蔵書目録

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『中国革命党と北一輝及び譚家との経緯』 黒沢次郎

2012年09月17日 | 北一輝 2
 中国革命党と北一輝及び譚家との経緯  [北大輝ー譚瀛生ーの遺骨を中国に埋葬するの所以] 

 (一)

 明治三十七八年、日露戦争に於て、日本が露国に対し、勝利を得るに至るや 中国に夙に潜在せる清朝革命の気運 速かに勃発し、恰も燎原の火の如く全国に啓発せられたり。
 当時、清朝勢力の威圧、尚、厳として動かすべからざるものあり、革命の志士、多くは日本に亡命し、潜 ひそ かに同志相結合して、秘密結社を組織し、機関雑誌に依り、盛んに革命の趣旨を呼吹し、之を中国に密送せり。
 日本に於て相会する革命の志士は、国父孫文、黄興を始め、章太炎、張経 〔張継〕 並に宋教人 〔宋教仁〕 等、革命中枢の人物を網羅せり。
 一輝 北輝次郎は、青年時に於て、已に、国家社会学の造詣深く、二十二歳の弱冠にして『国体論並に純正社会主義』なる著書に筆を染め、翌年、その書の完成するや、日本官憲の忌憚する所となり、悉く没書の厄に遇うも、其言論の雄建にして、理路の明晰なる、以て青年の思想を啓発するもの尠なからざりき。
 官憲の吏僚にして尚、志あるもの亦陽に没書と称し、陰かに之を耽読するものあり、往々にして江湖読書子に喧伝せらる。偶々中国革命の志士中、以て談す可しと為し、之を其秘密結社に招聘して、共に相語り相論じ、更に革命鼓吹の一助となせり。
 然るに、北一輝の思想たるや、独り斬新を追ふの軽薄なるものにあらず、遠く東洋文化の根源の溯及せるものにして、前人未踏の境地を拓開せるものなりき。
 革命の志士中、宋教仁は、人も知る如く、革命の鬼才と称せられ、其論戦に於て、又組織的才能に於て、既に群を抜くの慨あり、彼亦、北一輝の才学を看破し、遂ひに莫逆刎頚の友となるに至れり。
 英雄、英雄を識ると云ふ可きか。
 然る処武漢第一革命は、孫逸仙外遊中の事に属したれば、宋教仁にその画策指図に任じ、黄興、元より革命指導の第一人者たる可かりしも、群雄統御のこと、自ら道あり、是等幾多の英才を指揮統合し、以って革命党の力をして盤石たらしめし一大人物のありしあり。
 曰く、譚人鳳その人なり。
 氏は、常に多くを語らざりき、然れども、所謂典型的大陸の英豪にして、江畔一帯の哥老会匪を卒 〔率〕ひ、虎視眈々たる所、実に恐る可きものありしなり。
 革命の志士、又深く其人物に敬倒し、自ずから革命党の元老たるの観を呈したり。
 宋教仁、深く之れと結び、従て、北一輝亦之と親交密の如くなるに至る。
 武漢第一の革命なるや、宋教仁は推されて憲法院総才たり、北一輝は、その外国人たるの故を以て同氏を援くる事となり、斯くて、彼は、民国憲法最初の草案に、その健筆を揮ふ事となれり。
 しかるに、天下の事意の如くならず、その麗筆の蓋し見る可きもの多かりしに拘らず、宋教仁の暗殺と共に、第二革命の止むを得ざるに至り、革命の志士、又再び日本に亡命するに至りたり。

 (二)

 第一革命、一敗血に塗れ、志士の日本に亡命するや、譚老人は、其第二子、貮式氏夫妻を伴ひ、東京小石川に寓居したり。
 北家も、同じく避難帰朝し、赤坂区青山に仮寓して、両家の親交日に益々親密の度を加ふ。
 時、恰も大隈内閣の際なりき。北は帰朝以来、専ら中国革命の趣旨を、日本朝野に徹底せしめむ為、奔走に寧曰なく、宰相、大隈侯に、譚老を紹介会見せしめ、大いに得る処ありしものゝ如く、公私共万全の力を致し、至らざるなき感ありき。
 而して、運命の子、大輝は、実に、この時母胎にあり、数ヶ月を閲して長崎に移転し、同所に於て弧々の声を揚げたるなりき。
 数奇なる運命児、東洋の子大輝は、幼時、瀛生 エイセイ と名けられしが、生後幾何も無くして、その生母は産褥熱を煩ひ客死し、其後下婢の手にありて、養育せられたり。
 然るに、譚家は、又々その一家をあげて、上海に帰省せり。
 而して譚老人の愛着、この兒一人いかゝりたるものゝ如かりしも、生兒は風土に適せざりしにや、その健康勝れざりき。
 かゝる時、北一家も亦譚家と相前後して、再び渡滬するの機会を得、両家との交誼毫も変る事なく、両家は将に一家の如き観を呈したり。
 譚老人は、生母を失ひし此愛孫を托す可きは、北家の他なしと、覚信し、一日、北夫人を自邸に招致し、懇托するにこの事を以てす。北夫人又北の許諾を得て、その大任を快諾し、これを抱きて、大輝出生の地長崎に帰郷し、日夜看護愛撫極りなく、その慈愛赤心の致す処遂ひに、その健康を回復するを得たり。
 而して、大輝は、日本に於て、小、中学の課程を経て大学を卒業するに至りたるも、その間、毫も健康を害する事はなかりき。
 一日、譚老人、北に対して、語を改めて曰く、
 『中国革命漸く成るを得たりと雖も、前途尚実に容易ならず、日支は必ず相援けて共存共栄の他なく、此事一にかゝって、貴下と吾責任に存す。今一男孫を以て貴下に託す、故なきにあらず、即ちこの事私事にかゝるにあらず、願くは之を掬育して他日有用の材となし、吾百年の後、吾が志を之れに継がしめむことを』と。
 北、亦之を快諾して以て握手時を久ふせしと。
 両雄の感懐はたして如何なりしか。

