蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『須磨子號』 (1919.2)

2020年01月11日 | 演劇 貞奴、松井須磨子他
 

女の世界 須磨子号 
      第五巻 第二号 大正八年二月号

 〔以下、須磨子に関係あるもののみ。他に多数の扮装写真あり〕

 口絵 

   

 ・思ひ出(須磨子の丸髷姿)
  大正八年一月五日、恩師にして愛人たる島村抱月氏の後を追うて逝ける故松井須磨子嬢の思ひ出多き丸髷姿。此写真は嬢が生前最も気に入ってゐたものだと云ひます。
 ・三態(扮せる須磨子)
  故松井須磨子の三態。(上図)朝鮮婦人に扮せる須磨子嬢(下図)昨年九月歌舞伎座に上場せる「沈鐘」の森姫。(同左)自殺の前夜まで有楽座に出演したるカルメン。

 ・須磨子号発刊の辞

 新劇界の女王 クイーン 松井須磨子の死は、有 あら ゆる意味に於て多くの人々の耳目を聳動させた。そして其死の是非を説き、死因の如何を語る声は紛々として決する處がない。本誌は嘗て現代婦人界に於て推賞すべき人として読者と共に彼女を推したことがある。其記憶未だ新たなるに、彼女は忽焉 こつえん として逝 ゆ いた。而かも其死が恋愛問題に関し、且つ女優界に於ける空前の出来事たるに於ては、本誌として、焉ぞまた彼女の為めにその異常なる死を記念すべく『須磨子号』なからんやである。説を為すもの、或 あるひ は彼女の死は抱月氏を恋ひ慕へるが為めではないと云ひ、或は萬事行詰つた挙句の死であると云ひ、或は性の悩みに堪へざるが為めの死であると云ひ、或は突然に決意し突然に決行したのであると云ふ。それ皆或は然らんである。然し乍らそれ等は據る處悉く想像と推察に非ざるはなく、説く處如何程までに合理的なるかを示すに過ぎない。事実は彼女が死せりといふ事と、死に際して抱月氏を慕ふの情を表明したといふ事の外はない、例令 たとひ 、その死の主因副因が何れにあるにせよ、兎に角彼女は死んだのである。そして死に際して抱月氏を慕ふの意を表明したのである。或は或者の云ふが如く其表明も芝居であるかも知れない、けれどもそれが例令芝居であってとしても、事実の示すが如く死にまで高潮した芝居であるならば、また其芝居は敬服に値すべきではないか。吾々は、現代人にとって死程力強きものを知らない。そしてその瞬間程人の心持を純にするものあるを知らない。此意味に於て吾々は、彼女の死に面せる瞬間の心鏡にまで、打算的な事物の影が映ってゐたとは信ずる事が出来ないのである。吾々は、彼女が今日まで日本の劇界に盡し来った偉大なる功績と、其死に依て残したる種々なる問題に対する暗示と、並びに異常なる死そのものに対して敬意を払ひ、以て彼女に対し深甚なる同情の念を捧ぐる者である。本号収むる所、或は彼女に取て非なるものもあるかも知れない。けれ共真の松井須磨子を知る事が、彼女に対する最も忠なる所以であると信ずる吾々は、敢へて彼女に対する毀誉褒貶一切を挙げて、以て賢明なる読者の正当なる評価を俟んとする次第である。(春光)

 ・松井須磨子の略歴

 松井須磨子は本名小林まさ子、信州松代在、埴科 はにしな 郡清野村大字越の生れである。家は代々真田領の藩士で、父は小林藤太と云ひ、恰もマグダの父を見るやうな、一面旋毛曲りと云はれる位の一徹者であった。まさ子は其人の血と気性をそのま々に享け継いだ。彼女が今日までの名声を恣まにしたのも、又彼女の周囲に幾度もの騒動が起ったのも同じく其血と気性に因を成したに外ならない。家廃るゝや彼女は上田の学校用品商長谷川友助の養女となり小学校を其家に卒へた。友助病死後、養母が他家に再嫁したので、まさ子は已むを得ず上京して長姉の嫁せる麻布飯倉の風月堂七澤方を頼り戸板女学校を其家に了へた。二十一歳の時望まれて千葉木更津の旅館鳥飼の花嫁となり。僅か二ヶ月にして飛び出し、再び上京して同郷の出身者前澤清助と同棲し、文藝協会の第一期生となり、協会解散後、島村抱月氏と共に藝術座を起し、日本内地は勿論新領地若くは海外に亘って百九十五の都邑を巡業し『モンナワ゛ンナ』『内部』『復活』以下三十有六種の翻訳劇、創作劇に出演し、好評嘖々名声女優界を圧したが、抱月氏没後、死を決し、大正八年一月五日の朝、氏の死と日と時を同じうして縊死以て華々しき一生を畢ったのである。

