三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2007/12/3

2000-03-12 00:31:34 | 映示作品データ
■『世にも怪奇な物語』HISTOIRES EXTRAORDINAIRES
    (1967年、フランス・イタリア)

「黒馬の哭く館」Metzengerstein
  監督 :Roger Vadim
「影を殺した男」William Wilson
  監督 :Louis Malle
「悪魔の首飾り」Toby Dammit(Never Bet the Devil Your Head)
 監督 :Federico Fellini
原作 : Edgar Allan Poe

 ――第3話のみを観ました。

キャスト
Terence Stamp (Toby)
Salvo Randone
Fabrizio Angeli

 『オテサーネク』『アリス』とは違う、〈あちら側〉の少女。
 『ゴーストシップ』にも少女の亡霊が出現したが、あの種の犠牲者としての霊体ではなく、死神の化身。ジャパニーズホラーの生身の「怨念系・ズルズル系」とも異なって、出自の一部たりとこの世にはない、百パーセントあちら側の存在である。ヨーロッパゴシック色の強い、独特の姿と言えよう。

 アート仕立てのサイコホラーだが、手法はかなりオーソドックスである。
 大まかに三つに部分に分かれる。
 ①トビーが空港に着いてからテレビインタビューを受けるまでの、昼間のローマ市内移動場面。ここは、通常の日常世界が描かれる。ただし、空港のエスカレーターに少女が現われたシーンが回顧されたり、交通事故現場に遭遇したり、手相を見る女が絶句したりと、トビーの末路をさりげなく暗示するシーンが散りばめられる。
 ②一転して、映画界の華やかな授賞式。メインゲストとしてトビーがもてはやされる。受賞者たちがみな全く同じ決まり文句で挨拶しているところなど、ナチュラルで雑然とした①の世界と対照的な、表層だけの虚飾に満ちた共同体が蠢く。トビーの自己嫌悪にこの虚飾性が共振して、トビーの現実逃避が暴発する。
 ③さらに一転して、夜のローマの裏通りをフェラーリでぶっ飛ばすシーンとなる。きらびやかなショウビジネスの風景②から再び都市の自然環境へ。ただし①とも対照的に、悪魔がトビーに張り付くには絶好の暗闇環境。無意識の恐怖が昂進する。結局、予想通りの結末が、予想しえなかった形態で訪れる。

 静と動、明と暗、歓と恐、といったコントラストで効果を倍増させる手法はオーソドックスでありハリウッド的だが、ショッカーの大音響を伴うような急激な展開ではなく、リアリズムに則った対比になっている。
 対比といえば、私が小学生の時に観て戦慄したのは、少女とトビーの対比だったかもしれない。こちら側にいながら死相を浮かべたトビーと、あちら側の住人でありながら妙に生き生きとした少女の顔(不気味なほど大人びたまさしく魔女の顔ではあるが)との、二重反転の関係が怖かったのだと思われる。
 そしてもちろん、トビーを取り巻く無邪気な人間たち――したたかなショウビジネスマンでありながら魔界の風景に対しては盲目のおめでたい人々――の様子が壁紙となって、少女とトビーの対比を引き立たせている。授賞式会場でトビーに言い寄った「夢の女」は、無垢な現実界と魔界を繋ぐ象徴であろうか。
 時間的推移のシーンの対比とともに、空間的共存をするキャラクターやアイテムの対比も、「恐怖」その他の強い感情を引き起こす要因となることが確認される。

 なお、1966年のイタリア映画『呪いの館Operazione paura』(マリオ・バーバ監督Mario Bava)に、ボールを持った少女の怨霊が出てくる。『悪魔の首飾り』は、そこから影響を受けたと思われるが、『悪魔の首飾り』の少女のほうがはるかに怖い。(幾分ミステリータッチでダークな雰囲気の『呪いの館』も傑作の誉れが高い。)
 『悪魔の首飾り』の結末の首切断システムが、どれほど『ゴーストシップ』オープニングに影響を与えているのかは不明。

2007/11/26

2000-03-11 00:54:48 | 映示作品データ
前回『オテサーネク』と同じシュワンクマイエル監督の『アリス』前半だけをまず観ていただきました。

■ヤン・シュワンクマイエル『アリス』1988年
      (スイス、西ドイツ、イギリス合作)←監督はチェコ人だが、しばしば外国資本に頼って制作する(思想的理由もあるらしい)
監督 : Jan Svankmajer
原作 : Lewis Carroll
脚本 : Jan Svankmajer
キャスト  Kristyna Kohoutova (Alice)

