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日記・物語・エッセイ・感想その他

ベルクソン46

2010-01-11 06:14:05 | エッセイ
 ベルクソンの逆さ円錐はどうかというと、やはり、ペン先であると同時に紙と接触する瞳孔である疑いは浮かんでくる。彼は視覚という言葉を極力避けて、その哲学的な観点から、知覚という言葉で置き換えていると思われる。周知のとおり、視覚は、聴覚・触覚・味覚などほかの感覚と比べようもないほど、多くの情報量を含んでおり、知覚の代表たるにふさわしい。彼の著作には、視覚あるいは眼球の構造に対する執着が、ポオと同じように、大きな役割を果たしている。視覚の構造こそ、物質世界から、そのイマージュを切り取り己のために分割して精神の領域へと変換する精密極まるメカニックな装置なのである。そこに記憶がつけ加われば、具体的な知覚が出来上がる。
 逆さ円錐の記述における知覚という言葉をすべて視覚に置き換えてみると、その構造ははるかに分かりやすいように、私には思える。ベルクソンは『物質と記憶』のなかで、何度も、その内部構造について説明しているが、いまだ逆さ円錐図が登場していない第二章で書いている。

 「完全な知覚は実際、われわれがその知覚の前に投げかけるイマージュ想起とその知覚の融合によってしか定義されないし、それと見分けられない。注意がかかる融合の条件であり、注意なしには、機械的な反応を伴う諸感覚の受動的な並置があるだけだ」「イマージュ想起それ自体は、純粋想起の状態に還元されれば無効のままだろう。潜在的なものとして、この想起は、それを引き寄せる知覚によってしか現実的なものとなりえない。無力なものとして、この想起はその生命と効力を現在の感覚から借りていて、現在の感覚のなかで物質化される」「つまり、判明な知覚は、一方の外的対象から来る求心的な流れと、他方のわれわれが『純粋想起』と呼ぶものを出発点とする遠心的な流れという反対方向の二つの流れによって引き起こされるということだろうか。第一の流れはそれだけでは、受動的な知覚とそれに伴う機械的な緒反応しか与えないだろう。第二の流れは自分だけでは、流れが強まるにつれて益々現実的になるような、現実化された想起を与えようとする。結びつけられることで、これら二つの流れは合流点において、判明でかつ再認された知覚を形成する」(同書171~172頁)

ベルクソン45 【ポオ、ルドン、気球】

2010-01-10 05:03:56 | エッセイ
 オディロン・ルドン(1840~1916)の木炭画「眼=気球」(1878)は一度見た者に忘れがたい印象を残すだろう。その四年後にはリトグラフ集「エドガー・ポオに」において〈眼は奇妙な気球のように無限に向かう〉と題され、同じ構図を描いている。
 おそらくルドンはボードレールの著作を通じてポオを読み、インスピレーションを得て描いたものと推測される。解剖の眼球図のような目玉が空に向けられて、その反対側の地上に向けては何本かの索によって吊り下げられた髑髏にも見える小さな物体を描いた気味悪い気球図である。
 ポオの軽気球への思い入れは深く、作品として「ハンス・プファアルの無類の冒険」(1835)「軽気球夢譚」(1844)「メロンタ・タウタ」(1849)を遺している。
 ルドンの気球は、どの物語の気球であるのか、つまびらかにしていないが、気球を模した眼球の瞳孔がその真上に描かれているところを見ると、大西洋横断を成功させた後者の「夢譚」のそれではなく、宇宙空間に向けて上昇して月に到達した前者の「冒険」の気球であろう。
 眼球を模した気球は、ポオの作品の象徴である。なぜなら、ポオのこだわりは軽気球ばかりではなく、解剖図である眼球――自称散文詩『ユリイカ』の概念図が描かれるとしたら眼球にそっくりであったろう――にもあったのだから、それを見抜いたルドンでなければほかの誰にも描けない木炭画でありリトグラフなのだ。
 「メェルシュトレエムに呑まれて」の渦にしても、その中心と上空の月を結ぶ線はペン軸であるとともに、ペン先を瞳孔とする巨大な眼球の内側にも取れる。
 ルドンはポオを待つまでもなく相当な眼球狂なのだ。ポオの物語ばかりではなく、古代ギリシア神話の一眼の巨人「キクロプーロス」など数々の作品の題材に、眼球を選んでいることが、彼の画集を見れば瞭然である。
 ポオの軽気球の仕掛けを見ると、地上との高度は、気球から空気を抜いたり、搭載した砂袋などを地上に落として重量を調整して得ている。これは、眼球が虹彩を絞って焦点を合わせるのに類似している。構造上も、気球と眼球は似ていると言ってもかまわないだろう。

