蔵書目録

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「ピヤニスト久野久子女史」 (1921.7)

2015年12月03日 | ピアニスト 1 久野久子

 

 「久野久子女史」

  本誌は現代女名人伝の一人として、久野久子女史を御紹介いたします。東京音楽学校教授久野女史が、わが日本の生んだピヤニストの随一であることは、恐らく何人も異論なきところでありませう。わが楽壇の花たる久野女史が名人としての栄誉を得るまでの苦心の物語は、本号の誌上に詳しく発表されてあります。図は弾奏中の女史で、本誌写真部が最近撮影したものであります。

 上の写真は、大正十年 〔一九二一年〕 七月一日発行の『主婦之友』 七月号 夏季特別号 第五巻 第七号 の口絵にあるもの。

 なお、苦心の物語とは、同号掲載の下の文である。文中には、下の写真もある。

 

   (最近の久野久子女史であります)

 現代女名人伝(其二)

  ピヤニスト久野久子女史 記者 松田鶴子 〔下は、その一部〕

 (二)

 天才の生立ちには多くは一種の奇異な事実がまつはり易い。或者はそこに神の摂理を見る。或人はそこに運命の黙示をよむと云ふ。私は久野女史のそれを誇張して、彼女の幼時をローマンスの霧に包まうとは思はぬが、しかし又彼女の未来を今日の境地に釘 つ けた、小さい哀話を逸するわけにもゆかない。
 女史は明治十八年十二月、昔ながらの名にゆかしい滋賀の都大津の町に生れた。山紫水明の地は偉人を生むといふが、小波美しい琵琶の水と、勤行の鉦 かね の音聖 きよ い叡山の神秘な息吹とに擁 いだ かれた大津の自然は、女史が特に天かた與へられた揺籃であつた。家は酒造と質商 しちや を兼ねてゐたが、父君彌助氏の丹誠で鍛へ上げた家運は、女史出生当時は朝日の如く隆隆たるものであつた。
 生後僅かに半歳ばかりの時であつた。一日女史は子守女の背に負はれて、氏神なる大津松本の平野神社に遊んだ。そして琵琶の湖を一眸 いちぼう の下に見晴す社の高い石段の絶頂から転げ落ちて、股の関節を外 は づしてしまつたのである。帰宅ののち、常には機嫌のよいおとなしい赤坊が、細い咽喉を裂けちぎれるほど泣き叫ぶので、少からず親達の注意をひいたが、子守女は不思議に顔にも手にも擦創 すりきず 一つ付いてゐないのを奇貨として、ことの真相を秘しかくしに隠してしまつた。そして両親のそれと気づいた時には、女史は一生回復することの出来ない不具の身となつてゐたのである。
 思へば運命の定めは奇しき限りである。子守女の小さい不正直は、大正の楽壇に最も誇るべき天才の一人を送り出す機縁の一つとなり得たのである。女史の一家が不慮の災難に遭つて悲嘆の涙にかきくれてゐた時、運命の神は、未来の楽星のために適はしい祭壇の用意に急がしかつたのである。
 かうして人並以上に眉目 みめ 美しく怜悧 さか しく生れ来た一人の娘が、不自由な脚 あし を引摺つて遊び戯れるさまは、どんなに両親の心をかき乱したことであらう。それも自分達の不注意がその因 もと をつくつたことを思ふとき、身に代へても償ひたいと嘆き悲しむのは、当然の親心である。両親の慈愛はこの自責の苦悩を伴つて幼い久子女史の上に雨のやうに降り注いだ。けれどもすぐれて聡明で且つ極めて意志の強かつた母堂ふさ子氏は、不憫の涙に咽びつゝも、それを露はに出して不具の娘を盲愛する人ではなかつた。さういう身には一生独りを全うする覚悟と備へが大切だといつて、まだ物心もつかぬ五つ六つの頃から、琴と三味線をきびしく仕込むのであつた。行末 ゆくすゑ はこの芸によつて生きさせようといふのであつた。
 世間では久野女史を晩学のやうにいひ伝へるが、西洋音楽に志したのこそ十七歳の秋であつたが、女史の聴覚が初めて楽の音に目醒めたのは、実にこのいたいけない若い嫩芽 わかめ が漸く春の初光に萌えそめたその頃からであつた。しかも一生をこの楽音の一節に捧げつくさねばならぬ一身の事情は、幼児の胸にも多少の感銘があつたのであらう。女史の音楽に対する感受性は日にゝ鋭い閃 ひらめき を見せ初めた。恐らくは洋楽よりも、伝統的に理解の深い邦楽によつて、女史の幼い官能が培はれ深められたといふことは、女史にとつて寧ろ幸福なことであつたに違ひない。

