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尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

河口湖新倉掘抜に入坑する

2013-05-26 18:43:44 | 旅行

 
「史跡館」地下の展示室は実際の掘抜の一部につながっています。ガイドさんの案内にしたがい入坑してみると、高さは170cmくらいありましたでしょうか。幅はひと一人とすれ違えるほどだったでしょうか。そう奥まで進んでみることはできませんでした。また坑道の壁面も掘抜床も濡れていました。壁面をさわってみると、ぬるっとしていました。そして掘抜の案外の小ささにしばし考えてしまいました。

 小ささは手掘りゆえの難工事を語っていると思われましたが、これで新倉村の溶岩流台地の開拓に必要な水が十分に確保できたのでしょうか。また、増水する河口湖の水をこれで排水出来たのかどうかは疑問とせざるをえませんでした。しかし、ともかく幕末の第一期工事によって初めて通水し2町4反4畝23歩田んぼができ、第二期工事によって43町歩余りの田ができたことは、地元の人々にとって念願成就であったことは間違いありません。

 さて、この河口湖新倉掘抜は、その後新倉村の基幹水路として大きな役割を果たしますが、大正二年(一九一三)山梨県による新トンネルの完成によりその役目を終えます。しかし、富士吉田市教育委員会発行の『富士吉田の文化財第2集 新倉掘抜』(1970)には、「新倉掘抜はどんな役に建っているか」という一章を起こしてその意義を述べています。以下、全文を紹介します。

  • 新倉掘抜はどんな役にたっているか。~劔丸尾の田、畑、住宅、工場、遊園地化、水道源──~
 秋元公は、河口湖および山中湖の水を、溶岩流上に引くことによって、全郡内領に田や畑をひらいて、産物の増産をはかった。/領主らによって行われた新倉掘抜は、今は通水の役目を果たしていないが、慣行水利権を確立し、二十五個(一秒間二十五立方尺の水=0.7㎡)を日発水路から引水利用できることとなっている。/ この水を利用して、劔丸尾上に、開田畑が計画された。これは、戦後下吉田帰農組合によって三十町歩(三〇ヘクタール)を予定され、使用水量は七個である。/ 丸尾上は、溶岩屑が、ゴツゴツと凸凹にかさなりその上に、灌木、松等が藪を作っている。これを伐採し、鉄槌で平らにし整地し、この上に、約二十~三十糎の御坂層の土を客土する。これに県庁排水隧道(後述)を利用して引水する。河口湖の栄養のある暖かい水を潅ぐと、おいしい米が多量に生産できるのである。これは、ひとえに新倉掘抜のもたらした水利権によるものである。
 そののち開田地は、この水を活用して住宅地と化し、今は、市内竜ヵ丘を形成し、開けゆく富士吉田市の住宅一等級地域となった。/ やがて、その周辺は、水を溶岩流下にもとめ、シチズン河口湖精密等の工場が誘致され又、富士急行ハイランド遊園地が作られて、娯楽センターが不毛の地劔丸尾上に出現したのである。/ これを、遠く考えてみるとき、元禄の秋元、幕末の永島らが、新倉村民と共に、将来の大きな夢を描きながら苦心惨憺の上、嘯山下に四キロの新倉掘抜を掘り貫いた、その不退転の夢がみのったものであるといえる。/ 更に、新倉村はその後、瑞穂村、下吉田町を経て富士吉田市に包含されているが、人口五万余の富士北麓の雄都であるこの市の人々が飲む水は、その大部分が河口湖の水を利用している。これも、又、新倉掘抜のもたらした祖先苦心の遺産である。/ なお、新倉掘抜の難工事の障害にめげず、初志を貫徹した祖先の強い意志と、福利民政の悲願は、現存の岳麓民へ陰に陽に、精神の奮起をうながし、心の遺産として新倉掘抜が教示するものははかり知れない大きなものである。
 
 富士吉田市が「新倉掘抜」という文化財を通して後の世代に伝承していきたい心持ちとは、新倉掘抜の実現で獲得した水利権によって現在の生活が成り立っている事実認識、そしてそこに至るまでの住民の不屈の魂というものでしょうか。このような伝承が富士吉田の民俗に反映されていないかどうか、「雪代」災害についての表象とともに興味があるところです。

焼堀 堅い岩盤を砕く工法

2013-05-25 10:55:16 | 旅行

 いよいよ最後の展示です。あとが実物の「掘抜」の一部をみるだけですが、その前に「焼堀」という特殊な工法について紹介します。掘り進めるうちに堅い岩盤に突き当たります。この岩石は地元で「青目石」と呼ばれているそうですが、ネットで調べてみますと、高級花崗岩(御影石)である「青糠目石」のことではないかと思われます。国産の高級墓石材だそうです。石臼などにも使われてきたそうです。墓石の花崗岩(御影石)を思い浮かべるといかにも堅そうだという気がします。この石をどうやって砕いて掘り進めていったのか、解説全文を紹介します。

