飯田市にはたぶんほかの自治体にはないと思われる路地があります。裏界線(りかいせん)と呼ばれる裏通りです。前回紹介した飯田市の「都市復興基本方針」の「5.街路と街路の中間の裏通りに裏界線を設け、ここに幅員二メートルの道路を設けて防火活動に備える」に基づき、復興の区画整理の際に設けられた計画的な路地のことです。飯田市や信濃毎日新聞のサイトで写真が見られます。大火の際に、家屋が密集する地域では消火活動が及びにくかったこと、避難路の確保が困難だったことが最大の動機だと思われます。裏界線は、普段は生活通路として使われていますが、その地下には上下水道、電力、電話線など公共上必要な施設が埋設されているそうです。現在、「リンゴ並木」と並んで飯田市のシンボルとも宝とも言われる「裏界線」。その60数年の歩みは平坦ではなかったと思いますが、その一端を紹介します。
まず裏界線の数ですが、三石さんの記事(2009.3.5)では、都市計画でつくられたものは54ヶ所と記録されています。でも、前記の信濃毎日新聞サイト(2011.6.6)によると、市では58ヶ所と回答したとのことです。もしかして市街地の拡大によって増えているのでしょうか。よくわからなことです。ですが、私がリンゴ並木のある防火帯道路から出発して何本かの裏界線を歩いて見たときは、真っ直ぐに街路から街路につながっている通路もあれば、曲がり角を含むもの、細く感じるもの、見晴らしのよいものなど、場所ごとに異なっていて一様な施設空間という印象はありませんでした。このことから想像するに、この60数年のあいだに、裏界線を挟む家屋の老朽化にともなう改築・新築、あるいは大規模な再開発のなかで旧来の裏界線の処遇も問題になったと思われます。
三石さんの記事によれば、裏界線の取り扱いについて、1975年5月に、下伊那地方事務所、飯田市、飯田市鼎上郷消防組合の三者が協議し、以下のことが確認されています。
- 裏界線は建築基準法第42条の規定に基づく道路ではない。
- 建築基準法第52条「容積率」、同法第53条「建ぺい率」の算出にあたっては、従来の慣例により、裏界線の中心までの面積について、その地先敷地所有者に限り、緩和するものとする。
- 従来、軒出又は「出窓」等の突出物は許容される等、誤った解釈をしている向きもあるが、裏界線の目的から判断して、これは認めない。
- 建築物(塀を含む)にかかわりのない工作物についての突出等は、この協議とは別である。
- 建築物にかかわる裏界線の占有は認めない。
問題がなければ、このような確認事項を文書化する必要はないはずです。なんといっても60数年です。最初の目的を忘れてしまったり、誤解したりということは十分にありえます。三石さんは、連載記事「飯田大火とその復興──忘れてはならないこと」の本文を、次のように締め括っています。
≪文面から推測するに、区画整理事業終了後20余年が経過し、裏界線について誤った認識がされ、裏界線の上に建築されてしまうといった事態が生じ、関係者憂慮して取り扱いを明確にしたものと思われる。/市建設部によると、現在もこの協議書に基づき運用しているとのことだ。/私が調査したところ、残念ながら現在も、入口がふさがれたり建物に一部占有されている箇所も存在している。串原氏(復興当時の市助役)の嘆きもここにあったと思われる。/大火の復興の時に生まれた飯田のシンボルでもあり宝でもある「りんご並木」と「裏界線」を大切に後世に伝えたいものだ。≫
私は、裏界線を災害文化という文脈においてみたとき、先の「三者協議」で裏界線の取り扱いについての確認事項も、三石さんの連載記事も大変意義深いものだと考えます。その理由を述べます。
災害とは人間の暮らしに被害が及んではじめて成立する概念です。さらに被災した人間はその災害に再び遭わないように防災という考えを取り入れてさまざまな防火対策を講じてきたわけです。そのような人間の営みをまとめて「災害文化」とよびますと、災害・防災の記憶は後続する世代に伝えられてはじめて意味をもちます。これを伝承とも広義の教育とも、とらえなおすことができます。世の中に永く伝えられてきた文化にはそれなりの根拠があります。すなわち「ためになり(思想性)、役に立ち(実用性)、おもしろい(観賞性)」という「教育文化の三基準」が備わっていることです。
一つに裏界線の思想性とはどういうことでしょうか。まずは、「リカイセン」と聴いてその名称と本来の設置目的がわかるかという問題です。最近のだと考えられる調査資料があります。裏界線沿道に住む15人と、裏界線近くの通りの商店主3人の計18人にヒアリングをおこなったのです(小森谷奈月・薬袋奈美子「住民の計画的路地に対する意識と利用実態──飯田市・裏界線を対象として──」2010.9『日本建築学会北陸大会学術講演梗概集』所収)。それによると、≪裏界線の名称、目的共に認知している人は全18人中14人、名称を知らず目的は認知している人は3人いた。名称や正確な位置については十分に分らずとも、避難のための細い道があることはほぼ全員が知っていた。このことから、裏界線が多くの住民にとって「防災・避難経路」として認識されていることがわかる≫、と述べられています。
以上の裏界線沿道や付近の住民の認識実態に加えて、三石さんが地元メディアで、この60数年間における「裏界線に関する取り扱いの問題」を公表したのは、裏界線という災害文化に歴史性の厚みを加えたことを意味すると考えます。ただ大火の反省から裏界線が設けられたという記憶にとどまらず、60数年における住民の暮らしと町の未来(再開発事業)が密接にかかわっていたことを気づかせてくれるからです。いわば歴史的財産としての深みが増したのです。
地元では毎月第2日曜日に「モーニング・ウォーク」という飯田市を中心にした市街地を歩く活動がおこなわれています。これは誰でも参加自由なイベントです。参加者は、市街地を歩きながらやがて裏界線の存在とその意義に気づいていきます。この活動の代表者である牧野忠彦さんは次のように書いています。
≪このモーニング・ウォークで裏界線を歩くことにより、多くの参加者の方が、裏界線の歴史を知り、価値を感じ、大切さを学ぶことができたと思う。とかく、まちづくり、地域づくりは、「何かをしなければ」「どう活かすか」と言われ、難しく考えてしまいがちだが、まずは自分で歩いて裏界線の楽しさを知る、これだけでも十分に、裏界線を活かしたまちづくりだと思っている。≫(西村幸夫『路地からのまちづくり』学芸出版社 2006)
裏界線を歩くことの楽しさは災害文化の観賞性に棹さしています。またさきのヒアリングの調査結果を考慮すると、裏界線沿道や付近住民にとって、裏界線は日常の暮らしの一部であり、そこを歩いて利用しながらその設置目的などに通じてきたと考えられます。しかし、裏界線を知らない住民や旅行者にとってはどうでしょうか。定期的なモーニング・ウォークのもたらす意義は牧野さんが述べたように、小さいものではありません。ここには民俗伝承と同じ論理が見出せるからです。かつて文字をもたない時代に、必ず親から子へと伝えておかなければならない人生の大事な価値を、季節になるときまって訪れる鳥の鳴き声に託して物語ってきた「ききなし」という民俗の伝わり方と同じものが、この活動に流れていると思われるからです。「歩く」ことへの着目は意義深い発見だったと思います。
裏界線の災害文化としての実用性は、省略しますが、三石さんの連載記事で、過去の火事のさいに有効だったことが紹介されています。だとすれば、裏界線は、思想性・実用性・観賞性と三拍子そろった災害文化であることがはっきりします。60年以上も地元に伝わってきたのにはそれなりの根拠があったのです。