蔵書目録

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『内外時事月函』 十一月号 黒龍会 (1911.11)

2014年10月19日 | 孫文、稲天、東亜同文会、黒竜会他

 内外 時事月函 明治四十四年拾一月号 黒龍会編纂

     

 支那革命乱記事及評論 〔351-523頁:88編〕

 武漢の戦記

  漢口の掃蕩戦

 曩に革命勃発当夜漢口に遁れし元武昌第八鎮統制張彪は集め得たる残卒五百人と共に京漢鉄道江岸停車場に駐屯し以て援軍の至るを待ちしに十三日には河南開封の新軍千二三百名到着、十六日十七日の両日直隷先発軍も到着したるを以て武昌の革命軍は北軍の軍容の整斉せざるに先ち一気之を掃蕩せんと欲し十八日午後三時より運動を起し江岸停車場に前進したり、其の勢力は約一千五百にして、砲四門を引き、漢口居留地の後方なる鉄道線路に沿うて前進し、外国競馬場附近に至りて鉄道外の郊野に開展し村落を挟んで進撃したり、而して砲隊は競馬場附近に放列を布き、歩兵の大部隊は殆ど停車場の約七八百米突の附近まで肉薄したり。
 是に於て河南軍及ひ武昌の残卒は停車場附近の堤防によりて応戦し張彪能く奮闘して午前七時より約一時間激戦の後遂に革命軍を撃退し之を大智門に追撃せしも此処には革命軍の砲弾能く功を奏して北軍をして後方に退却するの止むを得ざるに至らしめたり
 是に於て、革命軍は更に勢力を挽回し、同日午後再び停車場に向つて前進せり、其の進路は依然鉄道線によりて進み、競馬場附近に集中し、砲四門を以て先づ前村落を砲撃し、北軍の已に退却するを見るや、其の一部隊は更に前進して、鉄道上に大砲二門を据え附け、盛に停車場に向つて砲弾を送りたり。
 然れども北軍は全く沈黙して応戦せず、其状此かも停車場内の堤防いよりて以て革命軍の近づき来らんこと竢ちつゝあるものゝ如し。已にして革命軍の大部隊約千二三百名が、競馬場附近にて集中しつゝあるや、江中に碇泊中の清国軍艦は先づ建威号より砲撃を初め、革命軍の集中点に向つて激烈に砲弾を浴せかけたり、而して其の砲弾は最初甚だ遠き距離に落ちしも最終の一二発は革命軍の集合点に落ち来り、多大の負傷者を生ぜしむるに至りしを以て、革命軍は遂に退却するの已を得ざるに至り、再び支那街側の根拠地に引揚げたり。
 此夜革命軍には武昌より応援隊来りて軍容大に振ひ翌十九日には約三千の兵を以て前日同様の進路を取りて再び停車場の攻撃を始めたりたる然るに北軍は何の見る所ありてか此日一発の弾丸だに酬いず全く沈黙して後方に退却し江中の軍艦亦た遥か青山の下游に逃れたるを以て革命軍は残留兵の降服を容れて全く江岸停車場を占領し漢口附近は全然革命軍の勢力に帰したり此戦前後二日北軍の死傷凡二百革命軍は稍々之よりも多数の死傷者を出せり

 革新派の躍進
 上海の占領
 湖北革命党騒乱前記(十月十一日) 上海 申報
 武漢革命の大風雲(十月十四日発刊)(一) 民立報 :他に◎中華民国軍政府鄂羣都督黎佈告、◎民軍兵工廠を占領するの記

   武昌凾 十月十日 八月十七日 陽暦十月八日 夜十二時鐘、水師巡防統領陳得龍、漢口英租界に在りて、革命党員二名を拿獲せり一名は陳堯徽、一名は邱和商、均しく是れ日本留学卒業生。解送して院に至る、訊供諒まず、唯、其党羽及一切の内容を供出せず、同時に、第八鎮統制も亦砲隊已に暇をを告ぐる正目某甲に依りて、今夜三句鐘、革命党事を起すことを報告し、並に革命党の住址、小朝街八十五、九十二、八十二の等号を指明す。即ち督轅に飛報せしかば張統制親ら親信の護兵、及、督院の戈什、巡防隊の巡警を率ゐ、各、刺刀を佩び、真弾を帯し、各該会議の処を分圍す。革命党倉皇として措く所を失し、迅雷耳を掩ふに及ばす、然れども、事機已に露はる、亦即ち炸弾を抛擲して力拒し、各官兵傷を受くるもの多し。張統制令して猛進せしめしかば、革命党支へず、多くは屋瓦を飛越して逃る。拿獲に当り死力争ひ拒くもの、二十七名。其中、軍、学の両界半に居る。是れ正に天已に曙けんとする時なり。
 十八日 十月九日 司道、及、要差の人員、均しく督署に至りて会議し、城を閉ちて大に革命党を捜索せしかば、市面震驚、人心惶惶、各党人皆督署に梱解す、瑞督、張統制と協同して之を訊問するに、党人内、彭曾範を以て、最も強項なりと為す、曾範は、湖北陸軍特別警察隊一隊一棚の正兵に係る。其之を訊問するや、曾範曰く、『大丈夫、豈死を畏れんや殺さば則ち殺されんのみ。絮絮亦何ぞ為さん』問て曰く『首領は誰ぞ、党羽は誰ぞ』曰く『普天率士、同憤同志の士は甚だ衆し』と。即ち西轅門に在て法を正うし、嗣て又法を正うするもの、二人。正午十二句鐘、尚訊問中に在り。十句鐘半、城門を開くこと少時、旋て又關閉す。居民恐慌特に甚しく、紛紛遷り避け長街一帯の舖戸市を閉つ、現在の情形此の如し。