  • 焼堀──特殊な工法を使って──

 幕末の工事は、元禄の工事の脆弱な古い坑道を捨て、青目石といわれている堅い岩盤を掘り抜く工法が使われました。/ これは焼堀という工法で、堅い岩を焼いてもろくして砕きました。焼堀は、岩礁破砕法・火入れ法・焚火法ともいわれています。/ この方法は、古来から行われており、最も古い例として『続日本紀』に「岩盤を破砕するために用いた」という記述があります。江戸時代には、土佐藩の野中兼山が溝渠開削にあたり、芋茎を石の上で焚いて破砕したということが言い伝えられています。また、保津川・富士川などの開削工事や別子銅山でも用いられました。/ この掘抜では、山梨の木を焚き木と燃やしたため山梨の木を採りつくし、駿河の須走村まで馬を引いて伐採に行ったという話が残っています。(山梨の木──ナシ属。山地の日当たりのいいところにはえ、果実は堅く酸味は強いが食べられる)

 この焼掘は、火を焚いて青目石を熱するだけではなく、ここに水をかけて急激に冷やすことにより岩をもろくするのだと、「史跡館」のガイドさんから補足説明がありました。

 また「焼堀」についてネットで調べているうちに、「マンボ」についての解説を見つけました。ここです。はじめて知りましたが、マンボとは掘抜の用水路のことです。マンボは、三重県、岐阜県、愛知県に多く分布しているそうです。とくに三重県はマンボの集中地帯とのことです。これで「河口湖・新倉掘抜」の最初の工事(元禄3~14)に招かれた「伊勢から斧左衛門・浅右衛門・左次郎の掘抜師」という記述における、なぜ「伊勢」なのかという疑問が解けました。


ジオラマ 掘抜の内部と作業

2013-05-24 12:47:06 | 旅行

 史跡館の地下には「掘抜の内部と作業」と題されたジオラマがありました。人形は小さかったのですが、リアルに出来ておりました。このブログを通じて「河口湖・新倉史跡館」全体を紹介したいと思ったのは、実はこのジオラマを見学してからです。(もちろん、撮影の許可は取ってあります。)地元の小学生が度々社会科見学に来ると聞きましたが、河口湖を訪れる多くの人たちがこのすばらしい小さな博物館を知らないで帰るのはもったいないことだと思ったのです。

 説明板は一枚にまとめてありましたので、出来るだけ写真と対応させて全文(明朝体)紹介します。

 



 坑:坑道の長さは3.8km、入口から出口までの高低差が45mで、内部  はかなり曲がりくねっています。これは嘯山を形成している御坂層と溶岩流  の境目のなるべくやわらかいところを掘進み、堅い岩にぶつかると曲がると  いう方法をとったためです。





 

掘削方法:元禄の工事は入口と出口の両方から掘り進めて行ったという記録が残っています。弘化4年の工事は、元禄の工事の穴を見つけ補修するとことが主な工事でした。しかし、土砂が崩れやすかったり、漏水のするところは、古い穴を捨て新しく掘抜を作りました。その際には、竪穴式という方法が用いられ、地上から竪穴を掘り次の竪穴と横穴を結ぶというやり方でした。また、焼堀という特殊な工法も使われました。/ 掘削の作業は、土砂崩れや岩盤の落下などが多く、大変困難なものであったという記録が残されています。


 



竪穴:竪穴は廃土の運搬・人足の出入り口・通気坑として利用され、最高約23m、最低約5mの深さがあります。この掘抜では『江戸掘抜絵図』に15ヶ所の竪穴が記されています。

 また、通気のために「犬さがり」という斜めの穴も掘られました。

  


 


道具:掘削道具は、まんのう・つるはし・たがね・玄能などがあり、廃土の運搬には、じょれん・いざる・もっこなどが使われました。たがねと玄能で岩を砕き、いざるやもっこで竪穴の下まで運び、外に出すという作業が続きました。

 

 測量:掘抜では水を流すための勾配測量や、掘抜の方向を決める測量が行われました。

 水を流すための勾配測量は鉢伏山の頂上を頂点として、一方は小立村方面の湖面に船を浮かべ、一方は西丸尾の地蔵堂付近を起点として、提灯やのろしをあげ目印とし、この三点を結ぶ角度によって山の高さを測り落差を決定しました。






 掘抜の方向を決めるための測量は、基準になる点の位置を決めそこからの方位と距離を測り、基準点を次から次へと移して、出発点からは見通しのきかない地点の位置を決定しました。距離は、縄を張ったり歩測で確かめ、方法は磁石を使いました。また、坑道内は暗いためろうそくの火や松明などを目印に使ったものと思われます。



 


「掘抜史跡館」 地下の展示室へ

2013-05-19 21:56:39 | 旅行

 いよいよ地下の展示室へ降りていきます。正面に飛び込んできたのは掘抜の地形模型です。左端が河口湖船津の取水口。中ほどが嘯山(うそぶき山)。右端が新倉方面です。

 また壁には「掘抜の地形と位置」と題したパネルが展示されており、
その中には「河口湖・新倉掘抜の現状」、「掘抜の平面図と断面図」、「周辺略図」という項目があります。
まず「河口湖・新倉掘抜の現状」には掘抜の内部の写真と解説で構成されています。後者を全文紹介します。