 アリスはほとんど表情を見せないまま、淡々と事件に遭遇してゆく。夢の中だから無感情なのかというと、夢の前後の、お姉さんといっしょにいるところでも無表情。(ただし、アリスが一度だけ「ウフフッ」と笑うシーンがあります。前半にはなかったが、気になる人はレンタルでもして全編を観てください)。
 『オテサーネク』のアルジュビェトカがやたらあれこれと大人顔負けの深読みや詮索をする「考えすぎ」の早熟少女であるのに対し、アリスは、機械的にナレーションを語りつつ現場では犬か猫のように場当たり的に反応してゆく「心なきマシーン」のような一種ゲームキャラ。超リアルなアルジュビェトカに対して、脱リアルというのか、超虚構的なアリス。このいずれの子どもキャラクターも、ハリウッド映画では見られないものである(あるいは極端なデフォルメとしてのみ採用されうる類型である)。
 ハリウッド的な子どもキャラクターは、被害者、天真爛漫などいくつかの類型があるが、いずれも、アルジュビェトカとアリスの中間に位置する、「いかにも子どもらしい感情表現」を豊かにあるいはバランスよくあるいは合理的に行なう「大人目線での子ども像」の代表といった感じ。
 そこで、改めてハリウッド的子どもを思い出していただくために、『オテサーネク』と同分野のホラー映画から実例を一作、冒頭だけ観ていただきました。

■『ゴーストシップ』 2002年 (アメリカ)
監督 Steve Beck
キャスト
Ron Eldard
Desmond Harrington
Isaiah Washington
Gabriel Byrne
Alex Dimitriades
Karl Urban
Emily Browning (少女)

 ホラー界では有名なシーンで、『ゴーストシップ』全編はこのオープニングの力だけによって引っ張られていたようなもの。ほんの5分に満たない時間の中に、「子どもが1人だけでつま~んない」→「老船員の心遣いでほぐれる」→「楽しい」→「超笑顔」→「驚愕」→「恐怖」と多種多様な感情を有機的に詰め込んでいる。状況や感情の激変による対照効果は、『アリス』にも『オテサーネク』にも見られなかった手法である。
 こうしてみるとつくづくハリウッド映画は、効率的に「感情」を描くのがうまいことを思い知ることができよう。「感情」は、映像内に描かれる感情のことでもあり、観客にもたらす感情的効果のことでもある。そして「感情」に焦点を絞っているということは、人間の最も原始的な、遺伝的本能の部分にアピールして効率的に効果を得ようとするのがハリウッド的手法だということである。
 遺伝的本能にアピールするのは、ハリウッド映画に限らず、ポップス音楽、スポーツ、オカルト、ミステリー、通俗小説、ヒューマンドキュメンタリーなど、大衆芸術の特徴である(芸術的純芸術と対比した意味での大衆芸術)。

2007/11/19

2000-03-10 00:39:59 | 映示作品データ
■オテサーネク Otesanek(チェコ、2000年) の続き。

 後半は、オティークを守る役割がホラーク夫妻からアルジュビェトカに移る。
 ラストが「民話どおりで拍子抜け」という感想がいくつかあったが、確かに、ハリウッド的な劇的展開やドンデン返しはない。しかし、ラストは最後まで映していないので、本当に民話どおりになったという保証はない。管理人のおばあさんはクワでオティークをすんなり殺せたのか、絵本を読んでその通りになると思い込んだのはお婆さんやアルジュビェトカの勘違いで、実はオティークはますます凶暴になって管理人も殺してしまったのではないか、といった仄かな予感は宙吊りにされたままである。
 細部が異様に生きていたことにも注目。あとでオティークの命取りとなるキャベツ畑のシーンでいつも低音で予兆的BGMが流れていたり、アルジュビェトカがオティークのエサをクジで決めるときに真っ先に自分の両親を入れていたり、クジで当たった人がちょうど地下室に降りてきたり、「お父さんに怒られるわよ」といつも夫の権威を盾に娘を叱っていた母親が、非常事態には一転頑なになって、逆に夫が「お母さんに怒られるぞ」と妻を立てて娘をたしなめる役にまわったり、等々。

 (前回の出席者で今回お休みの人が複数いましたが、それらの人は前回、一致して「気持ちが悪い」と書いていました。そう感じる人はやはり本当に続きを観たくなかったようですね。)

 早熟なアルジュビェトカはやたらにものを考え、大人の心の内を見透かし、気を回す質だが、同じシュワンクマイエル監督の『アリス』(1988年)の少女と比べてみると面白いだろう。アルジュビェトカより4~5歳年下と見られるアリスは、アルジュビェトカとは対照的にほとんど何も考えず反射的に行動しているかのようである。シュワンクマイエルの少女モノには「地下室の怪」(1983年)という15分の短編もあり、同モチーフで見比べるのも一興だろう。

2007/11/12

2000-03-09 22:49:54 | 映示作品データ
 ■オテサーネク Otesanek(チェコ、2000年)
監督:Jan Svankmajer ヤン・シュヴァンクマイエル
製作:Jaromir Kallista ヤロミール・カリスタ
原作:Jan Svankmajer ヤン・シュヴァンクマイエル
脚本:Jan Svankmajer ヤン・シュヴァンクマイエル
撮影:Juraj Galvanek ユライ・ガルヴァーネク
美術:Eva Svankmajerova エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァ / Jan Svankmajer ヤン・シュヴァンクマイエル