ベルクソン44

2010-01-09 05:33:38 | エッセイ
 ここで「自由連想法」と呼んでいる、患者と分析者のやりとりは、通常、エクリチュールの「書いて読み、読んで書く行為」の繰り返しを、患者と分析者に分担させて、ダイナミックに展開させたもので、エクリチュールの本質を体現化したものに他ならない。したがって、「逆さ円錐」の先端で展開される記憶と知覚の関係を、より力動的な相のもとに究め、患者の発語における能動性を治療的に引き出す作業と言えよう。
 脇道に逸れるが、1920代にフランスで起きたシュルレアリスム運動では、精神分析の手法である「自由連想法」の影響下に、シュルレアリストたちが自動筆記(オートマテスム)を試み、若干の文学作品や映像作品を生み出した。純粋な自動筆記は、意識の抵抗を排除し考える余裕を与えないために、継続的なスピードが筆記に求められた。精神分析が、症状の治癒への試みであるのと比べると、遊戯的なものに過ぎないが、後のシュルレアリスムの展開にとって、従来の既成美意識を根底から覆す一歩として、一種悪魔祓い的な美的効果があったのではなかろうか。ただし、今日、名を残している作品に、完全に自動筆記のみによるものは見当たらないと言えよう。
 すでに触れたように、構造的には、フロイトの無意識は、ベルクソンの「イマージュ」と通底している。フロイトを敷衍して、ジャック・ラカンが「無意識は言語構造のように構造化されている」という場合、テキストの無意識が主語としての自覚なく読者に語りかけるのだから、いっそう無意識はイマージュに近づく。イマージュは精神分析的な意味では、胎児期を含むエディプス前期に該当する。エディプス期において、人は言語構造を獲得するのだから。くしくもラカンは母・子の二者関係をイマジネール《想像的なるもの》と呼び、父・母・子のエディプス構造をサンボリック《象徴的なるもの》と名づけたのではなかったか。ラカンはエクリチュール思想によってベルクソンを超えているのではないか。
 「無意識は他者の言説である」とラカンが言うとき、無意識はベルクソンとその読者の無意識であり、他者はエクリチュールのペンである「逆さ円錐」であり、言説は、言うまでもなく、ベルクソンが書き、読者が読んでいるベルクソンの著作に他ならない。
 当初、私が夢想したペンを握り執筆する巨大なベルクソン像は、フロイトを読むことによって、次第に輪郭がぼやけてきたかに見える。明晰な像を結ぶのは、そのペン先の先端そのものである。さらによく見るとそのペン先は、ボールペンの球のように回転していて、そこから、エドガー・ポオの顔が浮かび上がってくる。「拡散」と「収斂」に巨大な神の心臓を見た『ユリイカ』のポオの顔が。ふっとそこから目をそらすと、ふたたび、ベルクソンの像が姿を取り戻して甦ってくる。
 書き続けること! なにを置いても。読むことを忘れても、それは事実ではなく、ベルクソンの希望なのである。一言で言えば、ベルクソンは人間存在が初めから内に疎外を含んでいることを認めない。だが、人は、ペンであれ木の枝であれ、物質を介在させなければ、指では書くという行為を成立させられない。