  •  「河口湖・新倉掘抜の現状」

 取水口側は、当史跡館から150.35mの地点まで調査が行われています。掘抜の高さは、最大2.36m、最小1.10m、幅は、最大1.30m、最小0.6mあります。/ 出口側は、赤坂出口(富士吉田市)から800mの地点まで調査が行われており、高さは平均1~1.5mで、最高8mに達します。幅は平均1~2mです。150mの地点まで電灯が付けられ、一部で補強工事がなされています。しかし現在は出口は危険防止のために封鎖されています。/ 掘抜は全体で1/4ほどが確認されています。

 写真では見にくいのですが、「掘抜平面図」を見ると、かなりジグザクに掘り進められたことがわかります。おそらく堅い岩盤の場所を避けて掘り進められた結果だと思われます。また「掘抜断面図」からは、水が流れるようにある程度の傾斜を付けて掘り進むことの困難さがうかがい知れます。展示パネルからは坑道が実際には何ヵ所も上下していることがわかるからです。

 「周辺略図」の概念図は大変わかりやすいものです。富士山北麓に流れ込んだ溶岩流と河口湖からの灌漑用水との関係がひと目でわかります。

 しかし、溶岩流上の台地を農地として開拓するというのは外部の人間からは想像しにくいものです。「溶岩流」といえば、浅間山の「鬼押出し」のようなものを思い浮かべるからです。ゴツゴツした溶岩があちこちに転がる斜面のやがて「雪代」と呼ばれる春の表層雪崩が運ぶ土砂や樹木、これらが堆積して一つの台地ができていくという壮大な自然史がイメージしにくいのです。地元ではそれを「○○丸尾(まるび)」と呼んでいます。

 


この地下の最初の展示室には、掘抜工事に使われた工具も展示されています。

 右側にある何種類もの鑿(のみ)が目に付きます。その頭はどれもこれもだいぶつぶれています。おそらく何万回ととなく、岩石に向かって鎚に叩かれたのでしょう。

 その左にはやはり何種類もの鎚が展示されています。中には鎚の両端が尖っているのもあります。おそらく、直接これで岩に打ち込んだものだと思われます。

 他にもカンテラのようなもの、測量道具らしきものがあります。

 なかには何に使うのか想像しにくい道具があります。鋏(やっとこ)です。鍛冶屋さんが加工したいものを挟む鋏のような道具です。どのような場合に使われるのでしょうか。大きなものでは、鶴嘴(つるはし)の片方だけの道具もありました。

 


河口湖・新倉掘抜 工事の経過と比較

2013-05-18 09:48:17 | 旅行

 これまで全文を紹介してきた「河口湖・新倉掘抜」に関する新倉村(富士吉田市)による石碑や案内板、そして河口湖町による案内板「河口湖掘抜」の両者を比較してみると、気づかされることが三つほどあります。

  1. 掘抜工事の主体が新倉村民であると強調されることがあっても、河口湖側の工事主体が表記されることはない
  2. 新倉村民の、あきらめることなく自普請で工事をやりとげたという開拓魂が賞賛されるのに、河口湖側からはそういう記述がない
  3. 掘抜が通水することで新倉村の溶岩流台地(「剣丸尾」)に水が引かれ新田が拓かれたという記述があっても、河口湖湖畔を襲う増水被害が緩和されたという記述がない

 つまり掘抜工事の成果が新倉村では実現したが、河口湖側ではさほどメリットがなかったのではないかと想像できます。これは実際に掘抜の坑道を歩いてみれば実感できます。あのような人ひとりが通れるくらいの坑道で、周りの山地から一斉に流れ出す雨水が一気に流れ込む河口湖の増水に対応できるはずがないことは誰の目にもあきらかだからです。細い碑文や案内板を読みながら、漠然と感じていたイメージがようやく鮮明な像を結んだ気がします。

 さて、今回は河口湖・新倉掘抜史跡館一階のパネル「河口湖・新倉掘抜の歴史」の紹介の続きです。それは計三回の掘抜工事の経過と幾つかの点について比較した展示です。以下、全文(表も含む)紹介します。

  • 河口湖・新倉掘抜 工事の経過と比較   河口湖・新倉掘抜は、江戸時代を通じて3回の工事が行われました。第一回目は元禄3年元禄14年、2回目は弘化4年から嘉永6年、3回目は文久3年から慶応2年です。それぞれ、秋元工事、幕末第1期工事、幕末第2期工事と呼ばれています。初めての工事から170余年の歳月をへて新倉村民の願いがかなえられました。

 第1回目の工事──秋元工事──

 富士五湖周辺と桂川流域の郡内地方は寛永10年(1633年)に秋元但馬守泰朝が領主として赴任して以来、3台72年間にわたり秋元氏による支配下に置かれました。/ この地方は、耕地が狭く生産力が低いため、秋元氏は、灌漑用水事業・新田開発・手工業の奨励などの殖産政策を進めました。その一つとして河口湖の水を新倉村へ流し、治水の解決と新田開発を図りました。/ この工事は、新倉村民にとっても悲願であり、秋元氏に灌漑用水工事の請願を行ったもので、領主の一方的な意志によるのではなく農民の要求と合わせた工事として行われました。

工事名

秋元工事

時期

元禄3年正月~元禄14年8月(1690年~1701年)