 (三)

 手ほどきは土地の師匠から受けたが、田舎の町とて名ある師もないので、尋常三年のとき京都に出て、古川瀧齋検校について生田流の琴曲を専心稽古することとなつた。そのとき令兄も小学校を卒へて京都の中学へ入つたので、母堂は、忙しい家業を犠牲にして、兄と妹の監督のため共々上洛したのであつた。全くこの母堂のは、孟母にも劣らぬ賢い人であつた。それだけに子供の勉学については随分厳格で、殊に久子女史に対しては、『お前は人と違ふ体だ。他処 よそ のお娘 こ のやうに嫁入り支度の稽古ではない。生命を賭けての仕事だ。この仕事の他にお前には何にもないのだ』と、朝はほのゞ明けから、夜はあたりの物音が絶え果てるまで、撥 ばち と爪とを離させなかつたといふことである。
 久子女史の篤い天分は、かうした母堂の血のしたゝるやうな励ましをまつて、めきゝと頭角を現はして来た。殊に天性の美音と豊かな声量とは、どんな複雑な唄物でも平然と唄ひこなした。生田流にある若葉の曲などは一つの節を十分ほどもつゞけて引張るので、余程声量も豊かな節廻しの上手な人でなくては唄へぬものとしてある。それを久野女史は十三四歳の頃に立派に唄ひこなしたといふのを見ても、彼女は声楽家としても一家をなす素質があつたものと思はれる。
 十七歳までにはすつかり奥許 おくゆるし を得たのであつたが、母堂はその喜びを俟 ま たず、女史十五歳の秋、苟且 かりそめ の病のため、便り少い我が娘の前途に心残しながら、桐の一葉と共に散つて行つたのは、女史のためにも母堂のためにも限りなき恨みである。

 (四)

 久野女史は既に奥許しを取つたので、母君の遺言を守つて、一生を琴曲の師匠として暮す決心であつたが、折ふし令兄も高等学校を了 へ て東京帝大に入学することになつたので、『これからの世の中に琴や三味線の師匠でもあるまい。東京には官立の音楽学校もあるといふ。兎に角試験を受けて見たらどうだ。是非一緒に上京しよう』とすゝめられ、父君も『お前方のよいやうに』と許されたので、急に規則書を取りよせるやら、大津に帰つて女学校の先生から英語その他の学科を習ふやらまた譜の読み方も少しは知らなければといふので、オルガンなしに一二三 ドレミ を習つたりした。さうし僅か半年間に兎に角一通りの準備が出来たので、父君と令兄とに伴はれ、初めて上京したのであつた。それは明治三十四年、久子女史十七歳の秋九月であつた。女史はその頃の追懐を、
 『まるで無茶でしたわ。第一その頃ピヤノなんて見たことも聞いたこともあれしまへん。父と兄と三人が三等車の隅つこに小さう塊つてなあ。音楽学校てどんな学校やろ、大津の女学校よか立派やろなど噂しながら来ました。翌日上野の学校の前を通つたとき、奥の方から何や知らんエ、音色が幽 かす かに聞えたんで、あゝ入学 はい りたいなあ。入学れたらどんなに嬉しやろとしみゞ思ひました。何が何やら夢中の中に試験もすみ、多分駄目やろと諦めてゐたのが、假入学を許されることになつた嬉しさは、今でも忘れることが出来ません。ですが假入学といふのですから、その試験の成績はほんに危いものでしたやろ。オ、恥づかしい』と何所 どこ までも処女の気分失せぬ久子女史は、羽織の紐をまさぐりながら、美しい瞳をうつとりと見張るのであつた。
 その年の十二月には本入学を許され、甲種師範科に在籍して、中村夫人とハイドリツヒ氏とについて、ピヤノの手ほどきを受けた。在校一年にして、幸か不幸か肋膜を病んだので、大津に帰つて一年間静養し、身も心も新たに健かになつて再び学校に帰つたのは、二十歳の九月であつた。この一年間の休学のためこんどは幸田延子女史に学ぶことが出来たのであつたが、久野女史は『私に本当にピヤノといふものを判 わか らしてくだすつたのは幸田先生です。私は語学の素養もありませんし、従つて譜の読み方などもずつと遅いのです。けれど何 ど うかかうか今日ピヤノの音 ね を出すことが出来るのは、全く幸田先生のおかげです。私の脚を折つて芸術に奉仕する機会を與へて下すつた神様は、一年間私に病気を與へて幸田先生と遭 あ はして下すつたのだと信じます』と、幸田延子女史を甚 いた く徳としてゐる。