 ◇須磨子の思ひ出ひ◇

 ・初めて東京に来た頃 ‥ 須磨子の実姉 七澤峯子

 十六歳以前の正子 まさこ (須磨子)の事は、遠く離れてゐますので、良く存じませんが、子供の時分、家庭が不如意であったり養女となったりした事が、正子の精神に影響したと所はないかと思ひます。我儘 わがまゝ といふことも長谷川に行ってから大分募 つの った様ですし、神経的な感情もその頃からぼつゝ嵩じて来た様ですから少なくとその時の境遇が正子に影響した事は事実であったらうと思ひます。
 私共の所へ来たのが、東京に出た一番初めでありましたが、田舎丸出しの子娘で、子供の世話やら、三人の下女と一緒に掃除等手伝はせてゐました。正子も田舎出の時ではありますし、初めて東京に来たといふ珍らしい感じのために、我儘も何も忘れたと見えて、良くまめに働きました。『お正おばさん』 と姪や甥から呼ばれても平気なものでしたから、その時の正子はたゞ普通の田舎娘といふだけで取り立てて申し上げる程の事も厶 ござ いませんでした。

 ・戸板女学校時代の須磨子 ‥ 戸板女学校長 戸板せき子

 戸板がまだ芝公園にあった時、長谷川まさといって技藝科に通ってゐた生徒がゐました。田舎から出て来た許りといふ恰好で別に特徴といっても見当たりませんでしたけれども、何となく、感じの良い、ハキゝして、一見超越した気分を持ってゐた生徒と思ってゐました。技藝は相当に達者で仕事に熱心であった事は今も忘れられません
 学校を出てから幾年の後、松井須磨子といふ女優の名を耳にする様になりました。すると、誰とはなしに、それが学校に居た長谷川さんであるといふ事を聞きました。それが段々事実となって、長谷川まさと松井須磨子は同一人である事が判りましたがあの学校に毎日ゝ熱心に技藝を修めつつあった田舎出の長谷川さんが、名からして松井須磨子といふ兎も角も女優に早変りしやうとは、当時、手をとり、針をとって教授した妾 わたし としては全く意外な感に打たれずには居れませんでした。学生時代にはその前途を想像す可き特徴といふものは何一つとして持ってゐなかったやうに思ひます。
 それから、私の所へ度々訪ねて参りましたが、服装は相変らずのお粗末で、八丈の継ぎ剥ぎしたものに、下駄はいつも行儀悪く片ずれのしたもの、この女優が何時になったら、一人前の女優になれやうと、半ば淋しみを持って見てゐますうちに、今度は島村抱月先生と情事関係の噂さがパッと立ちました。その時は、私は全然誤聞として新聞も碌に注意して見やうとは思ひませんでした。あの黄八丈の継剥ぎの着物と、片ずれのした下駄とが、抱月先生との間に恋といふものを怎 ど うして成立 なりたヽ させ得やうと思ったからです。それが又も全くの事実と知れた時、私は自分の感想の欠点を直覚致しました。それは、女優に道徳を教ゆるのがそもゝの間違いであるといふ事でした。

 ・文藝協会時代の須磨子 ‥ 林千歳
 ・師としての須磨子 ‥ 澤みや子
 ・その夜の須磨子 ‥ 田邊若男

 ・須磨子の自殺は変態性欲 ‥ 大久保東圃
 ・須磨子の死は空前の記録 ‥伊原青々園 
 ・演劇史上に於ける須磨子の地位 ‥ 中村吉藏
 ・須摩子の死の責任者 ‥ 中村孤月
 ・須磨子の死と女優界 ‥ 森律子
 ・所謂新劇の最後 ‥ 楠山正雄
 ・松井須磨子を解剖す ‥ 村田榮子
 
