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尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

飯田市・裏界線 一つの災害文化

2013-02-18 23:12:47 | 旅行

 飯田市にはたぶんほかの自治体にはないと思われる路地があります。裏界線(りかいせん)と呼ばれる裏通りです。前回紹介した飯田市の「都市復興基本方針」の「5.街路と街路の中間の裏通りに裏界線を設け、ここに幅員二メートルの道路を設けて防火活動に備える」に基づき、復興の区画整理の際に設けられた計画的な路地のことです。飯田市や信濃毎日新聞のサイトで写真が見られます。大火の際に、家屋が密集する地域では消火活動が及びにくかったこと、避難路の確保が困難だったことが最大の動機だと思われます。裏界線は、普段は生活通路として使われていますが、その地下には上下水道、電力、電話線など公共上必要な施設が埋設されているそうです。現在、「リンゴ並木」と並んで飯田市のシンボルとも宝とも言われる「裏界線」。その60数年の歩みは平坦ではなかったと思いますが、その一端を紹介します。

 まず裏界線の数ですが、三石さんの記事(2009.3.5)では、都市計画でつくられたものは54ヶ所と記録されています。でも、前記の信濃毎日新聞サイト(2011.6.6)によると、市では58ヶ所と回答したとのことです。もしかして市街地の拡大によって増えているのでしょうか。よくわからなことです。ですが、私がリンゴ並木のある防火帯道路から出発して何本かの裏界線を歩いて見たときは、真っ直ぐに街路から街路につながっている通路もあれば、曲がり角を含むもの、細く感じるもの、見晴らしのよいものなど、場所ごとに異なっていて一様な施設空間という印象はありませんでした。このことから想像するに、この60数年のあいだに、裏界線を挟む家屋の老朽化にともなう改築・新築、あるいは大規模な再開発のなかで旧来の裏界線の処遇も問題になったと思われます。

 三石さんの記事によれば、裏界線の取り扱いについて、1975年5月に、下伊那地方事務所、飯田市、飯田市鼎上郷消防組合の三者が協議し、以下のことが確認されています。

  1. 裏界線は建築基準法第42条の規定に基づく道路ではない。
  2. 建築基準法第52条「容積率」、同法第53条「建ぺい率」の算出にあたっては、従来の慣例により、裏界線の中心までの面積について、その地先敷地所有者に限り、緩和するものとする。
  3. 従来、軒出又は「出窓」等の突出物は許容される等、誤った解釈をしている向きもあるが、裏界線の目的から判断して、これは認めない。
  4. 建築物(塀を含む)にかかわりのない工作物についての突出等は、この協議とは別である。
  5. 建築物にかかわる裏界線の占有は認めない。

 問題がなければ、このような確認事項を文書化する必要はないはずです。なんといっても60数年です。最初の目的を忘れてしまったり、誤解したりということは十分にありえます。三石さんは、連載記事「飯田大火とその復興──忘れてはならないこと」の本文を、次のように締め括っています。

≪文面から推測するに、区画整理事業終了後20余年が経過し、裏界線について誤った認識がされ、裏界線の上に建築されてしまうといった事態が生じ、関係者憂慮して取り扱いを明確にしたものと思われる。/市建設部によると、現在もこの協議書に基づき運用しているとのことだ。/私が調査したところ、残念ながら現在も、入口がふさがれたり建物に一部占有されている箇所も存在している。串原氏(復興当時の市助役)の嘆きもここにあったと思われる。/大火の復興の時に生まれた飯田のシンボルでもあり宝でもある「りんご並木」と「裏界線」を大切に後世に伝えたいものだ。≫

 私は、裏界線を災害文化という文脈においてみたとき、先の「三者協議」で裏界線の取り扱いについての確認事項も、三石さんの連載記事も大変意義深いものだと考えます。その理由を述べます。

 災害とは人間の暮らしに被害が及んではじめて成立する概念です。さらに被災した人間はその災害に再び遭わないように防災という考えを取り入れてさまざまな防火対策を講じてきたわけです。そのような人間の営みをまとめて「災害文化」とよびますと、災害・防災の記憶は後続する世代に伝えられてはじめて意味をもちます。これを伝承とも広義の教育とも、とらえなおすことができます。世の中に永く伝えられてきた文化にはそれなりの根拠があります。すなわち「ためになり(思想性)、役に立ち(実用性)、おもしろい(観賞性)」という「教育文化の三基準」が備わっていることです。

 一つに裏界線の思想性とはどういうことでしょうか。まずは、「リカイセン」と聴いてその名称と本来の設置目的がわかるかという問題です。最近のだと考えられる調査資料があります。裏界線沿道に住む15人と、裏界線近くの通りの商店主3人の計18人にヒアリングをおこなったのです(小森谷奈月・薬袋奈美子「住民の計画的路地に対する意識と利用実態──飯田市・裏界線を対象として──」2010.9『日本建築学会北陸大会学術講演梗概集』所収)。それによると、≪裏界線の名称、目的共に認知している人は全18人中14人、名称を知らず目的は認知している人は3人いた。名称や正確な位置については十分に分らずとも、避難のための細い道があることはほぼ全員が知っていた。このことから、裏界線が多くの住民にとって「防災・避難経路」として認識されていることがわかる≫、と述べられています。

 以上の裏界線沿道や付近の住民の認識実態に加えて、三石さんが地元メディアで、この60数年間における「裏界線に関する取り扱いの問題」を公表したのは、裏界線という災害文化に歴史性の厚みを加えたことを意味すると考えます。ただ大火の反省から裏界線が設けられたという記憶にとどまらず、60数年における住民の暮らしと町の未来(再開発事業)が密接にかかわっていたことを気づかせてくれるからです。いわば歴史的財産としての深みが増したのです。

 地元では毎月第2日曜日に「モーニング・ウォーク」という飯田市を中心にした市街地を歩く活動がおこなわれています。これは誰でも参加自由なイベントです。参加者は、市街地を歩きながらやがて裏界線の存在とその意義に気づいていきます。この活動の代表者である牧野忠彦さんは次のように書いています。

≪このモーニング・ウォークで裏界線を歩くことにより、多くの参加者の方が、裏界線の歴史を知り、価値を感じ、大切さを学ぶことができたと思う。とかく、まちづくり、地域づくりは、「何かをしなければ」「どう活かすか」と言われ、難しく考えてしまいがちだが、まずは自分で歩いて裏界線の楽しさを知る、これだけでも十分に、裏界線を活かしたまちづくりだと思っている。≫(西村幸夫『路地からのまちづくり』学芸出版社 2006

 裏界線を歩くことの楽しさは災害文化の観賞性に棹さしています。またさきのヒアリングの調査結果を考慮すると、裏界線沿道や付近住民にとって、裏界線は日常の暮らしの一部であり、そこを歩いて利用しながらその設置目的などに通じてきたと考えられます。しかし、裏界線を知らない住民や旅行者にとってはどうでしょうか。定期的なモーニング・ウォークのもたらす意義は牧野さんが述べたように、小さいものではありません。ここには民俗伝承と同じ論理が見出せるからです。かつて文字をもたない時代に、必ず親から子へと伝えておかなければならない人生の大事な価値を、季節になるときまって訪れる鳥の鳴き声に託して物語ってきた「ききなし」という民俗の伝わり方と同じものが、この活動に流れていると思われるからです。「歩く」ことへの着目は意義深い発見だったと思います。

 裏界線の災害文化としての実用性は、省略しますが、三石さんの連載記事で、過去の火事のさいに有効だったことが紹介されています。だとすれば、裏界線は、思想性・実用性・観賞性と三拍子そろった災害文化であることがはっきりします。60年以上も地元に伝わってきたのにはそれなりの根拠があったのです。

 


飯田大火と復興文化

2013-02-15 22:26:00 | 旅行

 今から66年前の昭和22(1947)年4月20日に、世に「飯田大火」と呼ばれる大火災が長野県飯田市々街地で発生しました。私がこの大火のことを知ったのは、当地出身の歴史学者・古島敏雄さんの『子供たちの大正時代──田舎町の生活誌』(1997 平凡社ライブラリー)がキッカケです。古島さんは大正元年生まれですが、子供時代に大きな火災に二度、東京では大空襲に、さきに触れた戦後すぐの飯田大火は実家が被災し、そしてご自身も1995年に東京練馬区の自宅火災で夫人とともに亡くなっています。享年83歳だったそうです。こういう悲痛な事実が印象深かったのかも知れませんが、「飯田大火」は記憶に残っています。また、私はいわば「遊動民」で、生まれ育ったところにずっと生きてきたわけではないので、そう感じるのかも知れませんが、長野県飯田市というところは火災の多いところだという印象もありました。