 (三)

 中国革命は、その後、志士の血によりて綴られ、血によりて築かれ、着々その地歩を固め、遂ひに蔣介石氏によりてその目的は達せられたり。
 然るに、一方、漸く資本主義の爛熟期に達せる日本は、批政、相次いで起り、為に先人の素志に反し、日支間、漸次相乖離するに至る。
 而して、この日本の現状を打開し、以て、世界一休〔体?〕一心の大史観に立つ、伝統日本の本然に復帰せしむ可き意図に出ずる幾多の事件生起するに至り、一代の先覚、一輝、北輝次郎も亦、その一つに連座し、その首謀者の一人として、非命に斃るゝに至る。
 この時、大輝は、北夫妻の至情の撫育により、長じて一個の偉丈夫たり。
 然れ共、大輝は、北夫妻の深き慮りによりて、未だその生を明に識らざりき。
 北夫人、苦慮する事旬日、遂ひに語るに事実を以てす。
 大輝、愕然たり。慟哭する事尋常ならず。
 嗚呼、我が祖父は、然る人なりしか、嗚呼、我が生父は、革命に斃れたりしか、嗚呼、而して又、我地上の真実の父は、今、又非命に終る。吾、 はた如何に生く可きか、と、呻吟、苦悩する事連日、一時、度を失せしものゝ如しと云ふ。
 然れ共、血流を中国の英豪、譚人鳳に享け、その訓育を、日本の俊傑、北一輝に受けたる者、斯くて止む可きにあらず、一日、覚然として、父祖の業を継がむ事を決意するに至る。
 遇々、悲しくも、中日の風雲急となるや、同志と相謀り、身を挺して、これが打開に力むと雖も、大勢に抗し難く、両国は遂ひに、干戈を交ふるに至りたり。
 然れ共、大輝の悲願は毫末もゆるがず、この上は、我が一身を中日万代和平の礎に供せむものと、去歳、日本婦人と婚を結び、益々その操守を堅固にせり、事実、日華両国の血魂によりて、人となりし大輝こそ、日華両国の国交関係を調節融和するに於て、第一の有資格者なりしなり。大輝亦、斯くの如き、満々たるの自信に立ちしものゝ如く、堂々の立論、熱烈なる行動は、北一輝の再来を見るの感なきを得ざりき。
 大東亜戦争の勃発するや、大輝も亦、従軍するの止むなきに至るも、途中、病を得て軍籍を離れ、彼、本来の目的たる、日華両国和平の恢復に、その全力を尽さむことを期し、或時は、日本外務省の嘱託となり、或時は、大使館の嘱託として、東奔西走し、親しくその調査したる事項につき、忌憚なき意見を具申し、為に却って官憲の干渉を受くる事等あり、その成績多々見る可きものありたり。
 殊に、大東亜戦争の漸く、日本に不利なるを見るや、彼の煩悶苦悩の情甚しく、或時は軍身、或時はその養母と共に、重慶に潜行し、全局和平 服幾せむとせし事一切ならざりしも、彼の建言遂ひに容れられず、日本降伏の八月十九日、従軍中の病魔再び襲ひ来り、大志をのぶる能はずして、長恨を呑み、上海に客死せり、嗚呼、惜しみてもあまりありと云ふ可し。
 昨夏、その遺骨は、黒沢二郎の女婿によりて、養母の懐へ帰る。
 北未亡人の胸中如何ぞや、然れ共、未亡人又、一個の女傑なり、徒らに悲まず 日頃側近に語り曰く、
 『大輝が骨、日本に止む可きにあらず、その父祖の地に帰すに止かず。』と。
 蓋し、その意図する処、埋骨は、その郷になすの中国の習に従ひ、譚人鳳の霊と、大輝譚瀛生の霊をなぐさめ、かつは、その霊、永へに止りて、日華提携の紐帯たれとの義に他ならざる可し。
 曩曰、目下、中国代表国、政治部主席張鳳挙閣下、及び主席顧問沈覲鼎閣下に対し大輝の遺骨、中国埋葬につき陳情する処ありしに、両閣下もその趣旨を諒とせらる。
 時、偶々、中国四川省主席張群氏、米国よりの帰途、東京に立寄られ、前記両閣下より右の報告を受けられ感慨の殊に深かりしを聞知せり。
 さもある可し、張群氏こそ、現存革命の志士中、大輝を知る唯一人の人なるべし。
 即ち、張氏は、辛亥革命当時、青年士官として、譚人鳳に私淑する処深く、北一輝とも亦交友兄弟の情も唯ならず、大輝成人の後に於ても、来朝の際は夫妻共に、特に篤を抂げて、北家を訪問せられし程の間柄なりしなり。