期間

11年間

主体施工者

領主 秋元但馬守喬知

 普請奉行 大久保庄太夫・新美弾右衛門

通水路

河口湖船津浜~嘯山~新倉村の.赤坂

労役

延べ36000人(土工12500人、石工4000人)

工事技術者

伊勢から斧左衛門・浅右衛門・左次郎の掘抜師を招く

費用

金1200両(600両は新倉村から出費) 米200俵

結果

通水しない

河口湖側が出口より3丈(約9m)低く掘られているといわれている


第2回目の工事──幕末第一期工事──

 元禄の工事は成功せず失敗に終わりましたが、新倉村の人々は、溶岩流上の台地の灌漑をあきらめたわけではなく、その後も数回の工事願いを出しています。享保17年(1732年)には、新倉村と川口村と協同で新田の灌漑用水の確保と、湖水の増水対策のために、秋元氏が行った掘抜の修復願いを出しました。しかし、工事の許可願いはおりることなく、長い年月が過ぎました。/ 弘化4年(1847年)、大雨のために山崩れがおこり偶然元禄の工事の穴が発見されたことにより、新倉村民は掘抜工事の申請を代官所に出し、自分たちの手で掘抜工事をすることとなりました。

工事名

幕末第一期工事

時期

弘化4年2月~嘉永6年3月(1847年~1853年)

期間

6年間

主体施工者

新倉村民による自普請

通水路

秋元工事の通水路を修復し、一部新規掘抜き

労役

延べ約85300人(石工・黒鍬・掘抜職人など)

作業は農閑期(4月中旬から10月下旬まで休み)

工事技術者

巨摩郡浅尾新田の幸左衛門という土木工事の専門家を招く

費用

金約3700両

結果

通水する

開田2町4反4畝23歩 1年のみで地崩れと、日照りによる湖水の低下のため通水しなくなる

 

第3回目の工事──幕末第二期工事──

 第2回目の工事により通水し新田が作られました。しかし、米の収穫は一年のみで、次の年には日照りが続き、湖面が取水口よりはるかに下がって通水不可能となってしまいました。また、穴も地崩れで埋まってしまいました。このため新倉村の人々は年貢を治めることや前の工事の借金を返済することもできず、修復工事をする気力もありませんでした。その時、新倉村の年寄永島元長が金300両を出し、再び工事を行うことを提案しました。村人の中から反対の声も上がりましたが、代官の励ましなどもあり、修復工事を再開しました。この工事は見事成功し多くの新田が生まれました。

工事名

幕末第二期工事

時期

文久3年正月~慶応2年3月(1863年~1866年)

期間

3年間

主体施工者

新倉村民による自普請

通水路

幕末第一期工事の通水路を修復し、一部新規掘抜き

労役

延べ約31900人(鍛冶・石工・黒鍬・大工など)

工事技術者

越中から万吉・妻お久・弟常吉・他2名の掘抜職人を招く

費用

金約4300両

結果

通水する

43町歩余りの田が出来るようになった

 以上ですが、いま私の関心は近世には「掘抜職人」と呼ばれる職人層ががいたということ。それは伊勢、巨摩、越中などから招聘している事実から全国あちこちにいたことが想像されること。さらにそのような評判が各地に伝わっていたという事実に向かっています。上に記された職人の名前──伊勢の「斧左衛門・浅右衛門・左次郎の掘抜師」、巨摩郡浅尾新田の「幸左衛門という土木工事の専門家」、越中の「万吉・妻お久・弟常吉・他2名の掘抜職人」を手がかりにおいおい調べてゆきたいと考えています。

 

 


河口湖・新倉掘抜史跡館 

2013-05-17 14:38:41 | 旅行

 いよいよ「河口湖・新倉掘抜史跡館」の見学です。建物は嘯山(天上山)の麓に接してあります。もし行かれる場合は、各種旅行案内のサイトがありますが、開館日や開館時間を問い合わせて行かれる方が間違いがないと思います。

 さて一階の入口を入ると、そこのロビーには見事な案内パネルでこの掘抜の概要が案内されていました。向い側のジオラマでしたか、これは故障していました。ですが、このパネル「河口湖・新倉掘抜の歴史」はわかりやすく、私の関心のある掘抜職人の名前も知ることができ貴重な情報源になりました。またこの一階フロアーには、山梨名物「ほうとう」についてのパネルもありましたが、これは後日にしましょう。

 このパネル「河口湖・新倉掘抜の歴史」は、河口湖・新倉掘抜の解説・工事の経過と比較・史跡館について、それに航空写真がついた立派なものでした。航空写真を除いた解説文全文とパネル写真を順に紹介します。これまでの記念碑や案内板と比べると、格段にわかりやすくなっています。(ルビは省略)