 他方、日本列島は自然災害の多いところです。国土の殆どは古代の中国人が評したように海面からニョキッと突き出た険しい「山島」です。ひとたび大雨が降れば、急流な河川は大洪水となり、山崩れも頻繁に起きます。また列島は地震頻発地帯に立地しそれによる被害ばかりか、津波や土砂崩れに何度も見舞われててきたところです。火山帯からの噴火も南から北まで頻発してしています。とはいえ、列島に住む人間に被害が及ばなければ、「災害」とは呼べず、自然史的事実そのものでしかありません。しかし、およそ一万年前から始まった列島の定住生活に対して自然史の影響がなかったとは考えられません。近ごろ刊行された『日本歴史災害事典』(吉川弘文館 2012)には、記録に残っている歴史災害だけでも夥しい数にのぼっています。ですから、人間たちによる復興によって築かれた文化というものは、「土地に刻まれた歴史」(古島さんの著書名)として幾層にも積み重ねられ、その上につくりかえられてきた歴史なのだと考えることができます。言ってしまえば、日本文化史は(災害からの)復興文化史なのです。復興文化を調べていくことは、日本文化史を知ることに通じるのです。

 こういうわけで、「飯田大火と復興文化」に関心があり、昨年10月14日に飯田市の市街地を歩いてみたわけです。まず、ほんとうに飯田は火事の多い町なのでしょうか。6年前(2007.4.19~5.27)に「飯田大火60年──まちを代えた大災害を振りかえる──」という特別展が、飯田市美術博物館で開催されました。このときのパンフレットには、≪飯田は古くからたびたび大火に襲われています。百軒以上消失した火災だけでも≫と断って、こう記されています。箇条書きにしてみます。

  • 文政 6年(1823)  [出火 箕瀬町/消失戸数   1112軒]
  • 天保 2年(1831)  [出火 箕瀬町/消失戸数     105軒]
  • 明治26年(1893)  [出火 追手町/消失戸数     125軒]
  • 明治27年(1894)  [出火 池田町/消失戸数     161軒]
  • 大正11年(1922)   [出火 愛宕町/消失戸数     358軒]
  • 昭和21年(1946)   [出火 元町  /消失戸数     198軒]
  • 昭和22年(1947)   [出火 扇町  /罹災世帯数 4010  ]

 確かに大規模火災にしては多いのだと感じます。他の都市との比較ができないので、そう感じるとしかいえないのですが、こういう比較も大火以降の防災という点からは地元の人がどう自覚するかが重要ですから、「飯田は古くからたびたび大火に襲われています」と記しているように、私たちも、飯田は火事が多かったという認識でいいのだと思います。次に、飯田大火の概要ですが、さきのパンフレットから抜き書きしておきます。

≪昭和22年(1947)4月20日、戦後初めての参議院選挙当日、晴天続きの陽気と満開の桜に誘われて、市民の多くがお花見にくり出すなど平和な春を満喫していました。/ところが、午前11時40分頃、知久町1丁目の八十二銀行の裏手にある民家(上常盤町 現扇町)から火災が発生(覚知時刻 午前11時48分頃)。当初、すぐに鎮火するかと思われましたが、連日の乾燥に加え、松川から吹き上げる強風(最大風速13m)に煽られて、瞬く間に燃え広がりました。猛火は町家の軒下を舐め、渦を巻いて延焼し、あるいは火玉となって宙を舞い飛び火したのです。/着の身のままに逃げまどい、家財道具を運び出す人々、近郷からも駆けつけて消防にあたる警防団員・・・・・・まちは大混乱に陥りました。その夜、一面の焼け野原の降り出した小雨は、のち雪になり、わずかに焼け残った土蔵も翌日になって炎を吹き上げたといいます(完全鎮火時刻21日午後9時頃)。/大火は、飯田市街地のおよそ八割を焼き尽くし、焼失面積202,000坪、罹災世帯4,010、罹災人口17,800人、被害額約15億円(当時)。全国の戦後における大火の中でも、鳥取大火(昭和27年)に次ぐ大惨事です。旧城下の面影をよく残し「飯田美しき町」と讃えられた飯田の街は、ことごとく灰燼に帰したのでした。≫

 以上の概要でも、飯田大火が並の火災でなかったことは伝わってきます。とくに「猛火は町家の軒下を舐め、渦を巻いて延焼し、あるいは火玉となって宙を舞い飛び火したのです」と記す形容は大げさな表現ではなく、目撃情報であったことは、体験記(伊那史学会編『伊那』2007年3月号・12月号)からもわかります。

 


移動を考える三つの観点

2012-12-27 03:46:31 | 旅行

 退職してからNHKの朝の連続ドラマを見る機会が多くなりました。何回か見ているうちに、毎日見ないと気が済まなくなって来るのはどうも「朝という惰性」の魔力だな、などと思っていましたが、現在放映中の『純と愛』は少しちがいます。ただ漠然とストーリー展開に興味を覚えるというのではなく、故郷と異郷のあいだをめぐる人間の移動に関する思想の展開として興味深いのです。ここでは、人間の移動を考える観点について書いてみます。

 もうすこし具体的にいうと、こうなります。人間は進学や就職で故郷を出でて異郷に暮らすことが少なくないと思います。引っ越しに当たってはいくらかの身辺の荷物をもって出かけるでしょう。この点では旅も同じです。この荷物は当然旅先や異郷で役立てるために持ち込まれます。ところがそんな荷物さえ持って出ることができない場合があります。突然の災害によって離郷する場合です。今回の東日本大震災の被災者がそうです。津波被災地では家屋をはじめ一切を流され失った被災者がほとんどで、持っていけるものとて数少なかったはずです。また原発被災者も同様です。福島第一原発のメルトダウンによって、身体一つで離郷した被災者がほとんどでしょう。土地や家屋はそのままでも、長い避難生活のあいだにはやがて荒廃してしまいます。

 移動の際に荷物はもっていけなくても、必ず持ち込まれるものがあります。もちろん身体ですが、身体は本人のそれまでの「生き方」を背負っています。人間の生き方は目には見えませんが、なんらかの問題解決において表立ってきます。ですから人間の生き方とは問題解決にあたって援用される基準のようなものと考えることができます。それは又各々生まれ育った土地でさまざまな機会を通じて身に付けられるものです。これを知識を含めて「故郷文化」と呼んでおきます。たとえば地方特有の民俗や習慣、出身学校の校風、家族ごとの家風など、故郷生活の仕方を拘束したり影響を与えたりすることがらを指します。とすれば、旅先や移動先という異郷にあっても当地にとっての故郷文化がなりたちます。これを異郷人から見れば「異郷文化」と呼ぶことができます。ここには故郷文化の異郷への持ち込み、あるいは逆の立場からは異郷文化と故郷文化との軋轢、融合、否定、受容などの関係が生まれます。すなわち、人間の移動は文化運搬の問題なのです。これが第一の観点です。

 また人間の移動にともない運搬される文化に、ひとつ個人の信念とか思想とか宗教を想定してみますと、故郷文化をせおった人物が都会に移動すると、まったく都会人らしくふるまいすっかり異郷文化を身に付けているような光景に出会うことがあります。このとき信念や思想や宗教が変ってしまったといえるかどうかは表面からはわかりません。反対に表面は変らないけれども、中身がすっかり変ってしまう場合も考えられます。ふつう思想信条や立場の変化を転向と呼びますから、転向の問題も移動の文化運搬の観点に含めておきます。

 つぎに、人間の移動現象全体を見渡していくと、もちろん出て行って帰って来るとは限りません。行きっぱなしで生涯故郷に帰ることはない、というケースも少なくないと思えます。これを漂泊とか遊動とかいいますが、遊動民の暮しには大小に拘わらず根拠地(キャンプ地)があり、それ自体を移動させて暮らしています。ですが、何か狩猟をするにせよ行商をするにせよ、根拠地を中心として行って帰って来るという行動は人類に普遍的だと思えます。そこで<行き帰り>を移動の本質と考えることにします。これが第二の観点です。

 最後に人間の暮しを大きな歴史で考えてみます。そうすると、根拠地自体を移動させながら営まれる「遊動生活」と、根拠地をある土地に固定させて営まれる「定住生活」とに二大別することができます。西田正規さんの『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫 2007)によると、人類はおよそ一万年前に北半球の中緯度地方でほぼ同時代的に定住生活を始めたことが述べられています。現代の私たちが自明とする定住生活およびその社会の成立は、人類史の長い時間に比べれば始まってホンの少しです。人類史を600万年とすれば定住生活が始まって1/600、0.2パーセントにも及ばないのです。とすれば、現代の私たちには人類史における遊動生活の意識の痕跡が残っている、たとえば「人間はじっとしていられない存在なのだ」と、考えてもちっとも不思議ではないということになります。試みに現在の家族がそこに住み始めて何世代になるのかを振り返っていただければ、自ずと納得してもらえるのではないかと思います。現代人の心意には遊動性が残っていること、これが第三の観点です。

 以上三つの観点を使って、次回はNHK朝の連続ドラマ『純と愛』を調べてみることにします。

 

 