 (五)

 一年間の静養に加へて、幸田女史を得た久野氏は、天の時と地の利をしめた勇者のやうに、その技もめきゝと上達した。翌年三月甲種師範科の卒業證書授与式に当り、器楽部一年生で、クーラウのソナタを弾いたのなどは、今から考へると何でもないが、当時にあつては異教として衆目を聳 そばだ てしめた。これが女史の初陣であつたが、明治三十九年の夏、第十七回卒業證書授与式には、器楽部卒業生として、女史はベートーヱ゛ンの競奏曲 コンチエルト を弾いたのであつた。これよりさき幸田延子女史やケーベル博士は、競奏曲を弾いてゐたが、それは人も許し自分も許した斯道の権威である教授達であつた。その頃の生徒達は名を聞いたゞけでも身を慄 ふる はして恐ろしがつてゐた競奏曲を、生徒の纎手 せんしゆ に弾奏し得たのは、誠に久野久子女史が嚆矢 こうし であつた。
 音楽学校卒業後は研究生として学校に残りケーベル博士、ロイテル氏、シヨルツ氏と、歴代の教授について研鑽に身命を捧げて余念がなかつたので、技はますゝ進み、人の追従を許さぬ彼女独特の香り高い力の芸術は、この間に次第に形成されて、天才久野女史の名は、上野の杜 もり 深くひゞき渡る美しいメロデーと共に、東都の楽壇に曉の明星のやうにきらめき初めたのであつた。とは云へ久野女史のこの栄誉の陰には、彼女の血を枯らし肉を削ぐ苦悩の戦のあつたことを忘れてはならぬ。
 女史の天分は篤かつたとはいへ、その天分を拓 ひら いたのは彼女絶倫の精力と努力とであつた。それに性来の負けず魂が添つて大成されたためである。久野女史の勉学ぶりが近所の床屋の親方は、
 『久野さんといふ方は恐ろしい勉強家だ。上野の杜に烏が啼かぬ日はあつても、あの人が気違ひのやうにピヤノをかき鳴らさぬ日はなかつた。私も長らく学校の近所にゐますからいろんな音楽家に知合がありますが、久野さんのやうな糞勉強家を見たことがない』と奇蹟のやうに語り伝へてゐる。
 また女史に親しく仕へてゐた下婢の一人は
 『先生がピヤノにお対 むか ひになつたときのお顔はほんとうに凄うございます。目の光が何ともいへぬ色を帯びて、それは到底 とて もこの世の人ではないかと思はれる時があります。そして思ふやうに手が動かぬと、一日でも二日でも御飯を召し上らないのです。演奏会などがあると、もう一週間も二週間も前から誰にも会はないで、家の者にも口一つお利 き きにならず、部屋に鍵をかけて練習なさるんです。私のやうなものは見てゐるだけでも寿命がちぢまります。あんな苦しい修業は、孫子の末までさせないことだとつくゞ思ふことがございます』といつてゐるが、その火のやうな悶 もだ えと、飽くことを知らぬ向上欲と、芸術的執着とがもつれもつれて、女史独特のあの力強い芸術を作り上げるのであらう。

 (六)