ベルクソン43 自由連想法

2010-01-08 06:00:42 | エッセイ
 ベルクソンは逆さ円錐の先端であるペン先を取り入れ口ではなくと、肛門のごときインクの排出口としか見ない。
 彼はあくまでも、内側の能動性にこだわり、執筆するペンの生産活動に固執する。
 繰り返すが、ベルクソンは、エクリチュールの生産活動にばかり目が行き、生産物を読むという継続のためには必須の条件を無視している。執筆は、書きつつ読むのであり、読みつつ書くのであって、優劣はつけ難く結びついている。
 「逆さ円錐」の内部は、先端を目指しての収斂ばかりではなく、そこから上空の底辺である夢の領域へ向けての拡散を無視してはならない。言うまでもなく、ベルクソンは、収斂と拡散のダイナミズムを潜在的な姿で認めてはいる。しかし、それが内側の思想であるために、潜在的なままにとどまっているところが、エクリチュールの思想としては、不十分なのだ。それを私は《ベルクソン・パラドックス》と呼びたい。言語不信――『時間と自由』序文参照――から始められたベルクソン哲学の、言語に頼らざるを得なかった矛盾が、「逆さ円錐」の構造の難解さに集約的な表現を得ている。ただし、ベルクソンの回答は用意されていると思われる。自分は、言葉ではなく〈書く〉という労働によって書いた、意識も言葉も労働のためのものだと。ゲーテのファウスト博士が聖書の「始めに言葉ありき」の解釈に迷ったのもこのことであろう。
 ベルクソンとフロイトの関連において、なによりも忘れてはならないのは、フロイトによって開発された「自由連想法」であろう。フロイトは『フロイト自伝』(生松敬三訳・新潮文庫)において書いている。訳文は分かりづらいが、熟読を要する文章であろう。
 「つまり、何か意識的な目標を考えるのをやめた時に、何時も頭に浮かんで来ることを言わせるのである。ただ患者は自己観察から出て来た事は必ず全部をそのまま報告せねばならないのであって、一つ一つの思いつきを、これは大して重要でないとか、必要でないとか、全然無意味であるとか、その動機づけによって片付けてしまおうとする批判的な反論に支配されてはならなかった」「けれども自由な連想が実際には自由ではないのだという点をよく考えなくてはならない。患者は自分の思考活動を特定の主題に向けていない時でさえ、分析的状況の影響下にある。患者にはこの状況と関係のある事柄以外の事は何一つ思い浮かばないと想定して差し支えないのである。抑圧せられたものの再生に対する抵抗がいまや二様の仕方で現れてくるであろう。第一は精神分析の原則がまさしくそれに向けられているかの批判的反論によって。しかしその原則に従ってこの妨害が克服されると、抵抗はまた別の表現をとって現れる。分析されている人間には抑圧されている当のものではなく、ただ暗示的にそれと近い事柄だけが思い浮かべられるということは一貫して変わらないだろう。そして抵抗が大きければ大きいほど、報告される代用の思いつきは求められている実際のものからかけ距ってゆくだろう」「大した抵抗を受けない場合にはそこにほのめかされている言葉から抑圧された事実そのものを推察することができるし、強い抵抗があった場合には主題とは遠く離れていると見える思いつきの中にこの抵抗の性質を見極め、これを患者に言うことができる。ところでこの抵抗の発見ということはその克服の第一歩なのである。かくて分析の仕事の枠内において一つの解読術が現れてくる」(51~53頁)