 132分の作品の、前半を観てもらいました。
 チェコの民話「オテサーネク」を下敷きにした一種のホラー映画。シュヴァンクマイエル監督の夫人による絵本『オテサーネク』(矢川澄子訳、水声社)が作中で使われている。
 子どもが授からないホラーク夫人の悲嘆と偽装妊娠、ホラーク夫妻周辺の出来事が「オテサーネク」のストーリーに似ていることに気づいた少女アルジュビェトカ、何も考えずにひたすら人を食ってゆくオティークとの三角関係がゆるやかに高まってゆく。前半のサイコホラー的な流れ(木の切り株を子どもとして育てるホラーク夫人の不条理な心理劇)が、いつのまにかアルジュビェトカとオティークとのコンタクト系ホラーに変色してゆく。オープニングに、赤ちゃんを水槽から網ですくう屋台、スイカを切ると中に赤ちゃん、といったホラーク氏の幻覚が何シーンか置かれているため、別荘でホラーク夫人がオティークに授乳しているシーンでも、一瞬、夫妻の幻覚がそのまま映像化されたものかと観客は思い込む。その手法は幾分ハリウッド的な達者さだ。もちろん、しばらく進展するうちに、ホラーク夫妻の願望と弟か妹がほしいアルジュビェトカの妄想とが生み出した(?)現実であることが紛れもなく判明してくる。マイナス×マイナス=プラスという仕組みのように、二つの虚構志向が一つの現実を生んだとでもいうように。
 ホラーク夫妻、アルジュビェトカらの住むアパートの、妙に密な人間関係にも注目したい。陣痛のときの世話の焼きぶり、職場での祝福ぶりを見ても、「子どもが生まれる」ことの共同体的意味は、チェコでは日本に比べて遥かに大きいかのようだ。1993年に共産党政権が崩壊して個人主義的な自由社会になるかと思いきや、民衆の生活レベルではむしろ地縁的共同体意識が強まったのかもしれない。映画の内容が現実の社会を反映しているとはかぎらないが、「リアリティを持って観客に受けとめられるであろう描写」がなされているだろうことを考えると、チェコ社会の表層の現実を見ることができる。
 大家のおばあさん、上階の変態爺さんなどの脇役もいい味を出していて、後半は彼らがオティークにとって各々重要な役割を演ずることになる。

2007/10/22

2000-03-08 00:15:30 | 映示作品データ

Powers of Ten
1977年製作 アメリカIBM
8:48
監督:チャールズ&レイ・イームズ
●DVD
EAMES FILMS:チャールズ&レイ・イームズの映像世界

先週に引き続き、イームズ夫妻の代表作。10×n秒の時間ごとに10のn乗メートルの尺度が映し出されてゆく。後半は10×n秒の時間ごとに10の-n乗メートル。倍数ではなく累乗でスケールが異なってゆく速度によって私たちの目にちょうどよく見えるということに、自然界の法則が垣間見える。これがもし10×n秒の時間ごとに10×nメートルの尺度が映ってゆくとしたら、始めは早く遠のき、しだいに速度が落ちて、地球を遠く離れると全く変化がなく、太陽系を脱するまでに何万年もかかってしまうことになるだろう。
 CGを使わない手作り感覚の妙。

 ↓続いて、チェコのアニメ(実写含む)作品3編

メカニカ Mechanika
2002年 9:45
ダヴィット・スークップ  David Sukup 1974-
●DVD
チェコアニメ新世代Ⅰ

視角の外 Co oko neuvidi
1987年 3:05
パヴェル・コウツキー Pavel Koutsky 1957-2006
●DVD
チェコアニメ傑作選II

対話の可能性 Moznosti dialogu
1982年 12分
ヤン・シュワンクマイエル Jan Svankmajer 1934-
●DVD
シュヴァンクマイエルの不思議な世界

 「メカニカ」は機械仕掛け・金銭取引の管理社会を風刺。
 「視角の外」はローテクのコマ撮りアニメーションによって私たち自身が操られているというメタフィクション。フィクション内の人形はいち早く自分の位置に気付いて、優位に立っていた他のキャラクターを蹴飛ばす。
 「対話の可能性」は、対話のメカニズムをさまざまな日用品や粘土で寓意的に表現。
 「メカニカ」には通常の「盛り上げ型BGM」が使われていたが、どれも手法的にハリウッド映画とは異なる。説明的なドラマ仕立てがない。時間が短いためにハリウッド映画と異なることは自明で、却って非ハリウッド性が隠れてしまったかもしれないが、同じ監督による長い作品もいずれ観ることにしよう。