蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「私の半生」 幸田延子述 (1931.6)

2015年02月28日 | 音楽学校、音楽教育家

 私の半生    幸田延子述

  

 私の生立

 私は明治三年に東京の下谷で生れました。私の家は代々徳川家に仕へた士で所謂本当の江戸つ子です。兄(幸田露伴博士)は私より三年前、慶應三年に生れました。妹(安藤幸子女史)は私より五六年あとになります。
 私の音楽趣味は直接には母-ゆふと申しました。-から受けました。母は長唄を稽古して居りました。一体に私の祖父は物事を徹底的にやらせる人でして、母は家附きの娘で父は養子に来た人でありましたが、母は祖父の徹底的な教育の下に育てられた人でした。一例を申しますと、お習字にいたしましても、いろは、を祖父から三年かゝつて教へられたさふです。母の子供の頃、教育は全部祖父から受けて居りましたが、お習字なども祖父は仲々漢字を教へなかつたさふです。先づいろはを書かせましたが、仲々此れで良いとは云つてくれない。母は早く画の多い字を書きたかつたさふですがまだ駄目だと云つて許してくれない、到頭三年間いろは許り書かされたさふです。此の祖父は趣味の広い人だつたさふでして殊に音楽が好きだつたのです。で、母は祖父の希望で杵屋六翁さんのお弟子さんの杵屋えつと云ふ人の所へ長唄を稽古に行きましたが、父は几帳面な、徹底的な人だつたので、趣味に習つてはゐるものゝ家でのおさらひなどはきちんゝとさせてゐたさふです。此の祖父の教育法を母が受けついだのでした。
 私が長唄を始めたのは随分小さい時でした。口がきける位の時でした。その頃から母はお裁縫をしてゐる合間でも私をそばに置いて口三味線で教へたものでした。だから私もをさらひをする時に母の口三味線の真似をそのまゝして笑はれたことがありました。かふやつて母の心盡しから私の音楽趣味は成長して行つたのです。

 洋楽への第一歩

 お茶の水の師範附属の小学校に入いりましたが、その内にお琴も習ひました。先生は山瀬松韻さんと云つて今の音楽学校の前身で音楽取調所の講師をしてゐた方でした。此の方の所へ学校の帰りに立寄つて習つて居りました。
 丁度十三歳の時でした。附属小学校に唱歌の先生でメーソンと云ふアメリカ人が来ました。メーソンさんは附属小学校ばかりではなく音楽取調所の先生にもなりました。今日の皆様方では想像もなさらないでせうが唱歌を、一 ひ 、二 ふ 、三 み 、と云つて習つたものです。此の唱歌の後に音階の練習や聴音の練習などもやりました。一つの音をメーソン先生が弾いて「此の音は何の音だ」なんて云ふ練習や、音階を歌ふ練習などは、小供の頃から長唄やお琴をやつてゐた私には大して難しいことではなかつたのです。で、メーソン先生から可愛がられまして、「此の子は音楽の才があるから個人教授をしたい」と云はれました。先生がさふ云つて下さるのでしたら、と父も母も同意して下さいましたので、毎週土曜日の午後、学校が終ると母につれられて、その頃本郷の森川町にありました音楽取調所に参る様になりました。そこで始めてピアノを見、そしてそれを習ひ始めたのです。その頃音楽取調所にお見えになつてゐた方には奥好義さんや、上眞行さんなどがゐらつしやいました。
 メーソン先生は仲々お急がしい方だつたので主として私はミス中村と云ふ方にピアノの手ほどきをして頂きました。此のミス中村と云ふ方は非常にハイカラな方で、英語も流暢でメーソン先生の通訳などもして居られました。此の方とは因縁が深い話がありまして、此の方のお宅と私のお宅とはお隣り同士だつたのです。家庭同士もおつき合ひ致して居りました。或る時、此のミス中村がお宅で琴をひいてゐらしたのですが、その時私はその琴の音が面白く垣根のそばで聴いてゐました。そしたら中村さんのお宅から、琴をお聴きになりたいのならどうぞ此方にゐらつしやい、とお招きされてお菓子など頂いて聴かせて頂いたこともありました。此の様に前から存じ上げてゐるミス中村が音楽取調所でメーソン先生の助手をしてゐらしたので、「まあ、あなたですか」と云ふ訳で大いに驚いたものです。
 矢張り始はバイエルからでした。けれど当時、ピアノなんかつて取調所以後に殆んど見ませんでしたし、まして家になんかありません。土曜日にお伺がひする度びに取調所のピアノを拝借してチョツとお浚 さら ひをして見て頂く位のものでした。唱歌なども皆さん大人の方々の中にまじつて一所に歌はせて頂いたり致しました。此のミス中村と云ふ方は後に高峰と云ふ高等師範の校長の所へ嫁がれました。
 この頃は勿論楽器店などは一軒もなく、ピアノを自宅で勉強するなんて事は到底出来ませんでした。たゞ、取調所にテーブル型の古ぼけたピアノがあるだけでして、お稽古して頂く前に二三度お浚ひして先生に見て頂き、此所はかふ弾くんだ、彼所はかふ、と御注意を聴いて済んだのです。家へかへればピアノなんか勿論ありませんから、お琴か三味線をお稽古をしておりました。