   △名と実質
 一言 ごん にして云へば、お須磨さんは傲慢な女 をんな でした。お須磨さんを評する言葉としては、此一言で盡きると思ひます。お須磨さんは心が悪い女ではありませんでした。然し女としての最も大なる欠点の一つである傲慢な性質を持ってゐた為めに、折角の大きな活動の舞台を持ちながら、配下の心服を得る事が出来ず、抱月先生の庇護の外には常に孤立でゐなければならなかったのです。
 お須磨さんは女優としての成功者です。然しその成功は抱月先生あっての成功で、而もその成功はお須磨さんの実質に数倍するものでありました。それでゐてお須磨さんは傲慢な女 ひと であるだけに、松井須磨子といふ名が、自分の実質に数倍する程大きくなったといふこと気付かなかったのです。それが抱月先生が逝くなられて、急に自分が全くの孤立の位置に立つことになり、初めて自分一人では松井須磨子といふ名を背負って行けないといふことが解ったのです。かういふ立場に立ったお須磨さんとして、亡ぶるべく余儀なくされたことは当然と云はなければなりません。即ち云ひ換へると、お須磨さんは、傲慢といふ一つの性質に依て、女としての自分を亡ぼし、松井須磨子といふ背負 しよひ 切れない大きな名によって、女優としての自分を亡ぼした、と云へるのです
   △須磨子は恋してゐたか?
   △傲慢心の再起
   △肉の悩み
   △合葬せよ

 ・須磨子の舞台と稽古 ‥ 藝術座舞台監督 畑中蓼坡

  ▼藝に対する熱と力
 舞台が熱心である事は、松井君の生命であった。松井君の如く真面目熱心な人は、私の知ってゐる舞台の人の中に見出す事は困難である。あらゆる賛辞を浴 あび せてもこの美点を推賞するには足りないと思ふのである。或は極端に発するこの熱心のため、松井君に相対して動く俳優は寧ろ困る様な事も度々あった。舞台稽古の時の熱心な態度と舞台の上の熱のある動きは、観る人の目から見れば稽古と本物との差異はあれ、松井君にとっては、寸分の差異もなかった様に思はれる。稽古の時も本舞台同様であった。
 熱心であったといふ事を解剖して見れば、更に松井君が動的であったといふ事を発見し得るのである。舞台で良く跳ね、良く泣き良く動くのは、松井君の特徴であったが、静の中にも強い動きがあったのか十分窺う事が出来た。それが非常に強かった。例令 たとへ ば、舞台に相手役と二人、黙して、口を開かず、高潮に達した心理状態をもって、芝居をする時、舞台を緊張させるのはこの女 ひと の得意な所であった。相手役は度々その熱に飲まれて、沈黙が形の上の沈黙のみになり、呼吸が合はずに本意ない芝居をする事もあった。松井君に言はせると、自分の方がより以上に困ったといふ。或はさうかも知れぬ、それ程松井君は高潮な熱の所有者であったのである。
  ▼天才の自覚
  ▼水も漏らさぬ指導
  ▼死後の心遣ひ

 ・須磨子の死に就ては道徳的批判を排す ‥ 秋田雨雀
 ・須磨子の死の暗示 ‥ 安成二郎
 ・誤解の中に生きた須磨子 ‥ 倉若梅二郎
 ・地獄で金が通用したら =須磨子は金庫を持って行った筈= 曾我廼家五九郎 武智故平
 ・英雄的の死 ‥ 侯爵 小村欣一  
 ・島村家に残された須磨子の手紙 ‥ 縫之助 

  △市子未亡人の追懐

 新劇壇のクヰーン松井須磨子が、愛人抱月氏逝いて二ヶ月、日も同じ時も同じく、その跡を追うたのを耳にして、直ちに牛込東大久保四百廿二番地の抱月氏未亡人いち子さんの宅を訪づれると、須磨子の自殺を始めて耳にした未亡人は、驚愕の余り『マア何と云ふ事でせう‥‥実際 ほんとう ですか』と反問して信疑を判じかねる面持であったが、軈 やが て昼食 ちうじき を攝 と るべく次室に居た君子さんを大声で『君子一寸おいで、松井さんが死んだんですと、首を吊って今朝 けさ 歿 な くなられたさうな』と呼び招いた。すると是も又驚きの眼を見張った君子さんが、我々の居る部屋に姿を現はして『マアどうしてゞせう?』と暫時 しばし は言葉も出ない有様であった。そこで自分は未亡人と君子さんに須磨子に関しての印象をお訊ねすると、未亡人は君子さんと共に徐に語り始めたのであった 未『お尋ねではありますが、松井さんには島村が藝術座を起しました少し以前から島村が不始末をして宅を出ました迄の、二ヶ月間位しか接して居ませんので‥‥夫れももう彼是五六年前の事ですから、印象と申す程の物は御座いません。而し島村が宅を出ます迄の二ヶ月間は、松井さんは毎日必ず島村を訪ねて来ましたので、私や君子は島村が不在の時でも、いつでも二階の島村の書斎に案内して居ました。無論夫れは以前の宅に居りました時分の事で、当時松井さんは島村との話が済みますと直ぐ帰って行かれましたので従って是と申す印象はありませんが、確か島村が松井さんとの事で、宅を出ましてからの事だと思ひます。一日其の事に付きまして、私は松井さんを戸山ヶ原の傍の、二階借をして居た時分のお宅にお訪ねしましたが、生憎お留守で空しく戻りました。

