ひげ爺さんのお散歩日記-3

日々新た、今日は今日、明日は明日の風が吹く

『2018・長崎平和祈念式典』 

2018-08-09 14:42:20 | 日記
           『2018・長崎平和祈念式典』



今朝の最低気温は午前5時の25.7℃。  最高気温は午後3時の31.9℃。
時折雲間から薄日が差す事も有りましたが、今日は一日通して曇り空。
気温は上がりませんでしたが、湿度の高い(90%前後)蒸し暑い日でした。


今日も散歩には出ず、長崎平和祈念式典(被爆73年・長崎の祈り)を観ていました。
こんな事ではいけないのですが、広島の原爆の日の放送は必ず観て、手を合わせますが、
長崎の平和祈念式典をじっくり観たのは初めての事です。
献水、献花、合唱、平和宣言… 良い式典でしたね。
市長の平和宣言中、話が日本の “核禁止条約不参加” に及んだ時に、安倍首相の顔が
テレビ画面に大写しになりました。 
片目をつぶり、苦虫を噛み潰したような顔が印象的でした(広島の式典でもそうでした。

安倍首相の思いとしたら “日本はアメリカの核の傘下に入っている… ここで私が
アメリカの核を否定したら、誰が日本を守ってくれるのか。
私がアメリカの核を否定しない事で、日本国民を守っているんだ” の思いがあるのでしょう。
しかし、先日の広島市長が平和宣言で述べたように 【核抑止や核の傘という考え方は、
核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与える事によって世界の秩序を維持しようと
するものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて不安定で
危険極まりないものです】 …全くその通りですよね。

長崎の平和祈念式典を観終えて、パソコンを立ち上げブログを開いてみると、
昨年の日記 『72年目・原爆の日』 に8人のアクセスが有り、驚きました。
そこで被爆体験の継承(私は被爆2世なので直接の体験は無いのですが)という意味で、
昨年の日記をもう一度掲載して今日の日記とします。

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         『72年目・原爆の日』(2017年8月6日の日記)


写真は60年位前でしょうか、父が撮った原爆ドームです(パネルにして母の部屋に飾ってあります)


今日は72年目の “広島原爆の日” です。
午前8時15分、テレビの “黙祷” の声に合わせて黙祷し、核廃絶を願い、
原爆で亡くなられた方々のご冥福をお祈りしました。 
今年は新たに5530人の方の名前が、原爆死没者名簿に記されたそうです。
前日(8月5日)までに死亡が確認された被爆者の名前が記されるそうですから、
先月28日に亡くなった母の名前も名簿に記入されたのでしょうね。


“あの日(原爆投下の日)も良う晴れて暑い日じゃった”… 
当時の様子を語る人がまず最初に口にする言葉です。
そして原爆の事を地元の人は “ピカドン” あるいは単に “ピカ” と言います。
ピカッと光ってドンと破裂した事からそう呼ばれたのです。 
それほどすさまじい閃光だったのでしょうね。
母も8月6日になると 「ピカの日も良う晴れて暑い日じゃった」 と言っていました。
ですが、母から聞いたのはその言葉だけです。 辛い体験を思い出したくなかったのか、
原爆についてはあまり話したがらない母でした。


以前に書いた日記に加筆して子供の頃の記憶を…
私はその日から2年後の8月に生まれているので、もちろん直後の様子は知りません。
ですが、物心付いた5~6年後の光景は記憶に有ります。 
住んでいた近くに法正寺という寺が有り、当時小学低学年だった私と友達は
倒れた墓石の上を、飛び跳ねて遊んでいる光景です(罰当たりな事です。
当時はなぜこんなに大きな石が倒れているのか、気にもしないで遊んでいました。
後年、原爆の爆風で倒れたのだと知りました。

土を掘っていて、熱で溶けて飴のようになったガラスも良く見かけました。
今でも掘り起こせば出て来るのではないでしょうか。

広島駅前の橋のたもとで… 戦争で片足を失った傷痍軍人が白装束でアコーディオンを弾き、
物乞いをしている光景。 ♪ここはお国を何百里…離れて遠き満州の…


銭湯の女湯… 顔から肩や背中にケロイドのある人が、人目を気にしながら入浴している光景。
当時内湯の有る家は少なく、ずい分恥ずかしい思いをしながらの入浴だったと思います。
こんな事も思い出しました… 父が働いていた会社の社長さんの家に行った時の事。
社長の親せき(女性)の方に出会い “お父さん、さっきの人、鼻緒(はなお)が切れてる”
と言ったのです。 その人は顔の半分がケロイドで、鼻がつぶれたようになっていたのです。
“鼻緒(はなお)” は下駄の鼻緒(はなお)の事ですが、子供の私は 
“顔の鼻” からの連想で、つい “鼻緒(はなお)” という言葉が口に出たのです。 
私は鼻緒の意味も知らずに口走ったのです。 
父の妹(私の叔母)も肩にケロイドが有るのです。
父に目から火が出るくらい叩かれました。

 
被爆前の町の様子を知らない私は、世の中はこういう物だと思って受け入れていました。 
戦争に行っていた父以外の親戚は皆んな被爆者でしたが、原爆については殆んど
口にしませんでした。 
うすうす近い過去に何か有ったとは気付いていましたが、何が有ったのかを訊くのも
憚られる雰囲気で、私から積極的に聞く事はしませんでした。 


そうそう、知り合いのお姉さんが原爆に遭っているという理由で、結婚を断られたと
憤慨して話している両親や親戚の光景も思い出します。 
この時はもう原爆が落とされた事は知っており、私たちは何か重い物を背負わされて
いるなと感じたものです。
幸い被爆者である母や親戚の人たちは皆んな長生きしていますが、まだ若かった頃は、
身体に不調が有るたびに原爆と結び付けて、得体の知れない不安に怯えていました。

いま、広島に落とされた原子爆弾の数千倍もの威力が有る原爆、水爆が、
世界に1万5千発存在するとか。  隣国ではその開発にトチ狂っているし…
誰か気の狂った奴がボタンを押さないとも限らない…
原子力発電にしても1度事故が起こればその処理に数百年もかかる…
核兵器なんて要らない、原子力なんて要らない。


今日の歩数   0歩。
コメント (6)
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