2017年6月28日(水) 小雨のち薄曇り
ふと、1年前のブログを読んでみる。私自身忘れていた大切な生命の原点をあらためて覗いたような
気がした。以下、再び載録する。
2016年6月28日(火) 雨 (題字:芸術の尊厳)
降りしきる雨の水滴と戯れながら、庭のイネがすくすくと育っている。青々としていてじつに見事だ。
神が創り上げた一種の芸術作品かも知れない。彼らを見続けているとなんだかこちらまで励まされて
いるようで、変に面映ゆい。
「芸術」は身を救う。いや、それは違う。ほかならぬ私たち自身がそもそも芸術作品なのだ。要は
そのことを理解しているか否かである。有史以来、人類の歴史は芸術の歴史でもあった。私達の
祖である猿人がタンザニアのオルドヴァイ渓谷ですっくと二本足で立ち上がり世界への冒険の旅に
旅立ったとき以来、いのちを賭けた連綿たる労苦のさなかで我々の祖先は数々の芸術作品を産み落
として来た。アルタミラやラスコーの洞穴壁画しかり、エジプトのヒエログラムや死者の書しかり、
である。彼らはその奥になにを視たのか?人間の一切を超えた自然の神秘である。信仰といって
もいい。そして彼らは芸術を通し悟った。日々を生きるということは「不合理ゆえにわれ信ず」の
祈りの継続である、と。
ところが、現代は生きる価値の中心は信仰ではなくまぎれもなく貨幣である。マネーイズオール、
金が全ての願い事を叶えてくれると信じている。現代人はいのちを差し出してマネーを得ている。
一文の価値も生み出さない「芸術」には見向きすらしない。はたして芸術はなにものも生み出さ
ないのだろうか?私の答えはノン!である。
職場の机の上にささやかな花を生ける。毎朝、聖書を胸に小さな祈りをささげる。疲れたときに
ふっと遠くの風景を眺め好きな詩作を口ずさむ。一年に一度でもいいアングラの小劇場に行って
異時体験をする。自宅で好きな楽器を取って懐かしいメロディーを奏でる。自分でお茶を点てて
みる。どんなに小さなことでもそこにあなたのささやかな願いごとが託されている限り、あなたは
夢見る信仰家だ。つまり立派な「芸術家」である。人生から芸術というものを削除したならば、そ
の個人、その組織、その社会、その国家、その宇宙は終焉したも同然である。
未来に向けて、私達は芸術の崇高さがまさに価値の中心となる世界へと180度旋回せねばならない。
国家のトップのまことに醜き人品骨柄を視るにつけ、革命的かつ根源的変革は歴史の必然である。