蔵書目録

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『心の花』 (橘糸重女史追悼號) (1939.10)

2021年12月26日 | 音楽学校、音楽教育家

 

心の花 
  第四十三卷
  第 十 號
  橘糸重女史追悼號

 橘糸重女史    ‥‥‥ 佐佐木信綱 〔下は、その一部〕

 今思ふに、これを公にして、和歌史家の立場からいふと、明治の和歌史を大觀して、新しい歌が興った後、はじめて沈痛な作を詠じたのが橘女史であって、後にその跡を履んだのが白蓮夫人である。
 明治の新しい歌壇は、巾幗者流としては與謝野晶子夫人を嚆矢とするが、女史は與謝野夫人とは全く異った方面で心の深い作を發表せられたのであった。しかしてその作品は、心の花の初期時代、竹柏園集等に掲げられてある。女史も白蓮夫人も、共にわが竹柏會の同人であるが、如上の言は決してわが佛尊しではない。自分は和歌史家の一人として肯へてこれを言擧するのである。もとより女史は、音樂學校敎授を多年つとめられ、ケーベル博士に敎をうけられたピアニストであって、歌はその餘技と言ふべきである。しかし三浦守治博士が偉大なる醫學者であると共に明治大正の歌史に不朽の足蹟を殘された如く、女史も亦女流歌人の一人として、永遠にその名を記さるべき人である。
 これを私にしては、明治四年の亡父の學友錄(心の花本年六月號口繪參照)によると、龜山として、橘正直、橘幸子の二人の名が見えるが、それが橘さん(以下女史といはず、さんといふ)の父母君である。しかしその幸子刀自と橘さんの姉君鈴木榮子ぬしと橘さんとは、父からつづいて自分の敎を受けられた。即ち橘さんの親子二代は、わが竹柏園二代の門人なのである。それで明治十五年自分が父に伴はれて東京に出た折、先づ第一に訪うたのは麴町の相澤氏と、下谷の橘氏とであって、當時橘さんは西黑門町に住んでをられた。やがて神田五軒町に移って世を終るまで住まれたのであるが、五軒町の家には、小花淸泉君や當時未だ學生であった上田敏君と同行した記憶もある。また夏の月夜に橘さんを訪ふ道すがら、ある古書僧で大隈言道の草徑集を始めて得、今道々讀んだのであるが、こんな名をしらぬすぐれた歌人があるとて言道の歌を話をした記憶もある。(なほ五軒町の橘さんの近くには、横山大觀畫伯が住んでをられ、間近い末廣町には、幸田露伴博士同延子女史がをられたのであった。)
 
 心の花の今月號を、橘さんの追悼號として諸家の寄稿を請うたので、口繪に橘さんに因ある三種の集合寫眞を揭げることとした。その一は、明治三十三年四月中川のほとりに野遊會を催したをりので、當時帝大法科の學生であった大野守衛君(前墺國大使)の撮されたのである。
 前列右より有賀晴子(寶月夫人)、橘糸重、佐佐木雪子、新井洸、後列、佐佐木、村岡典嗣(當時早稻田大學學生、今、東北帝大敎授)篠崎正(當時帝大法科學生、今、名古屋少年審判所長)印東昌綱、石榑千亦、木下利玄、三浦守治、小花淸泉、中澤弘光畵伯の諸君。(この中に、晴子ぬし、新井君、木下君、三浦博士は、すでに世を去られた。まことに痛歎せられる。
 その二は、神田如水會館で大正九年四月竹柏會大會のあったをり、黑田淸輝畫伯に講話を請うた後、長坂好子ぬしの獨唱(多賀谷千賀ぬし伴奏)があった際、控室で、文綱がかりそめに寫したもの、前列左より橘さん、藤田道子、多賀谷ぬし。後列渡邊とめ子夫人、佐佐木、永坂ぬし。
 その三は、昭和十二年七月、帝國藝術院會員を文相が東京會舘に招かれた夜の寫眞、左より橘さん、幸田延子女史、安井文相、右より、佐佐木、三宅雪嶺博士、(背面)比田井天來氏、院長淸水澄博士(背面)。

 弔辭        ‥‥‥ 東京音樂學校長 乗杉嘉壽 
 橘さんと母君   ‥‥‥ 幸田延子  〔下は、その一部〕  

 も一つ、橘さんと母君に關しての思出に、行啓をあふいだ日の演奏會か、他の演奏會の折だったか、ふところから、母君の寫眞を出して、「母も一緒にね」とか言って私に見せられたことがありました。晴がましい演奏會に、母君も一緒にと思はれた橘さんは、ほんとに母君思ひの方でした。

 橘糸重さん    ‥‥‥ 石榑千亦 〔下は、その一部〕

 橘さんは寫眞を撮るのが一番嫌であった。會の記念寫眞などには、いつも最後の列に加はってゐて、パッとシャッターを切った時には、すっとしゃがんで了ふ。その時刻を觀ることのうまさ。斯くて正面をきったのがありとすれば、立派に國寶的存在といって宜い位のものだ。

