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「お師匠様に可愛がられ歌のお代り出されるのを嫌がって泣いた私の少女時代」 幸田延子(1911.3)

2019年10月25日 | 音楽学校、音楽教育家

 

 お師匠様に可愛がられ歌のお代り出されるのを嫌がって泣いた私の少女時代

      前音楽学校教授 幸田延子

  音楽のお上手なお母さま

 私の母は大変に音楽が好きでございました。音楽と申しましても、昔のことでございますから、今のやうにピアノだとかヴアイオリンだとかいふ西洋の音楽ではなく、お琴や三味線 さみせん ばかりでございました。母は、そのうちでも長唄の名人でございまして、子供の時分に教はった長唄など、只の一句も今になって忘れてゐるやうなことはございません。
 さういふ母親を持ってゐましたから、私は三歳 みっつ か四歳 よっつ のまだ舌もよく廻らぬ頃から、母がお裁縫 しごと をしてゐる傍 そば に座って、遊び半分に長唄やら、お琴の歌やらを教はってをりました。そんな風で私は極小さい頃から、音楽と仲善 なかよし になりました。けれどもこれがまた、今のやうに、私の一生涯のお友達にならうとは、夢にも存じませんでした。

  隅っこでシクゝ泣く

 六歳 むっつ のとき、私は初めてお師匠様のところへ長唄のお稽古に通ひ初めました。私が大へんよく歌を覚えるものですから、お師匠様は、誰よりも私を一等可愛がってゐらしったやうでございました。
 ときゞ方々で長唄のお浚 さら への会がありますときには、お師匠様は、いつでも小さい私を連れていらっしゃいました。
 会のときに、お浚へをする子供が、折々俄かの病気や何かで差支へることがございます。そんなときにお師匠様は、いつも私にそのお代りをするやうにお云ひ付けになります。それは、私に唄はせれば、大切 だいじ な処を忘れたり、行き詰ったりするやうなことがないからだといふことでございました。
 併 しか しその頃の私は、どうしたものか、お師匠様からお代りを云付 いひつ けられるのが、いやでいやで堪 たま りませんでした、ですから私は、その度 たんび 、室 へや の隅っこに引込んで、シクシク泣いてをりました。お師匠様が自分を見込んでかう言って下さるのですから、得意になって、威張るくらゐが普通ですのに、それを泣いていやがったなどは今から考へるとをかしうございます。
 
  唱歌を百人一首と間違へる

 間もなく私は、お茶の水の高等師範学校の附属小学校へ上 あが りました。処がこゝに、面白いことが起ってまいりました。それは、
 『今度学校で唱歌といふものが初 はじま るんですって。私達もそれを教 をそ はるんですって。唱歌って何でせう。百人一首見たいな歌でも唄ふんでせうか。』
 かういふ評判なんです。さあその評判が拡 ひろ まってから、学校では皆大騒ぎで、早くその唱歌といふものが知り度いと、ワアゝ云ってをりました。
 或日生徒一同が、講堂に呼び集められました。正面を見ますと、何だか大きなテーブルのやうな、箱のやうなものが据えつけてあります。何だらうと皆 みんな が眼を丸くして見て居りますと、メーソンといふ西洋人の先生が、その蓋を開けて、指でもって叩いてゐらっしゃいますと、誠に好 い い音 ね が出てまゐります。私共は皆呆気に取られてをりますと、これがピアノといふもので、この音に合せて唱歌を教 をそ はるのだといふことを、先生が説明して下さいました。

  幼稚園生の二重音唱歌

 間もなく私は、学業の余暇にはメーソン先生のお宅へ行って、音楽のお稽古をして戴 いたゞ くやうになりました。十三歳のとき、附属小学校を下 さが って、音楽取調所 おんがくとりしらべどころ に入って、専門に音楽を勉強するやうになりました。その頃はまだ、音楽学校といふのはなかったのでございます。
 一昨年私は、二度目に西洋へまゐりまして、フランスの幼稚園で感心な生徒を見ました。
 そこの生徒は、二歳から六歳までの子供でございますが、私がそこへまゐりますと、皆大喜びで、お得意の歌を唄ってきかせました。すると先生が、
 『今度は低い方の音 おん で唄って御覧なさい。』
 と仰しゃいますと、その二歳の子供達迄が、直 す ぐに低い方の音で唄ひましたのには驚きました。

 上の写真と文は、明治四十四年三月一日発行の雑誌 『少女の友』 第四巻第三号 実業之日本社 に掲載されたものである。



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