 討伐軍進発の上諭(監国摂政王章)
 中華国民軍政府條例
 黎都督の訓令

 一 各軍士、戦闘の時に於て、務めて必ず敵人あるを見れば、方に搶を放ち、以て子弾を糜費する勿れ。
 二 戦線上に於て、敏捷を要すと雖も、必ず沈著の性質方に事に益あらん。
 三 戦闘の勝敗は、全く精神に在り。各軍士、努めて必ず志気を鼓舞し、醜満を滅盡せよ。
 四 軍隊は軍紀に頼る、各軍士務めて必ず上官の命令に服従せば、方に完全の効果を得ん。

 革命軍佈告全文
 中華革命党本部宣言書
 領事団に対する照会
 軍民人等に対する佈告(中華民国軍政府鄂軍都督黎命令)

 一 軍隊中、上は都督より、下は兵夫に至るまで、均しく一律に紀律を守る。違ふものは、斬。
 二 原有父、新募兵兵士に論なく。等しく三五群を成して編制に帰らざるもの、及、編制内に在りて、擅に所在を離れ、装を易へて私に逃るゝものあらば、斬。
 三 擅に民家に入り、銭財を苛索し、及、私に火を縦つを行ふものは、斬。
 四 軍隊中の各幹部如し約束に遵はざるものあらば、斬。
 五 官兵調遣を受けず、及命令に違背するものは、斬。
 六 擅に自ら搶を放ち、行人の、往来を恐駭するものは、斬。
 七、兵士中、如し私を挟みて同胞を仇殺するものあらば、斬。
 八、如し当鋪に在りて強て軍装物件を当するものは、斬。

 各督撫に檄するの文
 人民に対する佈告(中華民国軍政府革命軍鄂軍都督黎示)
 軍政府天壇を祭るの文
 黎都督薩軍門に與ふる文
 黎都督紳民に慰労するの文
 暴発の真相(十一月二日東京朝日)     在漢口 霞菴

 今回の武漢暴動は当初より革命党と軍隊との脈絡ありて、叛旗を翻へせしが如きも決して然らず軍隊内に於ける動揺と革命側の画策とは全く相関係せざりしが如し革命党側は去九日露国租界に於て爆裂弾製造者の逮捕せられたるを初とし次で同党員の大捜索となり為に武昌、漢陽、漢口の三地に於て嫌疑者として捕縛されたるもの十七名に達し内劉耀章以下五名は證拠十分なりとし直に斬首に断ぜられ一方軍隊側に於ては砲兵隊の一部数日来動揺し騒擾を醸さんとするの状あり瑞総督は是等軍隊並に学生等に対し何等かの手段を取らざるべからざるに至り猜疑と嫉視とは遂に軍隊学生をして革命党と野合的絡脈を通せしむるの結果を生めるは事実なるが如し
 事は暴動の前々日頃砲兵隊に於て除隊さるべき一隊の兵士に対し一夕離杯のため小宴を開かんとしたるに中隊長は何故か之を許可せず兵士の哀願を斥け遂に強制的に之を中止せしめたるより大に憤激せる一隊の兵士は直に脱営して兵器庫を襲ひ弾薬銃器を掠奪し逃走を企てたり乃ち瑞総督は砲兵隊の行動を注視すると共に一方新軍歩兵に対し其の革命党と気脈を通ずるの虞ありとし猜疑百出益圧迫を加ふるに至れるより革命党は機乗すべしと為し脱走兵を煽動して遂に排満興漢を名とし血祭りとして瑞澂、布政使連甲を襲撃したるに始まれり斯くの如く軍隊に於ては砲兵隊一部の暴動と革命党逮捕の一事とは全く別問題にして両日偶発して遂に野合の結果を見たるものなり
 〔以下省略〕

