野に撃沈

多摩地区在住の中年日帰り放浪者。ペンタックスK10Dをバッグに野山と路地を彷徨中。現在 野に撃沈2 に引越しました。

北陸山行①ー白山室堂センター

2006-08-13 | 登山
 昨日、信濃大町の扇沢からバスで4泊5日の北陸山行を終えて帰ってきた。夜行バスで金沢まで一泊、白山山中の山小屋に2泊、そして富山に廻ってアルペンルートで立山室堂に1泊というものだった。今回の山行で感じたことを何回かに分けて書いていこう。
 
 別当出合から登り始めたのが9日の10時頃、山頂直下にある室堂センターに着いたのが2時少し前だから、しめて4時間近く炎天下の中で登り続けたことになる。体中の水分が抜け出た感じだ。

 センターで受付を済ませた際、混み具合を聞いてみると台風情報のせいかキャンセルが出て200人程だという。750人収容できるのだから少しはゆっくりできるかと思ったが甘かった。寝床のスペースが幅6~70cm、長さ2m弱しかない所にぎっしりと詰め込まれてしまった。信仰登山で有名な白山だからこれも修行のうちか。

 荷物を置いてから5時の夕食まで時間があったので、頂上まで一登り(上り下りで1時間)してからセンター主催の植物観察会に参加した。1時間ほどのガイドツアー(嬉しいことに無料)だったが、花の名前や由来などを知る上で有益だった。

 5時からの精進料理のような夕食(味はよかった)を終え、腹ごなしにいまだ雪渓の消えやらぬ付近を散策し、薄暗くなったところで部屋に戻る。7時前だというのにあらかたの登山客は既に就寝している。みな明日早朝の御来光登山に備えているのだろうか。私も白山の水で割ったトリスの水割りを飲み干し、枕元にヘッドランプをおいて早々と床に就いた。
 

蓮華魔性

2006-08-07 | 野の花
 ここ何年か8月の声を聞くと、この花(キンポウゲ科レンゲショウマ)が気になって三頭山や笹尾根、浅間峠辺りに出かける。年によって違うのだがこの山域では例年8月中旬が一番見頃のようだ。私はどうせ登るならついでにフシグロセンノウやレイジンソウも見たいと欲張って8月下旬頃に登る。が、今年は9日からの白山山行の足慣らしを兼ねようと少し早めた。

 林に静かに分け入り、斜面に咲いている花の近くまでそっと寄って這い蹲る。草むらにうつ伏せになって下からゆっくりと見上げるのが、この花を見る時の私の作法だ。じっと見ていると高貴な気配を漂わせながらも、時折妖艶な仕草を見せる。清純な佇まいの中にも妙に蠱惑の光を放つ花だ。もし山の精といったものがあるのだとしたら、この花こそその化身に違いない。

 いつの間にか秋の気配を偲ばせた風が斜面から吹き上がってきて、魔性の花レンゲショウマを揺らす。透き通った薄紫色の花弁の揺らぎに呪文をかけられ、魂を抜き取られたように呆けたまま私は暫し見入っていた。

HPにサイズ大き目のをupした。

千年の羊

2006-08-02 | 日々雑感
 先日テレビを見ていたら、格差社会における中年の再挑戦というドキュメンタリーが放映されていた。

 ある40代の独身男は遺産として親から貰った家に住んでいて、投稿した写真が入選し賞品をを得たことで、職を投げ捨てあっさりとプロカメラマンを志した。今は貯金を切り崩しながら生活しているという。また50代歌手志望の男は、夢を捨てきれず離婚して芸能プロダクションのオーディションを受け40万円を払わされ(借金して)、更に宣伝用CDを作る為と数十万の金を要求されて資金が得られず断念したという。どちらも冷たい格差社会にめげず今なお夢を失っていないというような終わり方だった。
 
 余りの現実味のなさに驚いた。社会へ出てから数十年、一体どういうような生き方をしてきたのだろうか。馬鹿なやつが今時いるものだと賢しげに笑っていたら、わが来し方もそんなに変わりは無いと気づいた。

 風潮に流され、カッコウを気にして生きてきた。何も知らずに、サラリーマンや公務員の生き方を馬鹿にし、学生運動やコミューン運動に翻弄され、定職に就くことなく、かといってさして冒険することなく、挙句には若さとともに夢をいつの間にかなくし、それを時代の所為と偽って安逸な暮らしに逃げ込んで、こんな筈じゃなかった、まだまだ夢は捨てていないと己を騙し…既に20数年。いつの間にか中年と呼ばれる年になった。

 「千年の羊として生きるよりも一日の虎としていきたい」と言い残してK2に散った女性登山家がいた。山の麓に夫と子供を残して敢然と一人登って行ったそうだ。そういう虎のような生き方をすることは無論誰にでも出来る事ではない。が、対極に置かれた千年の羊のような生き方も同じ位難しいのではないか。そして、そのどちらが幸福で充実した人生だったか誰に決めることが出来るのだろう。

 人はどのように生きるべきか、答えは一つではない。生きた人の数だけ答えがあり、また幸せがあるのだろう。そもそも生きることは人の評価になじまないものなのだと思う。私のような凡夫は虎にも羊にも徹しきれず、その硲をふらふらと生きていくしかないのだろう。

 それにしてもだ、咲かせる花の蕾の一つ位は身の内に用意して置くべきか。