 音楽取調所へ入学

 私を色々に御指導下さつたメーソン先生は明治十五年に満期になつてお帰へりになることゝなりました。丁度私も小学校を卒業することゝなつたのであります。その時、メーソン先生が学校へ私の母をお呼びになりまして「此の子は見込みがあるから音楽取調所に入れて専門家にしたら好いだらう」とお勧めになりました。先生からのお勧めで私の家には何の異議も御座いません。私も興味を持つて居りましたので音楽取調所へ入学することゝなつたのであります。その時の校長は伊澤さんでして、その他の先生にはピアノに瓜生繁子さん、唱歌は上眞行さん、ヴアイオリンは多久随さんなどがゐらつしやいました。瓜生さんは文部省から第一回の留学生として大山捨松さん、津田梅子さん方とアメリカへ御勉強にゐらした方です。多久随氏は先日お逝くなりになつた音楽学校の提琴教授多久寅氏のお父さんでした。音楽取調所にはいつて勉強を始めたのですが、ピアノなども楽譜が手に入いりません。で、五線紙に一生懸命譜を写したものです。馴れないものですから随分此れに時間を取られました。今日の様に必要な楽譜が直ぐ手に入る時など、その頃のことは御想像も出来ないでせう。始めはピアノを専心やるつもりだつた所、ヴアイオリンもやれと云はれてヴアイオリンも習ひ始めました。先生は前に申上げた多久隨氏です。何と云つても明治十六七年と云ふ頃です。ピアノやオルガンなども音楽学校以外には殆んど御座いません。折角唱歌の先生を作つても教へる方法が無いと云ふので、お琴や胡弓を伴奏楽器に使つて唱歌を教へられる様にしよう、と云ふのでその研究が始まりました。お琴の絃を西洋音階に直したり、胡弓をヴアイオリンの調子に合わせたりしてやつたのです。此れも私が試験台になつてやりました。

 音楽取調所を卒業

 かふ云ふことをしてゐる間に卒業と云ふことになりました。明治十八年で私の十六歳の時です。卒業演奏にはピヤノではウヱーバーの「舞踏会への招待」を、独奏し、又遠山さんや市川さん方とヴアイオリンの三重奏も致しました。私は引続き今で申す研究科に入いつて勉強致しました。此の研究科の四年間に、当時海軍軍楽隊のお雇教師だつたヱツケルトさんも学校へ教へに見へられました。又、その頃横浜にソーフレーと云ふオランダ人が居られまして此の方は専門家ではありませんでしたが大変器用な人で、少しの間学校へ教へに見へられました。此の方から沢山シヨパンのものを教へて頂きましたし、沢山聞かせて頂きました。テイーチヱと云ふドイツの声楽の先生も見へられました。此の方は本当の声楽家で本当の歌ひ方を習ひました。
 その時に文部省からの招聘でデイツトリヒと云ふドイツの先生が参られました。此の方はヴアイオリニストで今考へても立派な音楽家だと思ひます。デイツトリヒさんからヴアイオリンを習ひました。教則本はクロイツアーでした。教へる時は非常に厳しい方でした。此の時、妹の幸子(今の安藤幸子女史)がデイツトリヒさんにお眼にかゝつた折、幸子の手を見て、「此の子はヴアイオリニストにすると良い」と云はれました。此れが機となつて幸子がヴアイオリンの道へ進む様になつたのです。幸子はそのとき確か十一、二歳でしたでせう。