ベルクソン42 【無意識とエクリチュール】

2010-01-07 05:43:42 | エッセイ
 ベルクソンの哲学とフロイトの精神分析とのスタンスの相違は、無意識をどう扱うかに集約される。もちろん、哲学と病理学という出発に由来するのだが、相違が骨の髄まで及んでいる。
 前者は、意識の現存を前提にして一般論から人間とは何かと問い、内側の思想である純粋持続に到達する。後者は、意識そのものの病理の記号的現存から、内側と外側の境界のストレスに焦点を合わせて人間存在を問うている。エラン・ヴィタールとされる《系統樹的な唯一巨大生命体》を見出したベルクソンは楽観的であり、エロスとタナトスの交錯を病むフロイトは手遅れの患者を診るように悲観的である。
 無意識の概念は、前者は一般的な意味で意識の暈(かさ)、オブサーバブル(観測可能性)として、イマージュとして現存する。それに対して、後者のフロイトの無意識は、意識と無意識の間の力動的な関係として無意識を捉え、現存は症状であり、分析によって初めて無意識はあからさまにされる。
 フロイトにとって、エクリチュールの思想である「逆さ円錐」は、ペン先に執着することにおいて、病理的には、肛門(アナール)段階に固着したものと看做すであろう。ジョイスのレオポルト・ブルームが跨る便座も、すでに精神分析を読み込み済みとみなければならない。しかし、問題はそれほど単純ではない。精神分析が言葉と、結局はエクリチュールと密接に結びついているのは周知のことである。
 ベルクソンにとっては、フロイトの病める自我は、エラン・ヴィタールの活動を滞らせるペン先の故障に過ぎない。極論すれば、ペン先の故障は想定外であり、取り替えれば片付くことだ。
 ベルクソンの逆さ円錐の記述において、もっとも難解なのは、構造内部の力動的な関係がなかなか見えてこないことだ。この困難は、ベルクソンの戦略的な意図が、精神と物質の融合という錬金術的なテーマを、精神である純粋持続のイニシアチブにおいて解決させようとするところにある。ベルクソンに言わせれば、力動的なもの、つまり、エランの現実のほかに動力を求めること自体が、物理学的な思考に犯されていると断ずるであろう。しかし、エクリチュールの継続、つまり「感覚-運動機能」というのは、なによりも、そこから現実行動による動的なエネルギーを取り込む弁なのではないか、という疑問が残る。そうすると、記憶に対する知覚の優位を認めざるを得ない。知覚を経ずして記憶が甦ることはないのだから。
 だが、ベルクソンは、記憶に犯されていない純粋知覚を理論的な幻としてしか見ていないことはすでに述べた。

ベルクソン41 プラグマティズム

2010-01-06 06:27:15 | エッセイ
 言語不信の表明は、これから空間論を展開するための単なる前置きではない。概念権威主義的な観念論哲学への挑戦の重要な第一歩である。実に、言語主義は、ロゴス主義であり、西欧哲学の論理的展開を可能ならしめる屋台骨である。この反西欧的な布石が、プラグマティズムへの親和性とフロイト精神分析への一定の対応を用意したといえよう。
 後者については、かなり厄介な問題――自我と無意識の問題――を含んでいるので、後論に譲るとして、ここでは前者について少し触れておきたい。
 アメリカ合衆国で提唱されたプラグマティズムと呼ばれる機能主義への親近性を、ベルクソン哲学の読者なら誰でも、難なく感じることが出来る。
 W・ジェイムズの『プラグマティズム』(桝田啓三郎訳・岩波文庫)から「真理論」の一節を引用したい。

「ひとつの観念の真理性とはその観念に内蔵する動かぬ性質などではない。真理は観念に起こってくるのである。それは真となるのである。出来事によって真となされるのである。真理の真理性は、事実において、ひとつの出来事、ひとつの過程たるにある。すなわち、真理が自己みずからを真理となして行く過程、真理の真理化の過程たるにある」「われわれの観念は行為を通して、また行為の促してくる他の観念を通して経験の他の部分のなかへ、あるいはその部分まで、あるいはその部分に向けて、われわれを導いて行く、しかもその間じゅうわれわれは元の観念がその導いて行った経験と一致していると感じる――そういう感じはわれわれに潜在している――のである。両者の連絡と一から他への推移は逐次に前進し、調和を加え、満足感を増しながら、われわれの前にあらわれてくる。この一致をもたらす導きの機能こそ、観念の真理化ということの意味なのである」(同書147頁)

 この言説は、ベルクソンの《純粋持続》の定義とそれほど隔たっていない。ここにはベルクソンにおける必須の概念である《内側》の観念、つまり記憶に対する配慮が欠けていることだけであろう。その欠けているものこそ、ベルクソンにおけるエクリチュールの観念なのだ。プラグマティストには、真に楽天的な彼らにとって、不健康なエクリチュールと自意識の観念が希薄なのである。
 アメリカの機能主義は、逆さ円錐をまったく必要とせず、ベルクソン哲学の発生論的に、もっとも肝心な前提の段階、物質と心身との関係に哲学の核心を置いているからである。この心身には、エクリチュールのような精神と肉体の不健康な分裂はない。つまり、対象から必要なものだけを己に取り込む単純で機能的で実用主義的なアメーバ段階にあえて留まる。機能主義はベルクソン哲学の一面を体現していると言えよう。