国語の大きな力

2012-12-10 13:06:30 | 旅行

 この9月の、お彼岸がすでに過ぎていましたが、故郷の会津に帰って親戚の仏壇巡りをやりました。母の兄がこの正月に亡くなりその実家が寂しくなり、かつ49日の法事も失礼していたので、母が入院してるうちに訪ねるつもりがあったことが一つ。もう一つが葬儀で又従兄弟に再会して以来、父が戦後の昭和20年代に只見川の電源開発事業に携わり家を空けているあいだ、母子(ははこ)していくつか親戚の厄介になっていたことを知らされた(というよりは、母から聞いて知っていたことを思い出した)からです。私がまだ嬰児だった頃のことです。今思えば、以前はみんな貧しい中でも、若い家族を見守ろうというお年寄りがあちこちに居たのには今更ながら、驚きかつ有難いことだと思ったわけです。

 そんな折り、私が生まれたばかりの頃のことが話題になりました。生まれが昭和27年9月ですから、生まれて一か月ぐらい経ったちょうど稲刈りのころです。これは家総出の仕事であるばかりか、嫁に行っても実家の手伝いに行かなければなりません。乳呑み児を家においても誰も見てくれる者が居ませんから、必然田んぼに連れて行かざるをえません。私は、藁を敷き詰めたミカン箱(と母も言ってたけど犬やネコの赤ん坊じゃあるまいし、せめてリンゴ箱でなくては納まりません)に入れられ畔に置かれたのです。私が泣き叫んだり、手間が一段落したりしたら母が戻ってきて授乳したそうです。ところが、そんな授乳の時間でもないのに大きな泣き声で「ウンチしたよ」(実はしてない)の合図を頻繁に出しては呼び出されるので、ほとほと困ったといって一同で笑った話でした。これは母から何回か聞いておりその都度黙って聞き流して来ましたが、叔母から同じ話を持ち出されたのには参りました。いっしょに笑ってしまいました。私は生まれつきの嘘つきなのかもしれませんが、寂しかったのでしょう。 

 で、話はこの嬰児を入れておく容器のことです。多くは藁をやや浅めの筒型に編み上げたものです。会津ではエジコと呼んでいたと記憶しています。ここに赤ん坊を入れておけるのは、自力でここを這い出さないうちです。起き出してそれをひっくり返しては大変です。以前、野口英世の映画で、幼い頃にエジコから這い出して囲炉裏に左手を突っ込んで大けがをした場面を見たことがあります。だから、「ねんねこ」やらをぐるぐる巻きにして動けないようにエジコに入れて固定したのではないでしょうか。地方によっては、這い出ることのできないようにしてあるエジコもあるようです。すこし民俗学の辞典で補っておくと、東北では一般にエジコ(イジコ)、ほかの地方ではイズミ、ツグラ、クルミ、フゴなどと呼ばれています。木製や竹製のものもあり、大小いろいろ作って冬には飯の保存用にも使ったそうです。イズミというのは「飯詰」のことで、イジコも同じ意味だと考えられています。その分布ですが、西は広島・島根・鳥取を西限とし東北地方一帯に広く分布していましたが、第二次世界大戦後に使用されなくなった地域が多く、東北・北陸・中部地方の一部で1950年代ころまで使用されていました。私の場合は、藁でこしらえたイジコからリンゴ箱による代用という過渡期に当たるのではないでしょうか。またこの容器の底には籾殻・灰・藁・炭・海藻などを入れ、その上におむつをしない子どもを入れて尿や便が吸われるようにしたそうです。赤ん坊だった私の「嘘泣き」は、おむつをしていたからこそできた母呼び寄せ作戦だったわけです。これも時代の変遷でしょう。

 さて、赤ん坊をエジコに入れ固定させておくといった育児のありかたは、「自由にのびのび」という現代的風潮と比べると、いかにも古い時代の拘束といった印象があります。ところが柳田国男は「ツグラ児の心」(1934.8.26 東京朝日新聞)という短篇で、興味深いことを述べています。ツグラとは九州北部から越後にかけてのエジコの方言です。太い藁縄を巻いてこしらえるから、いかにも蛇がとぐろを巻くというときのトグロに近い古語だそうです。ずっと以前は瓶・壺・皿・甑(こしき:蒸し器)なども粘土を藁縄のようにして作っていたことはよく知られています。それがろくろを使うようになると、この様式が消えてゆき今ではエジコだけにその古風が保存されているというわけです。そして、エジコの古風は外形にとどまらず、「その最も大切な中身、是で育てられた人たちの心持ちにも、何等かの痕跡を留めて居るかも知れない。幼子が始めて人間の言葉を聴き覚え、個々の語音の裡に動く親々の感覚を、乾いた海綿のやうに吸ひ取らうとした、真の国語教育の是が第一学年であった」と推測しています。そしてツグラ(エジコ)は「歴代の最も由緒ある我々の学校」、「消えてしまはうとする平民の過去記録の、上表紙のやう」だと、エジコを表象化しています。

 続けて柳田は日本人の生い立ちには類型があることを語っていきます。①「抱き児かゝへ児」 ②「背中児」 ③「ツグラ児」の三種類です。なんという命名でしょう。聞いてすぐわかる、まさに「良い言葉」の見本のようです。①の生い立ちの特徴は、「元は少ししか無かつた。いつも御相手があつて赤ん坊の言葉を造って話してくれる。斯ういふのは常の日本語を学ぶことが遅い」。②の特徴は、「いつも成人の間にまじつては居るが、じっと自分の眼をみてくれる人が少ないので、よそよそしい会話の中から、僅かな入用のものを拾ひ出さなければならぬ」。最後に③の特徴です。─── 「昼はがらんとした家の中に、啼いても語つても、構ふ者の無いやうな、ひどい寂寞に鍛へられる代りに、毎日のやうな再会の歓びがあり、また印象の強い授業がある。所謂母の言葉は彼らには滋味であった。国語の大きな力を彼等こそは体験して居る」。

 柳田が③の類型「ツグラ児」に見た日本人の生い立ちその特徴を、「ひどい寂寞に鍛へられる」、「毎日のやうな再会の歓び」、「印象の強い授業」、「母の言葉は滋味」という印象の強い言葉を次々に重ねながら押し出してくる「国語の大きな力」とはどのような力なのでしょうか。柳田は最後にこう締め括っています。─── 「我々の同志の今回の全国調査は、偶然にも其ツグラ児の心への探検であった。村に年経た人たちの眼で聴き胸で語り、もしくはただの空気に伝へさせて、それでも結構用の足りて居るものを、外から入って来て知って還らうといふことは容易で無い。斯うしてめいめいが感じて来たものを話し合って居るうちにさうだと思わず知らず言ってくれる人を待つばかりである。」と。その大きな力とは、「眼で聴き胸で語」ることでしょうか。嘘泣きをしてでも寂寞を回避したかった赤ん坊の眼を見て聴き、胸で語ろうとした母。その母は今年84歳。昨日退院し、9ヶ月ぶりに帰ってきました。

 

 


カエデびいきの紅葉散見

2012-12-05 01:47:38 | 旅行

 今年の秋は幸運にも、小さな旅のあちこちで紅葉を見ることができました。母が12月になって退院して帰ってくると、小さな旅といえども、そうそう度々出かけるわけにはいかず、自宅介護に没頭しなければなりません。というわけで、10月~11月はお出かけが多くなったわけです。
  自宅の小さな庭のカエデが、今が盛りかなと思ったのがつい二、三日前(12/2)。今朝はベランダにかわいいイロハモミジの葉っぱがいっぱい落ちていました。そんなに真っ赤ではありませんが、エンジっぽくなった葉っぱが私のお気に入りなのです。カエデの紅葉を意識したのは、かなり遅く30代に入ってからだと記憶しています。田舎にいたときは紅葉の時期には、身の回りにいつでも見られたせいか全くといっていいほど紅葉全般に関心がありませんでした。
 ところがあるとき、職場の旅行で箱根に行ったとき部屋の窓から目に入ってきたの紅葉がすばらしく、いっぺんで気に入ってしまったのです。多様な黄色の葉っぱを基調にして、これまたさまざまな濃淡の赤色の重なりがすばらしく、赤といってもカエデだけとはかぎらないのに、葉っぱの形もかわいいので紅葉といえばすっかりカエデびいきになってしまったのです。

 今年最初に見に行ったのは、群馬県の照葉峡です。地元の人に例年10月下旬頃が盛りだと聞いていたので、土日で混まないうちにと思って、10月25日(木)に出かけました。照葉峡はあまり有名ではないようですが、知る人ぞし知る、紅葉では絶景の場所なのです。みなかみ町の湯ノ小屋温泉郷から車で15分ほどでしょうか。冬になったら5月の連休までは通行止めの道路ですが、年々整備されているような気がします。また、走っていくと「落石注意」の標識や道路の補修工事が目に入ります。なんで紅葉見物で混雑するときに道路工事をするのか訝っていましたが、谷川を見て気付きました。
 そこには何本もの倒木があったからです。流されたときの激しさを物語るようにあちこちに根っこや折れた箇所が白くむき出しになっています。この道路は大雨が降ると通行止めになります。土砂崩れの危険があるからです。大雨の降らない年などはありませんから、その度に補修工事が必要になってくるのでしょう。大雨はたいてい秋の台風シーズンにやってきます。観光シーズンまでに間に合わせるなどどだい無理な話です。また道路の谷川の端に植えてあるカエデの紅葉の美しさは、明らかに人間の手によって植樹されたものです。道路が崩れるのを根っこが支えの一助になっているのかもしれません。こんな山奥に来ても、美しい風景が天然そのものではなく人間の力が支えていたことに改めて気付かされます。