 アメリカへ留学

 研究科を四年やりました折、私の留学の話が出ました。行先きはアメリカです。ボストンにあるニュー・イングランド・コンサーベートリーの校長がメーソンさんとお友達と云ふので其処へ行くことになりました。此の話が出ましてから、時の文部大臣森有禮さんのお宅によくお招きされました。そして奥さんにピアノをお教へしました。何度もゝ御飯など御馳走になりまして親切にして下さいました。洋行するのだから英語を習はふと云ふのでミス・プリンスの寄宿舎にも、八ヶ月入りまして、グツド・モーニング位の挨拶が出来る様になりました。洋行する時は洋服を着ましたが、此れもミス・プリンスが作つてくださつたものです。
 ボストンまで丁度御帰国なさるナツプさん御夫婦に御同伴させて頂きました。ボストンのホテルでナツプさんが学校長のドクトル・ドルヂヱさんの所へ電話をかけましたら直ぐホテルまでいらしつて下さいまして、私の荷物を持つたりして学校へつれて行つて下さいました。異郷で御親切にして頂いたので大変有難く感じました。それから寄宿舎に入いつて勉強をしはじめましたが、専攻科目は日本を出る時から、ヴアイオリン、と定められたのでヴアイオリンを習ひ、その傍らピアノも習ひました。ヴアイオリンの先生はヱミール・マールと云ふ方でヨアヒムの弟子の方でした。ピアノはカール・フヱルと云ふ方でした。お二人とも独逸人でした。ボストンには一年間居りましたが此の間には寄宿舎生活をしたので余り外出を致しませんでしたが、それでもニキシユ、ダルベア、ヘツキング、サラサーテなどを聴き、今でもその印象は残つて居ります。

 更にウイーンへ五ヶ年

 予定の一年が過ぎましたので今度はウィーンに行くことになりました。領事館から領事館へと、お荷物の様にされながら一人旅でウィーンに到着し早速ウイーナー・コンセルヴアトリウムに入学致しました。住居は程近い所に家族的に寄宿させて頂きました。ウイーナー・コンセルヴアトリウムでも矢張り専攻はヴアイオリンでした。先生はヘルメスベルガーと云ふ人で此の人のお父さんは有名な方でした。その他ピアノはジガー、和声学は有名なロバート・フツクスについて習ひました。此のウイーン時代、ウィーンで過した五年間は随分と勉強致しました。ヴアイオリンピアノも一生懸命やりました。学校で習ふ和声だけでは足らなくてフツクス先生の所へプライヴヱートに対位法と作曲法を習ひに参りました。
 その頃ウイーンに大きな書店がありまして其処の奥さんのローザ・フオン・ゲルグと云ふ方は芸術家の保護者でした。殊に日本へ大変親しみをもつて居られまして私を大変可愛がつて下さいました。その時私の持つてゐたヴアイオリンはアメリカで買つたドイツ製のものでしたが、「ヴアイオリニストはもつと良い楽器を持つてゐなくては…」と仰言つて私にヴアイオリンを下さいました。見ると真正のアマテイなんで全く驚いてしまいました。此の楽器は大切にして持つて帰りましたが流石名器だけに非常にデリケートだと見えて、日本へ帰つたら方々はがれて来ました。三度位外国へ直しにやりましたけれど駄目なので、折角頂いても弾けなくては、と云ふのでウィーンのローザ奥さんの所へ「もつと健康なヴアイオリンと取換へて下さい」とお願ひして、リユツポと云ふ楽器と代へて頂きました。所がこの楽器はつぼが私の手よりは大き過ぎるのでまた代へて頂き、三度目に送つて下さつたのが今持つて居る楽器です。
 ローザ奥さんはさふやつて世話なさる傍ら毎週自宅にお友達を集めてコーラスのお稽古をなさつてゐたのですが、その集りに私もお招き下さいました。私はアルトのパートを受持ちました。何にしろ此の合唱団は皆さんお出来になる方々で、奥さんのお室に備附けてある楽譜を直ぐその場で歌ひ合せられるので随分と良い勉強になりましたし、合唱の妙味も会得致しました。が、それにも増して嬉しかつたのはお食事の間、或は稽古の休みの間、人々のお話が皆音楽のことばかりで随分良い、ためになるお話を伺がひました。此のローザ奥さんの生きてゐられる間はよく文通致しました。
 ウィーンでは良い音楽を沢山きゝました。ハンス・リヒターの指揮でベートーヴヱンの第五交響曲をウイーン・フイルモニーが演奏しました時、此の世にこんな立派な音楽があるのか、と思はず泣いて仕舞ひました。その他では同じくリヒターの指揮でヴアークナーの「ローヘングリン」やクナイゼル四重奏団が演奏したメンデルスゾーンのカンツオネツタなどはまだ頭に残つて居ります。

