程野(ホドノ)を後にして、私たちは中郷(ナカゴウ)の正八幡社に到着。社殿は2002年に建て替えられたものだそうです。程野同様大きくてまるで倉庫のようですが、中をのぞいてみるとギャラリーがついています。大事な霜月祭に氏子だけではなくたくさんの観客が来訪するからでしょう。社殿の内側を囲むように貼られたたくさんの寄付者。昨年も県外からもたくさん駆けつけたことがわかります。
次は、上町(カミマチ)の正八幡社です。車を降りると宿場らしい街並みが見えます。おそらく秋葉街道を往復した「中馬」に従事した馬喰たちが一泊したところだったのでしょう。上町正八幡社の隣には祭り伝承館「天伯」が、むかいには山村ふるさと保存館「ねぎや」がありました。霜月祭りをまだ実見したことがない私は、迷うことなく祭り伝承館に入り、すぐに霜月祭りのDVDを視聴しました。ありきたりですが、この祭りが集落の人々を繋ぐ重要な神事であること、同じ霜月祭りでも集落ごとに少しずつちがっていることがわかりました。遠山郷の暮しを伝える展示物のなかで私の目を引いたのは、遠山郷一帯の大きな立体地図です。なんとこの地は中央構造線とかさなっていたことを学芸員の方にお聞きしました。中央構造線とは、九州から四国、紀伊半島、そしてこの秋葉街道(国道152号線)と重なりやがて関東へと続く日本最大の断層です。これはランドサッドからの日本列島の映像でもはっきりわかります。断層部分はもろく川に削られてまっすぐな谷になっているので宇宙からもよくわかるのです。自分が中央構造線の上に立っている不思議さに、しばし言葉が出ません。
この立体地図で最終目的地の下栗の位置を確認して先を急ぎました。上町からは細いのぼり道です。30分もくねくねと曲がっていったでしょうか。やがて視界が広がってきました。広々とした南向きの30度前後はあるだろうと思われる急斜面に家が点々と見えてきたと、思うやいなや、道は急に狭くなり民家が道路に迫ってきます。家屋は大きくなく、家のすぐ前に小型の耕耘機が見えます。民宿の脇をすり抜けて「下栗拾五社大明神」(写真上)下の駐車スペースに到着です。社殿の方から何人か続いて降りてきます。なにか神事があったようです。Mさんは顔見知りを見つけてKさんと何か質問しています。私は鳥居のまえの簡易水道に興味を持ちました。分水の施設でしょうか。近づいて耳をすませてみると流水の音がはっきり聞こえます。
あとでわかったことですが、下栗には、かつて標高の高いところから低いところにむけて井戸が三箇所しかありませんでした。その井戸を中心に上下左右に次第に住居が作られていったのですが、井戸から離れた家になるほど距離に加えて高低差も大きくなる理屈です。こうなると、水汲みは厳ししごとであり、水は大変貴重です。ですから集落の人々は、食事に使う水以外は雨水をため風呂や洗濯に利用していました。そこで1955(昭和30)年に、地区内の有志によって集落上部の沢から水をひいて各戸に水道を設けたのです(野中健一「長野県下栗地区における山村生活誌──昭和20年代の農耕を中心に」北海道大学文学部紀要 1992)。現在はこの施設に加え、新たに簡易水道が設けられたことを降りてきた集落の人から聞きました。その記念碑も見つけましたが、そこからの眺めがすばらしかった(写真下)。2500~3000メートル級の山々が並ぶ南アルプスです。 そう、ここは標高800~1000メートルですが、なんだかこちらの方が高く見えます。
さいごは地区の展望広場に行きました。ここは上村小学校下栗分校跡地だったところです。宿泊施設「高原ロッジ下栗」がありました。Mさんはここに何泊もしながら下栗の写真を撮り続けたそうです。私たちがふだん暮らす平地にはない魅力があったと思われます。考えるに、その一つは「天空の里」と呼ばれるほどの眺望の魅力と、そこで自然条件に適応した伝統的な農法で暮しを営む人々の暮しの魅力であったかもしれません。こういう場所で暮らすということは、日常的に鳥瞰的な視線と虫的な視線を養うということです。前者は世界を大所高所から眺め自分たちの暮しを客観的に見ることを可能にします。いわば大自然におけるちっぽけな自分に気付かされる視線です。後者は日々の暮しにおける細々とした仕事のなかで生まれる悩みや晴々した気分、苦労や喜びを体験する視線です。互いの視線を関連させながら日常的にノボリオリする認識活動こそ「山村の思想」をかたちづくる重要な契機なのではないでしょうか。そうであればこそ、ここ下栗の人々の郷土イメージがどのようなものなのか訊ねて見たい気がします。それはきっと「平地人を戦慄せしめ」(柳田国男『遠野物語』)るにちがいありません。
また地区の主婦7名が運営するそばを中心にした郷土料理店「はんば亭」があります。車も数台ありましたが、この店はもう閉店のようです。なにか、下栗特産のたべものを、と思っていましたが残念──。ところがありました。家具工房が一軒。ここから下栗芋を使った「いも田楽」のいい香りがぷーんとにおってきます。けれど、血糖値が気になります。決心がつかず、エーイ、と思って買ったのは、地元で出ているガイドブック『下栗の里を歩く』と絵はがき・・・。
この展望地には、二つ記念碑がありました。一つは著名な地理学者市川健夫さんが下栗を「日本のチロル」とよんだ石碑です。もう一つはじっくり碑文を読むことができなかったのですが、地区共有林野の問題が解決したことの石碑です(たぶん)。あとで調べて(星川和俊「天竜川・遠山郷の自然および土地利用の変容──序説──」『環境科学年報23』 2001)みると、遠山郷は遠山氏が滅亡していらい天領になり近辺の山々への立ち入りが禁じられます。しかしその後「百姓稼山」が認められ山の中腹から上は御料林として伐採禁止に、下は農民の共有林になりました。明治になると、地租改正により「百姓稼山」は公有地となり入山禁止になり、その周辺が民有地として認められました。その後、中腹以下私有地境まで上村を含めた5組合村の共有林になりましたが、そのあとが大変です。1879(明治12)年に、この山林を利用する権利(地上権)を有力者らに売却したために、権利が個人や企業を転々としました。村に地上権がないという時代が長く続いたわけです。それがやっと1962(昭和37)年に上村に地上権が戻ってきました。この83年にも及ぶ地区の人々の苦労は大変なことだったと思います。そういう歴史的に意義のある記念碑ではなかったでしょうか。
時計は16時をまわっていました。「いも田楽」に心を残し、下栗の里をあとにしました。