祈りへの巡礼

敬虔な祈りへの旅へ。

二荒山と修験道

2018年10月22日 | 日記

2018年10月22日(月) 快晴

先週、初めて日光を訪れた。『日光を見ずして結構と言うな』というくらい有名なところだが

どういうわけかいままで一度も行く機会がなかった。海外にも 『Voir Naples et mourir』

(ナポリを見てから死ぬ)ということわざがある。だからというわけではないが、前々から一度

くらいは行ってみたいとは思っていた。

今回は、東照宮からはじまって輪王寺、二荒山神社、それから中禅寺湖、華厳の滝。翌日は

奥日光の湯滝、湯ノ湖にまで足を延ばした。中禅寺湖から戦場ヶ原、龍頭の滝、湯元辺りは

秋の紅葉で、肌寒いくらいの天候であった。このところの運動不足のためか、東照宮家康廟へ

到る207段の階段を登る際に、脇を通り抜けてゆく小学生と思しき元気な子たちと競争になり

不覚にも太腿付近に軽い肉離れを起こしてしまった。下山する時のつらさといったら…

よせばいいのに、歳は争えませんな。

いまの男体山一体、つまり二荒(ふたら)山系はもともと修験道の地であった。『にっこう』の

呼称も二荒(ニコウ)を起源とする。祖先の一人が山伏(修験道者)であったから、妙に親近感を

感じる。修験道は葛城山の役小角を頂点として興り、自然宇宙と現世界とをつなぐ巫覡的な役割を

果たさんがために険しい山地を駆け巡り想像を絶する修行勉学をしていたという。

そこには『奇跡』が起こり得る。


偶然の出来事

2018年10月15日 | 日記

2018年10月15日(L) 曇り

土曜日、高崎で久しぶりに弟に会った。それから妹の運転するレンタカーで、榛名湖まで行った。

平地とは違って、榛名山系は肌寒い北風が吹きおろしてくる。体重1トンほどもあるばん馬が引く

湖畔沿いを廻る観覧車に乗ったり、裏さびれた土産売り場兼レストランで食事をしたりしてして

あっという間に時間は過ぎた。弟はやや興奮気味でとてもうれしそうだった。横顔を見ると亡く

なった母と瓜二つだった。いまごろになってそんなことに気付いた自分の無神経さに驚いたが。

 

そういえば先週たまたま立ち寄った博多で、なんとその日その地に住む叔父が亡くなった訃報を

受けた。私が島原港から三池大牟田を廻り天神に出て、仲哀天皇と神功皇后を祀る香椎宮を訪れ

た直後のことだった。叔父の霊が私を引き寄せたとしか考えようがない偶然であった。(続)

 


受け渡していのち

2018年10月12日 | 日記

2018年10月12日(金) 曇り

どんよりとした雲行きのお天気だ。こころの内側にも鬱陶しい霧が立つ。鴉達の声がいつになく

私の耳に響くのは気のせいだろうか。なんともおどろおどろしい朝である。

ふと、私の尊崇する稀有の巫女・石牟礼道子さんの小説『天の魚』の一節を再びひもとく。

『孫であったものたちがやがて年寄りになる。そしておむかえの時期が来る。してみると、畠の

ぐるりの繁みや、渚をころがりまわっている村々の稚いものたちは、死んでゆく自分の生まれ替

りではあるまいか。この世はなるほど順々送りじゃねえと自得する。たぶんもの心ついたとき、

それは自得されていたことだった。自分は誰の生れ替りだろう…

 年とった彼や彼女たちは、人生の終わり頃に、たしかに、もっと深くなにかに到達する。たぶん

それは自他への無限のいつくしみである。凡庸で、名もないふつうのひとびとの魂が、なんでも

なく、この世でいちばんやさしいものになって死ぬ。』

そういえば、島原一揆で16歳でこの世を去った天草四郎時貞と、天草農民のために石高半減を

申し出て割腹した代官鈴木重成と、この2月に亡くなった石牟礼道子さんとは、もしかしたら順々

送りのいのちの循環ではあるまいか。かれらの自他への無限のいつくしみがあったればこそ、

私たちはいのちを保ちつづけてられているのだろう。

 

明日はおとうとの入居する重度心身障碍児ための高崎コロニーへ。2ヶ月ぶりの再会である。

気恥ずかしい気持ちがいつもするが足は自然にそこへ向かう。いのちある限り私の責務である。

 

 


早崎瀬戸

2018年10月11日 | 日記

2018年10月11日(木) 曇り

4万人近い老若男女が全員命を奪われたが原城二の丸跡から早崎の瀬戸を眼下に見下ろす。

ひろがりゆく苦界の静寂のなかに、人間の魂の永遠の悲しみが横たわる。

Oratio!!!


天草島原記(その2・鈴木重成)

2018年10月09日 | 日記

2018年10月9日(M) 晴れ

小説『春の城』の第一章は『早崎の瀬戸』である。主人公の一人おかよ達が二江の浜から

対岸の島原半島の口之津港に到るまでの荒い瀬戸である。私は本渡からバスで鬼池港に出て

口之津に向かったが、この早崎の瀬戸とは現在のフェリーに乗っていながらもちょっと身の

危険を感ずるくらいだから、当時の小舟で渡り切ろうとするとこれはもう大変な難行である。

その口之津港からバスで海岸沿いを20分足らずで行くと、島原天草の乱の跡である原城跡だ。

3か月難攻不落の原城一揆隊の抵抗に対し、手こずった幕府軍は当時の最新兵器である大砲を

持ち出した。そのときの責任者が鈴木重成である。どういう歴史上の皮肉か、その彼が乱後、

天草島民の総代官となった。すぐさまは重成は天草農民の苛酷な状況を幕府に訴え、石高の

半減等を激しく上訴した。そして、願い叶わず彼は割腹までして異を唱えたのである。享年

66歳。武士が農民のためにいのちを架したことが日本の歴史上、果たしてあったであろうか!

そこまでして彼を突き動かしたのは何であったか。私は、原城跡の3万7千人の今は亡き純粋

な魂(アニマ)の飛翔であったと思う。無念やるかたない人々の凄惨な最期を看取った人間の、

本源的な償いとして鈴木重成は最後の自分のいのちを賭けたのではなかろうか。

今でも天草本渡の市役所脇に立派な鈴木三兄弟の像が立っている。文字通りレクイエムである。

安らかに眠れ。日本国家最大の暴虐にめげず、最後まで戦った尊崇すべき平民のために合掌!

(続く)