祈りへの巡礼

敬虔な祈りへの旅へ。

夏風邪と軽井沢

2017年07月31日 | 日記

2017年7月31日(月) 晴れ

夏風邪に罹ってからもう半月ほどになる。微熱がどうにも取れない。ああよくなったかなと思っている

とまたおかしくなる。仕方なく数年振りで病院に行った。やややぶにらみの医者は胸の聴診器を当てて

まず肺炎がないかどうかを視、つぎに高速血液検査機で血液の状態を視た。結果、医者の言うには葛根

湯でも出しおきましょうか。それでしばらく様子を見てみましょう。どういうわけか、病院から帰った

夜、知恵熱のように熱発で38度まで体温が上昇。これ、一体どうなってるの?

それでも2年に一度の、一族郎党挙げての軽井沢行にはどうにか間に合った。軽井沢は空気がきれい

でひんやりしていた。からだには好都合であるのだろう、いつも続いている微熱がほとんどない。

やはりこういうときは避暑に限る。しかし、避暑に行くことなどいつもは頭の片隅にものぼらない。

貧乏性の私の人生の辞書には「避暑」という言葉は存在しない。

というわけで、悪女のような夏風邪はいまはどうにか小康状態である。そうえいば20代前半の会社

入社仕立ての年、今よりもひどい夏風邪を引いたことがある。高熱にうなされ独身寮の中で一人悶々

としていた。あれは原因がハッキリしている。会社拒否症だ。初めての会社寮生活がこんなにも隷属

的人非間的なものかいやでいやで仕方がなかった。だから退寮決めたとたん治った。風邪にもいろい

ろ原因があるものだ。ウィールスだけではないということだ。貴方の風邪はなに色かしら?

お互いに御身体にはくれぐれもご自愛を。健康が一番!


だれもが炎の人

2017年07月16日 | 日記

2017年7月16日(日) 晴れ

連日まるで炎のような酷暑が続く。こうも暑いと体温調整機能までおかしくなってくる。そういえば

数年前、真夏の7月の末にフランスのアルルを訪れたことがあった。大きな糸杉とヒマワリが畑の

彼方で揺れていた。それはまさに炎の人ゴッホにふさわしい光景だった。湿度が少ないから日本の

暑さとは違う。ただカーンと乾いた空間の中でひたすらろうそくの炎が燃え盛っているようだった。

 

私達にとっての炎とは一体何だろう。それは使命である。いのちである。この世に生を受け、ただ

一度だけの人生という類稀なる分水嶺をわたる。このなにものにもかえがたい聖霊特権を私達一人

ひとりが持っているのだ。炎の人とはゴッホのことだけを差し指すのではない。私達皆が炎の人と

いえる。その資質を神は平等に人間に与えてくれている。

だから一刻も早く気付かなくてはならない。自分の使命、責務、いのち、つまり自己の中の炎が

一体何であるのかを。会社や組織と云ったゲゼルシャフトが神ではない。あなた自身が神なのだ。

あなたのこころにあるゲマインシャフトが大切なのだ。だれもが炎の人なのだ。

さあ、荒野に向かって共に歩こうではないか。大きな炎となって。

 


愚禿

2017年07月09日 | 日記

2017年7月9日(日) 快晴

朝刊を取るために一歩玄関の外へ出ると暑さでむっとする。朝からこれである。いくらなんでもこの

気温では日中が思いやられるなあ。連日の30度越え、冷房も何も使わないからだには相当こたえる。

逆に隣の空き地の青々とした雑草達のたくましさはどうだろう。緑の濃淡に満ち満ちたその色合いと

いい、競い合うようにして天空に伸びる猥雑な生命力といい、まさに我が世の春という感じが一杯だ。

これが自然の天啓である。暑い寒いと言わずにただ与えられた天の恩恵をそのまま受け取る山川草木

にはほんとうの生がある。どんな環境であれ口答えすることなくそれを受け入れ、たくましく生きて

ゆく姿は、ああこれが生命なんだと感じさせる崇高なものがある。山川草木悉有仏性などと上から

目線でたいそうな御託を並べる人間様がじつはもっとも弱い実存である事実を、これほど如実に

示しているものはないであろう。いやいや、それにしても暑いなあ。

暑さ寒さの煩悩の犬は追えども去らず。つまり人間万事罪悪に生きる。所詮、みな愚禿である。

罪人は罪人らしく、ただ真摯にたくましく生を全うせよ。

 

 


魂の行き先

2017年07月04日 | 日記

2017年7月4日(火) 曇り

今夜半は台風の影響で相当荒れそうである。それはどこか私の魂の変転に似ているのかも知れない。

昨年の7/4のブログをひもといてみる。

……

宮沢賢治もゴッホも、その人生を一言で言い表すならば、生のあり余る悲劇と言えるかも知れない。

私はふと人生に迷ったときに、もし賢治やゴッホであればどう生きただろうとよく思う。二人の生き方

には私の魂に強く語り掛けて来るなにかが確かに存在しているからである。

賢治の「春と修羅」やゴッホのテオヘの「往復書簡集」を読んでいると、私はこころの奥でふたり

に共通する生への強烈な渇望を感じないではいられない。それを何と言って表現したらいいものか

分からないが二人の「溢れんばかりの生命の悲劇」をずんと魂に感じる。それは衝撃と云っていい

ほど私の生命を揺さぶる。他者に対する盲目的愛、自己に対する狂おしい愛、と云ってもいい。

そしてかならず、異国の地へ出てゆけと誘導する不思議な磁力を二人は私にもたらすのだ。

安住することなかれ、つねにいばらの道を歩めと彼らは決まって私に忠告する。その地の果てに

答えがあるとは思ってもいない。しかしその地を潜り抜けなければ新しい生命の水平線は視えて

こないことだけは本能的に分かるのだ。

社会と自然と宗教的崇敬とが三位一体になった共同世界の具現化を追い求めたゴッホと賢治は

奇しくも同じ齢37歳でこの世去った。彼ら二人が希求し已まなかった理想社会実現のこころざし。

その夢はかならず開けると私は信じる。

 

…おお友だちよ いっしょに正しい力を併せ われらすべての田園とわれらすべての生活を

 一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか… (賢治の農民芸術概論より)

 

これはまた私の願いでもある。


この国の構造

2017年07月03日 | 日記

2017年7月3日(月) 晴れ

昨日、都議会選挙が終わった。結果を見て、私は一瞬わが目を疑った。なんと自民党が23議席も

確保しているではないか。私はせいぜい10議席も取れればいい方だと思っていたから正直この

事実に愕然とした。それが他党との今までの相対的な力関係や企業組織の締め付けがあるにせよ

この数字は衝撃的だった。

そしてこの国の旧態依然たる構造がいかに強固なものか、あらためて考えさせられた。明治維新

しかり、敗戦しかり、この国は自らの内部エネルギーで自らを変革することはけっして出来ない。

21世紀。世界とのより緊密な関係の中を生きて行くには、人類の未来への希望を指し示す人間的

倫理観と創造的エネルギーの強烈なベクトルがリーダーには必要とされる。もり・かけではなく、

日本が世界を牽引してゆかなくてはならないという崇高な理念が欠けている。器がまるで小さい。

この旧牢たる構造を打破しない限り、いつまでたっても新しい日本は創出出来ない。

そのときは至ったと私は感じるからあまりに愕然としてしまった。おかしいのは私の方だろうか。