 橘糸重女史を懷ふ ‥‥‥ 小花淸泉 〔下は、その一部〕

 ピヤニストの橘糸重女史が遂に逝かれた。享年六十七、市區改正前の神田五軒町のお宅から上野の森音樂學校に通學した女學生時代このかた、音樂に終始した女史の一生は短くもなかった。
 女史の體格は何れかといふと骨太の方だったが、中年の頃の其が手首は旣に異常な發達を遂げてゐた。ピヤニストと手指との關係については、女史自身の口から聞いた事もある。指の長短とか指の伸長力とかに關して色々聞かされてゐるが、鍛錬されし女史の手指は眞に能く其が永年の努力と又其が音樂家的天資とを物語ってゐたやうである。
 竹柏會の會員としては歌も詠まれ文も多少作られたが、何といっても音樂が女史の本領だった。その道の天才の持主であったらうけれど人並以上の勤勉家でもあった。母校の敎鞭を取りながらも猶、當時小石川の原町なりしケーベル博士に師事して大に勉め、演奏會の練習などには涙ぐましい多大の努力が拂はれたやうである。晩年に帝國藝術院の會員になれたのも偶然ではない。
 明治三十年前後の音樂會では、幸田女史のヴァイオリンと相並んで、橘女史のピヤノが演奏の花形だった。私は時々切符をいたゞいて、佐佐木先生や同雪子夫人などと御一緒に、例の樂堂へ出掛けた事がある。學生服の上田敏君や島崎藤村氏の靑年姿などが見られたのも今は昔である。

 橘絲重ぬしの思出 ‥‥‥ 印東昌綱  〔下は、その一部〕

 橘さんは明治二十五年の東京音樂學校卒業生で、爾來母校に殘って、助敎授より敎授となられ、幾多の後輩の指導をされたが、又本邦に於いて婦人敎育者としてはやく勅任待遇をうけられた一人でもある。歌の道では明治十六、七年頃より我が父の敎へ子として學ばれたと思ふ。橘さんの父君良珉氏も母君幸子刀自も古くから父の弟子であったので、わが一家が伊勢から東京に移り來るや姉君榮ぬしと共に入門せられ、父亡き後は兄について學ばれる樣になったのである。竹柏會同人の中でも父子二代のお弟子として今僅かに殘る三人四人の中の一人であった。
 橘さんが小川町の稽古に見えた頃は、歌や習字を勉強して居られた。稽古机に向っては折々習字に飽きた橘さんが、人形の首を書いてゐたのを先生に見つかって叱られたものですとは、後年屡々思出話として語られた事である。自分の父は橘さんが音樂學校にはいられた事を大いに喜んで、わしには西洋のコロリンシャンは判らないが、何でも良いから上手になって下さいと勵まして居ったのを記憶する。橘さんの卒業される一年前の六月に我が父は世を去り、又二十七年九月に我が母は逝いたが、橘さんの母君もこの年の十月になくなられて自分達兄弟も、橘さん御姉妹も皆親なしとなった。然しその頃から橘さんは姉君の嫁がれた鈴木家と御一緒に、五軒町に住まはれる樣になったので、それは君にとって此の上もない心強さであったらうと察せられた。
  
 橘女史の歌    ‥‥‥ 伊藤嘉夫
 橘さん      ‥‥‥ 佐佐木雪子
 亡き先生     ‥‥‥ 多賀谷千秋  〔下は、その一部〕

 思ひは三十年ほど前、私が音樂學校の生徒時代に走る。御敎室の先生は、いつもゆかしく又おごそかであった。レッスンの時、私共は云ひ合せた樣に襟を正し、眞白い足袋をつけた。
 一曲一曲と理解させて頂いた時の生き甲斐のあった事、ベートーブエンソナタを、次から次と息もつかせず敎へて下さった時のきびしかった事。又は樂聖バッハのフーグを、幼稚な頭にどうにかして理解させようと御心をくだかれた時の御親切、又其の時の苦しかった事、また演奏會の折や御滿足に弾けた時の御よろこびなど、どれも之も決して一生わすれられぬ事である。
 又或時は御ねだりして、かって行啓の御前演奏を遊ばされたベートーブェン、さては先生の御得意であり御好みのショパン、ブラームスをきかせて頂いて涙を流した事もあった。
 校庭の藤棚の下に推の實を拾ひながら、よく御歌の御話も出た。また音樂史上の御話や、先生の恩師ケーベル博士の御事ども、さては我が國の物語のこと、其の御言葉は汲めどもつきぬ泉のやうに、藝術其のものであった。

 橘先生を懷ふ   ‥‥‥ 佐佐木治綱

 橘の香り床しく黑白の鍵盤 キイ に一生を獻け賜へる
 聾に耐へ苦惱に堪へし音樂の王者の寫眞姉に賜ひし

 心もうつろにて  ‥‥‥ 鈴木榮
 叔母のこと    ‥‥‥ 鈴木昭
 糸重叔母の思ひ出 ‥‥‥ 熊本 山崎とね子
 五軒町の叔母さま ‥‥‥  石邨幹子 

〔蔵書目録注〕

 上の写真と文は、何れも、昭和十四年十月一日発行の雑誌 『心の花』 第四十三卷 第十號 (通卷四百九十八號) 橘糸重女史追悼號 に掲載されたものである。



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