goo blog サービス終了のお知らせ 

尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

天空の里 遠山郷下栗

2012-11-07 13:06:48 | 旅行

 程野(ホドノ)を後にして、私たちは中郷(ナカゴウ)の正八幡社に到着。社殿は2002年に建て替えられたものだそうです。程野同様大きくてまるで倉庫のようですが、中をのぞいてみるとギャラリーがついています。大事な霜月祭に氏子だけではなくたくさんの観客が来訪するからでしょう。社殿の内側を囲むように貼られたたくさんの寄付者。昨年も県外からもたくさん駆けつけたことがわかります。

 次は、上町(カミマチ)の正八幡社です。車を降りると宿場らしい街並みが見えます。おそらく秋葉街道を往復した「中馬」に従事した馬喰たちが一泊したところだったのでしょう。上町正八幡社の隣には祭り伝承館「天伯」が、むかいには山村ふるさと保存館「ねぎや」がありました。霜月祭りをまだ実見したことがない私は、迷うことなく祭り伝承館に入り、すぐに霜月祭りのDVDを視聴しました。ありきたりですが、この祭りが集落の人々を繋ぐ重要な神事であること、同じ霜月祭りでも集落ごとに少しずつちがっていることがわかりました。遠山郷の暮しを伝える展示物のなかで私の目を引いたのは、遠山郷一帯の大きな立体地図です。なんとこの地は中央構造線とかさなっていたことを学芸員の方にお聞きしました。中央構造線とは、九州から四国、紀伊半島、そしてこの秋葉街道(国道152号線)と重なりやがて関東へと続く日本最大の断層です。これはランドサッドからの日本列島の映像でもはっきりわかります。断層部分はもろく川に削られてまっすぐな谷になっているので宇宙からもよくわかるのです。自分が中央構造線の上に立っている不思議さに、しばし言葉が出ません。

 この立体地図で最終目的地の下栗の位置を確認して先を急ぎました。上町からは細いのぼり道です。30分もくねくねと曲がっていったでしょうか。やがて視界が広がってきました。広々とした南向きの30度前後はあるだろうと思われる急斜面に家が点々と見えてきたと、思うやいなや、道は急に狭くなり民家が道路に迫ってきます。家屋は大きくなく、家のすぐ前に小型の耕耘機が見えます。民宿の脇をすり抜けて「下栗拾五社大明神」(写真上)下の駐車スペースに到着です。社殿の方から何人か続いて降りてきます。なにか神事があったようです。Mさんは顔見知りを見つけてKさんと何か質問しています。私は鳥居のまえの簡易水道に興味を持ちました。分水の施設でしょうか。近づいて耳をすませてみると流水の音がはっきり聞こえます。

 あとでわかったことですが、下栗には、かつて標高の高いところから低いところにむけて井戸が三箇所しかありませんでした。その井戸を中心に上下左右に次第に住居が作られていったのですが、井戸から離れた家になるほど距離に加えて高低差も大きくなる理屈です。こうなると、水汲みは厳ししごとであり、水は大変貴重です。ですから集落の人々は、食事に使う水以外は雨水をため風呂や洗濯に利用していました。そこで1955(昭和30)年に、地区内の有志によって集落上部の沢から水をひいて各戸に水道を設けたのです(野中健一「長野県下栗地区における山村生活誌──昭和20年代の農耕を中心に」北海道大学文学部紀要 1992)。現在はこの施設に加え、新たに簡易水道が設けられたことを降りてきた集落の人から聞きました。その記念碑も見つけましたが、そこからの眺めがすばらしかった(写真下)。2500~3000メートル級の山々が並ぶ南アルプスです。 そう、ここは標高800~1000メートルですが、なんだかこちらの方が高く見えます。

 さいごは地区の展望広場に行きました。ここは上村小学校下栗分校跡地だったところです。宿泊施設「高原ロッジ下栗」がありました。Mさんはここに何泊もしながら下栗の写真を撮り続けたそうです。私たちがふだん暮らす平地にはない魅力があったと思われます。考えるに、その一つは「天空の里」と呼ばれるほどの眺望の魅力と、そこで自然条件に適応した伝統的な農法で暮しを営む人々の暮しの魅力であったかもしれません。こういう場所で暮らすということは、日常的に鳥瞰的な視線と虫的な視線を養うということです。前者は世界を大所高所から眺め自分たちの暮しを客観的に見ることを可能にします。いわば大自然におけるちっぽけな自分に気付かされる視線です。後者は日々の暮しにおける細々とした仕事のなかで生まれる悩みや晴々した気分、苦労や喜びを体験する視線です。互いの視線を関連させながら日常的にノボリオリする認識活動こそ「山村の思想」をかたちづくる重要な契機なのではないでしょうか。そうであればこそ、ここ下栗の人々の郷土イメージがどのようなものなのか訊ねて見たい気がします。それはきっと「平地人を戦慄せしめ」(柳田国男『遠野物語』)るにちがいありません。

 また地区の主婦7名が運営するそばを中心にした郷土料理店「はんば亭」があります。車も数台ありましたが、この店はもう閉店のようです。なにか、下栗特産のたべものを、と思っていましたが残念──。ところがありました。家具工房が一軒。ここから下栗芋を使った「いも田楽」のいい香りがぷーんとにおってきます。けれど、血糖値が気になります。決心がつかず、エーイ、と思って買ったのは、地元で出ているガイドブック『下栗の里を歩く』と絵はがき・・・。

 この展望地には、二つ記念碑がありました。一つは著名な地理学者市川健夫さんが下栗を「日本のチロル」とよんだ石碑です。もう一つはじっくり碑文を読むことができなかったのですが、地区共有林野の問題が解決したことの石碑です(たぶん)。あとで調べて(星川和俊「天竜川・遠山郷の自然および土地利用の変容──序説──」『環境科学年報23』 2001)みると、遠山郷は遠山氏が滅亡していらい天領になり近辺の山々への立ち入りが禁じられます。しかしその後「百姓稼山」が認められ山の中腹から上は御料林として伐採禁止に、下は農民の共有林になりました。明治になると、地租改正により「百姓稼山」は公有地となり入山禁止になり、その周辺が民有地として認められました。その後、中腹以下私有地境まで上村を含めた5組合村の共有林になりましたが、そのあとが大変です。1879(明治12)年に、この山林を利用する権利(地上権)を有力者らに売却したために、権利が個人や企業を転々としました。村に地上権がないという時代が長く続いたわけです。それがやっと1962(昭和37)年に上村に地上権が戻ってきました。この83年にも及ぶ地区の人々の苦労は大変なことだったと思います。そういう歴史的に意義のある記念碑ではなかったでしょうか。

 時計は16時をまわっていました。「いも田楽」に心を残し、下栗の里をあとにしました。


初めての遠山郷 程野 

2012-10-31 16:51:44 | 旅行

 久しぶりの小さな旅です。場所は長野県飯田市。10月13~14日の土日の2日間、飯田城趾のなかにある柳田国男館と飯田市立美術博物館で、「柳田国男没後50周年」を記念して常民大学の「合同研究会」と美術博物館による「民俗の宝庫<三遠南信>の発見と発信」の企画展がありました。私と同じ市内に住む石仏研究家のKさんに誘われ、写真家のMさんともども、Kさんの車に同乗させてもらいました。Kさん、Mさんは旧知の間柄。ともに飯田市や遠山郷は初めてではなく、Mさんは遠山郷の霜月祭には過去何度も足を運び、写真を撮ってきたそうです。

 13日(土)朝の6時半に川越をたち圏央道で八王子から中央道に出てあとは一本です。途中何度も休憩をしながらですが、Kさんのきびきびした運転のおかげで、休憩時間はたっぷりありました。八ヶ岳サービスエリアでは、八ヶ岳をはじめ周囲の山並みを見ながら、高原の清々しい風をたっぷりあじわうことができました。関越道でいえば、赤城高原サービスエリアの雰囲気にいささか似ています。でも、こちら八ヶ岳の方が高度がありそうです。すがすがしさがちがいます。諏訪を過ぎると、伊那盆地に入ります。西に中央アルプス、東に南アルプスを眺望しながらのハイウエーです。地図を見ると、諏訪湖から始まる天竜川は二つのアルプスに挟まれ南にむかって大きく蛇行しながら流れています。駒ヶ根インターからは木曽駒ヶ岳のロープウェイが見えます。いつか登ってみたい山です。

 飯田市は、中央アルプスの裾を形成する山並みから流れる何本もの川がつくり出した扇状地にあります。つまり西から東に傾斜しているわけです。南下する天竜川がこの扇状地を削り、西北から東南に向かって流れる野底川や松川によって削られ、あいだに残った台地が飯田の市街地ということになるでしょうか。ここは広々とした河岸段丘の町です。遙か昔に飯田の地に足を入れた人々はきっとこの眺望に満足し定住の意志を固めたのではないでしょうか。関越道方面でいえば、赤城山と榛名山のあいだの利根川に削られてできた渋川あたりに似ています。飯田インターを降りて、Mさんのお馴染みの蕎麦屋で腹ごしらえをしました。私は、かつて東京・成城から飯田城趾内に移築された柳田国男の書斎「喜談書屋」を見学に来たことがありますが、この町はなんだか坂道が多くてさぞかし冬に凍結すれば滑りそうな道路だなと思い、河岸段丘の町とはこういうものかと実感したことがあります。でも、今回知ったことですが冬の積雪は少なく、滑る云々はだれも気にしていないようでした。私は、手元不如意はどうにか耐えられても、「足元不如意」はどうも駄目、勘弁してほしい方なのです。