 次は11月9日(金)に浅間山の鬼押出しを歩き、そこから北側を周り嬬恋村を通り長野市までの道のりの一コマです。たくさんカエデの紅葉を見ましたが、私は嬬恋郷土資料館の前のこの一枚を選びました。写真がへたくそなので、うまく伝わらないかもしれませんが、この地・鎌原(かんばら)村は、天明3年7月6日の4月から始まっていた浅間山の噴火による“土砂なだれ”が一気に押し寄せ、村を一瞬にしてのみこむ大惨事となりました。
 「天明の地の霊此処に秋立ちぬ」の句碑が建つ背後を紫からオレンジ色までの広がりを凝縮して見せる紅葉がぐっと目を引きました。このカエデも人間の手によって植樹されたものです。人間のやることに趣意のないものは一つもありません。ただ何の意味もなく、ということはありえないのは明白です。
 この鎌原村の地面は浅間山噴火以前より5メートルほど高くなっています。噴火による土砂によって埋没してしまったからです。発掘調査の際に見つかった女性親子の遭難者の遺骨で有名な観音堂はすぐ近くにあります。

 この一枚は11月10日、長野市の善光寺近くの信州大学教育学部正門を入ると正面に見える紅葉です。赤と緑とのコントラストが何とも鮮やかです。やはりシャッターを切らずにはおれませんでした。人間の目を惹く美しい存在は、やはりここでも人間の力によって支えられていることがわかります。


  11月21日~22日は河口湖に行きました。初日は空もよく晴れ富士山もくっきり見えます。この一枚は西湖沿岸からの紙幣でお馴染みの光景。手前の森林だって人間の手が入っていないとは思えません。
 富士山はいつ見てもどこから見ても、孤高の大きさを感じさせてくれます。孤高でもやはり湖なり紅葉なりが添わないとだめです。孤高が孤高として見えなくなってしまいます。私の住む川越からも見えますが、傾斜が緩やかです。でも、近くで見ると傾斜も大きさも圧倒的です。ホテルでも部屋からもお風呂からも眺められて大満足でした。
 河口湖周辺の紅葉は盛りを過ぎたばかりのようでしたが、まだまだ鮮やかな箇所が随所に残されていました。特に、久保田一竹美術館は圧巻でした。


 河口湖ではもう一箇所、船津にある筒口神社の鳥居近くの紅葉も鮮やかでした。内側から撮ったので光の加減が虹のように見えます(ブログの写真ではわかりにくいかも)。また、この神社は富士山に面して南側を向いています。御由緒の石碑には次のように刻まれていました。──≪當社の北方、河口湖岸近くに湖水が伏流し渦巻く所あり筒口と云う.この筒口に村人度たび遭難あり防災を祈り筒口を天上山松材で塞ぎ、建久四年(一一九三年)水神を祀る.文明八年(一四七六年)拜殿造営、筒口神社と号す.文亀四年(一五〇四年)河口湖が大増水し時の検断小林尾張守が塞がれし筒口を開き湖水が減水すること無限と伝えらる.永禄八年(一五六五年)社殿を改築し、小船津組の産土神となす.例祭當日は必ず大小の雨あり氏子はこれを禊の雨と云う.≫と。
 富士山の裾野の湧水は広く知られていますが、水が吸い込まれる筒口があるとは初めて聞く話です。災害の記憶がここでは水神宮という表象を残しました、これはよく聞く話です。


 11月25日(日)は国分寺の野川の水源を求め、国分寺崖線を歩きました。湧き水の出る崖を見に行ったのです。写真は国分寺駅南口ちかくにある「殿ヶ谷戸庭園」の紅葉です。この庭園には湧水があり、これが野川に流れていきます(でも水源とされるのは別にあります)。武蔵野台地にしみこんだ雨水が砂礫層を通り粘土層に行き着いたところで横に流れ崖から浸みだして来るのです。地面の殆どがコンクリートで蔽われても、今でも市内にはいくつか湧水が存在します。ここも人間の手によるみごとな庭園美が多くの人々の注目を集めています。当日もいっぱいでした。

 


 最後は、11月27日の火曜日に埼玉県の森林公園のカエデ園の「紅葉見ナイト」に出かけてきました。夜間照明による紅葉は一種独特のものがあります。証明に照らされたカエデの紅葉をしばらく眺めていると、周囲を暗闇で隔てられているせいか、どこか異界にワープしたような気分になります。およそ往復1時間の行程でした。帰りは、隣の東松山駅で下車、駅前の「味噌だれの焼きトン」を堪能しました。

 小さな旅の連続でいささか疲れましたが、自分にとって紅葉とは何かを考えるよい体験になりました。考えはもう少し深めてから書いてみようと思います。
 


柳田の先祖探訪とは何か 共感的な異郷理解

2012-12-01 03:40:27 | 旅行

 一昨日、私が定期的に通っている都心にある病院に行ったついでに、柳田国男が自伝『故郷七十年』で述べていたように、谷中墓地に改葬されたという烏山柳田家の墓石を確認に行ってきました。ですが、2時間余りも探したのですが見当たりませんでした。墓石を見つけたらいつ改葬されたのかが分かり、養父母が烏山を訪ねた時期を想定することができ、そこで対応した烏山の善念寺の住職が特定できるからです。そうすれば、烏山柳田家の墓所が整理されてしまった事情を探る手がかりが得られると思ったのです。でも、柳田にとって明治39年4月の先祖探訪の旅は目的を達したのですから、私にとってもその先は不明でもいいことです。

 11月19日の午後、烏山の善念寺をあとにして、私たちは柳田が明治39年4月2日に宿泊したという「叶屋」と、代々烏山柳田家を守って来たという「青木家」の住居跡を確かめにいきました。ご住職にお聞きしたところそれは仲町という善念寺からほど近い通りでした。手がかりにしたのは中山さんの『追憶の柳田國男』(随想舎 2004)に載っている大正8(1919)年当時の街並みの絵図(町内の森幸三さん作)の一部に描かれている叶屋と、青木家のあった場所を示す写真です。中山さんは「叶屋」についてこう述べています。

 ≪町内で書店を経営される傍ら郷土史の研究家でもある小池光郎さんによれば、叶屋は茂木出身の平野庄次郎が始めた旅館であった。一時は相当繁盛したが旅館は時代の旅館は時代の盛衰に大きく左右される業界である。その後営業不振に陥り叶屋旅館は人手に渡った。さらに、道路を挟み正面向いにあるこの地方きっての豪商新万こと新井万吉商店が買い取り建物は解体され更地となった。洗練された趣味の良い雰囲気が人気を呼び、著名人にも多く利用された叶屋は名実ともに消え去り現在は駐車場になっている。なお、同旅館の創業などの詳しい年代は今となってはいっさい定かでない。≫

 また饅頭屋の青木家については、中山さんの著書の中で地元の郷土史家・加倉井健藏さんの『烏山風土記』(初版1965)に記載があるとの指摘があります。あとで確かめたところ、≪柳田家の墓所の管理を依頼されていたのは烏山町仲町に住んでいた青木という饅頭屋さんだったらしいが、その青木さんという人は現在は烏山には不在で、今の榊原自転車店が、もと青木さんの住んでいた場所だったようだ。≫という記載がありました。

 大正8年当時の絵図の一部だけでは、叶屋の跡がよくわからずウロウロしていると、食料品の店「中田屋」の女性と目があったような気がして声をかけてみました。そしたら店の中に招いてくださり、まもなく戻ってきた息子である社長の岡田善?さんにお話を聞くことができました。岡田さんは柳田の烏山訪問については既にご存知でした。叶屋はかつて地元では「三階叶屋」とよばれ有名な旅館だったこと。新井万吉商店で買い取ったあとは、更地になりそこを布団屋と履き物屋に貸していたこと。その後どちらかが廃業し店のあとが現在駐車場になっているとのことでした。岡田さんのおかげで、私たちは二軒の跡とも確認することができました。

 また、岡田さんの店・中田屋についても、近江出身の先祖が江戸期に創業し、明治初年に現在の地に移転したこと、烏山は何代か前を辿ると移住者が多い町であることをお聞きしました。移住者によって街が作られるという話はとても興味を覚えました。岡田さんに教えていただいた『写真で見る烏山町 明治大正昭和』(烏山町教育委員会ほか 1986)には、当時のこの辺り「十文字界隈」の絵と中山さんの引用に登場した郷土史家・小池光郎さんのエッセーが載っていました。それによると、

