天下三分の煙月二分ありといはれた揚州へ私の參りましたのは『煙花三月下揚州』ではなくて十二月卅一日でありました―鎭江から長江を横ぎり、抗州より天津につゞく大運河を瓜州鎭からのぼりまするので―天下の佳麗蘇杭州にうつり、鶴駕十万錢を腰にして遊ぶ人もなく、唯䀋業の賣買でたもたれてをる。歐陽修が荷花百朶を取り四座に挿むで客と酒を汲むだ平山堂二十四美人をつどへたといふので名を得、『二十四橋明月夜玉人何處敎吹蕭』といふた橋も朱欄碧甃、今は形ばかり、夕ぐれ船を待つて運河の邊に立つて居ますと、川むかうの堤の上に、崩れかゝつた甎瓦の古い塔がある。高さは八九層、風雨にさらされ一種の古色を帶びてゐる。塔の上層にはえてをる丈低き雜木雜艸が黄いろ〱冬がれて、夕暮の風に動いてをる。寒い冬の夕日は塔のあたりを照してをる。折から塔の上に巢くうてゐるのであらう、尾が長く羽に白い斑 ふ のある鳥が幾百羽となく塔の上に舞ひ舞うてをる。さながら畵のやうでありました。
西湖の景は日本に似寄つてをる。三方をめぐれる山は靑く、水も靑い。其上に一碑一亭一木一石皆故事來歷あらざるはなく、白樂天の築いたといふ白堤、蘇東坡の築いた蘇堤が湖上に丁字形をなし、中島の孤山には林和靖の墓、西林橋畔には蘇小々の墳、棲霞嶺の下には岳飛の忠烈廟があつて、千古の隱士佳人忠臣が湖畔に眠つてをる。文學歷史が一層此湖をよくしてをるのであるが、私は今一つ西湖の景を助けて居るのは塔であらうと思ふ。『烟光山色淡溟濛千尺浮屠兀倚空』とうたはれた雷峰山の雷峰塔と、寶石山の寶叔塔とが湖を隔て南北相對してをる。しかも雷峰塔は位置やゝ低く凌雲閣式で、上には雜木がはえて其影さかしまに綠の水に映じをる。寶叔塔は筍の如き形で山の上に高く聳えて居る。呉山の第一峰から初めて西湖の全景を見おろした時、湧金門から船を浮べた時など、此二つの塔の左右に見えるさま、たしかに西湖の景を添へて、畵龍に晴を點じたものというてよいと思ふ。
蘇州府はわが國の西京に類似してをる。織物と佳人との産地で、『綠浪東西南北水紅欄三百九十橋』とうたはれた如く、水が縦横に流れ、かの畵舫も金陵の秦淮よりはこゝの方が數が多い。寒山寺楓橋はかの國人にはあまり知られてをらぬが、我國人の蘇州にゆく者は必ずたづねる。あだかも鴫たつ澤、をばすて山、勿来の關などの類で、詩人一篇の詩、千里行客の杖をひく所となつたので、其他を蹈めば却つてさほどに感はおこらぬ。私はむしろ蘇州の景を助けるは、五個所の塔であらうと思ふ。第一は虎邱の塔で―呉王闔閭を葬つた時五郡の人十万人で塚を治めたに三日目に白虎其うへに踞りをつたといふので名づけた虎邱。平田の間の高い丘で。始皇の故事ある劒池、竺道生の法を説いた千人石。呉國の麗佳古眞孃の墓などがあるが、私はむしろ劒池の上の七重塔が長髪賊の亂に荒廢したまゝ立つてをる、其塔の下から平野を見おろした景がよいと思ふ。第二は靈嚴山の頂の塔で。是は數里の外から見える。呉王館娃宮の故地。宮には彼の西施をすまはせた所。こゝから遠く大湖を望むだ景また絕景である。第三は北寺の塔。これは九層二十余丈。規模極めて大なるもの、甎色黑くして光澤がある。一寺僧に乞うて上つたに。一層から二層への上 あが り口は眞暗で、雛僧が小さき紅燭を點じて案内した。