 さて、私たちは天竜川を渡り県道251号線に出て東の伊那山地と南アルプスの峡谷の地にある遠山郷に向かいます。遠山郷とは上村と南信濃地区を合わせた一帯をそう呼ぶそうですが、現在は飯田市に合併されています。山に向かう道ですからカーブが多いのは当たり前ですが、矢筈トンネルを抜けるとそこはもう遠山郷です。ここからはなんと国道(152号線)なのです。三大秘境の一つというイメージはわいてきませんが、やはり両側から山が迫ってきます。つまり遠山郷は山深くありながら国道沿いに立地しているのです。地図で調べて見るとこの国道152号線は南下して静岡県浜松市に繋がっていますが、途中静岡県との県境の青崩峠で通行止めになっています(あとで最新のロードマップを見たら立派な迂回路があって通行可能です)。北上しても先の矢筈トンネルの出口のすこし北上したところで行き止まり(山を越えたところが歌舞伎で有名な大鹿村)なのです。やはり遠山郷は隔絶の地だったにちがいありません。私たちの遠山郷での目的は各集落に伝わる霜月祭の場所を見学しながら、東へ一つ山越えをして日本のチロルとよばれる下栗集落まで行ってみることです。

 最初に立ち寄ったのは程野(ほどの)集落の正八幡社です(写真 上)
。上村川を挟んで神社の反対側に住む年配の女性がたまたま居合わせていて説明して下さいました。遠山郷を流れる上村川沿いの国道に接して建つ社殿はまるで木造倉庫のようです。この八幡社の社殿は、一見しただけで私たちが見慣れているものに比べ容積が大きいことがわかります。なぜ大きいのか、中をのぞいてみて分かりました。霜月祭では湯立ての神楽がありますが、その湯立てのかまどが本殿の真ん中にセットされているのです(写真 下)。その周りを神楽が舞い、氏子たちを含めて100人余りの人々が囲むからです。

 いったい霜月祭とはどういう祭なのでしょうか。この神社には案内板がありました。そこから抜き書きすれば「旧暦霜月に神々に湯を献じ自らも浴びて新たな年の生命再生を願う湯立神楽により神も人も生まれ変わるという信仰を伝え天下泰平、五穀豊穣を願う祭り」だそうです。もっと砕いていえばこういうことでしょうか。つまり作物の植え付けから収穫までの季節的周期における収穫祭的意味と、神様に献じる湯立ての湯によって神も人も穢れを祓い新しく生まれ変われる信仰儀式が重なった祭り。現在は十二月一日に準備を始め、宵祭りが十二月十三日、本祭りは十二月一四日に行なわれそうです。写真家のMさんは、霜月祭りと出会い「なにかこころに訴えるもの」を体験して以来、何年も当地に通い写真を撮り続けたそうです。私に同じような体験をできるとは限りませんが、映像ではなくやはり実際に見てみたいものだと思いました。

 この境内には社殿正面の右側に御柱が立ててありました。毎年寅と申の年の四月下旬に程野御柱祭が実施されるそうです。石仏研究家のKさんは、社殿正面左側の「三峯神社」と刻まれた石仏の裏に刻まれた文章をメモしているようです。ここでもまた三峯神社の御師(オシ)があの黒い狼の絵が描かれた御札を配って歩くのでしょうか。また国道(といっても大変狭い)沿いには時代ごとの庚申塔が建てられています。石仏・石碑は住民の願いの表現です。ほかの日本の村がそうですが、ここの集落もまたいくつもの神様のご加護によって日々の暮しを守ってきたことだけは確かなようです。

 程野集落は飯田市に合併されて暮しはどうなったかを訊いてみました。霜月祭などには村を出て行った人々もたくさん帰ってくるようになって嬉しい、しかし集落の人口は激減したという話でした。それは矢筈トンネルをはじめ道路がよくなり40分ほどで飯田市街に通勤できるようになる一方で、市街地に引っ越す家が増え空き家が増えたという話でした。土砂災害については小規模なものはあるとのこと。そういえば、とKさんが昨年ここを尋ねたときは大きな土砂災害が起きたはずだが、・・・との話。気になったので、帰ってネットで調べてみてびっくりしました。

 遠山郷は土砂災害の常襲地帯だったのです。まず確かに2011年9月4日に台風の影響で大雨になり、上村南信濃地区全域に避難準備情報が出されていました。この影響でどこか通行止めになっていたのかもしれません。被害がどの程度だったのかはわかりません。前年2010年7月16日付けの南信州新聞によると、台風ではなく梅雨前線の影響で、遠山郷は以下のような状況であったことがわかりました。

 ───≪国・県道への土砂流出により、上村の下栗、上町の両地区で129世帯304人が孤立。南信濃でも834世帯1849人が孤立した。/南信濃では小道木地区で濁流が道路や人家を覆う被害が発生。上島や木沢などでも土砂崩落があり、5件の民家で家屋の被害が発生した。/幹線道の国道152号線も含め、道路の各所で土砂崩落が相次ぎ、一時、移動不能状態に陥った。/幹線道の国道152号線も含め、道路の各所で土砂崩落が相次ぎ、一時、移動不能状態に陥った。/南信濃地区は振興センター内に対策部を設置。被害状況の把握と、孤立地区の解消を急いでいる。/観光や仕事で訪れていた人は、足止めされて地区内の温泉施設などに宿泊。高校生も地域を離れていた人は帰宅できず、飯田市の中心地に戻って宿泊した人も多かった。/例年のように発生する豪雨災害に、住民たちは肩を落とす。冷静に対応しながらも、一人は「これほど被害が大きいのは10年に1度だ」と話した。≫

 また信州大学農学部の星川和俊さんによれば、遠山郷は水害と土砂災害の常襲地帯だったと述べています。

 ───≪遠山郷は、背後に南アルプスの壮大な山々を控えた谷間の山村である。したがって、ほとんどの地域が山岳急傾斜地である上に、遠山郷のなかを中央構造線が通っており、土砂崩壊,地滑り等を受けやすい脆い地形である。また、気象条件的にも太平洋側に近く、梅雨前線や台風等による集中豪雨の影響を頻繁に受けてきた。この結果、遠山郷は古くから水害と土砂災害の常襲地帯であった。≫(「天竜川・遠山郷の自然および上地利用の変容-序説-」環境科学年報23 2001)

 日本列島は山島(ヤマシマ サントウ)です。いきなり山が海に突っ込むようなカタチをしている、昔の中国人はこう評したそうです。その後、沿海部は山からの土砂によって平地が増えましたが、現在でも国土の7割は山地だとはしばしば聞く話です。しかも、列島は台風の常襲地帯、梅雨前線が長雨をもたらす災害の山島です。水害と土砂災害はどこでも発生する国土に私たちは生きているのだと覚悟する必要があります。遠山郷の水害と土砂災害は自分たちの問題にほかなりません。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 


怖さの反面

2012-10-19 12:06:24 | 旅行

 ずいぶん前、若い頃ですが、こんなことがありました。亡くなった父の実家に行ったときのことです。私の従兄弟には幼い子供たちがいました。家の前が県道になっているので、車が頻繁に行き交います。子守をするおばあちゃん(叔母)がちょろちょろ遊び回る孫たちが道路に出てしまうことを戒めてこう言いました。────ご先祖様がいつも見ているのだから、道路に出て遊んではいけないと言われたらちゃんと守らなきゃいけない。隠れて悪いことをしてもご先祖様はお見通しなんだよ。────ああ、そうか、こんな日常の中にもまだ他界(あの世、異界)観念が残っているんだな、と思ったのです。

 これだけではありません。世界は、この世とあの世の二つがあり、あの世からこっちの世界は全部見えるけれど、こちらからは決して見えないのだ、ということをはっきり自覚したことです。その頃読んだ柳田国男の「幽冥談」という短篇には、たしか他界を「隠り世(カクリヨ)」、この世を「現世(ウツシヨ)」という言葉が使われていましたので、カクリヨは隠れている世界だけではなくて、この世から隔離されている世界、つまり目に見えない世界なのだ、と妙に腑に落ちた覚えがありました。またウツシヨは現世と書きます。「現」は現れだけでなく、音からも、隠り世の消息をウツシ(移し・映し・写し・撮し・遷し)た世界とも受けとれて、「隠り世」同様わかりやすい言葉だと思ったことがありました。

 隠り世の住人は、亡き人の霊魂、神や仏、そして天の神でしょう。私は、子供の時分から他の子供と比べて、特に怖がりだとも臆病だとも思ったことはありませんが、昭和三〇年代の幼少年期は怖いものがたくさんありました。まず、お墓は昼間でも一人では近づきたくなかったです。当時は土葬でしたから知り合いのお墓などは棺に納まった故人が思い出されるだけでなく、土の中の遺体は今どうなっているのだろうか気になってしょうがない子供でした。私が8歳になる夏に父が亡くなりましたが、その後、母に繰り返し父の遺体はどうなってしまったのか尋ねた覚えがあります。墓は里山の頂にありましたので、土が乾燥しているので、もうとっくに骨になっているだろうとか、反対に母の実家のある墓は川近くにあって掘れば昔の棺桶の一部が出て来ることがあるから、遺体もなかなか骨だけにはなりにくいのではないか、等という話を覚えています。厄介だったのは父の夢を見ることでした。母にたてついて困らせたときは決まって棺の中の父が夢に出ました。情けないことに、翌日は母に謝っていましたので相当怖かったのだと思います。

 お寺はどうかと問われれば、当然亡くなった人に引導を渡すところなので駄目です。葬式の光景が思い浮かぶからです。家の中では仏壇が怖かったです。我が家は村の中では核家族で仏壇はありませんでしたが、いつも目にしていたのは母の実家のそれです。また味噌や漬け物樽などを置いておく台所脇の部屋、当時は外にあった便所、そして古い蔵。とても一人で入れるような空間ではありませんでした。それから家の裏側もなんとなく避けたい場所でありました。

