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藝大オペラ定期公演「コシ・ファン・トゥッテ」再考

2023年10月13日 | オペラ・バレエ

先日投稿した藝大オペラ定期公演「コシ・ファン・トゥッテ」の末尾に次の通り書いた。

「通常は浮気をするのは殿様など男性陣と決まっているが、このオペラでは女性の方が浮気してそれがバレて男性がそれを許す、というものだ。フィガロの結婚でも召使いのスザンナに手を出すのは伯爵で、それを最後に許すのは伯爵夫人だ。こんなストーリーは当時のご婦人達から非難の声は上がらなかったのだろうか。」

公演鑑賞後に、一度読んだことがあった三宅新三著「モーツアルトとオペラの政治学」(青弓社)の第5章「コシ・ファン・トッテ」にこのことに関連した考察が記載されていることに気付き、読み直してみた。そして、氏による詳細な考察から学んだところを書いてみたい。

  • 貴族封建社会では家の継承と繁栄にふさわしい結婚がなされ、愛と結婚は分離していたが、市民社会(ブルジョア社会)では愛と結婚の一致がみられ、お互いの誠実さや貞操概念が規範とされるようになった。
  • その点でこのオペラはウイーンの貴族たちには好意的に受け止められたとしても不思議ではないが、19世紀になると、このオペラの道徳的ないかがわしさに批判が起こった。すなわち、女性の貞節を嘲笑するようなこのオペラの主題は市民社会では到底許容できない。19世紀になりベートーベンやワーグナーも批判した。
  • 2組のカップルは貴族社会のしきたりで選ばれたのかもしれない、例えば、オペラの声の高さと配役で言えば、テノールの婚約者にはソプラノ、バリトンの婚約者にはメゾ・ソプラノがふさわしいが、実際には逆になっているので、それを暗示しているのかもしれない。
  • しかし、あらかじめ定められた相手を受け入れる点では貴族社会的だが、結婚を通して新たに夫婦の愛を構築しようとしている点では既に市民社会的である。その意味で彼ら4人は時代の過渡期を生きる人々でもある。
  • このオペラでは人間の情熱や本能(エロス)の力が、理性よりもいかに強大であるかを教えている。幕切れで本来礼賛されるべきは理性ではなく、混沌たるエロスであり、全員による最後の歌は理性への皮肉にしか聞えない。
  • モーツアルトやダ・ポンテはどちらの愛も非難しているわけではなく、また、どちらの愛が正しいとも言ってない。R・シュトラウスは繊細な皮肉、滑稽かつ莊重な、パロディー的かつ感傷的な様式をこのオペラに見た。

オペラ作品一つ理解するにも簡単ではないことがわかった。



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