かの善光寺の戒檀めぐりの類でわざと暗くしたのであらう。二層から三層四層と段々の上 あが り口がいづれも一寸わからぬやうにしてある。これも參詣の善男善女に尊とく見せる爲であらう。一層一層皆佛像があまた安置してある。九層の上にのぼると風のはげしい日で、天風我袖を飜へし、目もくるめくやうであつたが、蘇州府を一目に見おろし、がつ陽城湖も野外に幽かに見えた。第四は雙塔寺の雙塔。此形が實に珍しい。寶叔塔よりも今少し細く筍か筆の軸をたてたやうな細い塔が二つ双むで高く立つてをる。我國の如く地震の多い國ではとても出來ぬ建築である。第五は端光寺の塔。これは府外の枯野の中に物さびた簷角の塔である。
遠くより望んでも、近よつて見ても、上 あが つて眺めてもいづれも景趣に富むでをるのは塔である。我國の山や丘の如く樹木が、嵡欝 こんもり と繁茂してをらぬ故、一層塔がめだち、山や丘を望む景の中心點となるのである。塔が支那南方の風景を助けるといふ事については、猶御話したうございますが、餘りに長くなりますから、最後にこれも塔の風鐸のお話をいたします。
大晦日の夜深く揚州からかへり、鎭江で、躉船 はるく といふ水中の庫船にとまりました。躉船々長 はるくますたあ 一人が日本人、他は皆支那人。船長はもと獵虎船の船長をしてをつた快活な人で、爉虎狩の話をきゝながら老酒を汲みかはし、さて船中の一室で長江の波の音を夢にして、遊子の胸に種々の感をやどしつゝ、變つた除夜を致しました。翌日は元旦。支那人が料理の、錫の器にいれた名ばかりの雑煮を味ひまして、庫船の上の我國旗が朝風に勇ましくひるがへるのを見ながら、轎をやとうて鎭江の町を過ぎ、金山寺へまゐりました。かの宋の高宗が、『雄跨江南二百州』の句によつて名づけた雄跨亭をも見たく、かねて金山寺の寶物ときいてをつた東坡の玉帶を見、古人の俤をも𢖫びたいと思うて參りました。大風四起する毎に浮動するが如し故に浮玉山と名づけたといふ金山寺。減水期で水とはいさゝか離れてをりました。さて門前で轎を下りますと、丘の上の寺であるから、段々に高くなつた堂が、支那寺院の常で、幾棟も幾棟も建つてをる。最も上に金碧交も輝いて人目を射る塔がある―昔から幾度も建て直され、現時 いま のは髪賊の兵火に消燼したのを曽国藩が再建したのである。塔の形は簷廈七層、簷角穩に張つて、上には風磨銅の圓頂がある。我國の塔の形に近い。さて堂内に入りますと、不思儀、實に不思儀。何ともいふにいへぬ淸いけだかい音樂が雲の上に聞える。あやしむて堂をぬけて、石だゝみへ出ますると、まさしく天上に音樂を奏するかの如く、微妙の響がある。人間の奏する樂器の音よりも一層けだかく響く、あやしんで見あげると、彼の高い塔の上で簷角に釣つてある風鐸が風のまにまにうつくしい響に鳴り響くのであつた。いくつかの堂いくつかの回廊をのぼつて塔の前まで塔守 とうもり に請うて閉せる戸を開けさせ塔にのぼつた。一層一層螺旋形の階段を、上がればあがるほど天上の響が近づく。身はさながら一歩一歩天に近づく心持がする。自分の身躰が塵寰を離れて雲の上にのぼる心地がする―かの金陵で淸涼山の翠微亭を訪ふべく、嚮導 しるべ の人々と、驢馬を乗り並べて、古き城壁の傍らを過ぎました。