2020年12月5日(土) 小雨
50余日振りのブログである。もう肌寒い師走の季節になった。
年初から始めた『獄中千日の読書』はどうにか今も続いている。
先週、二か月かけて『日本書紀(全30巻)』を読み終えた。記紀の
一方の『古事記』はもう3度ほど読んでいるのになぜか日本紀の
ほうは今回が初めてである。どうせ日本の権力側が一方的に纏め
上げたカッコだけ付けた歴史書だと決めつけていたから、手が伸
びないでいた。今回、獄中にいることだし、まあ読んでおくかと
高を括ってページをめくり続けた。
思わぬ収穫もあった。特に中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原
鎌足)による大化の改新の情況、大海人皇子(天武天皇)の壬申の乱
のくだりのは手に汗握るほどの迫真の筆致である。それよりも
なによりも、日本書紀を読むことによって私の中に新たな古事記
観が開かれたことは否めない。どちらが正しいのかのではない。
どちらも正しいのでありどちらも誤りではない。その苛酷な時代
を何としても生き伸びていかなければならなかった人々による、
後世のための魂の記録である。
獄中千日の読書、さあ今度はいずこに?
それはウイリアム・ジェームスの『宗教的経験の諸相(The varieties
of Religious Experience』。私が最も憧れている書の一冊だ。
ラーマクリシュナも鈴木大拙も、はたまた、南方熊楠も井筒俊彦も
それぞれにおいて求め続けていた『真如』の扉を、そろそろ私も
叩いてみなくてはならない。それが『生きる』ということの意味だ。