 ≪烏山町の商店街の発展は、十文字から始まったといっても過言ではないと思う。それほど街の発展に重要な通りであったし、思い出の街でもあるので明治。大正にかけての十文字かいわいについて話をしてみたいと思う。/当時の仲町十文字は、東西南北に走る街の中心であり、また民衆のよりどころでもある八雲神社が鎮座していた。更に、那珂川の水利によって水戸方面から商人(あきんど)が往来した。河東の農家からは、紙や、たばこが盛んに入ってきたので、鍛冶町(かじまち)通りから仲町十文字にかけて、それらの品物を扱う店が多くなり、次第に人馬の交通でにぎわうようになった。それに伴って、飲食店・呉服店・雑貨・小間物店が繁盛してきて、十文字かいわいは、名実ともに烏山の中心街へと発展して行ったのである。/その発展の原動力となった、大きな力は、とりわけ他県から烏山町に定住した人たちで、そのねばり強い商法によって商いを広めていったのである。≫

と記されています。その絵図も該当箇所を中心に紹介しておきましょう。タイトルは「明治末期から大正初期の十文字かいわい」です。画面上方やや右寄りが北の方角です。

この仲町十文字界隈の様子は、もう一つの資料・城北逸史編著『栃木県営業便覧 全』(東京全国営業便覧発行所 1907)でも確かめることができます。この明治40年発行の書物は商業取引の便宜のために栃木県内の有力都市における商店配置を記したものですが、ここでも「叶屋旅館」と「青木菓子店」を見つけることができました。中田屋さんもです。前二著と合わせ宇都宮の県立図書館で閲覧することができます。

 柳田国男は明治39年の4月2日には中心街の一角の叶屋旅館に宿を取り、夜には付近を散歩します。おそらく商店街の夜はひっそりしていたでしょうが、3日の朝には賑わいの始まりを見聞しながら喜連川に出立したことでしょう。さて、柳田家の先祖の地と思われた栃木県内の、河内郡上三川、真岡、芳賀郡益子、市貝、那須郡烏山を訪ねた「柳田採訪」という旅は柳田国男にとって何であったのでしょうか。

 まず、この旅が養嗣子となって入籍した柳田家の先祖探しであることです。中山?一さんはそれにとどまらず、この旅が柳田の「日本人にとっての神」を確かめ、のちに立ち上げる日本民俗学の原型のようなものだったという重要な指摘をしています。柳田自身も「芳賀郡と柳田氏」(1931)で、先祖探しが単に家の歴史をたどる興味に尽きるものではなかったことを述べています。

 ≪過去三十年に近い私の穿鑿は、家の歴史としては教うる所がまことに乏少であったが、その代りには新たにいろいろの興味ある問題を私に授けた。一つの門党が戦乱の世を経過して永く絶滅せず、さきざき村を開き小家の数を増して来たのには、一種天運というべきものもむろん恵んだのであろうが、別にそれ以外に自分の力、有利なる生活方法のこれを導くものがあったことを想像せしめる。しからばその柳田族の伝統は何であったろうか。私はこれをもって田園の愛着、もっと平たく言うと百姓が好きであり、従うて農のわざが上手で、あるいはまた戦争が不得手であったことではないかと思う。烏山に墓のある私の家の元祖は、親兄弟とも離れてぽつんと新たな寺に埋まっているのを見ると、きっといずれかの家の次男坊、この辺でいわゆるオンジであったろう。系図をもつほどの村々の旧家では、江戸幕府の世の中になって、武士になるか百姓を続けるか、二つに一つを択ばなければならなかった際に、総領が出でて主取りして庶流を故郷に残したものと、自身は槍鉄砲を断念して農民になりきり、弟や末の子を武家奉公させた者と、流儀が二通りに分かれていたようであるが、柳田の家風はその第二の方でなかったかと思う。しかもその次男三男も全部が皆侍になろうとせず、中には新地に移住していわゆる草分けの農家にさえなっているのは、よくよく結城の落城にたくさんの首を取られた経験に、懲りていたのではないかとさえ思われるのである。≫

 ふるく柳田一族が侍としての仕官よりも、田園への愛着をもって新天地における草分け農家になってきたという伝統に共感をもっていることが読み取れます。共感を確かめているようでもあります。このような柳田の先祖探しは喩えてみると、どのような表象になるでしょうか。私には、一本の大河をその源流を求めてさかのぼる旅に似ているような気がします。それは周辺の村々の歴史・家の歴史を辿りながら水源のありかを探り、どのような水なのかを確かめる行為だといえます。しかし柳田にとっての大河とは、もともと血縁ではなくそれまで全く関係のなかった家筋です。これまた喩えてみれば、水質や地勢のまったく異なる大河を探訪することに似ています。その際、柳田はその水に共感し親しみを抱いていることに留意したいと思います。

 この喩えをさらに抽象化してみると、結局柳田の先祖探訪の旅は、自分が新しく所属するようになった場所をどう合点していけばいいのか、その道筋を示唆しているように思えます。しかも共感的なそれです。いいかえれば、あるべき異郷理解の道筋ということに帰着します。


先祖への変わらぬ思い 柳田国男

2012-11-27 14:28:43 | 旅行

 前回は、柳田自身の烏山体験を綴った明治39年、昭和6年、昭和34年の三つの文書において、藩主に随い飯田藩へ転住した柳田家の烏山墓所を青木家が代々守ってきたという話は誰のものかという点で、くいちがいがあることを指摘しました。常識的に考えれば、いかに記憶力抜群の柳田でもこの56年間に記憶が変わったのだと考えて、まずまちがいないと思われます。それよりも、私は柳田がそのように推測した理由に興味を覚えます。

 明治39年4月3日の早朝、前日に過去帳で烏山柳田家の戒名を発見した柳田らは、境内を歩き回り思いがけなく住職代々の墓所に隣接して建っている柳田家の墓石を発見します。住職に問いただしてみるとそこは地元青木家の墓所だと指摘します。そして青木家は代々善念寺を支えてきた有力檀家だから大切にせよと寺に伝えられていると説明します。柳田の推測・判断が働くのはここです。すなわち、柳田家の古い墓石が青木家の墓所だと見なされてきたということは、「我家の先祖烏山を去るに臨み、管理をこの青木家に託せしものと思われ」(明治39年4月3日の日記)たという推測を生み出しました。もっともな推断だと思われます。すでに無縁仏として合祀・整理されていてもおかしくない近世初期の先祖の墓が、目前に残っているとすれば、そこを墓所としていた青木家が守ってくれてきたのだと考えても不思議ではありません。当時の柳田において、先祖の墓を見つけたことの感激と守って来てくれた人々への感謝が同時に起ち上がったはずです。このように考えれば、昭和6年の一篇「芳賀郡と柳田氏」で烏山を去る柳田家が青木家に墓守を頼んだという記述も、ついには昭和34年の『故郷七十年』における青木家が代々そう伝えてきたという記憶の造形も理解しやすくなります。すなわち墓所を見つけたときから56年間、先祖に対する変わらぬ思いのしからしむところではないでしょうか。

 これほどの、先祖への変わらぬ柳田の思いの底にあるのは何でしょうか。後藤総一郎さんは『柳田国男伝』(三一書房 1988)において、松岡国男が柳田家の養嗣子になった動機を三つあげています。一つは、相次いで両親を失って寂しい思いをしていたこと、その根底には少年時代から一家離散ともいえるほどの半漂泊民的存在として成長してきた彼にとって結婚は「やさしい束縛」であって、社会的に根の広い基礎である家庭を求める感情が存在していること。二つは柳田家の四女・孝に惚れたこと。三つは養家の柳田家への信頼です。たとえば代々の中には、飢饉にあえぐ国元・飯田を顧みない藩主を諫めるために自死した五代柳田為美のような人物がいたことへの心嬉しく思う感情と尊敬の念を抱いたことです。飢饉を絶滅するために農政学を学んだ柳田にとっては当然すぎるほどの心持ちでしょう。

 さて私たちはやっと探し当てた善念寺を訪ねました。この浄土宗のお寺には、正面からは本堂全体が見えなくなるほどの幼稚園が建っていました。本堂も改築中らしく、「柳田工務店」の工事用車両が入っています。さっそく住職にお話を伺ったところ、まず青木家の墓所と見なされていた柳田家の墓はもちろんありませんでしたが、私たちは青木家の墓がないかを尋ねました。住職は青木家の墓所は二つ、あるにはあるがどちらも「饅頭屋の青木家」のものではないとのことでした。柳田家の墓所についてもいつ、どこに合祀されたかも覚束ないとのことです。ご住職は31世を継いだばかりの様子でした。ならば、と代々の住職の墓をお参りさせていただきました。真新しい墓碑にはくっきりと代々の住職名を刻まれていました。柳田らが尋ねたのは明治39年4月2日~3日でした。27世の住職は明治39年1月16日に亡くなっていますから、跡目を継いだばかりの28世住職(大正13年没)が、柳田らの訪問を受けたのでしょう。この方は善念寺に飯田柳田家に繋がる墓石の存在を知りませんでした。ただ、そこを代々の住職が粗末にしてはならぬと言い残してきた青木家の墓所だと認知していただけです。