高さは五丈より七丈、瓦壁苔蒸して、黝黒 うすくろ いに、這ひまとうた蔦は半色づつ半落ちて、蔓 つる のみ高く低くからまつて居る。それを光の弱い冬の日が照してゐる驢馬には皆首に鐸 すず がつけてある。先だつた人の驢鐸の響。私が乘つてをる驢鐸の響身は古城壁のかたはら。冬の夕べ。懐古の情胸にみちて、鐸の音胸にしみ入るやうに感じましたが、彼の驢鐸のひゞきは猶地上の聲。この寶塔の上の風鐸の響きはさながら天上の聲であります―さて塔の最上層にのぼりますと、耳もとに淸い涼しいけだかい響が聞える。さながら天女が樂器を持つて中空に舞うてでもをるかのやうに思はれる。最上層の眺望は非常によい。目の下には長江の流が横たはり、大江のあなたは平野千里。下流を見ますると、元來鎭江は景勝の地で、金山、銀山、北固山と江に沿うたる小山の間に市街の白堊立ちつゞき、瘞鶴銘のある焦山は江中に特立し、金焦ニ山遙に相望むで雄を競ひ、北固山の上には梁の武帝が天下第一江山としるした甘露寺があつて、金山寺と東西相對しつゝ、鎭江を護るが如く見える。目に此好風景を見おろし、耳に微妙の音樂を聞く。いつまでも〱此まゝ此處に居たく恍然として居ました。
竹坡詩話に、金山に遊んで、夜、寶公塔に上つた時、天已に昏黒月猶出でず、風鈴鏗然聲あるを聞いて、忽ち杜少陵の詩に『夜深殿突兀風動金琅璫』とあるを思ひ出てたと有ますが、實に天くらき夜など、此風鐸の響を聞いたならば今一しほ身にしみるであらうと思ひました。
この風鐸は、塔鈴とも響鈴ともさま〱゛に申しまして詩文に散見してをります。洛陽伽藍記に『高風永夜寶鐸和鳴鏗鏘之音聞及十餘里』周書に『過浮屠三層之上有鳴鐸焉忽聞其音雅合宮調』晋藝術傳に『天靜無風而塔上一鈴獨鳴』張來が『寶鐸韵天風』李遠が『風鐸似調琴』杜牧が『高鐸數聲秋撼玉』蘇舜欽が『韵鐸翻天籟』孔平仲が『冷鐸數番僧舎開』鄭元祐が『閉聽松風語塔鈴』袁中道が『鈴塔影斜陽』など、猶多數ありませう。
我國では法隆寺の塔の外に此風鐸をきかぬやうに存じます。かの淸いけでかい天上の音樂といひつべき金山寺の塔の風鐸、私は今も其響が耳に殘つてをつて、なつかしく思はれます。
なほ南淸の風景について申し述べたい事は種々ありますが、既に燈火もつき初めましたから―まとまりのつかぬ長物語で、諸君の淸聽を瀆しました事を深く謝しまする。(拍手)
(帝國文學會大會席上談話の速記)
〔蔵書目録注〕
上の文は、明治三十七年五月十五日發行 六月五日再版 の 『帝國文學』 臨時増刊第壹 懸賞小説と講演 に所収のものである。
なお、読みやすくするため、段落の最初は、ひとコマ空欄とした。
また、文中の〱は、繰り返しである、
さらに、●は、オ と 刂 で一文字の漢字?である(写真参照)。
南淸風景談
佐々木信綱
このたび漫遊いたしましたのは、揚子江沿岸の鎭江、揚州、南京、漢口。溯りまして沙市、荊州、宜昌。三峽の下峽ー洞庭湖を横ぎりまして長沙、湘潭。さて蘇州、杭州等で。かの彭澤縣、潯陽江、泪羅、三遊洞、秦淮、靈隱などの名勝古蹟を見めぐりましたが、それらについてお話致しましては、あまりに長くなりまする故、『夕ばえの美しさ。』『岳陽樓と洞庭湖』『浮屠と風鐸。』これらの題目でいさゝか申し述べたいと思ひます。