  • 河口湖・新倉掘抜史跡館  現在、河口湖周辺は富士山をはじめ、富士五湖や広大な富士山麓、溶岩が織り成すさまざまな景勝に恵まれた観光地として親しまれています。/ しかし、この周辺や富士山の溶岩流上で、遠い昔から生活する人々にとっては自然との闘いの連続でした。なかでも河口湖の増水や水を求めての溶岩流上の生活は大変な困難を背負っていました。/ 江戸時代の人々が長い歳月をかけて掘り抜いたこの河口湖・新倉掘抜もそのような人々の強い願望と不屈の精神が完成させたものであります。/ 当史跡館は、この掘抜と当時の人々の開墾魂とを、さまざまな角度から捉えかえし、学術的な観光施設としてここに明かにしていくものであります。ここを訪れた多くの方々に、富士の裾野での水との闘いに明け暮れた人々の歴史に思いを馳せられることを願ってやまないものです。
  • 河口湖・新倉掘抜  河口湖・新倉掘抜は、江戸時代に河口湖の水を新倉村(現富士吉田市)へ引くために、嘯山の下を掘り抜いた全長約3.8㎞の灌漑用水です。/ 河口湖は堰止湖で水のはけぐちがなく、たびたび増水し周辺の村は水害に悩まされていました。一方、新倉村は溶岩流上にあり、水の乏しい不毛の地で「水無し村」といわれていました。/ そこで元禄3年(1690年)、河口湖の水をヤマを掘り抜いて新倉村へ流し、河口湖周辺の村の水害対策と、新倉村の新田開発を進めるという計画で工事が始められました。しかし、その時の工事では通水せず失敗に終わりました。しかし江戸時代の終り頃、弘化4年(1847年)に村民の強い願いによって工事が再び始まり、村民の努力と熱意によって慶応2年(1866年)にようやく完成しました。/ この工事は、多くの困難を伴いましたが、それを克服した農民の開墾魂をここにみることができます。 *河口湖・新倉掘抜は、古文書では「湖水掘抜」と書かれています。現在、取水口側の河口湖町では「河口湖掘抜」、出口がある富士吉田市では「新倉掘抜」と呼ばれており、それぞれ指定文化財となっています。

 この掘抜の「工事の経過と比較」については、次回にします。



案内板「河口湖掘抜」 富士河口湖町

2013-05-15 16:38:50 | 旅行

 今回の旅の目的の二つ目は、河口湖船津浜近くにある「河口湖新倉掘抜史跡館」の見学です。これは船津浜の富士吉田市の石碑近く、「うそぶき山」の山腹に接した場所に立っています。この史跡館は全体がほうとう屋さん「陣笠」の建物です(写真)。

 その一階と地下が史跡館になっているのです。実際に入館して驚いたのですが、地下の展示室がかつての「掘抜」の一部に繋がっていて、実際の隧道を部分的に体験することができたのです。ここに実際の史跡があったわけです。思いがけないことでした。それゆえに、写真のような「史跡 河口湖掘抜」という案内板(写真)がほうとう屋さんのビルの角に接するように建てられていたのでしょう。河口湖町では「新倉掘抜」のことを、「河口湖掘抜」と呼称しているようです。

 もっともなことです。隧道は取水口と出口が二つの地域に分れて存在しています。ですから呼ぶ側からすれば、我が町我が村の呼称を付けたくなるのはよくわかります。しかし、史跡館はこの掘抜を客観的に扱わなければなりません。そこで「河口湖新倉掘抜史跡館」と命名したのでしょう。この史跡館の中の紹介は次回にして、ここでは河口湖町が建てた案内板──錆止めを塗った鉄板に白いペンキで書かれてありました。富士河口湖町の史跡指定を受けたのは、昭和六〇年です。富士吉田市のよる史跡指定に遅れることおよそ十九年です。全文紹介しましょう。

  • 町指定文化財 史跡 河口湖掘抜 昭和六十年七月十日指定

 元禄三年(一六九〇年)郡内領主秋元但馬守喬和(ママ)の命により、河口湖畔船津浜取水口から嘯山(うそぶきやま)をほりぬき、赤坂(出口)まで全長約四キロメートルに及ぶ土木史上希にみる掘抜工事にいどんだ。/ この工事は、毎年のように湖の増水により被害を受ける湖畔村民の惨状と、山ひとつ隔て、干魃にあえぐ新倉村民の苦悩に心を痛め、治水と水利を併せ解決すべく着工された。 しかしながら期待も空しく両口より掘り進んだ隧道に大きな食い違いを生じ通水できなかった。/ 弘化四年(一八四七)工事は再開され、六年の歳月をかけ悲願の通水をみた。しかし水量は乏しく、文久三年(一八六三)再び改修工事を行い、三ヶ年を費やし多量の通水に成功した。実に初工より一七〇余年後のことである。/ 増水と開田の対策としてのこの工事は、当時の測量・掘削技術からして高く評価されている。 
工 法 鶴嘴・石鑿による手掘り、岩盤は焼掘りといって火を燃し、石質の軟化を計り崩していったといわれる。煙の処理、土砂の搬出、進路の確認     等に竪穴を掘った。竪穴の深さは四~二十三メートルでその数九ヶ所。
総工費 一二、〇〇〇両
総労役 延べ一〇余万人(弘化四年より慶応二年)
                  平成一五年十一月
                      富士河口湖町教育委員会
                      富士河口湖町文化財審議会

 くりかえし読んでもすっきりしないのは、工事の主体が書かれていないことです。当時の領主秋元但馬守喬知に命じられたのは郡内領の領民に違いないとしても、「毎年のように湖の増水により被害を受ける湖畔村民の惨状と、山ひとつ隔て、干魃にあえぐ新倉村民の苦悩に心を痛め、治水と水利を併せ解決すべく着工された」工事の主体が書かれていないのが気になります。