 武昌暴発状勢(十月二十八日大阪朝日所載) 武昌陸軍教官 寺西中佐談
 黎元洪心事の解剖(十月卅日東京日々)
 革命軍民政の首領(十月十七日東京朝日載)

 法政大学の出身 支那今回の変乱に革命軍に投じて諮議局議事堂を叛軍の本営に宛て專ら民政を湖北一帯の地に布き内外人の順撫に勤め一方軍隊総指揮を掌どる黎元洪等と共に寝食を忘れて国事に奔走しつゝある武昌諮議局湯化龍氏は湖北蘄水県の人、曩に進士館より官費生に選抜されて我が東京に来り法政大学に入学して専ら梅博士の教鞭を受け速成科を卒業し去四十一年中帰省したり、氏は齢三十五なるも普通清国人中稀に見る人物にて兼ねて刑法学者なり日本留学当時刑法学に関する一書を著はして清国学生の指導に便じたることは今尚学生間に喧伝され居るが帰省後北京に赴きて民政部主事の任に就けり
 悲憤の動機 〔以下省略〕

 死を決して漢口の官軍に投ぜる清国官吏の書簡(十月卅日大阪毎日所載) 北京特派員
 革命党主将を訪ふ(十月大阪毎日)         米人某氏手記
 清国騒乱に就て(十月時事)            根津一氏談
 騒乱と犠牲(十月十五日時事所載)         大隈伯談

 騒乱の性質 今回騒乱を起こしたる武昌の新練軍は夙に張之洞が我邦より武官を招聘し若くは多数の青年を日本に留学せしめて教育したる湖南の壮丁より成り清国新軍中錚々たるものである左れば彼等の多くは日本軍隊の精神形式を稟けたるものと思はる而して今度の騒乱は全く革命を目的として起りたるものゝ如く伝へられて居るが其真偽は未だ俄かに断定し難き所である〔以下省略〕

 前途憂ふべし(十月十三日時事所載)        大原武慶氏談
 武漢大動乱に就て                 鋳方陸軍少将談
 中清暴動の将来                  小田切万寿之助氏談
 中清の動乱は必然の勢(十月十七日報知新聞載)   青柳篤恒氏談
 事は第一戦の後に始まる              樋口龍峡氏談
 動乱原因は総督の外にあり(十月十四日国民新聞載) 康有為高弟湯氏談
 革命乱益発展(十月十四日)            大阪毎日新聞社説
 支那流の革命運動(十月十五日)          読売新聞社説
 清国の擾乱(十月十七日)             国民新聞社説
 武昌乱事の感言(十月十三日)           上海 中外報社説
 嗚呼奈何天下乱(十月十四日)           上海 中外報社説
 鄂督の変を論ず(十月十三日)           新聞報
 鄂乱を論ず(十月十四日)             時報
 革命軍の現状(十月十五日)            新聞報
 鄂乱を靖むるの方策(十月十五日発刊論説)     中外報
 交戦時の中立論(十月十四日)           上海 民立報
 清国動乱評 
    (一)ジヤパン、ガゼツト (二)アトヴアタイザー (三)神戸ヘラルド (四)横浜ヘラルド (五)ジヤパンタイムス
 革命軍の将来(十月十四日) ノース、チャイナ、デーリー、ニュース
 革命軍と長髪賊       ノース、チャイナ、デーリー、ニュース
 主動者は何人                   チャイナ、プレス
 革命乱に就ての疑問                チャイナ、プレス
 時局と日露関係(十月二十六日)          ロシヤ紙所載
 支那時局の解決                  英国スタチスト氏
 煽揚せらるゝ勿れ                 竹越三叉
 清国動乱の前途如何(日本及日本人十一月号所載)  稲垣伸太郎
 清国の革命と日本の態度              東洋経済雑誌社説
 騒乱と国際法(十月二十一日時事所載)       法学博士 高橋作衞
 中清動乱に対する我官民の態度           法学博士 有賀長雄
 清国と列国(十月二十三日)            中央新聞社説
 外国干渉の端(十月廿五日)            東京朝日社説
 列国傍観の外なし(十月二十八日)         東京日々新聞社説
 動乱と干渉(十月十六日)             チャイナ、クリチック
 革命乱に対する日本の態度             上海 △△報
 日本人に敬告す(十月十九日)           上海 民立報
 湘鄂贛軍事と地勢(十月廿七日)          上海 民立報
 革命軍余命(十月廿三日)             中外商業新報社説
 袁世凱の地位(十月二十二日東京朝日所載)     某陸軍少将談
 袁世凱と盛宣懐(十月三十日大阪毎日載)      某清国通談
 袁世凱の趣向(十一月二日国民新聞載)       門外漢
 北京政局と袁氏南下(十一月二日時事所載)     某高官談
 如何んか窮極(十月廿六日)            東京毎日新聞社説
 講話乎降服乎(十月二十六日)           二六新報社説
 革命調停條件(十一月一日)            萬朝報社説
 共和政体の先声(十月廿四日)           上海 民立報
 清国政変如何(十一月二日)            時事新報社説
 清国政局の変転(十一月二日)           東京朝日社説
 清朝の事実的滅亡(十一月三日)          大阪毎日新聞社説
 戦慄時代の閃影(十一月二日報知所載)       佐藤天風
 欺瞞的袁内閣(十一月四日)            大阪毎日新聞社説
 清国革命の成功(十一月三、四日)         大阪朝日新聞社説
 清国政局の前途(十一月三日東京朝日所載)     某外交通談
 北京政変と米独(十一月二日東京朝日所載)     某清国人談
 反乱の教訓(十月卅日)              やまと新聞
 歴史より観たる湖北省の地位            市村文学博士講述
 革命軍の兵器                   本荘陸軍少将談