 帰朝後とそれから

 刺戟の多かつたウィーンの五年間の生活を終つて日本に帰へつて参りました。そして直ぐ音楽学校でヴアイオリンを教へました。帰朝演奏は上野の音楽学校の講堂で致しました。伴奏は橘糸重さんでメンデルスゾーンのコンチヱルトの第一楽章でした。此の時はヴアイオリン許りではなく歌も歌ひまして、曲はブラームスの「五月の夜」とシユーバートの「死と少女」とでした。その他に遠山さんがベートーヴヱンの「月光ソナタ」を独奏なさいました。その時音楽学校には、帝大文学部の嘱託をしてゐらしつたケーベル博士がピアノを教へに来られました。私は皆さんのお稽古の時通訳をして差上げ、その代りと云つても変ですが、私もピアノを教へて頂きました。その内にケーベル博士が当時の校長渡邊さんにお話になりまして「幸田をピアノの先生に」と云ふわけで、それからピアノ科の先生になることになりました。私の教へした方では今でも逝くなられた久野久子さんが惜しまれてなりません。あの方は生きてゐたら、と今でも考へます。

 学校を辞して今日まで

 それからは平凡な生活です。学校の先生をし又家へ習ふ方が見えたり、音楽の先生として平凡に過しました。明治四十二年に学校を辞しドイツへ一年の予定で参りました。此の時は伯林におりまして先日逝くなられたジーグフリード・オツクスの指揮するフイルハルモニツシヱル・コールに入いり、合唱の勉強を致しました。或る時ニキシユの指揮するベートーヴヱンの第九交響曲の終楽章合唱に出ました。
 学校を辞してからの私は、音楽を出来るだけ家庭に入れよ、の考へで参つて居ります。先づ家庭から音楽を、それでなければ音楽の普及と云ふことは難かしい事と考へて居ります。で、今日素人のお嬢さん方がお稽古して居りますのもその理由からで御座います。
 自分が進んで弾きたいと考へて居りますのは矢張りショパンで御座いませう。ショパンの音楽は一音一符と雖もピアノ的でないものはありません。どのパセーヂでも無駄がなくて、全くピアノ音楽として立派なものだと存じます。リストも結構だと存じますが、そして、伺がふには面白いと存じますが、一人ピアノの前に座つた時はどうもリストを苦労して奏かふと云ふ気にはなりません。疲れた時や、その他、自分を慰める為めにはショパンは私の友です。  (在文責記者)

 上の文は、巻頭の写真と共に、『音楽世界』 昭和六年 〔一九三一年〕 六月号 第三巻 第六号 に掲載されたものである。
 なお、本号には、次の口絵写真〔すぐ下の写真〕、楽譜2頁〔下はその説明〕、囲み記事〔下の写真〕も掲載されている。

 

 此の楽譜 シヨパンのグランド、ヴアルス、ブリラントは幸田女史が十七歳頃音譜したものである。当時は楽譜が仲々手に入らなかつたので皆音譜したものである、標題の英字は故瓜生女史が書いたもの。

 我が楽壇の母 幸田延子女史 盛んな表彰式 五十年の功績と還暦祝 来月七日に上野音楽学校で

 

 

 「幸田延子先生略歴」 〔18.8センチ、二つ折〕

 

 明治三年三月十九日東京市下谷区仲御徒町に御出生。幼にして聡明、明治十五年早くも音楽取調掛伝習所に入つて研鑽さる事三年有余、業を卒へるや直に同所の助手を拝命、時に齢僅に十六、誠に世の異数とする所である。同廿二年四月米墺両国に留学、音楽芸術の薀奥を究めて同二十八年十一月帰朝、爾来東京音楽学校教授として育英の道に励精せられ、同四十二年九月退職せられるや審声会を組織し、民間にあつて子弟の教養に当り、鋭意専心今日に及ばれた。此間前後を通じて五十年、竹の園生のやんごとなき方々の御教授の光栄を担はれし外、先生の指導誘掖を受けたものの数実に数百千の多きに上り、常に楽界に於て燦然たる存在を示されてゐる。

