祈りへの巡礼

敬虔な祈りへの旅へ。

種の起源

2016年09月28日 | 日記

2016年9月28日(水) くもり

ダーウィンの種の起源(第6版)を昨日ようやく読み終えた。読了するまでに1か月間もかかったが、

なんだか長年に亘ってのどにつかえていた魚の小骨が取れたような気がする。学生時代から何回と

なくトライをし、そのたび頓挫を繰り返して来た書物だった。私の机の左側にある書棚の奥から、おい

一体いつになったら読むんだよと問いかけられているよう気がしてなかなか気が落ち着かなかった。

19世紀中葉、まだ神による生命創造説が犯すべからざる真理であり続けた時代に、確かに博物学者

ウォレスらの自然選択による種の形成の概念があったにせよ、豊富な経験的事実を元に断固たる自己

の意志として「自然淘汰を通しての生物種の進化論」を世に表明したことは驚くべきことである。ここ

ろから敬意を表さずにはいられない。500ページ近い大作の行間からオレの真理を聞いてくれという

ダーウィンの怨念を聞かされた感じがする。

自然の真理を視つめ通す鋭い感受性と、その真理を明らかにして行く驚異的な継続的努力、そして

この崇高な自然淘汰による生物の進化に対する子供のような純粋な思い入れ。歴史的なパラダイム

は、いつの時代にもこのような感受性の優れた人の驚くべき信念により創り上げられるのだなあ。

我が身を振り返ると、その極小の存在に思わずため息が出てしまう。

ダーウインの爪の垢でも飲んで、私も大いなる信念を持って人生の最終目的を目指さなければ。

 

 


ことの真相

2016年09月22日 | 日記

2016年9月22日(木) 雨

昨日のブログは抽象的で何のことか分からんというご不満のメールをいただいた。失礼しました。

要するに一言でいえば、もっと形而下の現実に沿った知を獲得して行かなければ何にもならんぞ、

素朴な子供たちの気持で真摯に学問に接しなさいということの発見である。これは私にとっては

衝撃的な大事件であった。以下、問答した。

ふと空を見上げる。気持ちいいくらいに蒼い。でもなぜあんなに蒼い?

それは光線が大気中の塵に反射して七色のスぺクタルの青色だけを反射しているから。

でも、なぜそれを私達は青と感じるの?

それは光が私達の角膜から水晶体、ガラス体、網膜と行き着き、そこにある視細胞を興奮させ、

それが視神経を経由して視床に、そして最後に大脳皮質である視覚皮質に届き初めてああ青だ

と観ずるわけよ。

でもその青という観念を産み出す原理はなんだろう。あわせて主観とは一体なんなんだ?

真実の青なんてこの世に存在しない。それは人間が勝手に「青」という分類上の言葉(コード)を

でっち上げて創っただけのこと。主観はすべてコードに過ぎない。この世界の真の姿は永遠に

知ることは出来ないね。地図は土地そのものを指してはいないことにゆめゆめ厳重なご注意を!

…ほらね、あなたは何ひとつ分かっちゃいないのよ、世界の仕組みを、そして人間というものを。

いまからでも決して遅くない。一から勉強し直しなさい。人生とは永遠の学びよ。

……こんなていたらくでよく20年も社長業がやれたものだと思うとぞっとする。懺悔の極み、

赤面の至りだ。せめて罪滅ぼしをしなくては死んでも死にきれない…

いずれにせよ世界は無限の謎ばかりである。その未踏の地への冒険こそ本当の夢というものだ。

 

 

 


知の真の姿

2016年09月21日 | 日記

2016年9月21日(水) 曇り

台風一過なのに朝からどんよりしたお天気だ。その上肌寒い。スカッとした気分には到底なれない。

汝自身を知れという十字架を背負って日夜勉学に研鑚しているが自分でもその効果が感じられない。

それはそうだろう。たかだか毎日5~7時間、月間で150~200時間机に向かっているくらいで、

なにが分かるというのだろう。

しかし、私は最近学ぶということに関してある衝撃的な事実に直面した。学ぶこと、汝自身を知ると

いいながら、それはあくまで頭の中の遊戯ごっこに過ぎないという雷光がからだを駆け巡ったのだ。

現実と遊離した知ほど空しいものはない。小さい頃から学問に向き合う態度、方法論、そのいずれも

が間違ったベクトルを向いている。単なる知識獲得のための勉学なら、それは真理に向き合うのとは

根源的に異なる。私が求めている知の真の姿は真理への真摯な問いかけである。

ここらで一切を投げ捨てよう。そして、純粋な視線で真剣に現実と厳しく向き合って行こうと思う。

ダーウインとギュイヨーとベイトソンから、私は人間の思考のパラダイムチェンジを徹底的に指導

された。今日から新たの旅立ちだ。

 

 


思うこと

2016年09月08日 | 日記

2016年9月10日(木) 曇り

真夜中に突然激しい雨が降り、目が覚めた。なんだか部屋中が湿っぽい。颱風到来かな、

今月末で人生の開店休業してから丸一年、ほんとうにあっという間だ。今までまったく

気付かなかったことが見えて来たような気がする。それは自分の当たり前の価値観であり、

行動規範や時間感覚というものへの根源的な疑問だ。つまり、あなたにとって真に生きると

はどういうことですか?ということを厳しく自分に突き詰められた一年であったと言える。

 

新しい生き方を真剣に模索するとは、暗闇の中に根源的な人生の道、理想を見出すことだ。

それには自分のすべてを一度断捨離し、まったく新しい自分の宇宙観や人生哲学を再創造

しなければならい。蛮勇が必要だが、それらの新たな信念を腹の底にいれて最後の人生に

清々しく立ち向かおうと思う。この一年、その営々たる困難な準備作業の年だったという

気がする。いい加減、人間らしく自然に生きようぜ! 明日が視えないから悦びがある。

Living for Today !  

わけだ。


再び

2016年09月05日 | 日記

2016年9月6日(火) 晴れ

再び 筆を執る。

この1ヶ月、私はイヤというほど自分の大いなる無知に悩まされた。ソクラテスの、汝自身を知れとは

私のために用意された箴言に違いない。今読んでいる3冊の本が机の上にある。ダーウインの種の起源

、ベイトソンの精神と自然、それにギュイヨーの義務も制裁もなき道徳である。私にとっては巨大な知

の山脈だ。いずれの著作をとっても、第一に、世界の捉え方の視点がとてつもなくスケールがデカい。

一個の人間として、正しい世界の姿はどうあるべきかを科学的な見地から省察してゆくんだ、という

勁いエネルギーをひしひしと感じる。読んでいて圧倒されるのだ。まさに知の巨人たちの営為だ。

この世は何も考えなければそれで済む。生きて行くことに義務も責務もない。ただ漫然と日々を

送り往くことにだれも咎めはしない。東から陽が昇り西に沈む。そこに呼吸する自分がいる。それ

だけで人の一生は簡単に終わる。だれもそれを非難できない。生まれて来ざるを得なかった不条理

を見返すにはそうするほかはないのも事実である。しかし、人間が生きるとはどういうことか?

どんなことがあっても自分を信じ、行動し続けることだ。そのためにこそ信念というエネルギーが

ある。他人のためにというどうしようない憐憫の本能がある。このちっぽけな、限られた命の存在。

そこに無限の未来が拡がっているのを感じないだろうか!さあ,キミの理想に向かって歩き出すのだ。

理想は苦しみ悩む人々の中にこそ芽生えるものだ。知の巨人たちはそう言って私の背中を押す。