大陸の景色で最も感じましたは、夕ばえの美しさであります。漢口、沙市、芦林澤などの平原に立つて、幾十百里見る限見わたす限、人なく家なく木なく山なく、丈低き草は皆うらがれ渡つて、滿目蕭然たる夕つ方、夕陽まさに地平線に沒せむとする頃、野邊に佇ずむでをりますると、秋の末の事とて、空には一點の雲もなく、たゞ眞靑 まつさを な空の果に夕日が入らうとする。空の色は薄靑 うすあを になる。廣い野一面の草は枯草のしづんだ色がやゝ黄ばんだ色になる。夕陽は全くまぶしい光線を失ひ、恰も紅 くれなゐ の眞玉 またま のやうな日が、遠い遠い野邊の果に一分 いちぶ 一分沈むでゆく。見る〱沈むでゆく。沈みはてると思ふ其一刹那の景が實に美しい。日本では見られぬ一種の美があるやうに思ふ。さて四五分たつと、西の空が一面に胭脂色 えんじいろ に彩 いろ どられる。我國の夕やけや、雲の色の赤いのとはちがうて、雲のない空の果が一面にあかく成るのである。其色の美はしさ。いかなる工の手に染めてもかばかりはと思はれる。其美しさは花やかな美しさではなく、おごそかなおもみのある美しさで、華麗といふよりは、莊嚴な美である。佇んむでじつと眺め入つてをると、其のうるはしい夕ばえの中には、けだかい尊とい不可思儀のあるものがこもつてをるやうに感じられる。我等が理想の國、理想の宮殿が其中にあるやうに感じられる。かねて印度の夕ばえの美しさを聞いてゐましたが、佛説に西方極樂淨土というてあるのも、恐らくはかゝる夕ばえの美しいのからいひ始めたのではありますまいか。さて眺め入つてをる間に、日は全く暮れはて、星がきらめきそめ、我立つてをるあたりはうすぐらく、足もとの枯草の中で我國のこほろぎに似た虫がさゝやかに鳴いてゐる。けれども野末の夕ばえは猶あかくうつくしい。夕ばえのうつくしい時間はよほど長い。じつと見てをる間に段々うす赤くなる。暫くしてうす紫に變じる。やがて鉛 なまり の色のやうになる。さてのち夜の一般の色になる。其あひだ茫然として美觀にうたれてをりました。此夕ばえの景色は大陸でなくては見られぬ美しさと思ひます。然るにかの國の詩人で、出日を觀るといふ詩は多く見うけますが、入日を眺めるといふ詩の少ないのはいかなる故でありませうか。李商隱の『夕陽無限好只是近黄昏』。また呉敏樹の『墨山霞色螺洲樹奇絕樓頭看夕陽』といふなどで。なほ滕王閣で王勃が『落霞與孤鶩齊飛夕陽同秋水一色』といふ句があるくらゐ。夕陽の美をあまりうたはないのは不思儀に思はれます。
漢口から湖南へは、把杆船といふ民船を雇うてまゐりました。風がわるければ半日も一日も碇舶する。淺瀨にくれば網で引のぼすといふ始末。かの土佐日記の『舟も我身もなづむ今日かな』といふ歌『朝北の出こぬさきに網手早ひけ』といふ歌のとほりで尤も困難を極めました。漢口を出て四日目の午後、道人磯城陵磯をすぎて岳州府につきました。遠淺で船は岸を少し離れてつきました。碇舶してをる船が少なくない。見ますると、川岸には極めてひくい家がこゝかしこに。其間をから人から少女が歩いてをる。總躰支那の服裝は、遠くから見た方が美くしい。上衣は、あさぎ、水あさぎ、桃色、紫、黑などの無地で、縞物は少ない。日本の着物の如く、そばへ寄つて見ねばわからぬといふやうなのとは違ふ。赤いとか靑いとかの極端な色で、單純ではあるが遠見 とほみ が美しい。