 〔以下は、雑誌『新勢力』では「(後略)」として省略された部分である。〕

 その父と呼びたりし、北一輝は、昭和維新を叫びて業ならず、断頭台上の露と消ゆ、而して、その遺志を継ぎし、大輝亦中道にして斃れ、今白骨となりて、養母の懐に、淋く抱かる。
 大東亜戦争破れて、青山空しく蕭條たり。各国使臣東京に会して、日夜日本の将来を論ず。
 中国代表の言々句々、日本国民の感謝注目に価せざるはなし、北父子の霊、果たして之を聴く事を得ば、多年国交に尽したる、其交績の必ずしも慫慂ならざりしを知るに足らむ。
 願くば、国交回復するの日、大輝の遺骨を故国に送り、祖父譚人鳳の墓側に葬らむことを。
 その養母の年歯漸く加り、その希求の切なる、その時期の到来を待つ、一日千秋の思ひあり。
 之、曩(さき)に、中国顕貴の考慮を煩はすに至る。至情止むなきの致す所なり。
                                      -終り-

 上の資料は、謄写版、25.5センチ、8頁。
 なお、「北一輝小伝 黒沢二郎(遺稿)」(『新勢力』 第十巻 第二号)は、その田中宏典氏の記を読むと、このガリ版刷りの抜粋なのかもしれない。

 
  北大輝君と祖父故譚人鳳氏
  

     宿命の青年北一輝の忘れ形見
  支那の血流れる身に
   纏ふ皇軍正義の征衣
       勇躍待つ大陸への首途


 体内を流れる血は支那民族の血ながら奇しき宿縁によつて真の“日本人”の魂によみがへり、しかも正義皇軍の征衣に身を固めて勇躍新東亜建設の聖戦に飛び込まうとしてゐる青年がある、この若者こそは二・二六事件に連座して極刑に処された北一輝の心の忘れ形見北大輝君(二三)である……

 国右翼運動の巨頭北一輝は約二十年前支那革命の渦中にあつて縦横無尽の活躍をしてゐた、その頃一輝は革命の倒れた中国人同志の遺児を拾ひ上げた、まもなく故国に帰つて来た北一輝はその子を自分の後継者として正式に入籍し名前も姿も心もすべてを一人の完全な日本人として育てあげた。この新しき日本男子はやがて日大工学部でひたすら学究の道にいそしんでゐたが、昨年夏父の身に起つた事件を機会に自立を決意して某会社に勤めたが、今春徴兵検査を受けた結果は見事に甲種合格!そして○○部隊に入営した彼は喜び勇んで風雲逆巻く大陸へ首途する日を待ちわびてゐるのだ。
 この宿命の子こそ大輝君その人であるが、しかもその
 潮には新支那を生み出す数奇な歴史がにじみ込んでゐる、日本人北大輝は同時に孫文と並んで支那革命史上に輝く哥老会頭目譚人鳳の孫でもあるのだ。
 大輝君は極最近はじめて自分の身の上を知つたさうだが、その時も彼は顔色一つかへず『おれは日本人だ』と腹の底からいひ切つて入営の日にも

 僕の二人の父の理想に泥を塗つた蔣政権は僕にとつて憎みても余りある敵です、僕は最大の愛を以て日支親善を必らず完成して見せます、新しいアジアを築くため僕は喜んで人柱になる覚悟です

 とれい明東亜の陰に秘められた悲しみを蹴つて悲壮な決意を力強く語つたといふ

 “念願成就を祈る
       岩田富美夫氏談

 大輝君の将来のため何くれとなく心をくだいてゐる岩田富美夫氏等は同君の栄えある人生第一歩を我事のやうに喜びながら左の如く語つた。

 大輝君はいつくしみ育てる一輝夫妻の姿はまことに涙ぐましいものでした、大輝君が自分の身の上を知つた時にも毅然として“俺は日本人だ”といひ切つたのも父母の愛情が如何に深かつたかを示すものでせう、幸ひ甲種に合格しまして晴れの軍務につくことが出来ました以上、厳格にびしゝ教育して頂き天晴れの人物にして貰ひたいものです、そして大輝君の念願を是非とも果させたいと祈つてゐます

 上の写真と文は、(十八日夕刊) 昭和十三年十二月十九日 (月曜日) 報知新聞 第二万二千二百六十九号 A(二)面 に掲載されたものである。日曜夕刊
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