 その後、柳田の養父母が善念寺を墓参に尋ねるのですが、この時はもうすでに烏山柳田家の墓所は整理してしまったと言われ憤慨して帰ります。そして後に東京谷中に烏山柳田家の墓を改葬することになります。この改葬の年月日がわかれば(谷中墓地で確認できます)、養父母の墓参時に対応した善念寺の住職が誰だったかが特定できます。なぜこんな些細な問題にこだわるのかと言えば、明治39年の先祖探訪に出かけた柳田は当時法制局参事官であり農商務省の嘱託です。自分の墓所を探しに行くのに身分を隠す必要もないことです。ならば当時の住職が、訪ねてきた柳田の身分を知ったうえで、しかも東京の柳田家になんの連絡もないまま烏山柳田家の墓所を整理してしまうでしょうか。この先は、養父母が谷中に改葬したのがいつだったかを確かめてから考えてみることにします。

 


栃木・烏山 柳田国男の先祖探訪

2012-11-24 09:38:45 | 旅行

 今回は、柳田国男全集の編集委員で古くからの全面教育研究会同人である小田富英さんとの宇都宮・烏山への11月19日~20日の小さな旅です。目的の一つは、小田さんがこの度作新学院大学に赴任したので、宇都宮市郊外のキャンパスまで研究書籍の運搬をお手伝いすること。二つは明治39(1906)年4月1日~3日に柳田国男(旧姓松岡)が、甥の谷田部雄吉をともない養嗣子先である柳田家の歴史を調べに出かけた「柳田採訪」の旅を小田さんと追ってみることです。それは柳田が満31歳になる年のことでした。こちらの時間がなくて4月2日の夕方から3日午前中にかけての烏山での行動を追うことしかできませんでしたが、いくつかは現地に行かねば分からなかった、といえる旅でした。東京小金井の小田さん宅から大学まで車でおよそ3時間かかりました。

 まず、小田さんの真新しい研究室にたくさんの書籍を運びましたが、大きな本棚にはまだまだ余裕がありました。天気の良い日には窓からは正面に筑波山が見えるそうです。隣県茨城に出自をもつ小田さんは小金井小田家の3代目。ここに赴任することになにか因縁めいたものを感じていたようです。ところでこの大学、今年で創立20周年というまだ新しい大学ということで、いまでも広いキャンパスの校舎内外はとてもきれいです。私が70年代に通った大学とは大違い。また、すれ違う学生が見知らぬはずの私に挨拶をしてくれます。またエレベータではおそらく職員の方でしょう、意外にも宇都宮は寒いところだと話しかけてくれる、とても気さくにふるまえる大学のようです。周囲の自然環境がそうさせるのかも知れません。

 さてここから烏山市まで出かけます。およそ30分ぐらいでいけそうな距離なのに、13年前の地図をたよりのドライブだったのでだいぶ迷ってしまいましたが、ようやく市内の柳田家の菩提寺である善念寺に到着です。ここは「お寺の多い町だ」とは、道を教えてくれた新聞販売店やガソリンスタンドでの地元の声でした。柳田国男は明治34年満26歳になる年に柳田家の養嗣子として入籍します(当主柳田直平の4女孝との結婚は明治37年)が、この柳田家は旧飯田藩士です。つまり柳田家は寛文12(1672)年に、領主・堀家の下野烏山藩から信州飯田藩への移封にしたがい、同じく烏山から飯田に転住したのです。飯田に移ってからの墓は現在の飯田市で確かめられます。明治39年の烏山来訪は烏山時代の柳田家の探訪だったのです。同年の柳田の日記から烏山採訪の箇所を拾ってみます。

≪四月二日、月よう、朝雨少し降り後晴る。昨日よりは寒し。(中略)烏山の町には五時頃到着、まず天性寺といふ禅寺に行きて、浄土宗の寺を尋ね、その教へによりて善念寺といふに行きて見る。前年火に遭へりとて焼け残りたる過去帳少しあり。それを出させて見るに、我家の旧記中の先人たちの名皆録せられあり。年来の望みを達したれば、明朝回向を頼むことにして帰り来る。墓石は皆無くなりたりといふ。旅館は叶屋、夜に入り散歩し、帰りて按摩をとらせて寝る。≫

≪四月三日、火よう、曇 早天に再び善念寺に行き、庭内をあるくうちに、ゆくりなく家の墓数基を発見す。代々の住持の墓と接して、かなめ垣にて囲われてあり。これは元町の関谷、又青木といふ饅頭屋の墓所と心得居たりといふ。我家の先祖烏山を去るに臨み、管理をこの青木家に託せしものと思はれ、その青木は今大に微禄せるも、寺に功労ある家なれば粗末にしてはならぬと、代々住職の言ひ置きなりといへり。回向はてゝ後、寺僧の案内にてその家の行き見るに、今は街道ばたの茶店のやうなる小家にて、四十余りの後家一人住し、娘のみ三人ありて皆他処に行きてあり。此婦人の代も夫婦養子にて、仏壇の位牌も別に今まで改めて見たことが無かつたといふ。言ひ伝へも書き付けも無しとのことなり。先々代は婆一人のところへ来たといへば、よくよく昔の事が幽かになつて居たものと思はる。/九時にこゝを引上げ喜連川に向ふ。此あたり一体に、漆を掻いた後の古木を、門の柱などに使ふ風習あり。黒い横筋のある木にて最も趣きあり。道々の村に梅多し。けふはちやうど散りの盛りなり。≫(『定本柳田國男集別巻4』。漢字と仮名遣いの一部を現代風に改めた。)

 烏山を後にして喜連川に向かう途中での漆の見聞について記してありますが、これは今回の「採訪」が、単に柳田家の先祖探しだけでなかったことを示唆しています。「柳田採訪」を追体験した中山一さんの労作『追憶の柳田國男 下野探訪の地を訪ねて』(2004 随想舎)に詳しいのですが、中山さんは烏山の東を流れる那珂川左岸の八溝山地が古くは、国内で最上品質の漆の山地として知られ、その良質な漆を求めてシーズン中は遠くから漆を取るために、ここ烏山には大勢の職人が出入りしたことを調べています。つまり柳田はこの旅で烏山の漆産業を確かめた旅でもあったことを示しているわけです。ところで、柳田国男は生涯に三回、この時の烏山体験に触れています。明治39年採訪から25年後の「芳賀郡と柳田氏」(1931)では以下のように回顧しています。柳田満56歳になる年のことです。

≪・・・私の家の、ある時代に宇都宮殿の家来であったことだけは、ほぼ確実な証拠がある。家で大切にしているたった一通の古文書は、宇都宮最後の主たる国綱公の感状であった。牛込の宅に蔵ってあるからちょっと出して見られぬが、年号は天正であったと記憶する。何とか阪の働き比類なく、満足に思うというような文字があって、宛名は柳田監物となっている。この人が私の家の系図において、生死年月がわかっている最初の人だから、まず自分としては元祖と心得ている。墓は烏山の善念寺という浄土寺に、つい近年までかなり立派なものが残っていた。それをまた私が行って発見したのである。この柳田氏は後の主人堀美作守親昌に随うて、寛文十二年の閏六月に、烏山から信州の飯田に転住し、それから今日までずっと本籍を飯田に置いている。それがかく申す自分の家であった。始祖の監物は七十何歳まで長命したが、この時はむろんもう死んでいた。それと若干の族人の墓を、烏山の名門であった青木という家に託して去ったのであるが、後にこの青木も衰微し、私の家にもいろいろの事件があったために交通が絶えて久しく埋没していたのである。それが二三基の墓石の発見と寺の焼け残りの過去帳によって、一々家にある位牌と引き合せることができ、いよいよ西暦一六七一年以前の数十年間、私の家が烏山にあったということが確かめられたのである。≫(文庫版『柳田國男全集 第31巻』)