 というのは先に紹介した、富士吉田市の取水口の石碑や隧道出口の案内板には、工事主体が新倉村民であり、弘化四年(一八四七)の工事再開において「新倉村自普請」とはっきりと記述されているからです。新倉村側の工事主体が誰かは、以前紹介した中村章彦さんの「新倉掘抜の職人により掘られた池開発隧道──掘抜技術の伝播を検証する──」(『甲斐路100号記念特別号』山梨郷土研究会 2002)で羽田庄兵衛さん他の当時の掘抜職人が明らかにされています。思うに、河口湖側でどのような人々がこの工事に参加したのか、これは十分に明らかになっていないからでしょうか。

 


新倉掘抜の出口 富士吉田市

2013-05-14 23:42:12 | 旅行

 河口湖の水を剣丸尾という溶岩台地に運んだ新倉掘抜の出口はどこにあるのか、確かめてきました。地図で確認すると、富士吉田市の赤坂という地区にありました。富士急行線河口湖駅前の道路を右に進み「上の段」のT字路を右折、「新倉」という三叉路を左折、中央道の高架下を下ってゆくと左側に表示「史跡 新倉掘抜」の標柱とともに木製の案内板がありました。これは近年設置されたように見受けられましたが、いつ設置されたのかの表示が見当たりません。案内板の文章を全文採録します。

  • 富士吉田市指定史跡 新倉掘抜    / 新倉掘抜は延宝から元禄の初め頃(一六七三~一六九〇)当時の領主秋元喬知が水不足の新倉村の用水として、また河口湖の水害防止のため施工した、河口湖の水を新倉村に流す用水トンネルである。当時は一時通水を見たようであるが、相次ぐ崩落と湖水の減水.により安定的使用に堪えず、秋元氏国替え後、破棄されたようである。/ その後修復の計画はあったが実現せず、弘化四年(一八四七)新倉村自普請として修復に取り掛かり、嘉永六年(一八五三)通水に成功したが翌年湖の減水と崩落により中断。文久三年(一八六三)より再工事。元治二年(一八六五)完成。掘抜延長約三七〇〇メートル。工費約七三〇〇両。延人足約十万人の大工事であった。翌年には約十一ヘクタールの開田に成功。その後新倉村の基幹水路として大きな役割を果たしたが、大正二年(一九一三)山梨県による新トンネル完成によりその役目を終わった。/ 近世用水トンネルとしては屈指の長さを持つトンネルを戸数二五〇軒余の新倉村単村自普請で完成させたことは類を見ない壮挙である。昭和四一年(一九六六)富士吉田市史跡に指定された。              富士吉田市教育委員会    新倉掘抜保存会

 ここから徒歩で「うそぶき山」方面に歩いて行きますと、新倉掘抜の出口が見つかります。出口は格子戸で封鎖されていますが、坑道の先を覗くことができます。でも、真っ暗です。この坑道出口にも、アルミ製の案内板がありました。先の木製案内板同様、設置年月日を見つけることができませんでした。見た目からですが、こちらの方が古いことは察知できます。この文章も全文採録しておきます。

  • 富士吉田市指定史跡 新倉掘抜  / 新倉掘抜は延宝から元禄の初め頃(一六七三~九〇)当時の領主秋元喬知が水不足の新倉村の用水として、また河口湖の水害防止のため施工した河口湖の水を新倉村に流す用水トンネルである。当時一時は通水を見たようであるが、相次ぐ崩落と河口湖の減水により安定的使用に耐えず秋元氏国替え後破棄されたようである。 / その後享保十五年頃(一七三〇)新倉村上新田集落の形成により水不足は益々深刻となり、掘抜修復の願望は高まったが実現せず時を移した。/ 弘化四年(一八四七)山崩れに古穴の一部発見を契機として新倉村自普請として修復に取り掛かり、嘉永六年(一八五三)通水に成功したが翌年減水と崩落により中断、文久三年(一八六三)より医師永島元長の資金提供を受けて工事再開。元治二年(一八六五)完成。掘抜延長約三七〇〇メートル、工費約七三〇〇両。延人足約十万人の大工事であった。翌年一一ヘクタールの開田に成功、その後新倉村の基幹水路として大きな役割を果たしたが、大正二年(一九一三)山梨県による新トンネルの完成によりその役目を終った。/ 近世用水トンネルとしては屈指の長さを持つトンネルを新倉村単村自普請で完成させたことは類を見ない壮挙である。昭和四一年(一九六六)富士吉田市史跡に指定された。

 以上二つの案内文は、前者が後者の文章(碑文)を踏まえて書いたように思われます。新しい木製の案内板を書いたのは富士吉田市の教育委員会と地元の「新倉掘抜保存会」ですから、この二つの団体が「新倉掘抜」に関してどんな情報を引き継ぎ、何を落として行ったかを、ある程度推察することが出来ます。