 これらに比べ昼間の神社はだいぶ平気でした。子供の遊び場だったからです。かくれんぼでは、お社の裏側や縁の下には何度も隠れましたし、扉の隙間から御神体を覗いたことも一度や二度ではありませんでした。ただ、怖くなかったといえば嘘になります。ここでは悪さをしたらバチが当たると教えられていたからです。大人になって知った「聖なる空間」ということを実感したと思えます。それでも、夕方や夜はとても一人では行けないところでした。私の家があった村の辻には「湯殿山」と彫られた大きなお墓のようなものが建てられていました。辻の四本の道の一本は、大きな川原に続く道でしたが、他と比べ細くまわりは低木の茂みになっていました。家にはここを通らないと辿り着かないのです。真っ暗になってからでは怖くて駄目ですから、暗くならないうちに帰りました。でも少し遅くなって走って帰るとき、たまに自宅の灯がついていないときがありました。入ろうと思えば入れますが怖くて駄目でした。自宅がまだ暗いことがわかると、全速力で先程の辻の「湯殿山」に戻りました。そこは街灯がついていて、たまに村の人が通りかかることがあったからです。そういう日は一人で湯殿山の台座に座って親の帰りを待ちました。なにが怖かったといいますと暗がりから聞こえてくるホウーッ、ホウーッというフクロウの声です。なんだか怖い怪人が現れるような気がしたのと、あとはオオカミでしょうか。もちろん見たことはありませんから、絵本などで知っていたものです。というのは、いつまでも起きていたり暗くなってまで遊んでいたりすると、村の大人や親からもオオカミがやってきて喰われてしまうと度々聞かされていたからです。

 村生活で怖かった場所はほかにもあります。村の北の境界には湖水から流れてくる大きな川がありました。大きく蛇行している川原が「水浴び」の場所でした。川のカーブの外側は流れが速く、ところによっては渦ができています。内側は当然川原ですが小石は流水に隠れています。流れる水はふだんでも大きく波打って速かったことを覚えています。ふだんは怖くて泳げない場所ですが上流の発電所で水量を調節しているので、流水が少なくなる日がありました。そういう日に天気が良ければ水浴びしたのです。それでもこの場所は水深もあり川底は当然見えません。大きい子たちは大岩の上から果敢に飛び込んでいます。でも、ここは子供でもある程度大きくなってからでないと泳いではいけない場所でした。それはここで溺れて亡くなった子もいたからでしょう。今は寝たきりの母ですが、まだ元気に孫たちとスイミングに通っていたときは、戦時中に疎開してきた子供が溺れるのを救ったことがあると自慢していました。

 小さな子供向けには、村の中を流れる浅瀬の川がありました。ここでバシャバシャやった記憶があります。北の大きな川は水量が多いときは泳げませんので、もう一本、村の南境を流れる川で遊びました。北境の大きい川から村内に引き込んだ農業用水がわりの川です。小学生になるとたいていはここで泳ぎました。用水路ですから小規模のコンクリートの護岸なっている区間があり、慣れないうちはコンクリートの壁につかまり遡ってゆき、流れに乗って泳いだわけです。なかなかスリルもあって楽しかったです。でも、こういうときにビクッとしたのが、蛇が泳いでいるのを見たときです(いま思い出しました)。ですから、一人では泳ぎに行ったことはなかったと思います。

 さて、怖い場所はほかにいくつもあったのですが、怖さは反面を持っています。お墓も昼間に大勢で行くなら大丈夫ですし、幼い子供にとってはみんなで墓参りするのは楽しささえ感じるようです。大小さまざまな墓石が珍しかったのか、まだ小さかったころで記憶がないのですが、古い墓石に抱きついて遊んでいたら、それが倒れて大騒ぎになったこともあったそうです。お寺だって本堂では、映画会や芝居がありましたから全く怖いだけの場所ではありません。家の仏壇だって暗がりだって、そこに何があるか配置がどうなっているかを知っているならば大丈夫です。川で泳ぐときも、上から眺めれば青々として底が見えずいかにも怖そうですが、潜って川底から水面を見あげれば、きらきら光ってとてもきれいです。漆黒の夜中だって朝陽を浴びれば、暗闇からの解放感とともに清々しいまるで別世界です。亡くなった人のことも、元気だった頃の思い出があれば、それをたどることであの世の住人であることへの怖れをやわらげることができます。これらは自然成長的にうすうす気がついてきたように思われます。

 怖さの反面をハッキリと自覚したのは、二十歳のときに尾瀬を一人歩きしたときでした。まだ雪の残る燧ヶ岳を登っているとき、小さな雪庇を踏み抜いて古傷の膝を痛めしばらく動けなくなりました。膝をさすっているうちに、誰もいない山中でこのまま動けなくなったらどうしよう、このままいたら熊が出てこないだろうか、また得体の知れない存在と遭遇するのではないか、などと急に怖くなったことがあります。落ち着こうと思い、ゆっくりと周囲に目をやり耳を傾けて青い空を見上げてみました。沢の水が流れる音、小鳥たちの声、ときおり樹木の枝が折れるような音。風は穏やかで汗ばんだ身体に心地よく感じられました。この間、いろんなことを考えていたと思いますが、時間がどれほど経ったのかわかりません。ふと、小鳥たちから見える自分、森林の樹木から見える自分、残雪とその下を流れる沢から見える自分、山や空から見える自分を想像してみたのです。すると、おきまりの、というか、自然の中でのちっぽけな自分の存在に思い至ったわけです。いつのまにか怖さはやわらいでいました。やわらぐというのは怖さがなくなることではありません。怖さを怖さとして受けとめることです。そうしたらだいぶ落着きました。

 そしてここが自分の発見だったのですが、山中でひとりぼっちでになっている自分のまわりは、異界とか他界と呼ばれる世界です。怖がっているときというのは対象を外側からばかり見ているときです。これを反転させ対象の内側から見たら・・・と考えたのです。端的に言えば、異界を内側から想像してみることです。もっと言えば霊魂が怖いと感じたら、亡くなった人の立場から自分を見直してみることです。怖がっている自分がいささか滑稽に見えるかもしれませんが、そうなると落ち着くのです。いまでもたまに一人で山小屋で過ごすことがありますが、やはり夜は怖いものです。耐えられなくなったときは、眠ってしまうのが一番ですが、また怖くなるとなかなか寝付けません。こんなとき、夜になると活動する動物たちや樹木や沢の側から自分を眺めるていると、いくらか耐えられるようになり落ち着きます。

 私には、「隠り世」に対する怖さとその反面という感情の二面性は、隠り世の住民である霊魂、神や仏、そして天の神という存在が「現世」の私たちに禍福をもたらすという物語への根拠になっていると思われます。この物語にリアリティを感じさせるのはなにか、を考えたとき、そこに見出せるのは、私たち一人ひとりの<心あたり>にちがいないと思うのです。 


災害伝承の可能性 河童伝承の周辺(5)

2012-10-16 01:35:45 | 旅行

 4回分に分けて再録してみた私の「ゲスモグリ体験」を、まず、ゲスモグリ表象の形成という観点でふりかえってみます。

(1)雨降り滝・・・・・少年期(小学6年生)に遭遇した架空の「ゲスモグリ」という山川の怪異について記述してみました。方言を使って表現してみたのは、このときの体験がかなり怖かったことを思い出したからでした。これから水浴びをしようという「雨降り滝」の底の見えない、いかにも深そうな川面を前にして、友だちから、初めて「ゲスモグリ」という小さな蛇がこのような山懐の川には生息していて、そこで泳いでいる人間の尻の穴から侵入して内蔵を食い破ってしまう属性をもっていること、さらに肛門に入られてしまったらすぐに手でつかまえて侵入を阻止し、針で刺さなければ蛇の鱗のようなものが逆立って抜けないから、救援がくるまでじっとゲスモグリの胴体を握っていなければならないという話です。とくに救援が来るまでじっとヤツの胴体を握っていなければ、やられてしまうという場面を想像したときは、握っている手に汗をかいて滑ってしまうのではないか、と不安は最高潮に達した覚えがあります。初めて聞いた話なのに、この話はひどくリアリティがありました。今でも、お尻がムズムズしてきます。

 ここで改めて気づかされることは、一つはリアリティの奥底に死への恐怖があったと思えることです。内臓を食い破られては死ぬに決まっているという連想は12歳の少年には容易だったからです。前に紹介した畑中章宏『災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異』(亜紀書房 2012)の、「河童は死と深く結びつくものであるという事」についての記述がヒントになりました。二つは今まで見たことも聞いたこともない存在について、それがふだんから恐れている蛇という表象と結びつくと、人間はこれほどリアリティを感じることができた、ということです。

(2)ゲスモグリは河童だ・・・・・人間に禍福をもたらす水神の多くが蛇体の表象をもって語られてきたことから、ゲスモグリがまず水神信仰の変遷のなかに位置づくだろうということ。また人間の「しりこだま」(ひとの内臓のこと)を抜いて死に至らしめてしまうという河童の一属性がゲスモグリと共通していること。この二つからゲスモグリを河童の異称であることに気づく経過を綴ったものです。つまりゲスモグリは河童という妖怪の一つではないかというあたりをつけたわけです。

 これは、ゲスモグリが河童と結びつくことで妖怪表象という、ある種の広がりを得たことを意味します。「ある種の広がり」とは単に人間に悪さをする蛇という段階にとどまらずに、もう少し大きな物語に結びつけて考えられるようになったということです。つまり大雑把な理解になりますが、水神に対する信仰は二つの面を持っています。一つは水神が作物に実りをもたらす有り難い存在として、二つはときとして洪水などの水害をもたらす存在として、です。ところが度々水害が続きますと、有り難い存在としての水神信仰は衰えてきて、ついには悪さをするだけの水神に零落していきます。「困った神様だ」という面が強調されていくわけです。この段階に現れる存在を妖怪と呼ぶとすれば、水神信仰の場合はそれを河童と呼んできたという話なのです。ですから、私たちはゲスモグリが河童と結びつくことによって、妖怪としてのゲスモグリの背後に洪水被害を見て取ることができるようになるわけです。

