河口湖町の「新倉掘抜」も伊東市の「池隧道」も隧道掘抜技術という文化輸送の一つです。この輸送あるいは伝播というありかたは、余所から高度な技術者を招聘して念願の事業を実現することが主な内容で、その際地元の人間も高度な技術を習得する可能性があることがわかってきました。近世における土木技術の伝播は興味深いところです。
では時代を下ってみます。近代において高度技術の伝播・輸送というのはどうだったのでしょうか。といっても、すぐに取り出せる資料もないので、私の父が携わっていた福島県の只見川における電源開発事業を例に考えてみます。この事業は敗戦後の首都復興を目的とした電力供給事業です。結婚したばかりの父と母は只見川の発電所建設近くの集落に宿舎を与えられ現場に通いました。私が生まれた時は、会津坂下町の片門ダムのある片門村に間借りしていたことを聞いています。電気関係の技術者だった父の仕事は何枚か写真に残っています。どこでも変電所の風景が多かったのですが、一枚は大きな写真で父が、発電所の心臓とも云える巨大な「発電機」をセットするためのクレーン操作を行っている全体写真です。もちろん父の姿などは小さくてわかりません。壁ぎわに出っ張ったバルコニーのような場所でレバーを握っているようすです。この写真を見ながら父は何度も仕事の話をしてくれましたから、父にとっては名誉なことだったのでしょう。
このようにして一つの発電所が完成すると、つぎの現場へ移動しまた別の発電所建設に従事していったのです。私が生まれた昭和27年以降は、母と私は方々の親戚に世話になりました。母がそこの農作業を手伝いながら私を育てたのです。父は休みごとに帰ってきていたのでしょう。只見川の詳しい地図を見ると、発電所の名前が記入されていますが、これらのいくつかは聞き覚えがあって母からなんども訊いた地名でした。
どのような組織の中で父が働いていたのかはまだ分からない(たぶん、大きな電力会社の下請けだったと思います)のですが、地元の人々が働きに出ていたことはたしかなようです。ですが、彼らに父が持っていた電力関係の技術を伝えるということはなかったのではないでしょうか。大きな建設工事になればなるほど分業化・専業化が進み、たとえ伝えられたとしても狭い範囲の限られた技術だったのではないでしょうか。父の巨大な発電機をセットする技術が地元に伝播される必要性は存在しません。そんな技術が地元に残されても何の役にも立たないからです。父の発電所建設における一つの技術は工事現場でこそ活かされるものだからです。父はやがて「定住」を求めて、ある会社に入社します。それは主に工場の変電所における電気管理業務でした。それでもその工場はインフラ整備の段階で父を雇い入れたのですから、「建設」業務との縁は繋がっていたと思われます。
私が物心ついたときは、母の実家がある河東村(現在は会津若松市河東町)で借家暮らしをしていました。両親共に働きに出ているわけですから、六歳で保育園に通うまでは、母の実家でいとこたちと毎日遊びました。そんな暮らしの中に遠方から訪ねてくる人たちがいました。時代としては昭和30年代が始まったころです。一つは行商人です。富山の薬売り、群馬の呉服売り、鍋や釜なおし、包丁類だったか・・・・・・ほかにいろんな行商人を見かけたと思うのですが、思いだせません。ですが、彼らが訪ねてきたときに玄関払いということはありませんでした。もう顔馴染みだったようで、すぐに伯母はお茶を出しいろんな話をしていました。
彼ら行商は押し売りとは異なります、永年馴染みになった家の需要を考慮して品物を持ってくるからです。行商は品物を運んで来るだけではないのです。私の記憶では、彼らが出居(デイ)の縁側に腰掛け、その口元から聞いたことのない地名がぽんぽん飛び出すのが異郷に関する新奇な感想を抱くキッカケでした。なぜならば、イトコたちとの遊びはまさにその縁側の前すなわち軒遊びだったからです。村の通婚圏はもはや村内にとどまる時代ではなかったので、農家の嫁も遠方からもらうことも珍しくなかったと思われます。行商がその間を取り持つということもあったのではないでしょうか。逆に、遠方から来た嫁にとっては、自分の故郷の様子が聞けるとなればその迎え方もやや親密になったとしても不思議はありません。また商売上の技術についても村で衣料店を開こうなどという場合は、相談相手として待ち望まれる相手でもあったと思われます。要するに移動者が持ち運ぶ情報文化は、待っている側に需要がなければそこに定着することはないことが分かります。
しかし、このような行商による文化輸送は衰えて行きました。このあたりを、柳田國男は『明治大正史 世相篇』で以下のように述べています。
- 漂泊者の歴史は日本では驚くほど古く始まっている。中世以後彼等の大部分は聖の名を冒して、宗教によって比較的楽な旅をしてみようとしたが、実際は他の半面は工でありまた商であった。そうして行く先々の土着民に、土を耕さずともまだいろいろの生活法のあることを、実証してみせたのも彼等であった。もうかれこれ一千年にもなろうが、その間始終何かか新しい事を、持って来て吹き込んだ感化は大きかった。村と村との間に交易の旅行が始まったなども、多分はこういう人から学び取った技術であろう。数から言うならば国民の八割九割までが、昔ながらの農民であった時代もあるが、この生活は全国一様に固定していた。倦むことはあっても自ら改まるという機会は少なかったので、これに時々の意外な刺戟をを与えて、ついに今日見るような複雑多趣の農村にしたのは、原因は他にあり得ない。すなわち日本の文化の次々の展開は、一部の風来坊に負うところ多しと言っても、決して誇張ではなかったのである。ところが世の中が改まって行くごとに、彼等の職業は好さそうなものからおいおい巻き上げられた。町が数多くなるとすぐにその中に編入せられて栄えた。町の商工業の書物になっている発達史などは、ことごとくその背後に今までの漂泊者から、大事な飯の種を奪ったことを、意味しておらぬものはないと言ってもよかった。それはもちろん国全体から見て、幸福な整理と認むべきであるが、少なくとも村々の社会教育においては、補充を必要とすべき一損失であった。由緒ある我々の移動学校は堕落して、浮浪人はただ警察の取り締まりを要する悪漢の別名のごとくなった。そうして旅行の価値というものが、内からも外からも安っぽくなってしまったのである。(「第六章新交通と文化輸送者」第五節旅と商業)
現在私たちを取り囲む状況は、「倦むことがあっても自ら改むる機会は少なかった」農村は廃れ、むしろ都市生活に多くの人々が「倦むことがあっても自ら改むる機会」を失っているといってもよいのではないでしょうか。だとするならば、私たちは自らが「異人(漂泊者)」となって旅そのものを改良し、廃れた村々に出かけて新たな刺戟を得ながら「自ら改むる機会」をつくり出していく必要があるのかもしれません。すでに三陸の被災地にはそのような若者が出没しているようです。