  △涙の目で

 其の次の日の晩であったと思ひます、島村と二人で私共へ松井さんが訪ねて来られました。ソシテ奥の部屋で松井さんは火鉢を仲に、島村と相対し、私は二人の側面に座って、種々 いろゝ お話をしました。松井さんはどうしたのですか、一言も発しませんで、たゞ声を立てゝ啜り込む様に、丁度子供が泣く様な工合に、泣いて計り居ましたので、私は松井さんと云ふ人は随分妙な方だと思ひまして、フト松井さんのお顔を見ますと、顔に押し当てた手巾 ハンケチ の下から、涙ににじんだ儘の横眼でヂロヂロ私の顔を見詰めて居るぢやありませんか。其の様子を見まして私は余計妙な方だと思ひました。流石に芝居なさる方はまた別なものだと思ひました。お泣きになるのにさへ少しも油断をなさらないんだナと異様に感じましたが、其後何かの折に坪内先生にお目にかゝった時、先生は私に『松井さんは泣くのが非常に巧みである』とおっしゃた事がありましたが、成程サウだと思ひました。松井さんに付いての印象としては是れ位のもので、其後は私は一度もお目にかゝった事がありませんから‥‥』と言葉を切った。

  △親と同様

 自分は更に『何か松井さんから、こちらへお手紙が来た事は、ありませんでせうか』と訊ねた。すると君子さんが『アヽさうさう、私の所へ京都から寄越した手紙があります』と云って座を立った。程なく手にして来たのは、桃色のレターペーパーに、ブリウブラックのインクで認 したヽ められた、松井須磨子の手紙であった。君子さんは『あとにもさきにもお手紙は是一本だけですの』と云って、自分の手に夫れを渡して呉れた。読み下して見ると、恁 か う云ふ文面であった。

   
 (原文の儘)
 大阪土産として何かほしいものが有るなら言ってよこしなさい。
 でもあんまりお金のはるものはいけませんよ。今は研究所を造るのでお金が足りない時だから、せいゞ十五圓以下のもの、
 はあちゃん(君子さんの姉君春子さんの事である)とお前さんと二人分で。私のお前さんたちに対する呼び名はお父様の御命令ですよ、夫 それ からお前さんたちが私への呼名はすま子様でよろしいがすべて親と同様の敬語を用ゐなさい。夫からお父様へ他 た から手紙の類が来た場合には、夫をよく封じて私あてにしてよこしなさい、
 京都三條橋萬屋方松井須磨子様
 として廿四日後にこちらへつきさうだったら
 大阪日本橋詰岸澤屋方松井須磨子様
 お前さん方からの手紙も無論さうですよ、夫からお市様(いち子未亡人の事)にも、何か私が見たてヽ行ってあげますか、私の見たてゞすからもしはででいけなかったら、あゝよしませう私に分らないから、
 ではおとなしくすると御ほうびを上げますよ。
                すま子
 きみどの

  △意味ありげな微笑 ほほえみ

 一通り此の手紙を読み終った後、自分は君子さんに、試みに『親と同様の敬語を以て、松井さんをお呼びになった事がおありですか?』と問うて見た。君子さんは何も答へずに、無言の儘或る意味を含んだ面もちで微笑した。
 未亡人は『此の手紙は何でも、五六年前大阪京都を廻った時、大変芝居が当りましたさうで、其の時君子と春子とに、何か買って呉れると云って寄越したんです。アノ方からの手紙としては私共へ来ましたのは、是が始めでまた最後でした』と云って淋しくほゝ笑んだ。
 華やかなる劇壇に於ける女王たる婦人として、将た、島村家に於ける家族制度を根本的に打破したる婦人として、普ねく其名を知られた、松井須磨子が家庭の敗者たる、抱月氏の家族に與へた、須磨子の生涯を通じて唯一通の書面は斯の如き物であったのである。今は早や亡き人の上、善かれ悪しかれ、折に触れては、島村氏遺族の追憶の種子 たね ともならう。自分は其の批判を読者の冷静な判断に任して筆を擱く。 (終り) 

 ・抱月須磨子の新比翼塚 ‥ 坂本紅蓮洞
 ・須磨子の男に対した態度と女に対した態度 ‥ 相馬黒光女
 ・自殺に絡る怪事件 =死に至るまでの真相=  ‥ 樹谷翩々子

   


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