(3)奥地という異界・・・・・ゲスモグリ伝承がその後どうなっているかを確かめるために会津に帰り、当時39年ぶりに雨降り滝を訪ねるまでの体験を綴ってみました。当初の計画では盆地から東山の雨降り滝に向かうつもりでしたが、雨降り滝よりもずっと東側(猪苗代湖側)の山奥から目的地を目指す経路に迷い込んでしまい、期せずして「一の渡戸」集落に行き着くことができました。そこで集落の年配の人たちに話を伺ったところ、全く意外だったのは、ゲスモグリの話などは聞いたことがないというてんでした。私は、下流の雨降り滝でゲスモグリ伝説と遭遇できたのですから、もっと山奥には当然この伝説が語られているにちがいないと思い込んでいたからです。でもよく考えてみれば、妖怪は人が繁く交通する平地の生活圏と奥地という異界との境界に発生することに思い至りました。また、平地から見たら山は異界ですが、山の奥地に住む集落の人たちにとっては、山を流れる川は生活と密接な関係にある場所であったことです。日々の生活で親しんでいる場所は異界にはなりにくいのではないでしょうか。もう一つ知ったことは、やはり東山に流れてくる湯川は度々洪水に見舞われていたという事実でした。そのために一の渡戸集落を流れる湯川は川幅の拡張工事が施され、下流には水量調節を含めた東山ダムができていたことです。奥地にはアスファルト道路が延長され、度々洪水を起こした川は拡幅工事がなされ、下流にダムができたということは、その異界性が希薄になっていったことを意味します。こうなると境界としての雨降り滝も市街地の一部となってきます。

 結局、私たちの東山奥地をめぐる探訪は、ゲスモグリという妖怪が此岸と彼岸の境界を舞台にすることを確かめる機会になりました。いいかえれば、ゲスモグリ表象は境界という舞台をもって初めて形成されることに気づかされたわけです。

(4)ゲスモグリ伝承は消えたのか・・・・・会津若松市内での文献調査や聞き取り調査についての記録です。調査の結果は書いた通りですが、私がかつて聞いたような単独のゲスモグリ伝承だけでなく、河童と結びついたゲスモグリ伝承が確かめられたことが成果といえば、そういえると思います。ただ気になっているのは、ゲスモグリ伝承が地域の広がりを持たず、どうも家単位になっているように思われたことです。ゲスモグリの話を語ってくれる年配の人たちが、地域の隣近所の誰かから聞いたということでなく、家族から聞いたという話が多かった記憶があるからです。この意味についてあまり自覚がなかったために、文章にはしませんでしたが、もし、もっと調査を進めてゲスモグリ伝承が家族単位でほそぼそと伝承されていることが実証できたとすれば、そのことの意味を考えることができるように思います。

 それは二つあります。一つは「ゲスモグリ」という呼称についてです。私自身もあまりこの話をひとにしないできたのは、この呼称に対する忌避感がともなっていたためです。私の体験記に「会津ゲスモグリ紀行」というタイトルをつけるときも抵抗がありました。なぜならば、こういうことです。私の知る会津方言では、ゲスとは尻のことです。もう一つはオンツァゲスのように、馬鹿者・愚か者という意味を構成する言葉だということです。オンツァ!といえば相手を罵倒する言葉で、ふだんからしばしば耳にします。ゲスという罵倒語を単独で使う場合もあったと記憶していますが、ゲスは辞書にも、身分の低い者や心のいやしい者の意味で載っています。以前、中国語で、相手を罵倒するとき「馬の尻」を意味する言葉を使うのを知ったとき、ゲスとの附合に不思議な因縁を感じたことがありますが、尻は罵倒語になりやすいのかもしれません。というわけで、ゲスモグリという呼称はおおっぴらに口にすることに抵抗があるのです。それゆえ家族内で使われる傾向となって表れるのでしょう。

 二つは、水害にまつわる伝承があまり表沙汰にしたくないことがらに属していたのではないかという可能性です。いったん洪水になると、犠牲者は下流に流されてきます。その数が多くなればなるほど河口では凄惨な状況になります。畑中さんは同じ本でこう述べています。

────流れてきた死体が岸に流れ着くと、その地域で弔わなければいけないので、死体を棒で押し流したこともあったという。江戸市中において、川の上流から流れてきた水死体を神に祀りあげるという民間信仰があった。水害で行方不明になったものの霊魂も、共同体や家族にとって頭を離れないことであったろう。(56頁)

 そして、このうしろめたさの感情を形にしたものが河童であったかもしれないと推測しています。これを河童としてのゲスモグリに重ねてみれば、洪水の犠牲者を丁寧に弔ってやれなかったうしろめたさが、ゲスモグリという表象を思い浮かべることのできた下流の家族だけに伝承されてきたのではないかと考えることができます。もう少し言えば災害の伝承にとって、ゲスモグリの表象が現実的な自然に───たとえば川で目撃することのできた小さな蛇など───に根拠や手がかりを持てなかったら、おそらくゲスモグリ伝承は残らなかっただろうし、今日知られているようなユーモラスな形態や属性を持つ河童に収斂されるしかなかったかもしれません。

 つまり、会津地方に、ほそぼそとでもゲスモグリ伝承が残存しているのは、その表象が現実的自然である小さな蛇体に根拠をもっていることが決定的に重要です。平地の住民が、川で小さな蛇を目撃するたびに妖怪としてのゲスモグリが思い起こされ、災害の記憶を伝えていく可能性が生まれるからです。

 

 

 


ゲスモグリ伝承は消えたのか 河童伝承の周辺(4)

2012-10-15 19:04:42 | 旅行

 わたしたちは、東山温泉を後にして途中で名物の「お秀茶屋」の田楽を食べ、市立会津図書館に直行した。I君はいけなかった背炙り山に行ってみるという。わたしは、まず郷土資料コーナーに行き、民俗学関係の資料を調べた。『会津民俗』や『福島の民俗』のバックナンバーをざっとめくってみたがゲスモグリ伝承についての報告は見つけることが出来なかった。地元の「歴史春秋社」の出している歴史関係の雑誌にもざっと目を通してみたが、やはり見当たらない。名前を控えておかなかったので忘れたが「会津の河川」を特集した雑誌に読者の川遊び体験が載っていた。だが、そこにも「ゲスモグリ」という言葉はなかった。『会津大事典』の蛇・河童の頁をめくってもその記載はなかった。河童の頁には「川の怪では、つかまって証文を書いたカッパ(檜枝岐村)、カッパを助けた坂内家の子孫のたまは抜かないと誓った「三貫堰のカッパ」(会津高田町)」などの記述があっただけである。わたしはすっかりしょげてしまった。ゲスモグリは市内の誰もが知っていた話ではなかったのか。もうそんな化け物話は伝承されていないのか。

 その日の夜は、中学時代の友人のM君と待ち合わせて、会津名物の馬刺しをたらふく御馳走になった。実はつい最近まで少年期に一緒に雨降り滝に行ったのは、このM君だとばかり思っていた。でも本人はそんな記憶はないという。わたしの記憶違いだったのである。でも、ゲスモグリの話は知っていた。二次会は中学時代同じクラスだったYさんのやっているスナックだった。彼女に期待半分でゲスモグリのことを尋ねてみた。知っているという。わたしは跳び上がらんばかりだった。

 彼女の話はこういうものだった。まずジモグリというヘビについて。これはゲスモグリともいう。赤い腹とギンギラギンの胴体をもつ体長七〇~八〇センチ位の蛇。地面に潜っている。春先に山菜取りなどに山に行くといる。かがんで山菜摘みなどをしていると、ズボンのわきから尻の肛門に入り、人間の内蔵を食い破ってしまう。だから、山中ではおしっこなどはしない。山菜を摘むときは、しっかり腰を下ろしてしまわずに中腰で摘む方が安全といわれる。これはもと自衛隊にいた父から聞いた話だという。この蛇の害から逃れる方法の一つはたばこを吸って移動することである。ゲスモグリはニコチンを嫌うという。また山を歩くときには、下半身をぴったりと包むジーンズのようなものがよい、と。

 後で知ったことだが、ジムグリというヘビなら実在する。「赤ジムグリ」である。これが現れると諏訪神社では「明神様のお出まし」といって掃除を差し控えたという報告も他県にはあるから、こちらでも何らかの聖性を付与されたヘビと考えることが出来る。写真を見ると赤い胴体をしている[i]。だが、人の肛門を狙ったり、ズボンの脇からもぐるにはかなり大きいのではないかと思う。Yさんは川の化け物のゲスモグリと実在の「赤ジムグリ」を一緒にした伝承にしたがっているように見えた。だが、この話は「ゲスモグリ」という呼称が、もしかしたら「赤ジムグリ」からきたのではないか、ということを想起させる。

 わたしは川や淵のゲスモグリのことを聞いてみた。Yさんは、山都に住んでいる人の話をしてくれた。山都町は、会津盆地の北端には喜多方市があるが、その西側の山並みを抜けた所に位置する。やはり会津若松からみればヤマである。ゲスモグリは黒い蛇のこと。パンツをはかないで川で泳いでいると、肛門から腹に入り内蔵を食い荒らす。蛇って蛇はみな肛門から入る、という話だ。あとで見つけたことだが、山都町には、河童についての次のような伝承が記録されている。内容はゲスモグリとよく似ている。

 <福島県耶麻郡山都町上林。むらでな、河童に腹さ入らいちゃって。ある家の娘な、つつねってあんだわ、いけ、ほら田圃さかける水。そこさ行ってな。親達が、田圃さ、さづけ行ってて。熱いからこんだ水さ入ったら、その娘な、それは本当にあったことな。それがこんだ、水あびてたら、尻から河童入って、腹みんなきれいにごぞ食っちまって、そして、ポカンと浮いてただって。な。本当にあったことだ。(話者・折笠みさと。記録・池亀。出典『会津・山都の民話』(民話と文学の会)>[ii]

  わたしはYさんに市内にも河童の話はないか聞いてみた。すると、次の話をしてくれた。「カッパ出た!」という話はかつて聞いたことがある。河原橋(わたしの母校城西小学校近く)付近では、夕暮れに頭にお皿をのせたカッパがちょこちょこ水面に頭を出すことがある。狐と同じように化かされるから五時を過ぎたらそこには近づくものではないと祖母に教えられた、と。これは他県でも見られる「河童憑き」の話である。会津若松市内にも、河童伝承がかつて存在したことがわかる。

