祈りへの巡礼

敬虔な祈りへの旅へ。

アニマの飛翔

2017年03月26日 | 日記

2017年3月27日(月) 雨

失敗をしない人は挑戦をしない人のことである。この名言はアインシュタインが云った言葉であるが、

今日の稀勢の里を観ていてなぜだかそのことを思い出した。まあそれほど感銘を受けたということだ。

どんな困難を背負っても勝負の世界に果敢に挑戦してゆく姿は人間の胸を打つ。だが人間は生来保身

の動物だから自分みずから本来の自分を乗り越えさらなる高みを目指そうとはなかなかしないものだ。

挑戦する向こう側にこそ本物の理想郷はあるのに身体を張って挑戦しようとすることはなかなかない。

しかしながらトップランナーである人間はそれではいけないと私は肌で知っている。トップは危機的

状況の下ではつねに自らの命を賭けなければならないと思う。理屈ではない。本能的な感覚である。

なぜならトップは因縁をあわせもった人々のすべての命を救わなければならないという使命を担わ

されているからである。

天草四郎時貞が島原半島の原城で、短き人生の命を代償に、夢の楽園へ行けるようにとアニマの飛翔

の勇気を農民全員に与えたように。


祈り

2017年03月20日 | 日記

2017年3月20日(月) 晴れ

早いもので弥生3月も下旬である。来週の今頃は桜の開花のニュースで賑わっていることだろう。

でも、今年は例年に比べ北風がつよいせいか、肌に感じる体感気温はいつもより低い気がする。

部屋で過ごす時間の多くなった私だけの感覚だろうか。今朝もまた風がつよいせいか寒く感じる。

春は近いようでなかなか遠いなあ。こういう時節は昼間から蕎麦屋で大熱燗に板わさがいちばん、

最後に食べるせいろの味もまた一段と美味しくなるから不思議である。典型的な日本人だなあ。

そういえば、野球にそれほどの興味を示さなかった人がWBCのテレビ観戦に夢中であるのには

驚いた。その人たちに聞いてみると、日の丸を背負っている姿をみるとなぜだか応援したくなる

からだという。愛国精神とまではいかないが、負けるな!、と思わずリキが云ってしまうという。

これは理屈ではなく私達のからだの中を流れるDNAの必然なのだろう。それに比べ、M学園の

強制的な報国教育のなんと醜いことか。人間を信じていないと大きな間違いを引き起こすことは

歴史の常でもある。おかしな愛国教育をするより、お米、蕎麦、日本酒、板わさ、お味噌、醤油、

納豆、豆腐等の日本の味を教える食育の方が、小さい子にはもっとも大切なことではなかろうか。


石牟礼道子の宇宙

2017年03月12日 | 日記

2017年3月12日(日) 曇り

2011.3.11東日本大震災が起きてから6年目の歳月が過ぎた昨日は、熊本在住の作家石牟礼道子氏の

90歳の卒寿の誕生日でもあった。東京の拓殖大学にある後藤新平記念ホールで「石牟礼道子の宇宙」

というシンポジウムが藤原書店の主催で開かれた。私もそこに出向いてみた。ドキュメンタリー映画

「花の億土へ」から始まって小説「苦海浄土」の朗読、新作能「不知火」、浄瑠璃芝居「六道御前」の

上演、それに作家の町田康、いとうせいこう、赤坂真理、民族学者赤坂憲男4氏によるパネルディス

カッションと6時間余もシンポジウムは延々と続いた。記念ホールは1,2階とも満員で、あらためて

石牟礼道子ファンの多さに驚かされた。初老の女性が一番目立ったが、若い人たちも参加していて

熱心にメモを取ったりしていたのが印象的だった。

前にも書いたが私のブログのもともとの表題「アニマの飛翔」は、道子さんの小説「春の城」(旧題

アニマの鳥)からいただいたものである。私は石牟礼さんの作品群を「苦海浄土」から始まってその

ほとんど読んでいるが、これは神が書かせた奇跡だと思わざるを得ないフレーズに読むたびに出会う。

水俣をそのままにして東北はけっして乗り越えられない。そんな圧倒的な説得力を作品群は確かに

持っている。現代のシャーマン石牟礼道子が指摘するように、経済の合理性まっしぐらの精神で文明

化を果たして来た日本社会の中で起きた水俣病事件は「私達にとって一体近代化とは何であったか」

を原点から問い詰めて来る。その問いに実践的に答えられない限り、日本の将来はないだろう。

たとえて言えば、石牟礼道子氏の作品群の主人公はすべて言語を失った亡霊か敗者である。それら

の人々が怨念と共に語る果たし得なかった夢や希望の清らかなやパライソの楽園の姿が、生き生きと

して文章の底流をほとばしる。描写される自然の生類のすべてに対し優しい眸が一様に向けられる。

現代の語り部石牟礼道子さんは静かに微笑して言う。

亡き者や霊魂に対する「こころからの祈り」が今の日本社会からは消えようとしていますね。私達の

こころから亡くなった人達への魂の鎮魂を願う気持ちが薄れ去ったとき、驕った地球はかならず滅ろ

び去ることになるでしょう。いや一度そうならなくてはいけないのかも知れませんね、と。

 


芝居の効用

2017年03月06日 | 日記

2017年3月6日(月) 曇りのち雨

雛祭りは過ぎたというのにまだまだ早朝の底冷えはきつい。自転車のサドルを握る両手がかじかむ。

この時期は三寒四温を何度か繰り返しながら一歩一歩春に近付いて行んだな。もう半月も経てば

今年も桜の開花が始まる。来月はいよいよ四月である。一年の過ぎ行くさまはあまりに早い。それ

に比べ、自己の成長のなんと遅いことか。人生は短し芸術は永し。人間の真理は永遠に変わらない。

昨日は久し振りに街に出て、ふらりと下北沢の小さな芝居小屋に入ったみた。演目は古代ギリシャ

のソフォクレスの三大悲劇の一「アンティゴネ」をまねた「始まりのアンティゴネ」の楽日だった。

椿組の20人近い役者が「死」について全員でディベートする壮大なお芝居で、最後まで飽きさせな

い活力があった。しかし芝居を観るのには特別なエネルギーが要求される。舞台で繰り広げられる

エネルギーに対峙するにはこちらもそれ相当の集中力が必要だ。かつて別役実の原作「象」の芝居

で徹底的に練習を強要されたことがあるのでよく分かる。半端な気持ちでは演じられない。物凄い

体力と集中力が必要になる。あの時の私のセリフ量は大体文庫本一冊くらいあった。それを覚える

のに約8ヶ月近くかかった。ぶっ通しのお芝居で2時間20分、よくもまああんなことがやれたなあ。

今もって感心する。と同時に役者さんの全存在を賭けたご苦労に対しては祈りを捧げたくなる。

芝居を終え、ひとり街に出た。北風が強い。しかし幾分春が近付いてきたような気持ちがした。

たまには芝居という芸術を観ることも大切な非日常という日常ではなかろうか。