 最後の回顧は『故郷七十年』(1959)のなかで述べています。柳田満85歳になる年のことでした。

≪柳田の家は私の養父に当る人もやはり養子で、先祖の墓を何かと気にして過ごしていたが、忙しくて見に行く折がなかった。柳田家は寛文年間まで下野の烏山にいたが、飯田の脇坂家が播州竜野へ移った後、堀家にしたがって飯田へついて行った。それ以後の墓所は飯田にあるが、それ以前の古い墓が烏山にあるにちがいないという気がしていた。しかし父はどうしても行く暇がないので、たしか日露戦争のすぐ後であったと思うが、私と、今谷中に葬られている甥の谷田部雄吉と、二人で出かけていった。/寺にゆくと、「どうもお気の毒様でした。寺では整理の必要があって、無縁仏を片付けましたので、おそらくお宅様のもないでしょう」といいながら、「火事がありましたが、過去帳はこれだけ残っています」と、過去帳を出してくれた。それを繰ってみると、先祖の戒名がいくつも出てくる。「ここにありますよ。これは私の家の戒名です」こうして戒名は見つけ出し、翌日はお経を上げてもらうことになったが、肝腎の墓石がない。「墓石がなくてはねえ」と甥と話しながら、翌朝もう一度寺に行ってみた。/住職が読経の仕度をする間に、墓石のことを気にかけながら境内をぐるぐる歩いていると、お寺の代々の住職の墓というのがあり、そのすぐ脇をふっと見ると、探していた私の家の戒名がずっと並んでいるではないか。さっそく和尚さんを連れてきて見せると、「これは青木という、この地でいちばん主な旦那の墓です」という。しかし墓石に柳田と書いてあるのだから間違いはないということになり、お経を上げて大変成功して帰って来た。青木というのは町の饅頭屋で、念のため訪ねて行ってきくと、何でも先祖が柳田家から頼まれたというので、代々墓所を守ってくれているということだった。長い間の好意に感謝し、今後のことも頼んで帰ってきた。/その話が伝わったので、旧藩のお爺さんたちが大変喜んでくれて、羽織袴でうち連れてやって来、「承ればご先祖の墓所がお見つかりになりましたそうで・・・・・」と、わざわざあいさつしてくれたことを憶えている。その後父が母といっしょに烏山へ墓参に行ったところ、驚いたことに、墓がないのである。寺で処分してしまったのであろう。父が非常に憤慨し、夜も眠られぬくらい怒ってしまった。「わしはこっちへ立て直す」といって、谷中へ代りの墓所を建てたのが、現在の墓である。父にとって烏山というところは、長い間の先祖の墓所を保存してくれて、じつに有難い所であったのが、急に印象の悪い所になってしまったらしい。もうそれっきり一族のものがだれも行かないのである。≫(『柳田國男全集 第21巻』)

 以上、三つの烏山体験の記述を比べると、疑問がわいてきます。それは飯田に転住したあと、柳田家の墓所を青木家が代々守ってきたという話は誰が述べたのかという点です。明治39年の日記では、「我家の先祖烏山を去るに臨み、管理をこの青木家に託せしものと思はれ、その青木は今大に微禄せるも、寺に功労ある家なれば粗末にしてはならぬと、代々住職の言ひ置きなりといへり。」と、ここでは青木家が飯田に去ったあとの柳田家の墓所を守ってきたという話は柳田国男の推測です。つぎに一篇「芳賀郡と柳田氏」では、「それと若干の族人の墓を、烏山の名門であった青木という家に託して去ったのであるが、後にこの青木も衰微し」と記し、去った柳田家が墓守を頼んだように読めます。最後の『故郷七十年』の記述は、「青木というのは町の饅頭屋で、念のため訪ねて行ってきくと、何でも先祖が柳田家から頼まれたというので、代々墓所を守ってくれているということだった。長い間の好意に感謝し、今後のことも頼んで帰ってきた」とあるように、青木家の先祖が去って行く柳田家から頼まれたということを、当時の青木家が伝承していたことになります。しかし、これは明治39年日記の記述と矛盾します。青木家にはそういう言い伝えがなかったと記しているからです。(続)

 


吾野・坂石町分 明治43年の山崩れ

2012-11-20 22:10:23 | 旅行

 「第1回飯能ものづくりフェア」は18日で閉幕でしたが、そのとき会場でいただいた「吾野宿歴史散歩」(発行:吾野宿再生と吾野を語る会)というチラシを読むと、柳田国男が短篇「村の址」で書いていた、明治43年の大雨による坂石町分での山崩れ(土石流災害)についての石碑があることを知りました。またフェア会場に居合わせた飯能市の観光協会の方に、明治43年の山崩れについて訊ねてみたところ、名栗の穴沢地区でも大きな犠牲が出て慰霊碑があるとのことでした。名栗訪問は後日に期し、まず吾野に行ってみることにしました。吾野宿(坂石町分)とはどういうところでしょうか。さきの「吾野宿歴史散歩」にはこう説明があります。

≪平安時代、すでに武蔵野国国府が東京府中と現在の知々夫(秩父)に国府を置いたために、秩父街道が山岳宗教関係者らにつかわれ、吾野も利用されたと思われます。その後、鎌倉時代になると武蔵武士の活躍があり、この坂石の地も頼朝の御家人として源平合戦一ノ谷の戦いで平氏の大将、平忠度(ただのり)の首を取り「忠澄の勇」として讃えられた岡部六弥太忠澄の領地となりました。さらに江戸時代、徳川幕府編纂の「新編武蔵風土記稿」によると、元禄13年坂石村から分郷して民家29戸秩父街道に沿って生活し、馬継ぎの宿場なれば町分と称するとあります。秩父街道の中心は大宮郷であり、吾野道は吾野宿が終点であり、江戸に向かう場合は起点でもありました。秩父観音参り、秩父三山(秩父神社、宝登山神社、三峯神社)参りの道として、また秩父絹の商取引の道として利用されました。さらに、この道に沿う高麗川によって吾野の材木は、西川材として江戸に運ばれました。栄えたときは商店も多く、正月には三河万歳、座敷万歳、角兵衛獅子、瞽女(ごぜ、目の不自由な女の人)の三味線唄、ヨカヨカ飴売り夫婦が来ました。今、殆どの家は一度も途絶えることなく、人々は先祖伝来の土地に住み続けています。≫

 坂石町分に集まる漂泊の芸人たちにも興味を覚えます。それより柳田の「村の址」には災害で跡形もなくなったり、疫病で消えてしまったりした村が数多く紹介されていますが、坂石町分では「今、殆どの家は一度も途絶えることなく、人々は先祖伝来の土地に住み続けてい」るというのですから、すごい所です。また柳田は、同じ短篇で「吾野の宿は昔の秩父街道の大駅である。今は汽車のために旅客を奪はれたけれども、絹と杉材との取引が盛な為に、尚市場の面目を失つては居らぬ」と、明治43年当時の坂石町分を記述していますが、「市場の面目」とはどのようなものだったのか、『飯能市史 資料編Ⅵ 民俗』(1983)から拾ってみます。

≪坂下町分には、明治時代から大正末期まで市がたった。家並みと道路との間が4m~5mもあいているが、これはその昔、麦干しなどの場所として、ことさら空地を作っておいたものである。このゆとりを利用して市がたった。/戸板を並べ、その上に品物を陳列し、日除けにはテントを用意した。ここへの品物の運搬は主に馬力輸送であった。店を出す者は大体は飯能町からだが、越生、小川からも来た。現在山手町のかじ音さんなど、この市日に売る品物を、前日まで運送で送って、預けつけの家に届けておき、当日、なべ釜、包丁、鎌、鍬などを売ったという。/盆前の市が7月9日で、坂石町分の市はにぎわった。大体、古い時代の買物の目安は「ぼん、くれ」で、そこまで待っていたわけだから、年2回の市では買いたい物がたくさんあった。/とくに12月24日の暮れの市はにぎわった。吾野谷津の一番奥の正丸とか、高山、風影、長沢、井上あたりからやってきた。「きょうは町分の暮れの市だから、山仕事も早仕舞いだ──」と言葉を交わしたという。/そして盆は盆仕度の物、暮れは正月用のものを一ぱい並べて客を待った。/なんといっても暮れの市は盛んで、魚の干物、鮭、ます、神棚用の物、お勝手道具、反物、衣類、はき物、子供のおもちゃ類まで多種多様だった。/暮れの市の次は2月28日のひな市。次は4月28日~29日の5月節句の市だった。≫

 ハレの日を楽しみに暮らしていた山間の人々の姿が目に見えるようです。でも、来て欲しくないハレもあります。それが災害でした。かつての山崩れはどうなっているのでしょうか。飯能市の運動公園から吾野までは30分もかからなかったと思います。高麗の巾着田を横目で見ながら秩父往還とよばれた国道299号を走って行きます。ややしばらくして大きく右にカーブする坂道で「坂石町分」という表示を目にしました。まもなく国道299号線のバイパスと旧道の分岐点にかかりました。「吾野宿まちなみ展覧会 2012、11/18──25」という看板も見えます。街並みそのものが博物館という発想はちかごろよく見かけます。ハイキングコースがあるようですが、ともかく駐車場を探さねばなりません。通りで見かけた人に吾野駅まえにスペースがあることを聞きあちこち迷いながら吾野駅前に到着。駅前のお店の方に訊ねてみると、駅前は「駐車禁止」と釘を刺されてしまいましたが、明治43年の山崩れ現場の貴重な写真を見せていただきました。ほんとにすごいものです。まるで急傾斜のスキー場、いやそれ以上でしょう。岩土が大きく露出した現場が生々しく映っていました。その際平成11年8月におきた駅裏の山崩れの話も詳しく聞かせてもらいましたが、これは又の機会に紹介したいと思います。とにかく車で行く方法を教えてもらい、明治43年の山崩れ現場・大高山に向かいました。飯能市街地の方向にすこし逆戻りして細い橋を渡り山道を登ります。いくつかカーブを過ぎたところでやや森林が少ない空間に出ました。ここに小さな「土石流災害之地」と刻まれた石碑が建ててありました(写真右)。裏の碑文にはこうあります。