ベルクソン40 言語不信

2010-01-05 05:50:13 | エッセイ
 ベルクソンにとって真に現実的なのは、上空に向かって底なしの逆さ円錐であるペン先の意識であり、究極的には、自我も個も主体も居場所がないと言ってかまわない。推論に過ぎないが、上空は個を超えた系統樹的記憶エラン・ヴィタールに満たされてしまう。
 意識は、定義から言っても、内側の概念であり、その実質は純粋持続であるから、外側の概念のような明確な境界を持たない。自我には、どこか概念あるいはコトバ臭さをまとっている。主体についても同様である。そのコトバ臭さが基本的に、ベルクソン哲学と馴染みづらいのである。たとえば、東洋哲学的な見地から言えば、「自我」とか「主体」とか「文字」は頼りにするに足りないものとして取り扱われてきた経緯があり、近代化以前に評価された時点は見当たらない。今日においても、それらが機能的な概念として以外に理解された形跡は少ないのではないか。
 もう一つ、見過ごされてならないのは、ベルクソン哲学の基本である。①二元論の究極を突き詰め、限りなく一元論に近づくこと。②「固定」ではなく「動」を哲学の基本とすること。この二大基本の底にコトバへの不信が横たわっていると私は解している。コトバを使ってコトバ不信を説くという課題を背負い込む、そこに彼の哲学の困難と独創性があるとも言えよう。
 ベルクソン哲学の第一歩を印す最初の主著『時間と自由』の「序言」は次のように始まる。つまり、膨大な論考の最初の最初と言っていいだろう。

「私たちは自分を表現するのに言葉に頼らざるをえないし、またたいていの場合、空間のなかでものを考えている。換言すれば、言語というもののために、私たちのもつ観念相互のあいだに、物質的対象相互のあいだにあるのと同じような明確鮮明な区別、同じ不連続性をたてざるをえなくなってしまうのである」(岩波文庫九頁)
 
 この文章は、単なる修辞的な言辞ではなく、次の主著『物質と記憶』の中心の概念である《イマージュ》の前触れの言葉といえよう。こうして、思考と言葉による創造性あるいは独創性の足場をベルクソンは築いたのである。逆説的に、言葉不信が言葉の純粋性を担保すると言えるかもしれない。現象学の用語を借りれば、手垢にまみれた言葉をエポケーしイマージュ化したのである。
 こうした言語不信は、ジャン・ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』(第五の散歩)でもめぐり合うことが出来、ベルクソン哲学とルソー思想の親和性も垣間見えてくる。私は、ルソーの言う「感情」とはベルクソンの「意識」と同質と私は見ているから。先走って付け加えれば、エクリチュールの思想はルソーによって、すでに基本的に確立されている。

