蔵書目録

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「死生説」 (大原武慶) (1891.4-5)

2019年12月26日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 日本國教 大道叢誌第三十四號 明治廿四年四月廿五日

   

 諸子 即百家門

 〇死生説 幷序跋
           社員 川合淸丸述 〔下は、その一部〕

 明治廿四年四月四日。我が特別員なる陸軍中尉大原武慶氏。下谷の西徳寺より葉書を余に寄せて。自影に題するの詩を示して曰く。「試看臨死動揺不。笑我顔邊帯幾些憂。捲魯籌違忠孝廢。空々二十七春秋。」と且其の端に書き付けて曰く。尚此上とも為国家。御自愛専一に奉存候。と頗る辞世の語気を帯ぶ。然れども余は氏に一面の識なければ。終に其の何の意たるを解せざりき。」其の翌日新聞紙上に報じて曰く。氏は憂国の情堪へ難き事ありて。昨日其の菩提寺なる下谷の西徳寺にて屠腹し。且喉 ふえ 掻き切りし處を人に見付けられて。早速帝国大学の第一醫院に送られたりと。此の報に由りて。始めて昨日の葉書は。其の割腹の時に裁したる告別の辞なりしことを了し。轉 うた た逢ひ見たき思ひを起せり。是に於て午後氏を大学の第一醫院に訪ふ。氏は寝台に仰臥したりしが。余が名刺を見て。手真似 まね にて看護婦に。椅子を其の面前に据ゑしめて余を請ず。余椅子に憑 よ りて氏を看れば。喉 のんど の疵口に管をさして。其處より呼吸をさせたり。氏はつくゞ余が面貌を見たりしが。又手真似にて筆研を取り寄せ。書して余に示し曰く。「生きては遣 や りそこなひ。死しては遣りそこなひ。天賦の馬鹿は致し方もなき者なり。夙に師の勇名を聞き。羨望の余一書を呈せしのみ。わざゝの御見舞。慙愧無此上候。」と而して微笑せり。余その字を見るに。筆勢俊健にして。毫も手の震 ふる ひし迹を見ず。余先づその膽力の壮なるに服せり。余も亦筆を把 と りて答辞を書かんとすれば。氏は指にて自己の耳を指して。耳の能く聞こゆることを示す。余乃ち顔を突き出して言て曰く。「君の体は朽つるとも。君の精神は決して朽つること無し。今は唯泰然自若として。命を天に任すべし。」と是時氏は微笑しながら。指頭にて息の漏るゝ疵口を抑へて。絲の如き声を出して曰く。泰然自若たることが出来ぬゆゑに。此の有様なり。慙愧々々と。余又言て曰く。時勢が迫るほど。心は寛 ゆる やかに持たざるべからず。余は近日芳野の花見に行きて。上方にて遊ぶ積りなりと云ひければ。氏は痛く悦べる体にて。満面に笑を呈せり。総て此の気息淹々の際に方りて。(声は出ねども)談笑少しも平生に異ならざるは。遉 さすが に軍人の膽魂 きもたましひ を具へて。余をして一層惋惜 ゑんせき の情を増さしめたり。」その翌々日(七日)再たび訪へば。血色大に恢復して。息は猶漏るれども。能く疵口を抑ふれば。直接に談話も出来るやうになりたり。余はこれを見て大に悦びければ。氏は額 ひたひ を顰 しば めて。その死そこなひしを悔ゆ。余是に於て説て曰く。死生は命あり。命数の未だ盡きざるものを。無理に死にたがるは迷ひなり。命数の既に盡きたるものを。無理に生きたがるも亦迷ひなり。迷ひは是れ妄想のみ。丈夫の耻づる所なり。余故に曰く。唯泰然自若として。命を天に任すべしと。乃ち辞世の詩の韻を次ぎて示して曰く。「冥途風景知不。一死莫欣還莫憂。行到水窮山盡處。飛花落月又春秋。」と氏欣然と口吟一過して。轉結の意を問ふ。是に於て談ずるに此の死生の説を以てすと云ふ。」

 日本國教 大道叢誌第三十五號 明治廿四年五月廿五日

     