 M君は、もっと年寄り連中いる店に案内するといい、三次会の店に連れてってくれた。そこのお客からさんから聞いた話である。曰く、市内の坂内セメント付近の川にまつわる話である。ゲスモグリという細い人差し指くらいの黒い蛇。木の根っこの空間に何匹も固まっていることがある。いたずらをすると襲ってくる。川で泳いでいると、尻の穴に入ってくる。尻の穴に入ると頭をクキッと曲げて、引っ張ってもとれない。そのあと、内蔵を食い荒らす。体長は五〇~六〇センチ黒い蛇である。昔からいわれているけど、実際に尻の穴に入られたという話はきかない。水辺の木の根っこにいる。川で魚を捕っていると、そういう蛇を見かけることがあり用心した。おっかない蛇である(地元男性五四歳)。

 またこの店の年配の女性からは、黒い蛇を何というかは知らないが、女性の場合は前の方からも入る、ときいたことがある(地元女性)。これは人間の女性と交わる河童の話と関係がありそうだ。岩手県遠野市には、河童の子を孕んだという有名な話があり、生まれてきたのは何匹ものうじゃうじゃした小ヘビだったというのは、先の店のお客さんからの話と関係があるように思われる。これも全国各地に見られる河童伝承の属性に含まれる。

 次は、帰ってきてからわたしの母(昭和三年生まれ)から聞いた話だが、「ゲスモグリ」という名前は聞いたことがないといい、こんな話をした。河沼郡河東村大字福島字島原でのこと。昭和一〇年頃、パンツをはかないで川に水浴びにいくと、ケツに蛇が入ってくるぞ、といわれた。パンツ穿いて泳げ、穿くものを穿けということわざのようなものではないか。実際、細くて二〇~三〇センチ位、太さは子供の小指ほどの蛇が泳いでいるのを見たことがある。草むらから草むらに渡って動く、そういう細い黒っぽいヘビを何度も見たことがある。河童が出没したという話は子供時代にも聞いたことはない。

 最後に、わたしの勤務先の近くに居酒屋「磐梯屋」がある。この主人は市内門田町一ノ堰の出身。彼から聞いた話を載せておこう。曰く、まず祖母からの話では、ゲスモグリは人の肛門から入ると、うろこみたいなものが逆立ってその胴体をねじらないと取り出せない。肝臓を喰われてしまい死んでしまうという。でも、昭和二十一年生まれの本人の話では、少年時代は大川(阿賀川)で泳いでいた。だが、この川で泳いでいるときにゲスモグリの話をきいたことはない。子供同士の会話の中で聞いたのは、田圃の脇を流れているような小さな川での話だ。色は白く、長さが二〇~三〇センチくらい。事実見たことはないけど、変色したシマヘビだと聞いていた。これは、陽の当たらないところに住んでいるとそうなるらしいと聞いてきた。ほんもののシマヘビと区別する意味でそのような名が付いているのではないか。ゲスモグリの伝承がその後どのように変化していったかが伺える話である。(終)

                                                 *
 
 私の「会津ゲスモグリ紀行」の再録は、これでお終いにします。原文では最後に自分の解釈を書きましたが、9年経った今から読むと混乱しているのでカットします。次回に整理し直してみます。

[i]  吉野裕子『蛇──日本の蛇信仰』(法政大学出版局 1979)

[ii]  松谷みよ子編『現代民話考Ⅰ河童・天狗・神かくし』(立風書房 1985)


奥地という異界 河童伝承の周辺(3)

2012-10-14 18:20:29 | 旅行

 わたしは、生物学に詳しい友人のI君に同行を頼み、二〇〇三年の九月の連休初日の土曜日に東北道を北上した。彼からはいくつか参考になる話を聞いた。曰く、マムシというのはずんぐり短い。藪や休耕田などで見かけることが多い。人と出会っても逃げない。ひとが襲われる場合、よく三番目のひとが咬まれるという。ヘビは肺呼吸だが、水上を泳ぐことができる。また、肛門から人の体内に入り、内臓を食い散らすという動物は実在しない。ゲスモグリは河童同様、想像上の生き物ではないか。テレビで見たことがあり名前は失念したが南米にはこんな魚がいるという。川に、白っぽくヌメッとしたうなぎのような魚だ。溺死してゆるんでしまった人間の肛門から入り、内臓を喰い荒らすという。肛門から進入するとき、その長い体を捕まえ、引き戻そうとしても、頭部付近には鰓かとげのようなものがついており、逆立って抜けないそうである、等々。

 東北道は白河インターで降り、一路西北に伸びる白河街道(地図には茨城街道とある)から会津若松に入ることにした。進路は岩瀬郡の勢至堂峠を抜け、猪苗代湖の南端に接する御代に着く。ここは郡山方面と会津若松方面に分かれる分岐点になっている。そこを左折し猪苗代湖の西岸に沿って進む。しばらく走れば、少年期に馴染んだ・背炙り山へ登る道路が見えてくるはずだ。この山の頂からは、西に会津盆地、東に猪苗代湖、ほぼ北に雄峰・磐梯山が晴天に恵まれればその全貌が展望できる。ここを降りて市内に入ればいい。友人のI君にその景色を見せたかったのだが、どういうわけかその手前で左折してしまった。この道路は新しく舗装されたらしい。それで間違えたのだ。しばらく山道を進むと、舗装されていない道に出た。中湯川という標識がある。「湯川」でピンと来た。この舗装されていない道を右に下っていけばあの「雨降り滝」そして東山温泉に出るはず。

 やがて舗装道路に出てしばらく走らせると一の渡戸(いちのわたど)という集落に着いた。ここには、朽ちかけた分校の建物があった。車を止め、中をのぞいてみる。東山小学校の分校らしい。本校の東山小学校は東山温泉の入り口にあったはずだ。その分校らしい。そのせまい校庭は湯川に接している。川に降りるには広い階段がついていて容易だ。しかし、水深は浅く、ここで泳げたとは思われない。せいぜい水遊びだろう。川底は平らな堆積岩(なめ石と呼ばれている)で覆われている。分校といえばわたしには決まった風景がある。かつて小学校五年の頃だったか、担任の若い先生に連れられて、希望者だけだが、東山温泉の奥にある分校を徒歩で訪問したことがあった。分校の子供たちと交流したのだ。一泊二日の徒歩旅行だ。同じ市内なのに「東山の奥」とはそのくらい遠かったのだ。そこで見た校舎とその内部は印象強かったのだろう、今でもよく憶えている。でも、ここはわたしの訪ねた分校の位置関係のイメージとは違う。

 一の渡戸は現在では過疎の集落だが、むかし修験の徒が近辺の深山で修行していたときに架けた橋を「一渡」と呼んだことからこの名前がついたという[i]。廃屋になったり、玄関の鍵がかけられていたりする家屋が目についた。でも人が住んでいる気配も感じる。つぎの日、再び訪ねたときはムラの人たちが共同で作業している場面に出くわした。話を聞いてみることにした。

 このムラは戸数十六戸あったが、現在そこに住んでいるのは五戸だけ。ほかはたいてい市内に降りて住んでいたり、この地を離れていたりするという。市内に居を移した人たちは、休日になるとこうして畑だけを耕しに戻ってくるという。集落全体に目をやると、湯川沿いのやや低い土地の家屋はかなり古いつくりでがっしりしているが、高台のいくつか見える家屋は比較的新しい。これは、昭和四十七(一九七二)年にこの集落に大火があり、その後に建てかえたのだという。昭和四十七年といえば高度成長の終焉が見え出す頃。どんどん低下する第一次産業の就業率はとっくに二〇%を切っていたはずだ。山間部の農業に見切りをつけ、これを機会にムラ離れていく家族もあったのではないか。ちょうど休憩時だったのか、お茶になった。果物やジュースを勧められながら、もう少し話を伺ってみることにした。

 先に見た分校は昭和三十三年開校で比較的新しい。それ以前は東山小の分校は二つあり、一つは、さらに下流にある東山ダム(昭和五十七年竣工)に沈んだ河渓(かわたに)村と、もう一つはこの村より奥の中湯川村にあった。一の渡戸を含む他の村の子供たちはこのいずれかの分校に通った。しかし冬になれば自分の村にも臨時の分校ができた。十二月になるとそれまで使っていた机や椅子を持ち込んで、冬だけの「おらが学校」気分を味わった。昭和三十三年に季節を通じて通える一の渡戸分校が開校したとき、ここの子供たちや親たちの安堵感や喜びはどのくらいのものだったろうか。わたしはガラス窓のやぶれから見えた卒業製作の大きな絵画をちらと思い浮かべた。

 子供たちの川遊びについて尋ねてみた。現在の河川の形は、昭和四十七年以降改修工事が始まった。洪水の被害を防ぐことがその理由だという。それで、川幅も広く深さもだいぶ深くなった。川の深さはあるが水深は浅い。以前は、所々に深みのある淵や大石もあって、よく遊んだ。今でもこの村に住む区長さんの家の前はちょうどイワナのすみかになっており、ここでは柳の枝一本で虫を餌にして釣り上げることもできた。ほかにもカジカ、ハヤなどいっぱいおり、「うつぼ」を仕掛けておくとよく獲れた。わたしは期待を込めてゲスモグリ伝承の有無を尋ねた。───しかしそういう話は聞いたことがないという。河童はどうか。それもないという。話をしてくれたのはどう見ても六〇歳前後の方たちである。

 これはどう考えたらいいのだろうか。わたしが少年期にゲスモグリに「遭遇」した雨降り滝はこの一の渡戸村よりもずっと下流にある。ゲスモグリや河童の伝承は、もしかして平地のマチやムラに伝わる伝承であって、マチやムラの奥地の山村にはないのかもしれない。もちろん、もっとよく調べてみないことにはわからないが、こう考えてみた。

 わたしたちの生活領域の向こう側、私たちが所属していると認識している時空間の外側を<異界>[ii]と呼ぶならば、平地に居住する人々のとって山は異界であったろうし、不思議を感じさせる川もまた異界の一部であったはずである。わたしがかつてゲスモグリに「遭遇」した雨降り滝も、当然わたしにとっては異界だった。妖怪(化け物)はこの異界と生活領域の境界で発生するとは、異界や妖怪研究ではよく知られている。しかし、ここ一の渡戸の人々にとって湯川は隅々まで分かりきった生活圏の一部であり、子供たちにとっても毎日生活の中で親しみ馴染んできた日常生活の一部であったのではないか。一の渡戸の人にとって湯川は異界ではなかった可能性もある。

