化される」「つまり、判明な知覚は、一方の外的対象から来る求心的な流れと、他方のわれわれが『純粋想起』と呼ぶものを出発点とする遠心的な流れという反対方向の二つの流れによって引き起こされるということだろうか。第一の流れはそれだけでは、受動的な知覚とそれに伴う機械的な緒反応しか与えないだろう。第二の流れは自分だけでは、流れが強まるにつれて益々現実的になるような、現実化された想起を与えようとする。結びつけられることで、これら二つの流れは合流点において、判明でかつ再認された知覚を形成する」(同書171~172頁)