 四十二年、即ち女史二十五歳の時、時の音楽学校長湯原元一氏は、女史を抜いて助教授とした。爾来女史は自己の研究と共に後進のために身を挺して訓育につとめたのであったが、何事にも迸 ほとばし るやうに情熱をもって人に迫ってゆく女史は、その子弟を導くに当っても全人的に総て投げ出してかゝった。髪をふり乱して、汗が新調の着物をしみ通すのも知らず、生徒の肩にかぶさるやうにして、そこが違ふかう弾くのだと、一々手を取って教へるのであった。況 ま して自分の教子が演奏の場合などは、殆んど意識を失ったかのやうに、或は手を叩き首をふって狂喜したり、譜を間違ったといっては人目を忘れて悶え嘆くので喜怒を色に現はさぬことを淑女の誇りとする人々からは、一種の滑稽と見られるのであった。されど女史のかうした純真な芸術家気質は、感受性の鋭い若い音楽家の群からは、恋人のやうに敬愛され『久野先生久野先生』となつかしみ親しまれるのである。
 女史は自から常に口にしてゐる通り、妥協の出来ぬ誤魔化しの出来ぬ人である。先頃来朝した世界的のバイオリニスト、エルマン氏の演奏を聞いた時、女史は『私は何だかエルマン氏がお気の毒なやうな気がしました。あれほど偉大なあの人の芸術が、伴奏者なくては出来ぬといふのは、何といふつらいことでせう。私はエルマン氏と伴奏者との間に紙一枚の隔 へだた りのないことは信じますが、それだけにあの方の心のの何所 どこ かに調和の苦労が潜んでゐることも信じます。私のやうな頑固者は、伴奏者の要らぬピヤノを撰んだことを喜んでゐます』といってゐたが、かういふ風に他人と妥協の出来ぬやうに、自分の心とも妥協が出来ぬ。演奏会などの場合も自信のない限りは決して手をつけぬ。従って演奏の数は比較的少ないかのやうである。四十四年の十二月、音楽学校に開かれた第二十五回音楽演奏会にユーバーの競奏曲 コンチェルト を、越えて大正二年十二月、クローン氏の指揮する管絃楽 オーケストラ とともにバッハ、グノーの黙想曲 レヱ゛リー を、五年五月にはクローン氏の指揮する管絃楽の下に独奏者として、ショパンのホ短調競奏曲作品十一の演奏をなし、同年十一月、皇后陛下音楽学校に行啓あらせられた際、グリークの春の曲とショパンの練習曲 エチュード との御前演奏が仕った。これ等は世人の記憶に深く刻みつけられた思ひ出深い、驚嘆すべき演奏であったが、女史の芸術に一区画を齎らしたものは、大正四年一月廿一日の奇禍である。
 この夜女史は、吹きまくる寒風をショールに包 くる まって、赤坂葵橋の停留場で電車をまってゐた。驀然 まっしぐら に走 は せ来た自働車に、脚の不自由な女史は身を転 かは す間もなく、無惨にも轢き倒されて重傷を負ひ、人事不省の身を築地の病院に運ばれたのであった。再三危篤を伝へられたほどの重症であったが、天はこの若い天才を惜しんでか、半年の入院後再び元の健かな心身をもって、芸術の奉仕を許された。この病中、昏睡状態に在りながらも、常にピヤノを弾く手振りをしてゐたといふことであったが、夢寐 むび にだも心を離れなかった、そのピヤノに、再び対 むか ひ得た時の女史の歓喜は、何をもって現はすことは出来ない。以来猛烈なる練習、誠に寝食を忘れてベートーヱ゛ンの難曲に練習をつんだのであったが、大正五年十二月、女子大学桜楓会と音楽学校々友会とは合同して、女史のために恢復祝賀の演奏会を開いて、復活した女史の芸術を公衆に紹介した。この時の盛況は従来のあらゆる記録を破り、久野久子女史の名は、都の大空を春の霞のやうに立て罩 こ めて、若い男女の血を沸かし肉を跳 をど らしたのであった。   

 (七)