 前日に戻ろう。一の渡戸集落を後にしてわたしたちはさらに湯川沿いに下っていった。間もなく左手にスキー場が見晴らせるところで車を止めた。本当にスキー場なのである。わたしから見れば小さくはない。しかしここはもう利用されていない「大巣子(おおすご)スキー場」である。かつてのロッジの小さな建物や動かなくなったと思えるバスも見える。平地の部分には白い蕎麦の花が一面に咲いている。朽ちかけたスキー場案内の看板の近くに家がある。人気はないがヤマメの養殖という小さな看板が見える。道路をはさんだ山側には湧き水が出ている。そこから上のほうをのぞくと、そこに割と新しい水神宮碑がみつかった。この地においては水神に対する信仰が今でも存在している。柳田國男の河童=水神零落説に従って、ここには河童に零落する前の、もともとの水神信仰が今でも生きているのであろうか。それゆえに河童やゲスモグリの伝承が確認できないのであろうか。いやそうは考えにくい。水神信仰と水の妖怪に対する畏れはいくらでも両立する。異界に対する畏れや不安の感情があればいつに時代にも妖怪は発生すると思えるからだ。

 それにしても道路が立派である。すいすい降りていくと、東山ダムが見えてきた。初めて見るが、これまで見たダムの中では最も小さい部類に入る。こんなものがあると、「東山の奥」というわたしの異界イメージは霧散してしまいそうだ。後で調べてみると多目的ダムをうたっていて、洪水調節と飲料水の確保、それに流水の正常な機能の維持、さらに管理用発電もできるという[iii]。この山奥の洪水がどれほどの規模であったのかわからない。ただ少なくともわたしが市内に住んでいた当時(昭和四十六年まで)、東山の奥で大きな洪水がありたくさんの犠牲者を出したというニュースを聞いた覚えはない(見落としていたら申し訳ないが)。また、歴史ある一つの村をダムの底に沈め、それまでの川の流れを変えておいて「流水の正常な機能の維持」とはいったい何のことだろうか。やはり市の人口増加がもっとも大きな理由だろうか。

 このダム建設は大きく自然環境を変えた。自然環境を変えるというのは、それまでの異界としての自然を解体し、人間の生活から闇を追放し光ばかりに満ちた環境を目指すことである。もちろんこの程度の自然改修でほんものの闇は消えることはなかろうが、確実に異界が持つ闇性は人々の意識から遠のくことは確かだ。異界の闇はつまるところ死の世界に通じている。わたしたちの意識は死と切り離された生の世界だけを見ることを強要されていくのである。日常から活力が失せていくのは当然と言わなければならない。

 東山ダムをくだり目的地に着いた。雨降り滝である。かつての雨降り滝は汚れていた。わたしがゲスモグリと「遭遇」して以来三九年。短くはない年月がたった。このあいだに水がかなり汚くなった。これがすぐ上に出来たホテルのせいだけではあるまい。ダム建設で生態系が大きく変わったのかもしれない。滝を見下ろせるコンクリートの頑丈な橋をたくさんの車が往来したのだろう。ただ、鬱蒼とした感じだけは当時の雰囲気を残していると思われた。ここはもう泳げる川ではなくなっていた。水浴びをしなければ、ゲスモグリにやられる心配はない。そのような伝承を生み出す自然環境はもはや消えたのである。(続)



[i]  『新編会津風土記』

[ii]  『異界万華鏡──あの世・妖怪・占い──』(国立歴史民俗博物館 2001)

[iii]  『会津大事典』(国書刊行会 一八八五)


ゲスモグリは河童だ 河童伝承の周辺(2)

2012-10-13 17:53:55 | 旅行

 すっかり忘れていたゲスモグリのことを思い出したのは、それから二十二年後だった。わたしは東京板橋区の小学校に勤めていた。三年生の担任をしているとき、子供たちが学区域のことを調べる社会科学習を組織しなければならなかった。そこで勤務校周辺を歩いてみることにした。学校は、北西の川越(埼玉県)から流れてくる新河岸川(下流で隅田川に合流する)の右岸沿いにあり、そこを渡ると、五、六分で荒川右岸の土手に着く。わたしはこの新河岸川と荒川のあいだの土地に「水神宮」と刻まれた石碑を見つけた。地域の人々がどのような心持でこういう水神宮碑を建立したのか。それは、かつて「荒れ川」として流域周辺に大きな被害を与えていた荒川の河川改修の歴史を紐解いてみれば明らかだった。とはいえ小学三年生に水神宮碑からいきなり荒川の洪水の歴史へ持っていくのでは、話が難しくなりそうで子供たちの興味を惹きつける自信がなかった。

 そこで、わたしは「水神」についても調べてみた。水が作物の実りに関係することは明らかだが、水神は特に穀物の豊穣をもたらすべき神であった。したがって田の神とも山の神とも親近性をもっているらしい。しかし、わたしの関心を惹きつけたのは次の点だった。それは古来より人々は水神を現実に生存するヘビなどの姿をもって表してきたということ、そしてそういう水の神への信仰が衰えたところに誕生するのが河童だという考え方(河童=水神零落説)だ。

 河童なら子供たちに親しみやすいと思い、さっそく全国各地の河童伝承を読んでみることにした[i]。そこには、わたしなりに抱いていた相撲好きで頭にお皿のある妖怪としての河童というイメージばかりか、実にさまざまな属性をもった河童が描かれていた。そしてカッパ以外のさまざまな地方名が伝承されていることも知った。とりわけわたしの関心をひいたのは、溺れ死にした者(特に子供)の肛門がポカンと開いているのは、ひとの「尻子玉(しりこだま)」や内臓を抜き取ってしまう河童たちのしわざであるという伝承であった。「尻子玉って何だろう」という疑問を考えているとき、わたしは突然二十二年前の、あのゲスモグリとの「遭遇」を思い出した。ヤツは河童にちがいないとわたしは直観した。ただ怖れるしかなかったあのヘビはほんとうに実在するのか、そんな疑問を抱きながらページをめくったのである。しかし、そこにはゲスモグリのような蛇体の河童を見つけることはできなかった。

 わたしは、そこに語られるユーモラスな・ありえない振る舞いから見えてくる河童の架空性に支えられながら、ゲスモグリは実在しないと安堵したのである。いわば少年期のわたしの「半信半疑」状態は、ここで脱した。授業の方は、結局中途半端なものに終わったが、当時一九八〇年代の中頃は、書店には妖怪もの・異界ものの出版物がたくさん出回っており、わたしも何種類も買い込んで読んだ憶えがある。

 ところで柳田國男は、人の妖怪に対する態度を「化け物思想の進化過程」として三つの段階に分けて考察している[ii]

 第一段階は、「敬して遠ざける」態度。

 第二段階は、「内心はまだ気味が悪い」という態度。「社会としては半信半疑の時代」である。

 第三段階は、「信じない」という否定する態度[iii]

 わたしは、ゲスモグリとの「遭遇」から現在までは、柳田いうところの「進化過程」を歩んできたともいえる。これでこんな話は終わりにしてもよさそうだが、半信半疑にせよわたしがゲスモグリにリアリティを感じた時代は確実にあった。そして今でも底の見えない川や池や淵を見るとなにやら不安や畏れを感じるし、こういう感情はいつの時代にも消えてゆくことはないとさえ思える。ならば、妖怪はこの感情が起こるかぎり形を変え存在し続けるといえそうである。柳田國男のいう「化け物思想の進化過程」は何度でも繰り返されるといってもよい。化け物思想の進化過程には、いったいどのような時代の変化があったのか。わたしがゲスモグリにリアリティを感じた生活世界は現在どうなっているのか、そんな疑問が湧いてくる。

 またゲスモグリの「ひとの肛門に入り内蔵を食い荒らす」という属性を持つヘビが学問上発見されていない以上は、これは河童伝承の一つといって間違いはなかろう。だが一方で、イメージのはっきりしない水神は、古来から広くヘビなどの実在する動物の形をもって表されてきたことも事実らしい。ならば、こちらのヘビは神であり、ゲスモグリは妖怪(化け物)だということになる。ここでまた一つの疑問が湧いてくる。わたしたちがよく知っている童児に似た容姿をもつ河童についての伝承はわたしが少年期を過ごした市内には存在しなかったのだろうか。もしかつては存在したということになれば、ゲスモグリという妖怪とはどういう関係にあるのか。───わたしは会津に帰って確かめてみたいと思った。(続)



[i]  石川純一郎『新版河童の世界』(時事通信社 1985)

[ii]  柳田國男「盆過ぎメドチ談」(『妖怪談義』ちくま文庫版全集第六巻)

[iii]  小松和彦は、この第三段階が柳田たちの現代(大正から昭和初期)で、第四段階として「やがて話題にもされない時代」が、わたしたちの現代だと指摘している。(『妖怪学新考──妖怪からみる日本人の心』小学館ライブラリー 2000)


雨降り滝 河童伝承の周辺(1)

2012-10-12 16:03:44 | 旅行

 いい本と出会いました。畑中章宏『災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異』(亜紀書房 2012)です。昨年の東日本大震災以来、災害とフォークロアに関心があったからです。この本の「あとがき」には、≪民俗学という学問はほんらい、日常ばかりではなく「非日常時」も積極的にとりあげていたはずなのに、その意志があまり受け継がれているとはいえないという宮田登さんの指摘をもとに、自分なりの「災害フォークロア」を書くことができないものかと思ったのである。近代日本の知識人の災害観、民衆観を綴った前著(畑中章宏『柳田国男と今和次郎──災害に向き合う民俗学』──引用者)に対して、実際の民衆は災害をどのように受けとめ、「妖怪」というものが民衆の心性を最もよく解き明かすものではないか≫という記述が見えます。