取水口の記念碑 新倉掘抜を訪ねる

2013-05-13 16:49:46 | 旅行

 母の介護を二週間ばかり休めることになったので、四月一日~三日をつかって以前このブログで取り上げた山梨県河口湖町の「新倉掘抜(あらくらほりぬき)」を訪ねました。これは大雨になると、あふれて洪水になってしまう河口湖の水を抜いて、隣の富士吉田町の富士山北麓の溶岩台地まで運ぶための用水路です。この溶岩台地は富士吉田町の人々にとっては是非とも新田開発したい場所でした。つまり新倉掘抜は、河口湖畔住民と新倉村民、両者の利害が一致した工事だったのです。調査の目的は「河口湖・新倉掘抜史跡館」を訪ね工事の詳細を知ること。河口湖の取水口と、終点の富士吉田町の出口を確認すること、富士山北麓の「剣丸尾(けんまるび)」の地形を確認することです。

 初日の天気は生憎の曇り空。カチカチ山ロープウェイにのって天上山富士見台をめざします。この天上山こそ新倉掘抜が貫通している「嘯山(うそぶき山)」ではないでしょうか。富士山頂は雲に覆われていますが、東側に傾斜している麓が眼前に広がります。なんともダイナミックな景観です。ただ富士吉田市内の地形は富士急ハイランドや密集する建物におおわれて「剣丸尾」とよばれる地形の確認は難しい。富士吉田市が傾斜地に位置することを実感したのは、新倉掘抜の出口を確認しようと、赤坂地区を訪ねた後からでした。富士急行線に沿って車を走らせ、道がのぼりおりするなかで偶然に姿を現わした大きな金鳥居の彼方に見える富士山の麓がなんともでっかいのに度肝を抜かれる思いでした。山頂が見えない、のにです。

 さて、まずは河口湖船津にあるはずの新倉掘抜の取水口を訪ねました。船津浜付近を探し回りましたが、結局、かつての取水口は閉じられており、そこは県営の駐車場になっていましたので、厳密な位置の特定はできませんでした。が、かわりに「富士吉田市指定史蹟 新倉掘抜記念碑」と刻まれた石碑が建っていました。なぜか、ここは河口湖町なのに、記念碑は富士吉田市が建てたと見えます。かつての新倉掘抜工事が新倉村々民を主体にした工事だったことの反映でしょうか。


 まず取水口のあった付近に建つ石碑です。ここには以下のように刻まれていました。全文を再録します。

 ≪富士山の噴火により堰き止められた河口湖の度重なる増水によって湖畔住民は永年水害に苦しみ、一方溶岩丸尾上の新倉村(現富士吉田市)は、水不足のため常に悩まされてきた。/ この窮状の打開策として、今から約三百年前、新倉村民の熱意と領主秋元但馬守の英断により、この正面に見える「うそぶき山」に元禄三年はじめて隧道の掘さくが計画された。/ 工事は山の東西両側から同時に着工され、苦斗十年に及んだが両坑の喰い違いから無念の涙をのんで断念された。/ 然し工事は村民の執念で約百五十年後の弘化の末に再開され、当時の幼稚な測量術と工法のもとで二十年間不撓不屈の努力が続けられ、慶応二年世紀の大工事が漸く完成し、その延長は実に四粁に及んでいる。/ 今は新隧道の開通によりこの掘抜も血と汗の歴史を秘めたまゝ廃坑となり地下に眠っているが、掘抜の水によって富士吉田市民及び湖畔住民の受けた恩恵は計り知れないものがある。/ 富士吉田市は新倉掘抜保存会と協力し、我々の遠い先祖の偉業の顕彰と、併せてこの遺跡を永く後世に傳えるため取水口であるこの地に記念碑を建立する。/ 昭和五十年五月 富士吉田市長 石原茂≫


 


ひとつの文化輸送ということ

2013-03-06 21:36:09 | 旅行

 河口湖町の「新倉掘抜」も伊東市の「池隧道」も隧道掘抜技術という文化輸送の一つです。この輸送あるいは伝播というありかたは、余所から高度な技術者を招聘して念願の事業を実現することが主な内容で、その際地元の人間も高度な技術を習得する可能性があることがわかってきました。近世における土木技術の伝播は興味深いところです。

 では時代を下ってみます。近代において高度技術の伝播・輸送というのはどうだったのでしょうか。といっても、すぐに取り出せる資料もないので、私の父が携わっていた福島県の只見川における電源開発事業を例に考えてみます。この事業は敗戦後の首都復興を目的とした電力供給事業です。結婚したばかりの父と母は只見川の発電所建設近くの集落に宿舎を与えられ現場に通いました。私が生まれた時は、会津坂下町の片門ダムのある片門村に間借りしていたことを聞いています。電気関係の技術者だった父の仕事は何枚か写真に残っています。どこでも変電所の風景が多かったのですが、一枚は大きな写真で父が、発電所の心臓とも云える巨大な「発電機」をセットするためのクレーン操作を行っている全体写真です。もちろん父の姿などは小さくてわかりません。壁ぎわに出っ張ったバルコニーのような場所でレバーを握っているようすです。この写真を見ながら父は何度も仕事の話をしてくれましたから、父にとっては名誉なことだったのでしょう。

 このようにして一つの発電所が完成すると、つぎの現場へ移動しまた別の発電所建設に従事していったのです。私が生まれた昭和27年以降は、母と私は方々の親戚に世話になりました。母がそこの農作業を手伝いながら私を育てたのです。父は休みごとに帰ってきていたのでしょう。只見川の詳しい地図を見ると、発電所の名前が記入されていますが、これらのいくつかは聞き覚えがあって母からなんども訊いた地名でした。