ベルクソン39 【自我と主体を超えて】

2010-01-04 05:53:33 | エッセイ
 《ベルクソンの逆さ円錐はエクリチュールのペン先である》という私の持論の利点の一つは、そのように解することによって、「自我」と「主体性」という観念から、解き放たれることである。
 意識・持続・記憶を哲学の中心にすえて、詳しく論理的な展開を続けてきたベルクソンは、なぜか「自我」についても「主体」についても、それらとの関係をつまびらかにしていない。ほとんど論及していないと言って良い。もちろん、当時のほかの哲学者も正面きって自我を論じていないが、私は、それとは事情が違うように思えてならない。
 逆さ円錐の上に広がった底辺がそこで閉ざされているのではなく、事実上、底辺ABは事実上存在せず、末広がり無限に拡がっている巨大な漏斗と捉えているからだ。ベルクソンの哲学を存在論的に理解するのは当を得ないが、かりにそのトポスを問えば、逆さ円錐の先端=ペン先、それも書く行為を継続している「感覚‐運動機能」にある。それはベルクソンにとって身体であり、脳であり、意識であり、純粋持続なのだ。したがって、自我もそこに属さざるを得ないだろう。ところが、彼は自我を語らない。
 ベルクソンにとって自我は、機能的な概念に留まる。常識的な使い方以上の論述を必要としない。この場合、常識的な使い方とは、話し言葉や文章における主格に当たる。誰でも主格を意識しなくても話せるのだ。
 機能的な概念と捉えたとしても、現実的な自我のあり方が、必ずしも変わるとは限らない。記憶が脳に蓄積されず一度獲得された記憶は永遠であると捉えても、脳という組織が破壊されれば、その解発機関が損傷したのであり、現実的には、脳に蓄積された記憶が失われたと解するのと、事態はまったく変わらない、このようにベルクソンは説き続けたのではなかったか。このことは、コギトの存在論的なあり方の否定であり、厳密な学を志したフッサール現象学との断絶が決定的となる。
 ベルクソン哲学とフッサール現象学は、《イマージュ》と《エポケー(判断停止)》との親近性ばかりではなく、基本的なスタンスとして「起源に遡る」方法など語るべき関係は多い。しかも、「意識」、ないしは「意識の流れ」というエクリチュールにかかわる課題においても接近する。ついでながら、二人の哲学者はフランスとドイツという国籍を異にしているとは言え、同時代人と看做して差し支えない。ただし両者の直接的なかかわりは確認されていない。
 ところが、「自我」こそ、現象学にとってエクリチュールのペン先であり、唯物論的客観性の神話を打ち砕く「先験的主観」の拠り所であり、ベルクソン的な生命哲学と袂を分かつ。サルトルとメルロ・ポンテイが現象学的立場から、ベルクソンを激しく批判したことにはすでに触れた。


ベルクソン38

2010-01-03 05:37:50 | エッセイ
 この文章もベルクソン的に読むことが出来る。プルーストはベルクソンと同様に、知性の限界をきびしく見つめていることを指摘したい。知性は、物質を人間に有利なように利用するために開発された技能に過ぎない。知性でもって人の心の分析は不当なものであるとの認識をプルーストも共有している。記憶には二種類あって、一つは現実の緊迫した状況の中で、行動のために引き出す記憶である。それ以外の、ある意味で実用的には無用な記憶を第二の記憶とする。本来、記憶は行動のための記憶であり、行動に際して参照され利用される。たとえば、外国人と会話するときに、習得した外国語を思い出すようなことも含まれよう。ベルクソンの逆さ円錐の説明によれば、トランスレーションである。
 一方、無用な記憶は、どのようにして、意識へもたらされるのか。完全に実用的な用途から疎外された、ほんの一瞬の間隙をとおして、夢のようにかすかに見えるにしか過ぎない。ほとんど偶然と呼んでかまわないだろう。プルーストはここで、「二つのものの類似の奇跡」と書いているが、だれでもが紅茶の匂いに懐かしい昔日を思い浮かべるわけではないし、まして、それに至福の感覚を持つわけでもない。
 逆説的に言えば、通常、私たちはそれほど第一の記憶に優先権を与えているということになる。プルーストは、この大作において、無用の記憶についてのイマージュを徹底的に求め続けた。もしかしたら、凡庸である私たちも無意識のうちにプルーストと同じようにそれを求めていないと誰が断言できようか。それを、まったく理解できない私たちがどうしてプルーストを読んで愉しむことが出来るのか。この第二の記憶は、ベルクソンの用語を適用すれば、ローテーションであろう。
 にもかかわらず、プルーストの第二の記憶の愉悦「超時間」とベルクソンの充実の内的時間である「純粋持続」とはスタンスがまったく異なっている。ベルクソンは最初の主著で、徹底的に幾何学的な「空間」と「時間」の概念の批判をしていることは周知のとおりである。人間が物質をおのれの利益のために、それを切り取り、取り扱うための概念であり、普遍的なものではありえない。それは不動のもの、不動とみなすものについてだけ該当する。生きる人間や生命にとって「空間」や「時間」をあてがうのは不当であるとする。ベルクソンにとって生命に該当する時間は「純粋持続」なのであり、いわゆる幾何学的時間や「超時間」は、特殊なのだとするだろう。
 プルーストの超時間、いわゆる「見出された時」は、日常生活の時間が前提としてある。そこで、たった一詩句の発見でさえも得られる表現行為の愉悦を内面の物語、つまりロマネスクなものにまで昇華させる。それがプルーストの《書く行為》の指標となる至福の時間である。重ねて言えば、彼はこの大作において、エクリチュールそのものの文学的心理的な根拠=イマージュの悦楽と全体像を求めたのである。 比べると、ベルクソンのイマージュは、単調であり、文学的な意味で、遡る時間のパースペクティブ、つまり弁証法を射程に入れていないと言えるかも知れない。
 「見出された時」とは、執筆のペン先が紙に触れた瞬間を象徴化しており、実際、この長大な物語は、書き始めることの決意によって、執筆の初め、作品の冒頭に戻るという様相を示して終える。換言すれば、文学への目覚めと哲学からの文学理論の自立の物語である。