≪明治四十三年八月十一日 土石流が坂石町分を襲った 大高山から崩落した石塊は 百年を経た高麗川に今でも残る だが 濁流の削跡は万緑の森林に甦った 自然の摂理を後世に伝えるために この碑を建立する /平成二十二年八月十一日 /緑と健康の会 代表 大野 孝≫

 じつに百年たってからの建立です。犠牲者の数や被害状況は刻まれておらず、簡潔な文章です。このことがかえって、今に生きる人々が何を伝承しようとしたのか推察することができます。百年というときの長さを軽視することは困難なようです。車をところどころで停車させながら、崩れた現場らしき場所を観察してみますが、「濁流の削跡は万緑の森林に甦った」とあるように、たしかに砂防ダムが斜面に紛れて見える周りは森林に囲まれています。

今度は国道に出て、高麗川に崩れ落ちた辺りに見当をつけてみます。写真ではわかりにくいですが、たしかに並の大きさとはちがう巨大な岩塊がありました(写真右)。

 

 

帰途について、途中「かたくりの郷」でおそい昼食にしました。ここは「揚げたて」を出すのが好評とかで、妻はコロッケ定食。私は地元産の椎茸そばと「みそポテト」をいただきました。一口サイズに切られたジャガイモは天ぷらのように揚げられていて、甘味噌がかけてあります(写真左)。コロモ付きのいも田楽は初めてです。味噌がジャガイモによくからむようにという工夫でしょう。焼いてはいませんが、これも「いも田楽」の普及形態だと思いました。糖質を気にしながらも完食してしまいました。親切な店の人にコーヒーまでごちそうになって、飯能市の郷土館に向かいました。


水と土と木 飯能を行く

2012-11-17 08:59:04 | 旅行

 

第1回飯能ものづくりフェア会場

昨日(11/16)は良い天気でした。知人から知らせを受けていたので、「第1回飯能ものづくりフェア」(11/16~18)に出かけてみました。飯能は川越の自宅から車ですぐ近く。フェアの場所は入間川河川敷の岩沢運動公園。この催し物は「西武線沿線サミット協定記念事業」としての企画です。これは「西武線沿線サミット」という飯能市、東京都豊島区、秩父市、西武鉄道が連携・協力して地域の魅力を高めることを目的に今年2012年5月20日に結ばれた協定です。なるほど、豊島区は池袋に西武池袋線の始発駅がありますし秩父市は終点です。その中間の飯能市は古くから木材取引の市場町として発展。現在は繊維・電気機器工業もさかんだとか。また東京の衛星都市化が進行して人口も約8.5万人。たしかに私の通勤していた東京都瑞穂町の職場にも飯能から通う同僚が5、6人はいました。

 地図を広げてみると、飯能市の市域は西に大きく口を開き、尾びれを東南に向けたオコゼのようです。毒のある背びれにあたるところに北から順にときがわ町、越生町、毛呂山町、日高市と接しています。腹の部分は東京都青梅市、尾びれは狭山市と入間市に接しています。オコゼという魚は奇っ怪な形をしていますが、山の神が好物とする魚だとされています。大きくあいた口が西の秩父山地を向いていて、妙に納得してしまいます。飯能市には大きな川が二本、西北から東南方向に流れています。北側を流れる刈場坂(かばさか)峠を源流とする高麗川は、日高市の高麗郷にあるヒガンバナで有名な巾着田あたりで北東に流れを変えて行きます。南側には、名栗渓谷に集まった水が入間川となって飯能の市街地を流れていきます。飯能の街中は入間川のつくり出した河岸段丘と扇状地の要になる場所、広く武蔵野台地の一つの始まりを構成する空間ということが出来るでしょうか。

 「第1回飯能ものづくりフェア」会場の入間川河川敷の岩沢運動公園は入間川が大きくカーブする内側に、外側は段丘になっていてここに市民球場や体育館やサッカー場のある阿須(あず)運動公園があります。なかなか立派な施設に見えます。入間川を挟んで運動公園が二つもあります。隣接するのは駿河台大学の大きな校舎です。このあたりの西側に鉄橋があり、八高線に乗ると入間川が大きくカーブする光景を眺めることができます。八高線は八王子から高崎までの路線ですが、どこを走っていても眺めていて飽きない景観が続きます。その中でも入間方面から山間を抜けた時に広がるこの鉄橋からの眺めが最高です。今回初めて逆に入間川からこの鉄橋と背後の山並みを眺めました。やっぱりいいですね。飯能を「森林文化都市」と自称したい気持ちがわかります。残念なことにいい眺めだと思ったときに限って写真に撮ることを忘れたり、撮影ポイントが得難かったりします。でも、いいのです。心象はしっかり刻まれています。欲しいのはいいカメラではなく、心象風景を表す言葉です。

 さてフェアです。 チラシで紹介され出店した工房を分類すると、金工・版画その他が2店、染色工芸が2店、ガラス工芸が1店、木工芸が8店、陶工芸が21店です。陶工芸が圧倒的です。21店のうち飯能市に所在のある窯元が9店、のこりは隣接・周辺の秩父、入間、狭山、川越。東京からも東村山、あきる野、瑞穂。遠く山梨県上野原からも参加しています。やはり飯能を中心として良質の粘土がとれるのでしょうか。聞いておけば良かったと後悔しました。次は木工芸です。全8店の内、6店が飯能市所在の工房です。残りは入間市、東松山市です。ああ、やはりと感じました。この「ものづくりフェア」から飯能の印象を絞れば、入間川や高麗川の水、それに運ばれる森林の樹木(杉材)、そして粘土の三つになります。フェア会場を一巡して心に残ったのは「名栗カヌー工房」と、目的にしてきた「拓蔵窯(たくぞうがま)」です。カヌー工房は以前から関心がありました。真っ直ぐな板を曲げてつくり出す曲線が好きなのです。初めて写真でしか見ることのなかった杉材を使った実物をさわることができて感激です。もってみると意外に軽いものです。またここではカヌー製作のを教えてくれる工房であることを知り、すこし心を動かされます。でも、もし出来るのなら私がやってみたいのは和船です。

 もう一つは、旧知の石毛拓蔵さんの「拓蔵窯」です。石毛拓蔵さんといっても今回で二回目です。ずいぶん前に川越での個展で大皿を購入してからのファンなのです。色合いも手触りも、重さもお気に入りの一品でした。今回はコーヒーカップがお目当でしたが、並べられた作品を眺めると以前と違った印象です。緑の色合いが混じったものが増えています。わけを訊いてみると、いま「織部」をいろいろと試しているとのこと。陶芸に無知な私は何のことかさっぱりわかりません。あとで調べてみると古田織部の創案した「織部焼」のこと。織部は、安土桃山時代に信長・秀吉に仕えた三万石級の大名で千利休の高弟であること、関ヶ原では徳川方につき、のちに徳川秀忠に茶の湯を教えたこと、大阪冬の陣で豊臣方に内通しているという疑いで家康に切腹させられたことを知りました。また安土桃山という時代は信長始め文化に深い関心を抱いた権力者によって革新された時代だったことも知りました。

皿

 以前、私にギターを教えてくれた若い同僚がギターを購入するときには、はじめに値段とかメーカーとか知るよりも、その商品(作品)と「目が合う」ことが大事だと教えてもらったことがあります。それ以来、改めて何か購入するときにはこの原則を思い出します。石毛さんの作品を眺めているうちに、目があったのは淺皿と深皿の組み合わせです(写真左)。一緒に行った妻はティーポットを選びました(写真右)。石毛さんは主に茶器を製作しており、今回は「ふだん使いの器」を中心にして出品しているとのことでした。家に帰ったらまずポットを使ってコーヒーをすすり、夕飯には煮物を皿に盛ろうということになりました。

 久しぶりにお会いした石毛さんは肌つやもよくお元気そうでした。全面教育学研究会では、かつて詩人の思想的直感とでもいうのでしょうか、鋭い批評で何度もどきどきしたことがありました。ときには悩みの相談にのっていただいたこともあります。穏やかに話される表情からは、≪「大震災・原発事故」後の、地方都市の「苦境の状況」を、少しでも明るい方向にシフトをきれるようにと、3日間ですが盛り上げていくつもりです。さらに、これを機会に第2回、第3回と、「ものづくりフェア」の継続恒例化をめざしたいと思います。≫と案内状にあったやや硬めの決意を伺うことはできませんでしたが、穏やかな表情からはかえってこのフェアに対する陶芸家らしい、じっくりとものづくりに向かう姿勢と同じものを感じました。(フェアは11月18日まで開催中です。)