 私の問題関心も同じところにありますが、とくに災害と妖怪とのあいだに、<表象の役割>を挟んで考えてみたいと思ってきたのです。そこで、以前綴ってみた私の河童体験(「会津ゲスモグリ紀行──河童伝承の周辺」『歴史民俗学23号』同研究会編 2004)を素材にして、災害と妖怪とのあいだの表象形成について考えてみたいと思います。以下私の以前のレポートを再録するところから始めます(フィールドワークは2003年9月 読みやすくするために字句修正を施した)。

 福島県会津若松市は、「会津平野」と呼ばれるくらい広い盆地の、その中心から南東に位置している。戊辰戦争で著名な鶴ヶ城は市街地の南側にあり、そこから西の方位にわたしの通う小学校があった。わたしは学区外からの通学だったので、同じ学校の遊び友だちは多いとはいえなかった。でも、夏になると毎日のように市営プールに通う仲間がいた。H君だ。現代の子供たちなら「プールに行く」というのだろうが、わたしたちの合い言葉は「水浴び」だった。

 確かこの年(一九六四)の夏。そう東京オリンピックのあった年だ。わたしたちは小学六年。夏休みのある日、わたしはH君に東山温泉の奥の「雨降り滝」に水浴びに行かないかと誘われた。ここは市の中心部から文字通り東側の山間にある。水はきれいだし魚もいるぞ、と言われてその気になった。わたしたちは夏の日差しが強くなりかけた頃、自転車で小一時間ほどかけて長い坂道をのぼり、やがて東山の温泉街を通り抜け「雨降り滝」に着いた。そこにはもう何人か地元東山の子供たちだろう、丸い水中眼鏡をして盛んに潜ったり岩場から飛び込んだりしていた。早速、半ズボンの下にはいてきた競泳用の黒い水着になって滝の下流の浅瀬に入ろうとしたときだ。H君はこんなことを言ってきた。

おい、ゲスモグリって知ってっか?」 「なにそれ。」

ヘビだよ。」 「ヘビ!?どんなヘビだよ。」

トカゲよりちょびっと、でっけいやづでよ、水浴びしてるやづのけつに入って、腹んなかかき回して人の内臓喰っちまう。

 わたしは思わず肛門をギュッと締めた。

「なんだよ。そんなへび、こごにいんのが?」

わがんね。いっかもしんねべ。」 「もし、そんなヘビに入らっちゃら、なじょすんだ?」

 わたしは、肛門を締めたまま膝をすりあわせ、そしてとんがらせた口をH君に向けた。

んだから、水泳パンツのひもぎっちりしばって、ゲスモグリに入らんにようにすればいいべ。

 わたしは、地元の子供たちのはいているものを見た。どの子もベルト付きの丈夫そうな水着やら、半ズボンのまま入っている子が全部だ。カッコつけて競泳用の水着などはいて来たことを後悔した。やはり競泳用の水着のH君も同じところを見ていたらしい。わたしと目が合った彼は目を伏せたが、思い直したようにこう言った。

もしヘビに、けつん穴さ入らっちゃら、全部入らっちまう前にそんヘビ、手でつかんでとにかく中に入れない・・・

 わたしはどういうわけか自分の肛門に、その細い胴体の半分以上を潜り込ませている小さいヘビのしっぽの方をギュッと握っている自分を想像した。とんでもないことになったと思った。彼はこう続けた。

だげんじょ、抜ごうと引っぱても抜げない。

 なに!私は驚いてつかんでいるつもりの手に力を入れた。なんだか掌を滑って小さなヘビが全部肛門のなかに入っていきそうに感じた。

「なんでだよ。」

けつん穴さ入ったゲスモグリの胴体には、うろこみだいなのが付いでいで、それ引っぱっと、逆立って抜げねー。

 H君はえらそうに言った。わたしは自分の肛門に潜り込んでいるゲスモグリが頭を盛んにうごめかしている様子を思い描き、肛門が急にむずがゆくなってきた。

「痛ぐなんねのが?」

それは痛いべえ。そんじぇも、我慢して救助が来るのを待づしかねえんだべな。そうでねえとそのままお陀仏だべ。」 

 彼は他人事のようにいった。わたしはもう聞き返す言葉をなくしていたが、気を取り直した。

「助けらっちゃとして、どうやって抜ぐんだ?」

針使うんだと。」 「針?」

んだ。針をゲスモグリの胴体にチクッと刺すと、そいづあ、こうギュッと身を縮めるべ。そのすきにスッと抜ぐんだ。

 彼はまるで自分が見てきたように喋った。しばらくの沈黙があった。

「入んの、やめっかな、おれ・・・」

さすけねえ、地元のやづだって入ってんだから心配ねえべ。はいんべ、はいんべ。

 そう言ってH君はさっさと浅瀬から入り、みるみるうちに得意の平泳ぎで滝壺の近くまで泳いでいった。

 もちろん、この後でわたしも水浴びをした。地元の子供たちが遊んでいるのを見て勇気をふるったわけである。滝壺はさすがに濁っていたが、そこを離れると水は澄んでいた。水中深く潜って上を見上げると、水面あたりは夏の木漏れ日が反射しとてもきれいだった。私たちはゲスモグリのことはすっかり忘れて遊び呆けていたのだと思う。自転車による帰路はかなりのスピードが出た。緊張しながらの坂道に気を奪われたせいで忘れてしまったのか、家に帰ってからもそういうヘビの存在について親に訊き直した覚えはない。

 だが、わたしの内部ではゲスモグリは蛇一般への畏れと結びつき、依然として畏怖の対象だった。にも拘わらず、これ以降もわたしは「雨降り滝」には何度か足を運んだ。だからその実在はいわば半信半疑のままだったといってよい。やがてわたしの成長とともにヤツは忘却の彼方へ消えていった。(続)

 


軒遊びの世界 下町風俗資料館

2012-09-30 10:40:00 | 旅行

 谷中のよみせ通りで巡回バス「めぐりん」に乗り、さいごの目的地・台東区立下町風俗資料館に向かいます。これまで上野の台地を散歩してきたわけですが、何だか満たされない思いだなあと感じながらバスを降りました。不忍池の畔を歩いていたら下町風俗資料館の脇の空間で気持ちよさそうに喫煙している一群が目に入りました。視線を戻すと目前に大胆にも太ももを誇示するように黒の網タイツをはき直している女性に遭遇しびっくり。そばを通り過ぎるとき、真っ赤な口紅が妖しく光るおじさんだったので二度びっくり。でも、ああ、これが上野だと思い、やっと満たされた気分になり、上野はこうでなくちゃいけない、などと小さく呟いてしまいました。昔から真っ赤な口紅を目にすると妙にドキドキするのです。

 この下町風俗資料館はけっこう私のお気に入りなのです。これで4回目でしょうか。見学する際の私の気分や能力にぴったり合うスケールの博物館というか、見学してもあまり疲れないのです。立派な博物館は展示品も多すぎるし、展示空間も広すぎます。負担が大きいのです。考えすぎでしょうが、次々と見学していかないと申し訳ないような気分になります。その点、ここは初っ端からいい感じなのです。

 1階展示室には大正時代の、東京・下町の街並みが再現されています。表通りに面した下駄の花緒の製造卸問屋の大店、路地に囲まれた長屋には駄菓子屋と、銅壺(どうこ)屋の住居の三つです。銅壺というのは今では古い時代劇映画でしかお目にかかれませんが、長火鉢のなかにセットされた銅製の箱で、なかに水を入れ炭火でお湯を沸かし、お銚子を入れる穴がありここでお燗するのです。ふだんは蓋をしておきます。私は、日本酒は夏でもお燗していただきたい方なので、家にあったらどんなに楽しいだろうかと見学するたびに思います。駄菓子屋の方には台所の道具が展示してあります。昭和30年代の東北農村で暮らした私でも、釜、しちりん、ささら、鰹節削り器、すり鉢、すりこぎ、甕、飯びつ、重箱、はいちょうなど、全部見覚えのあるものです。

 台所のある土間からちょっとした板の間(駄菓子屋では商品を置く場所)を挟んで四畳半の座敷があります。ここには小さなタンス、茶箪笥、これまた小さい鏡台、そして真ん中に丸いちゃぶ台がおいてあります。この駄菓子屋は母娘二人の暮しがモデルになっているとはいえ、現在の私の生活から見ると驚くほどの狭さです。でもこちらの方がスッキリして広く感じられるのは、やはり増えすぎたモノのせいでしょうね。

 長屋の廻りは路地ですが、長屋を含めた一帯を「路地裏」と呼びます。なぜ「裏」なのか、おそらく路地に囲まれた、その内部という意味ではないでしょうか。ここは幼い子供たちの遊び場でした。すぐに家に帰れるし表通りにもすぐ出られます。いわば内遊びと外遊びの中間の場所です。路地裏の子供たちは、「内」における親のぬくもりを背中に感じつつ、「外」の表通りにおける大人の世界の匂いを嗅いで成長したのではないでしょうか。
 
 このような場所で営まれる遊びを柳田国男は「軒遊び」と名付けました。「軒」とは家の屋根の下の部分が外部に突き出たところです。内部と外部が重なる空間です。まったく絶妙のネーミングです。柳田が「軒遊び」のことを書いているのは『分類児童語彙』という本ですが、これは全国に残されている主に、子供だけに向けて使われてきた言葉、子供のあいだだけに使われてきた言葉を、子供の成長段階に即して分類・排列したものです。これによって柳田がとらえた日本の子供の実際的な成長段階がわかります。

 その段階を紹介しますと、(1)幼な言葉 (2)耳言葉 (3)口遊び (4)手遊び物 (5)軒遊び (6)外遊び (7)辻わざ (8)鬼ごと (9)児童演技 (10)児童社交 (11)命名技術、の11種類になります。先ほど(1)~(4)までを「内遊び」と呼んだわけです。これを眺めながら、自分が子供だったときの遊びの思い出を重ね合わせてみれば、段階を経るごとに遊びの空間が広がり社会性が濃厚になっていくことに気付かれるのではないでしょうか。

