祈りへの巡礼

敬虔な祈りへの旅へ。

芸事と大きな夢

2017年10月30日 | 日記

2017年10月30日(月) 快晴

台風一過、見事な快晴の秋空であるが興ざめするぐらいに風が強い。そんなに何もかも上手くは

いかないのが自然の風流さというものであろう。まあ、お天気は人生と同じだ。雨の日もあれば

快晴の日もあり、人生糾える縄の如しと達観するかしかないだろう。

話は大きく変わるが、芸事の一つとして7月から本格的にpianoを習い始めた。最初、先生初心者

の私の年齢を聞いてにべもなく断られたが、粘り強く交渉を続けてなんとか入門を果たした。それは

それでいいのだが、先生に私が若い人と同じように手加減しないでやってくれと口を滑らしたものだ

からあまりに練習がハード過ぎる。しかし稽古していかないとがみがみ云われっ放しで胸糞が悪い。

私もすぐに頭に血が昇る口だから、よーしやってやろうじゃねえかと売り言葉に買い言葉、もう訳

が分からなくなってきている。毎日3時間位の練習では追いつかない有様だ。おかげで腱鞘炎やら

肘が奇妙に腫れ上がる症状が後を絶たない。思い立ったが吉日とはいうものの、後悔先に立たず。

まあ、人生だからそのうちいいこともあるさと只管努力、只管継続の精神でやる他はない。

しかし私には大きな夢がある。五年後にPianoトリオを組んで彼らとともに舞台に立ち、共に弾き、

またコミカル極まりなく破天荒に演じ倒すことだ。

もっと詳細について語れよって? それはまだナイショ。ただ、入場料だけは恐ろしく高いよ!

 


記憶の曖昧さ

2017年10月24日 | 日記

2017年10月124日(月) 晴れのち曇り 雨

先週も書いたが「名誉と恍惚」を読終えて以来、どういうわけか長編小説ばかりに目が行く。

そこで先週末から、書棚からトルストイの「戦争と平和」を引っ張り出してきて読み始めた。

中途まで読んでおやと思った。これほんとに戦争と平和かいな、ほぼ半世紀前の記憶の中に

ある内容とまるで異なっている。昔書き綴っていた読書ノートを探してみたがどういう訳か

見つからない。アンドレイとピエール両伯爵の印象にしてもアレッ?こんな人物だったっけか

と首をついかしげたくなる。頭の中にある半世紀前の記憶なぞとても信用出来はしない。だが

これが人間の人間たるゆえんかも知れのしない。ちっとも真実を理解していないくせにあたか

も臆面もなく知ったかぶりをするいい加減な動物の典型である。しかし、人間という生き物は

ちねに自分に都合のいいような思い込みの「バカの壁」を創っていないと生きてゆけない存在

なのかもしれない。つまり、案外苦い思い出が一杯になると生きていけないのかも知れない。

だからあえて現実に起きた事実と違ったバラ色の似非情報を自分に信じさせるのも知れない。

 

とにかく「戦争と平和」の記憶の真偽は今回読了し終わってからしっくり考えることにしよう。


精神の集中

2017年10月15日 | 日記

2017年10月15日(日) 雨

先週、前から気のなっていた松浦寿輝著の「名誉と恍惚」を読んだ。盧溝橋事件が勃発した1930年代

の国際租界地上海を舞台にしたハードボイルドタッチの長編小説である。7百余頁もあるが、五日間

で読み終えた。一気に読んでしまったという方が正しい。とにもかくにも読ませる小説である。

この小説を購入するのに何度書店の棚も前を行ったり来たりしことか。一冊が、な、なんと5000円

もする。迷った挙句、……ついに買い求めた。結果として非常に満足した。

しかし、スマホにかかかわる電子費用ははるかに大きいのに、たかが書物一冊の購入で逡巡してしま

う神経は異常であると言わざるを得ない。一冊の書物に込められた著者の情念や人生哲学には無限の

価値がある。それともう一つ不思議な余禄現象がある。長編小説を読むことで一気に他の長編への

再読の興味が湧いて来ることだ。人生の未来がおおいに開かれることだ。これはお金では買えない

ことだ。まるで次元が違う。戦争と平和かカラマゾフの兄弟にしようか、それともレミゼラブルか。

胸が躍るよ。

きみ、本読んでいますか? 恥ずかしながら顔に出ますよ。

 

 

 

 

 

 


自然の摂理

2017年10月10日 | 日記

2017年10月10(月) 快晴

かつて固定式の暦で体育の日と呼ばていた10月10日はどういう訳が快晴の日が多い。今から53年

前の東京オリンピック開会式の日がそうだった。前日まで嵐のような大雨が続いていたのに当日は

見違えるような快晴になった。自然天候の歴史的事実に基づく確率は人間の目より確かである。

それに比べ、合理性だけを求める人間の浅知恵はお粗末なものだ。いつから暦の休日を簡易な移動

方式にしたのだろう。暦の休日の休みの意味がまるで分からなくなって来ている。例えば昔から

成人の日は1/15、体育の日は10/10に決まっていたのにどうも勝手が違う。なにか権力側が民衆と

いう豚の大群に餌をばらまくように、自然の理法に則った暦の静かな営みを無残にも踏みにじって

るような気がしてならない。そりゃ休みは大いに増えた方がうれしいし、連続していたほうがいいに

決まっている。しかし季節の法則を軽々しく無視してまでそれを進めるのならそれは罰当たりな

ことである。私達の日々の営みは自然の流れに従うべきである。これに背くと痛いしっぺ返しを

食うことになる。ここらで暦法を昔ながらの陰暦に戻してはどうだろうか。旧正月から始まって、

そこには自然と人間との対話に基づく先人の万華鏡みたいな生活の知恵が満載されている。

この方がよっぽど楽しいと思うけど。来年のお正月いつから始まるのか楽しみだなあ、と。


小池百合子と戦略

2017年10月03日 | 日記

2017年10月3日(火) 曇り

生きてゆくためには戦略というものが必要だ。どんな人生を選択しようともそれは不可避である。

悟りきったお偉い人間には必要ないかも知れないが、おおかたの人間はたれもがなにがしかの弱

みを持って生きてる訳だ。その生存の根拠賭けて人は生きゆくための「戦略」を紡ぎ出す。

時の人である小池百合子氏はおおいに謎に富んた戦略性を持っていると直感する。なんと云った

らいいのか到底男性陣には及びもつかない感性の持ち主である。いずれにせよ妖怪化け猫か緑の

大狸かの類たろう。これは貶しているのではない。むしろ最大の褒め言葉なのである。

それに比べ、国難国難と絶叫している薄っぺらい政治家程創造性と戦略性に欠けるものはない。

 

今更幕が開くのを待つまでもない。これすら理解しないふやけた男性社会は破滅する他道はない。