岸の上を見ますると、岳州府城はこだかい丘の上にあつて、幾千の人家を包んだをごそかな城壁は、高い崖の上をめぐつてをる。岳陽樓は城壁の東の隅に鼓樓のやうな風に建つてをる三層樓である。城壁の甎瓦が幾百年の風霜に黑ずむでをるに、建て直してまだ久しからぬ岳陽樓の金碧燦爛たる色彩の配合が極めて美觀であるー元來日本の瓦は、服裝の色の如く黒く沈むだ色で、遠くから見ると誠に引たゞす、活氣に乏しく、一見つめたい感じが起る。支那では晴川閣、禹王廟、何宮、何樓などといふ宮廟は、いづれも黄に靑に金色に彩どつた瓦で葺いて、しかも巴瓦や唐草の瓦が多く、瓦の端には麒麟、鳳凰、龍、獅子などの形の大きい丈たかい瓦があるので、遠景が極めてよい。―我國では大極殿のほかには彩瓦を見ないやうに思います。さて上陸して樓にのぼらうと船ばたに出ますると、●子船といふ小船が幾艘となく我舟の傍に舟を寄せて、これに召せ、わが舟にめせといふのであらう。からさへづりにかしましくいふ。其舟の漕ぎ方が變つてをる。小舟のへさきに二個の櫂があつて兩手で漕いでゐる。しかも漕手は皆な若い女で、其櫂のあやつり方の巧にうつくしい事かの大湖船の俗謠も思い出される。其女の上衣の色が、例の淺黄あるは紫などであるから、●子船の行きかふ樣を遠く望みますと、あだかも冬の流に春の花を浮べたかのやうに思はれる。さて兩手に銀の薄い輻廣い指輪をはめ、玉 ぎよく の耳輪をつけた一人の舟子の船にのつて上陸しやうとする。男女ともに利を貪るはかの國人の常で、與へた賃銭で決して滿足せぬ。例のうるさくねだる。服裝は美しいが心はうつくしくないと思はれる。
いよ〱上陸すると、岸邊の小屋が又珍らしい。『蘆のまろ屋』と歌にあるが如く、蘆でかまぼこ形に葺いた低い家である。否、家とはいひがたい。人が這つて入る程で、一二疊位の廣さの中に親子夫婦すむでをる。やゝ大きく前に卓がをいて女のをるは煙館―風待 かざまち の船頭らが阿片をむさぼる家である。これらの小屋は減水期の間だけあるので、水がませば岸まで水が滿ちる爲とりくづして他へ移るそうである。さういふ小屋の間を通りぬけて、高い石段をあがり、城門をぬけて岳陽樓へ上つた。かなたの建築は形式よりも色彩の方を重んじたやうで、瓦が前に申した金碧で、柱や壁が多くは赤い。色彩の建築としては美である。さて案内の僧に導かれ、壁に題した詩や聯の句などを讀むで三層樓の上にあがりました。かの范文正公がこゝの記を書いて後、この樓は幾度か重修し、人は變り世は遷つても、天然の景は、變遷がない。たゞ見る浩々蕩々洞庭湖は目の前に天地の大幅をひろげてをる。湖の門戸にはかの堯の女㜀君が居たといふ君山が右に、扁山が左に―いづれも江の島ぐらゐの大きさの島で、鏡が浦の沖の島鷹の島を那古の觀音の方から見た位置のやうに並むで、さながら洞庭宮を守る獅子狛犬の如くである。其たゞ中に今や夕日は傾かうとしてゐる。天地の大觀に我を忘れ、しばしあつて樓を下り、船へ歸りました。