 で、話は、「軒遊び」ですが、柳田がこの段階でどのような遊びを集めているのか調べてみると、ほとんどが「勝負事あそび」で、残りは「ままごと遊び」です。勝負事とは、めんこにしてもおはじきにしても、つまるところは「自分との対話」です。勝負の場面に参加するということは、勝てば相手の持ち物を得られますが、負ければ自分のそれを失うことになります。どうするか自分で決めなければなりません。誰にでも経験があるでしょうが、自分の遊び道具には特別な思いが込められていますので、よけい得失の緊迫度は高まります。

 「勝負事遊び」は、言ってみれば外(世間)に出ていくための準備だったのではないでしょうか。まだ出たくないなあと思う子供には「ままごと」が用意されています。いまさら幼子の世界には戻れません。ままごと遊びによって大人の役割をもう一度体験する、そういう意義があると考えます。これは家庭のぬくもりの再確認でもあります。つまり子供の成長にとって「軒遊び」とは、家(内)と世間(外)の中間にあって、両者を無理なく繋ぐための重要な段階だということになります。内遊びからいきなり外遊びの世界に移行するのは負担が大きく、外遊びのスケールに臆しない心と体を作る段階といってもいいでしょう。

 柳田国男は子供たちが早くから学校制度に吸収されるにつれて、成長に不可欠な「軒遊び」の段階が失われてしまったことを憂いていますが、あえて学校生活に軒遊びの痕跡を求めるとすれば、それは「遊び時間」ではないかと記しています。学校の「休み時間」というものをとらえ直すヒントになるかもしれません。
 
 下町風俗資料館の2階へ行くの踊り場には、関東地方の懐かしい「物売り」の声が繰り返し流れ、また2階の入り口付近には昔の遊びコーナーもあり、訪ねるたびに老若男女で賑わっています。メインの展示室では、特別展「関東大震災と復興の時代」が開催中でした。これは次回に。


谷中銀座・よみせ通り こぢんまりという幸福

2012-09-26 12:11:10 | 旅行

 11時から2時間ほど歩いて汗もかきました。昼食は露伴先生の旧宅跡の角を廻ったところの「たんぴょう亭」です。気付かないで通過してしまいそうな小さく瀟洒な玄関を入ると、中は手前にカウンター席、奥に畳の席で意外に広々と感じます。落ち着いて休めそうです。奥の畳敷きにあがり掘りごたつ風のテーブルへ。青森産の馬刺しをつまみにビールや焼酎でのどを潤して注文した食事を待ちました。待つことおよそ15分。鮪の竜田揚げ定食や鮪丼がやってきました。鮪は表面をあぶってあるせいか、生の鮪よりもタレがよく浸みて少量でも十分な味付けです。大食家には物足りない量でしょうが、焼酎のロックを片手にはお手頃、つまみとしてもなかなか美味でした。

 店を出てほんの少し歩くと御殿坂にでました。日暮里駅から歩けば登りきったあたりでしょうか。ここは昭和の香りただよう通りです。煎餅屋さんで道を確認し谷中銀座商店街に向かいます。途中、敗走する彰義隊をかくまったと言われる経王寺を見つけました。山門のあちこちに残る官軍の弾丸跡。上の方の穴は小さく目前の穴は大きいのです。ここを訪れる人々が一度は指を入れるんですね。

 そして階段をおりて谷中銀座商店街です。「夕やけだんだん」の階段を下ります。有名なミニコミ誌『谷根千』を始めた森まゆみさんが「ここは夕日が美しい」とつけた地名だそうです。よくテレビなどで紹介される場所です。現在、『谷根千』は発行されてないとのこと。以前、浅草の台東区立中央図書館でバックナンバーを何冊かめくってみたことがありますが、歩いて見て聞いたことがよく書かれていること、こういう地元誌を持つ住民の幸せ、発行し続けていることの意義深さみたいなものを想った覚えがあります。

 「夕やけだんだん」を下りると、ここは惣菜屋通りといってもいいくらいです。とくに肉屋さんのメンチカツがうまそうですが、こちらは糖質制限食を励行中の身、見て見ぬふりです。あらあら、女性たちは八百屋の前で立ち止まっています。ミニトマトの入った袋を下げて嬉しそう。ほかにもいろんなお店が並んでいましたが、惣菜屋の数は以前に比べずっと少ないとのこと。通り抜けてみると谷中銀座自体が可愛らしくて美味しい総菜のような印象が残ります。

 突きあたりは「よみせ通り」。以前は夕方になるとたくさんの出店が並んだことから名付けられたようです。ここを左に折れて「お茶する」ことにしました。小さなテラスのあるケーキとコーヒーの店。ここもこぢんまりとしていますが明るく開放的です。女性たちがあれこれメニューを見ているあいだに、私は向かいの小さな居酒屋に接近してみました。もちろん昼間は開店していませんが、永年の経験か不思議なことに店の構えを見ただけで中の雰囲気がわかるのです。メニューのほかに店の主人の趣味らしい映画批評の案内もありました。ぶらぶら歩いてくる途中で話題になった映画『最強のふたり』のチラシも見えます。しかしこの店はお子様連れはお断りのようです。

 ケーキとコーヒーの店に戻り、ほんとに小さなクッキーがついた、うまいコーヒーをいただきながら話題は「子連れ同伴はお断り」という居酒屋のことになりました。私は小学生のころ、路地の飲み屋街のすぐ近くに住んでいたことがあって夕方から夜にかけての賑やかさが好きです。いわば毎日ハレ状態だからです。今でも○○小路などと名づけられた飲み屋街を見つけるとついフラフラと入って行きたくなります。しかし、昭和30年代も終る頃です。ここでは毎日のように客同士の喧嘩が路上でありました。「表に出ろ!」というわけでしょう。酔っぱらい同士の喧嘩などは大した騒ぎにもならなかったようですが、一方がヤクザ風だと事情は異なります。一度、いかにもそれらしい男が酔っぱらった相手を痛めつける騒ぎを目にしたことがあります。男の殴る仕草の激しさとスピード、そして革靴をはいた足で思いっきり相手を蹴り上げる場面に、幼かった私は凍りついてしまいました。飲み屋街は危険な場所であったことを初めて覚りました。そのせいか、私は我が子が成人するまでは、それらしい飲み屋街はもちろん居酒屋に彼らを同伴することはありませんでした。

 同伴しなかったもう一つの理由は、太宰治の短編「桜桃」のように「子どもよりも親の方が大事だと思いたい」と考えたわけではありません。幼い頃から母親に「外で嫌なことがあっても家には持ち込むな」と言われ続けて来たからです。外での仕事や人間関係で、嫌な思いをしたらその思いは外で晴らす、つまり暗黙の「寄り道のすすめ」ですね。そういえば、若い頃グデングデンに酔っぱらって帰っても母に小言を言われた覚えはありません。あえて三つ目を挙げれば、そう、酒を飲むというのは「神々の時代」はともかく、やはり気晴らしですから、どうしてもだらしなくなります。大人のそんな楽しみに子どもを引き込むのはいやだという親の見栄ですかね。

 しかし、飲み屋街というのは疲れた大人のホッと一息吐くところです。たとえば、夜、家に残しておけない幼子を抱えて生きなければならない片親を想うとき、「子ども連れの居酒屋」はありそうに思えます。疲れた心と体をもてあましたとき、カウンター傍らに座って何かを頬張る子どもの横顔は何よりも癒しになるはずです。子どもにしたって妖しげでも大人の世界を垣間見る機会です。ほかにも子連れで居酒屋に行きたくなるケースはいくつもあるに違いありません。大人が寄り道して一杯やるのも、子どもを連れて出直すのもまた、こぢんまりした店や家屋が並ぶ下町にふさわしい幸福の一つかもしれません。コーヒーを飲み終わる頃、この店のママさんが、かわいいカップに入った微笑み付きの「カボチャ紅茶」をサービスしてくれました。ほんのりとカボチャの風味がさわやかでした。

 さて、最後の目的地は忍ばず池のそばにある「台東区立下町風俗資料館」です。タクシーで、と思ったら台東区で営業する巡回バス「めぐりん号」があることを知りました。停留所まで「よみせ通り」を歩いて行きました。並んでいるのはまだ開かない飲み屋ばかりではありません。魚屋、肉屋、八百屋、米屋、クリーニング店、中華そばの店、コンビニもあります。途中、コック姿のコーヒーの出前持ちを見かけました。さらに雑貨屋みたいな店や薬屋、病院、床屋もがあったようなないような・・・・。ビジネスホテルもあります。日々の生活で必要なこまごましたものは何でも小売店で調達できそうです。バスが行ったばかりであと15分ほど待たなければいけません。時間はわずかですが私は一人バス停の先まで散歩しました。

 このよみせ通りが三崎坂(さんさきざか)にぶつかる手前で面白い店を見つけました。「指人形笑吉工房」です。名前につられて入ってみました。ある、ある、見事な指人形がずらりと並んでいます。どれもこれもメリハリのきいた表情をした老人顔ばかりです。時間がないので手っ取り早く「なぜ老人か」を訊いてみたところ、老人は表情豊かな顔がさまになりやすく、指人形として動かした場合コミカルな動きがこれまた似合うというご主人の説明にふかく納得。彼はもともとは画家。13年前にこの道に入ったとか。これまで出会ったことのないような指人形ばかり、なかにはなんと「ウォーターボーイズ」までありました。この工房では指人形販売や特注制作まで引き受けます。ほかに人形劇もやってくれます。演目は笑い上戸、酔っぱらい、朝帰り、魚釣り、ピアニスト、瓦割り、剣玉など、どれもこれも「下町の幸福」を表現するものばかり、ふと笑いがこぼれます。「下町のピアニスト」だなんてかっこいいじゃないですか。さらに指人形がお客の似顔絵も描いてくれます。頭はうすくなってもまだ老人顔の自覚がない還暦ホヤホヤの身としてはぜひ描いてもらいたいもの。

 停留所に戻りながら、ふと思いつきました。どんなところに住んでも日々の暮しは、こぢんまりしたことの集まりです。こんどの震災や津波で日々の暮しを失った東北の人々が先々の不安を抱えながらも、まず以前に繰り返していたこぢんまりした日々の習慣を復活させたことからも、このことの大切さがわかります。下町とは──、下町とはこぢんまりという幸福を最大限に実現する町のことではないでしょうか。