 どのような組織の中で父が働いていたのかはまだ分からない(たぶん、大きな電力会社の下請けだったと思います)のですが、地元の人々が働きに出ていたことはたしかなようです。ですが、彼らに父が持っていた電力関係の技術を伝えるということはなかったのではないでしょうか。大きな建設工事になればなるほど分業化・専業化が進み、たとえ伝えられたとしても狭い範囲の限られた技術だったのではないでしょうか。父の巨大な発電機をセットする技術が地元に伝播される必要性は存在しません。そんな技術が地元に残されても何の役にも立たないからです。父の発電所建設における一つの技術は工事現場でこそ活かされるものだからです。父はやがて「定住」を求めて、ある会社に入社します。それは主に工場の変電所における電気管理業務でした。それでもその工場はインフラ整備の段階で父を雇い入れたのですから、「建設」業務との縁は繋がっていたと思われます。

 私が物心ついたときは、母の実家がある河東村(現在は会津若松市河東町)で借家暮らしをしていました。両親共に働きに出ているわけですから、六歳で保育園に通うまでは、母の実家でいとこたちと毎日遊びました。そんな暮らしの中に遠方から訪ねてくる人たちがいました。時代としては昭和30年代が始まったころです。一つは行商人です。富山の薬売り、群馬の呉服売り、鍋や釜なおし、包丁類だったか・・・・・・ほかにいろんな行商人を見かけたと思うのですが、思いだせません。ですが、彼らが訪ねてきたときに玄関払いということはありませんでした。もう顔馴染みだったようで、すぐに伯母はお茶を出しいろんな話をしていました。

 彼ら行商は押し売りとは異なります、永年馴染みになった家の需要を考慮して品物を持ってくるからです。行商は品物を運んで来るだけではないのです。私の記憶では、彼らが出居(デイ)の縁側に腰掛け、その口元から聞いたことのない地名がぽんぽん飛び出すのが異郷に関する新奇な感想を抱くキッカケでした。なぜならば、イトコたちとの遊びはまさにその縁側の前すなわち軒遊びだったからです。村の通婚圏はもはや村内にとどまる時代ではなかったので、農家の嫁も遠方からもらうことも珍しくなかったと思われます。行商がその間を取り持つということもあったのではないでしょうか。逆に、遠方から来た嫁にとっては、自分の故郷の様子が聞けるとなればその迎え方もやや親密になったとしても不思議はありません。また商売上の技術についても村で衣料店を開こうなどという場合は、相談相手として待ち望まれる相手でもあったと思われます。要するに移動者が持ち運ぶ情報文化は、待っている側に需要がなければそこに定着することはないことが分かります。

 しかし、このような行商による文化輸送は衰えて行きました。このあたりを、柳田國男は『明治大正史 世相篇』で以下のように述べています。

  • 漂泊者の歴史は日本では驚くほど古く始まっている。中世以後彼等の大部分は聖の名を冒して、宗教によって比較的楽な旅をしてみようとしたが、実際は他の半面は工でありまた商であった。そうして行く先々の土着民に、土を耕さずともまだいろいろの生活法のあることを、実証してみせたのも彼等であった。もうかれこれ一千年にもなろうが、その間始終何かか新しい事を、持って来て吹き込んだ感化は大きかった。村と村との間に交易の旅行が始まったなども、多分はこういう人から学び取った技術であろう。数から言うならば国民の八割九割までが、昔ながらの農民であった時代もあるが、この生活は全国一様に固定していた。倦むことはあっても自ら改まるという機会は少なかったので、これに時々の意外な刺戟をを与えて、ついに今日見るような複雑多趣の農村にしたのは、原因は他にあり得ない。すなわち日本の文化の次々の展開は、一部の風来坊に負うところ多しと言っても、決して誇張ではなかったのである。ところが世の中が改まって行くごとに、彼等の職業は好さそうなものからおいおい巻き上げられた。町が数多くなるとすぐにその中に編入せられて栄えた。町の商工業の書物になっている発達史などは、ことごとくその背後に今までの漂泊者から、大事な飯の種を奪ったことを、意味しておらぬものはないと言ってもよかった。それはもちろん国全体から見て、幸福な整理と認むべきであるが、少なくとも村々の社会教育においては、補充を必要とすべき一損失であった。由緒ある我々の移動学校は堕落して、浮浪人はただ警察の取り締まりを要する悪漢の別名のごとくなった。そうして旅行の価値というものが、内からも外からも安っぽくなってしまったのである。(「第六章新交通と文化輸送者」第五節旅と商業)

 現在私たちを取り囲む状況は、「倦むことがあっても自ら改むる機会は少なかった」農村は廃れ、むしろ都市生活に多くの人々が「倦むことがあっても自ら改むる機会」を失っているといってもよいのではないでしょうか。だとするならば、私たちは自らが「異人(漂泊者)」となって旅そのものを改良し、廃れた村々に出かけて新たな刺戟を得ながら「自ら改むる機会」をつくり出していく必要があるのかもしれません。すでに三陸の被災地にはそのような若者が出没しているようです。