 諸子 即百家門
 
 〇死生説 (承前)
           社員 川合清丸述 〔下は、その一部〕

 陸軍中尉大原武慶氏。創痍全く癒えて。此の頃我が大道社を訪問せらる。因て自刃の次第を聞くに。曰く。四月三日の夜。人目を忍びて祖先の墓所に至り。静かに情けを告げて。短刀を取り出だし。先づ腹を四寸許り掻き切りぬ。尤も腹は余りに深く切り込めば。喉 のんど を掻く時に。腕が弱るものぞと聞き及びしゆゑ。唯当りまへに切りしのみ。夫れより短刀を持ち易へて。喉の吮を右より左に刺し屠 はふ り。両手を突きて。暫く息の絶ゆるを待ち居たれども。別に苦痛の増さり行く様子も無きゆゑ。乃ち思へらく。是は天然の生を愛する情に引かれて。刀の切先が自然と前の方に扮 そ げしものなりと。是に於て再たび刀を取りて。今度は切先を少し後ろへ向け。力任せに突き刺して。左の手にて探り見れば。切先は慥に三寸許り貫 ぬ け出でたり。されば其の切先に左の手を持ち添へ。両手にて前の方へ押し遣れば。物の美事に切り払ひたり。依て又両手を突きて。息の絶ゆるを待ち居たれど。中々引切らず。其の中泉なして流るゝ血汐 ちしほ が。気管と食管とに流れ込みて。非情の苦痛を覚えしのみならず。頻に嘔吐を発したり。(思ふに此の嘔吐の声にて。人に見出されしものと覚ゆ)されどこれぞ謂はゆる断末魔の苦痛なると覚悟して。息の絶ゆるを待つほどに。ツイ正気を失ひしものと見ゆ。物騒がしき足音に。フト気付きて眼を開けば。巡査の角燈を見受けたり。是は仕損じたりと思ひて。短刀をさがしたれども。そこら一面血汐の波に埋没せられて。終に刀の所在を知らず。止むを得ず洋刀 サーヘル を取りて引抜かんとする間に。巡査に取り揚げられたり。今は為 せ んすべの無ければ。手にて気管も食管も掴み切りて死せばやと思ひ。右の手を傷口に突き込むや否や。又巡査に捻 ね じあげらる。(是の時気管に指の三本這 は 入りし事は。慥に覚えたり)依て據ろなく声をあげて。死なせて呉れよと頼む内に。警部と医師と来れり。是の時渇の甚しきに堪へかね。且水を飲めば死すといふ事も聞きしゆゑ。頻に水を請ひければ。医師は傷口を縫はせ給はゞ。水を参らせんと云ふ。すなはち其の意に任せて縫ひ畢りしゆゑ。水をしたヽか飲みしかども。終に死すること能はざりしと語る。」余此の話を聞きて。痛快限りなし。乃ち又問て曰く。君の自殺せんと思ひ付かれし所以はいかに。死して燈火 ともしび を吹き消す如く消ゆる積りなりしや。将た魂魄となりて一働きする積りなりしやと。氏笑て曰く。予が心持ちは。其の二種の迷ひにあらざりき。予曾て昔話しに申の年の申の月の申の日の申の刻に生れしものゝ生血は。妙薬とか気附けとかになると聞きしことあり。思ふに何れの年の生れにても。生血ならば。随分薬になりぬべし。今国家の大病は。耻と義理とを失ひたる是れなり。殊に我が軍隊の如きは全く耻と義理とを以て。組織せられたるものなるに。其れすら世の病気の押寄せ来らん恐れあり。されば是の時吾が活膽 いきぎも を引きずり出して。天下の人に舐 ねぶ らせなば。気附位の効能あらんと思ひ込みしが。うろたえ騒ぎし所以なり。世の人の多くは。自殺するものは。心が迫りてするやうに云ひなせども。予が死せしは。左ほど謹勅なる方にはあらで。生きて居る人よりは。却てズルキ方なりしかも知れず。と云ひて大笑せり。」余是に於て。心には氏の胸襟の磊落なるを壮とせしかども。左はあらぬ躰にて言て曰く。君は天下の人に。活膽を舐らする積りにても。天下の人が舐らざるを奈何 いかん せん。されは迚 とて も死するならば。舐りて呉るゝ人を満天下に拵らへ置て。而して後にこそ活膽を引き出すべけれ。一人や二人やにては。犬死も同様なり。請ふ今より思案をかへて。死するならば天下共に死し。生きるならば天下共に生きるの賑やかなる方に従はれよ。」左は云ふものゝ。君の膽力も亦驚くべし。昔長門の大内家の臣冷泉某が。国難に殉せし時。菩提寺にて。腹十文字に切り割き。臓腑を掴み出して。天井に投げ付けて殪 たふ れたり。今も天井に其の血痕を留めて。勇士が千載の美談とす。今子が膽力を之に比ぶるに。其くらゐの事は。決して為 し かねぬ所あり。他人は知らず。余は先づ君の活膽を舐りて。大に心膽を雄壮にしたりと云へは。氏もまた莞爾として笑ひぬ。因て書して以て跋とす。」       (完了)

 明治廿四年十二月二十七日合刷
 日本國教 大道叢誌 第四冊  〔第参拾壹號 明治廿四年一月廿五日 ~ 第四拾號 同年十月廿五日〕
 日本國教 大道社 
 発行人兼編輯人 川合淸丸 より

〔蔵書目録注〕

上の文は、後に 『対支回顧録』 東亜同文会編 下巻 列傳 の「大原武慶君 (陸軍歩兵中佐)」 で、

君が曩に中尉として屯田兵副官たる時、明治二十四年四月四日、その菩提所の東京下谷西徳寺に於て自殺を圖った事に就き、川合淸丸が『大同叢誌』に當時の情況を詳述した記事がある。茲に之を附載して以て君が爲人の一端を偲ぶ事にする。

として紹介されている。



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