   昭和六年 〔一九三一年〕 六月    幸田延子先生功績表彰会

 この略歴は、「幸田延子先生功績表彰歌」とともに『記念』に挟まれていたものである。

 ・「幸田延子先生功績表彰歌」 〔22.8センチ、二つ折〕

     :歌詞付楽譜、岡野貞一作、小松玉巌作の歌詞一番二番。裏表紙には、「昭和六年六月七日 幸田延子先生功績表彰会」とある。

 ・『記念』 〔31センチ、楽譜15頁〕

     :明治天皇御製の「天」と「蘆間舟(あしまのふね)」(乗杉嘉壽謹書)、歌詞付楽譜(幸田延子謹作)

 この「天」と「蘆間舟」の作曲などの経緯は、大正七年 〔一九一八年〕 一月一日発行の『婦人週報』四巻一号にある「我が楽界に 咲き出づる名花 畏くも先帝陛下の御製に 謹譜し奉りたる幸田女史」を参照の事。それによれば、大正三年 〔一九一四年〕春、女史は楽譜を持って参内し、皇后に奉ったとのことである。

 なお、昭和六年六月一日発行の『月刊楽譜』 六月号 第二十号 第六号 には、次の写真2枚、記事、短い情報などが掲載されている。

 ・〔口絵〕 「わが楽壇の母 幸田延子女史」 〔ブログ上部の写真〕
 ・「大正天皇御慶事当時の幸田女史」

   

 記事
 ・「幸田先生のことども」      鳥居つな
 ・「幸田女史に就いて二三の事ども」 倉辻龍男
  幸田延子女史のお祝ひ。六月七日午後一時より 表彰式及記念演奏会。夜は精養軒にて記念晩餐会

 音楽の盛んな国  幸田延子

 

 帰朝せる音楽の天才幸田延子女史と其居室
 新近回国之音楽界名手幸田女史小像及女史居室
 Miss N.Koda, the famous lady pianist, who has retured from Germany after ten months’stay there.

 出来る丈多くの音楽会へ臨んで、出来る丈け多くの音楽を聞きたいと昨年の九月二十五日久しく欧洲の風物に接しなかった私は、当年(十四年前洋行当時)の事共を頭の中に描いて横浜を解䌫 たつ た。汽船は折良く伏見若宮同妃両殿下の御召船で、私は図らずも殿下と同じ汽船に乗ることの出来る光栄を擔 にな つたその上妃殿下より有り難い御言葉さへ賜つたのは身に取つての栄誉であった。私は十一月伯林へ着いて墺国のピーン、巴里、倫敦等を経て帰朝したのであるが、至る所音楽は大層盛んで就中 とりわけ 伯林の音楽の盛んなことに驚いた。毎晩のやうに幾ら尠も音楽会の数が何しても十以上はある彼 あ の音楽会へも行って聞きたい、此の音楽会へも行って聞きたいと心ばかり焦慮 いら つてもさうゝ一晩中に四つも五つもの音楽会へ行く時間がないので、思ひながらも聞き遁 のが した音楽会の数が幾らあったか知れない程であった。音楽の種類はバイオリン、ピアノ等が重で、私の聞いた音楽家中現代著名の人の名を挙ぐれば、ピアノの方ではブゾーニー、ゴドウスキ、コチヤルスキー、サオヱル等で又バイオリンの方ではエサイ、 クベリツク、マルト等で何れも以上は男子である、女子の方の歌者 ボカリスト は子ーマン、デスチング、メルバー、ペトラチーニ等であった。此度の漫遊中痛切に感じたのは、若し私がグラヒック記者のやうに絶えず写真機を携ひてゐたならば、至る所で珍らしいと思ったものを一々写真に撮って、日本への土産に出来たであったらうと思った。日誌を出して見ても数ある中には鳥渡 ちょっと 思ひ出せぬ事も沢山あるが、写真を見ればさうゝ此処にこんな事もあったとと直ぐと記憶を呼び起す事が出来て余程興味ある事であったらうと考られる。

 上の写真と文は、明治四十三年〔一九一〇年〕十一月一日発行の『グラヒック』第二巻第二十号 掲載のものである。



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