 漢陽兵工廠 素と槍砲局と称したる兵工廠と改めたるものなり独逸人の設計に係り工場の外形及据付機械の如き極めて堂々たるものなれども各種機械の能力甚だ不調和なれば資金を投じたる割合に工程少く或は殊更に仕事の出来ざる様設計されたるに非ずやと疑はれたり依て余の赴任するや否や色々改革意見を提出したりしも独逸人との間に存する種々の契約に検束されて一も行はれざりし先づ人物養成の急務を認め当路に建議して兵工学堂を設立し大阪東京の砲兵工廠より中川工学士外技師職工等都合十五名を雇聘して中川氏を教頭其他を教習とし生徒を養成したるに学科は相当の好成績なりしも実習は思はしからす是れ支那人体量の比重甚だ少く随て精力なき結果なるべし
 工廠の能力 
 革命軍の兵器 兵工廠製造の小銃は多く他省軍隊の注文に係るものにて武昌軍の小銃は独逸より買入れたる旧式モーゼル銃なるが其構造気毒なる程粗末なるものにして例へば照尺がハンタ付けなるを以て余の実験したる所に依れば最良のものにても二十八発目に照尺の脱落するを見たり革命軍の有せる小銃は全部此類にして北洋軍の三十年式日本銃を有せるに比せば甚だ不利なりと云はざるべからず之を要するに漢陽の兵工廠は単に国内に於て軍器を製造し得らると云ふに止まり其実際の価値に至りては殆ど云ふに足らざれども北軍の弾丸の供給意の如くならざる際に武昌軍は兎に角く一日二萬発前後の製造力を有する工廠を占領せるは多少の力となるべきが如し

 組織連絡の整備せる革命軍(十一月二日日本所載)
 革命党の現状                   小川平吉氏談
 満州の秘密結社 哈爾賓 新聞所載
 清国の陸軍(十月廿四日至廿八日東京朝日所載) 〔下は、その一部〕

 徴兵資格 既成師団及び今後設立さるべき師団の徴兵は陸軍営制餉章にて資格を左の如く定む
  一、年齢二十歳以上二十五歳以下
  二、身丈四尺八寸以上(但し南方人は四尺六寸以上)にして五官全体健全且つ眼疾たきもの
  三、膂力百斤以上を挙げ得る者
  四、必ず土着して家屬を有する者
  五、阿片を吸はざる者犯罪者ならざる者

 〔以下省略〕

    湖広総督
 第八師団(所在地武昌) 第十五歩兵旅団(第二十九、三十歩兵連隊)第十六歩兵旅団(第三十一、三十二歩兵連隊)第八騎兵連隊、第八砲兵連隊、第八工兵大隊、第八輜重兵大隊
 十一師団(所在地同上) 第二十一歩兵旅団(第四十一、四十二歩兵連隊)騎、砲、工、輜重兵各少許、一箇旅団欠
 十三師団(所在地長沙) 第二十五歩兵旅団(第四十九、五十歩兵連隊)一箇旅団及騎砲工輜重兵欠

 〔以下省略〕

 京漢鉄道輸送力(十月十九日時事所載)
 上海漢口間水路状況(十月二十五日時事所載)
 清国財界動乱来(十月廿二、廿三日二六新報所載)  根岸佶氏談
 現代支那 国民雑誌社説

 明治四十四年八月 創刊 明治四十四年十一月十日印刷 明治四十四年十一月十五日発行 発行所 黒龍会本部

 なお、北輝次郎は、黒龍会により時事月函記者として派遣されたことでも知られる。



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