ベルクソン37

2010-01-02 06:03:27 | エッセイ
 最終篇「見出された時」は、文学上まれに見る時間に関するダイナミックな思索を含んでおり、ベルクソンの逆さ円錐を理解するうえで、それこそ多くの示唆を期待して良い。
 プルーストの大作を読んでいないまでも、その名声の代名詞として、プチット・マドレーヌ(お菓子の名前)の挿話は人に知られている。お菓子を紅茶に浸してひと匙飲んだ瞬間にふと幼い頃の似たような体験を思い起こす。叔母の部屋に朝の挨拶に行ったとき、そこで勧められた紅茶を飲む情景と共に、その頃の一家の生活の細部をありありと思い出す有名な回顧の場面である。
 プルーストはそこで、無理やりに思い出す意識的で知的な回想では決して達せられない、自然な回想の快楽を克明繊細に描いている。プチット・マドレーヌの挿話は大作の序の口で語られるのだが、最終篇においてさらに理論的な考究が加えられる。
 以下の引用は、「語り手」が幼い頃、憧れの的であった大貴族ゲルマント大公邸での午後のパーティーに招待されて、待合室で一人しばらく待たされて、そのときの感慨を綴ったものである。以下は、膨大な全巻の理論的なエッセンスの記述であろう。

「そのとき(プチット・マドレーヌの紅茶の回想などの至福の体験)私のなかでこの印象を味わっていた存在は、その印象の持っている昔と今とに共通なもの、超時間的なもののなかでこれを味わっていたのであり、その存在が出現するのは、現在と過去のあいだにあるあのいろいろな同一性の一つによって、その存在が生きることのできる唯一の環境、物の本質を享受できる唯一の場、すなわち時間の外に出たときでしかないのだった。そのことは、私は知らず知らずにプチット・マドレーヌの味を再認した瞬間に、死に関する私の不安がやんだ理由を説明してくれるものだった。なぜならこのときの私は超時間的な存在であり、従って将来訪れる苦難も気にしない存在だったからだ。こうした存在は物の本質のみによって生きているが、その本質は現在だけでとらえることはできないのだった。現在には想像力が作用していないので、感覚だけではこの本質を提供できなかったからだ。行動が目指す未来にしても、こんなものは切り捨ててしまう。つまりこうした存在は、行動したり、物を直接に享受したりするときではなく、それ以外のところで、二つのものの類似の奇跡が私を現在時から逃れさせるそのたびごとに私のところへやって来て、その姿をあらわしたにすぎなかった。ただひとり、この存在のみが私をして、昔の日々を、失われた時を――それを前にして私の記憶や知性の努力が常に失敗を繰り返してきたこれらのものを――ふたたび見出させる力を持っていたのである」(鈴木道彦訳・抄訳版『失われた時を求めて・Ⅲ』集英社文庫349頁、井上究一郎訳・ちくま文庫の第十巻323頁)