 その後沈黙二年、再びベートーヱ゛ンの大曲の研究に心を潜め、難曲五つを拵 こしら へ上げるや、大正七年二月、再度の大独奏会を開いた。この二回の独奏会によって、現代の日本に於てベートーヱ゛ンを弾き得るものは、久野女史を措いて他にないとの定評を完うしたのであった。
 誠にベートーヱ゛ンのあの逆まく怒涛が岩を噛み石を砕き、吹きまくる疾風が野も林も埋めつくすやうな、力の強い線の太い芸術は、久野女史のやうに全人的に曲の精神に突入してゆく人でなくては、現はすことは出来ぬ。女史はこの演奏中、渾身の力と心を、細い十本の纎手 せんしゅ にこめて鍵 キイ を押したので、指先は破れて鮮血がピヤノを真赤に染めたといふことである。それは演奏の時だけではない。女史は一つの新曲の研究に指を染めるや、その曲を通じて作者の精神との強い霊交に接するまでは、指が破れようが五体が疲労しつくして感覚を失はうが、何時までも同じ物を弾きまくって苦心惨憺するのである。その時の女史は、殆んど人間界の人とは見えないほど、物凄く神々しくもあるといふことである。女史は常に、
 『ピーッと自分の胸に響くものを掴まないうちは駄目です。それが掴めないうちは、どんなことがあっても人の前で弾くことは出来ません。』といってゐるが、その芸術的良心と自信とは巌 いはほ のやうに堅く、誰が何といっても、人情を楯としても、決して演奏をしない。況んや報酬などに動かされて心にもない弾奏をするやうなことは決してないのである。
 女史の生活は全く芸術に捧げた聖 きよ められた生活である。物資や権勢や情実などの妥協は少しもない。これが女史の芸術をして力の芸術であらしめ、純真の芸術であらしめる所以であらう。
 これを例ふればロダンの彫刻である。ゴーホの絵である。あの荒っぽいゴツゝした線の味は、普通の女性の手には到底與 あた へられないものである。情調的のセンチメントは少いかも知れぬが、太く深く刻み込んでゆく偉大さは、今の楽壇を通じて、たゞ久野女史の芸術にのみ見出すことが出来る。とはいへ女史の芸術は未完成の偉大である。或は一生を通じて完成されないかも知れぬ。しかしそれが女史の芸術の生命であり、力であり、将 は た意義である。

 (八)

 女史の芸術が男性的であるやうに、女史の性格も男性的である。けれども一面には非常に優しい涙のもろい女性である。打てば響く鳴る鐘や鈸 ねうはち のやうな、溌剌たる生気に充ちた半面には、咲いた花の萎 しぼ むのにも涙ぐむ乙女の情緒がある。研究する時間が欲しいゝといひながら、肉身〔肉親〕の扶養のためには、音楽学校に女子大学に教鞭を執る余暇に、多くの子弟を教育して、物質のため尊い自己を犠牲にして厭はぬ。女史は、
『前にはどう気張っても到底 とて も及ばぬことと諦めてゐた或る曲が、この頃は手を延ばせば掴めるやうな近くにある気がして来ました。この機会にうんと勉強したいと思ひますが、その余裕はまだ與へられません。けれども、どうしても二三年の中には何とかならねばなりません。金と時間さへあれば思ふまゝの勉強も出来るとはいふものゝ、それは金も時間もないからのことで、実際さういふ身になったらほんとの勉強が出来るかどうかは判りません。ですから私は何にも不足を云はないで毎日一生懸命働いてをります』
 與へられた自己の境遇に満足して、何物にも屈託しない楽天的の女史の性格が、芸術に携 たづさ はるものに取って一番つらい世俗的の事情もつひに踏み破り、思ふまゝの修業をつみ得て、女史自身も私達も満足する境遇を拓き得る日の一日も早く来る様に祈ってやまない。そして私達は久野女史の成功が、現在の境地に留 とどま るものとは思はない。人は云ふ、久野女史とベートーヱ゛ンとピヤノとの間には一分の隙もないと、誠にそれに相違ないと思ふ。けれども私達は彼人 あるひと の未来に、更に奥深い幽玄なものゝあるのを想像することは無理ではあるまいと思ふ。



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