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『黒龍会三十年事歴』 黒龍会 (1930.10)

2012年09月16日 | 孫文、稲天、東亜同文会、黒竜会他

 昭和五年十月 黒龍会三十年事歴 黒龍会  〔22.2センチ、64頁〕
 
 口絵写真

          

・主幹内田良平 
・黒龍会本部(正門)〔右上〕、同上玄関〔左下〕 
・黒龍会出版部正門〔右上〕、同上自由俱楽部〔左下〕 
・黒龍会自由食堂〔右半分〕、同上自由宿泊所一部側面〔左半分〕 
・養生義塾正門

 本文は、1-8頁は「黒龍会趣意書・主義・綱領・規則」、9-64頁は「黒龍会三十年事歴」208項目である。

 黒龍会趣意書

  今や我帝国は国民の一大発奮に待ざるべからざる非常重大の秋に遭遇せり。吾人は元来帝国の使命に鑑み、力を海外の発展に致し、以て過剰せる人口の調節を図ると共に、東亜諸民族の扶掖振興に任じ、仁義を世界に布き 皇膜を万邦に輝さむことを以て自ら期する所あり、曩(さき)に明治二十七年朝鮮に天佑侠を組織し、東学党を助けて日清国際の解紛を容易ならしめ、三十二年アギナルドを助けて、比律賓の独立を図り、三十三年拳匪の乱起るや、同志と共に孫逸仙を援助して南清に革命の烽火を挙げ、三十四年本会を創設して露国膺懲論の唱主となりしより、或は朝鮮の併合に尽瘁し、或は支那の革命を助け、爾来有らゆる対外諸問題を提げて其の解決に従ひ、終始一貫之が為に粉骨砕身を辞せざりしものなり。而して此間日清日露役の克捷は言を俟たず、朝鮮を併合し、台湾樺太を領得し、独逸を山東より駆逐し、国力の充実となり、国際的地位の向上となり、帝国々運の発展を、駿々乎として旭日昇天の勢を呈し、以て世界三大強国の班に入り東亜扶掖の基礎斯に定らんとするに至りたるは、固より 明治大帝稜威の致す所に外ならずと雖も、吾人の微志亦た聊か報ゆる所ありしことを信ぜずんばあらざるなり。
 然るに近来に至り、外、国際関係を察すれば、或は対独戦争の効果を挙て之を列国の蹂躙に委し、或は不当なる海軍制限に甘んじて国防の危殆を顧みず、其他対支外交の失敗は支那人の軽侮を増長せしめ、彼をして終に国防上唯一の防壁たる満蒙の還附を迫らしめむとするに至りたる如き、若くは米国豪洲等に於て、多年の経営に依りて贏ち得たる我が移民の既得権を褫奪せられ、横暴なる排斥駆逐の勢殆んど底止する所を知らざらしむるに至りつゝあるが如き、畏れ多くも 明治大帝の宏謨によりて建設せられたる対外的基礎は、急転直下して此に一大退縮を招徠するに至らんとす。是れ豈に苟くも国家を憂ふる志士に人の斉しく浩歎を禁ずる能はざる所にあらずや。
 〔以下省略〕

 主義

 一、吾人は 天皇主義を奉じ、建国養正の遺訓に基き、六合を兼ね八紘を掩ふの皇猷を弘め、以て国体の精華を発揚せんことを期す。

 綱領

 一、吾人は肇国の宏謨を恢暢して東方文化の大道を闡揚し、進て東西文明の渾和を図り、亜細亜民族興隆の指導者たることを期す。
 一、吾人は法治主義の形式に偏して、人民の自由を束縛し、時務に常識を欠き、公私の能率を障碍し、憲政の本旨を没却したる百般お宿弊を一洗し以て 天皇主義の妙諦を発揮せんことを期す。
 〔以下省略〕
 
 下は、本文の一部。

 四十一 明治四十四年四月、『西南記伝』下巻一二を発行す。同署は明治三十九年着手以降六ヶ年にして茲に全部の完成を告げたるものなり。
 四十二 同年九月、支那漢口に革命の烽火挙るや、本会は特に北輝次郎、清藤幸七郎等を派して其実況を視察せしめ、又同志と共に有隣会を組織して革命軍に援助を与えたり。
 四十三 同年十一月、内田主幹は『支那改造論』と題する意見書を発行し、対支政策に付朝野の注意を促す。蓋し、同書は特に支那識者間の注意を喚起し、支那人の手により、上海に於て熾に翻訳伝播せられたり。
 四十四 同年十一月、支那革命援助に関し同地に活動中なる同志間の状況を問ひ、且つ宋教仁等と打合わせの為め、葛生修亮を上海に主張せしめたり。
 四十五 明治四十五年一月、中華民国政府の南京に組織せれるヽや、臨時大総統孫文より内田主幹に対し、外交顧問を委嘱し来る。是れ内田主幹が多年革命党援助に斡旋しつヽありたるが為めなりとす
 四十六 同年同月、南京政府は袁世凱と妥協中に在りとの報伝はるや、革命の前途容易ならざる結果を生ぜんことを慮かり、葛生修亮を南京に急行せしめ其の不可を警告したり。
 四十七 同年三月、支那革命と袁世凱との妥協、已むべからざるの形勢に至るや、予め革命派をして妥協成立後に於ける対策を講ぜしむる必要を感じ、宋教仁をして我国に渡来せしむるため、三たび葛生修亮を上海に派遣したるに、宋は恰かも袁世凱歓迎使節中に加はり北京に出立の後なりしかば、氏は直に其後を追て北京に赴き、宋と打合する所ありしも、会ま北京兵変のため袁世凱の南行中止により、宋は急に南京議会に於ける大総統選挙打合せ其他の要務畳出のため、遂に其の機会を得ずして止みたり。



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