幸に風は追手。帆を張つていよ〱洞庭湖の中に入らうとする。夕日は二つの島の間に落ちて、見る〱紅の眞玉が湖心にしづむ。かへり見れば岳州府城の上に月はのぼる。かの犁雲が『洞庭八百里月照岳陽城』といふた通りである。日を數ふれば十二月三日―あだかも舊曆十月十五日の夜、米南宮が選んだ湘瀟八景の洞庭秋月ではないが、望月の夜洞庭を過ぎる、何といふ好因緣であらう。
夕日は遂に湖心に沈んだ。其余光が空に輝くや、空の色忽ち紅に變じ、其紅の色、湖上に映じて、畵にも寫しがたい麗しい中を、遙に一帆又一帆、風のまに〱に遠く近くかつ顯はれかつ消へる。其いひしらぬ風景むしろかういふ風景の中につゝまれながら湖の底深く沈んだならばと思はれる。
美くしかつた夕ばえも光を失つて湖の上は薄ぐらく成る。月はいよいよ澄みのぼる。見えるものは唯こがね白がねの浪。『晧月千里浮光曜金』といふ樣である。廣い果知らぬ湖の上、進みゆく我舟の近くに二三の釣舟がをる。むかし卓彦恭が洞庭を過ぎた時、月下に漁りせる小舟を呼びとめて、『魚ありや否や』と問ひましたに老人らしい聲で、『魚はないが詩がある』。卓喜むで『願はくは一篇を聞かむ』老人枻を皷ちて『八十滄浪一老翁芦花江上水連空世間多少乘除事良夜月明収釣筒』と高吟し去つたといふ。さる風流の漁翁ありや否やを知りませぬが、二三の小さな釣船が大いなる湖の月夜の景趣を添へる。
月は良く風は追手。船は帆腹飽滿、一瞬千里の勢で進む。夜はふける。月はいよ〱澄む。『此意無人識』といふ句の如く、いひしらぬ樂しさ寂しさ、何ともいひがたき感が胸にみちて、我身そゞろに我あるを知らず、此隈なき月と果なき湖とに對うて居ました。一昨年の初秋富士に登り、絕頂に見ました七月十七夜の月。かれは山頂、これは湖上、しかしあはれは同じあはれで、風月の緣に富む事を天に謝した事であります。
呉淞から宜昌まで長江を遡る事千哩。此長い廣い長江の沿岸に、楊 やなぎ と塔 ぱごだ とを取り去つたなら、風景がいかばかり荒涼寂寞であらう。我國の柳とは違って、丈高く枝葉がこんもりとした楊。それで落葉の時期が遲い。『一葉ちり二葉流れて秋風ぞ吹く』とやうに、我國のは初秋に散り始める。支那のは初冬にも猶綠である『揚子江頭楊柳春』楊花が蝶の如く綿 わた の如く散り亂れる比は又一しほであらうと思はれる。揚子江から楊をとりさつたらば、櫻のない吉野山のやうであらう。
楊につゞいて景趣を添へるは、塔である。楊と柳のちがふ如く、塔も我國のと彼方のとは大にちがふ。我國には五重もしくは三重の木造で形が四角である―信州別所塔の如き例外はありますが―彼方のは七層九層もしくは十層以上の甎瓦製で、圓形が多く、愈上れば愈殺ぐといふさまで、手近に申せば淺草の凌雲閣の式である。たま〱簷角のもあるがそれも八方が多い。我國のは木立の上に九輪の尖端 はし や上層の簷角が見えるのであるが、支那のは山の上もしくは川そひにあつて全部露 あら はに見えてをる。又必しも寺院の傍にあるのではない。
深夜黄浦江畔を發すると、翌朝長江の岸でまづ目にとまるは狼山の頂なる塔である。千浬の間南北兩岸こゝかしこの塔は數へきれぬ。就中宜昌に近づいて府城の家が見えそめる比、南岸にピラミッド形の山―幾万年前禹が水を治めた時、神の斧で削つたかの如き奇形の山に對して、北岸に塔がある。我船か其傍を過ぎた時、聞なれぬあやしげな聲が聞える。悲しげな寂しげな高いさけびが聞える。あやしみ見れば塔の下に幾十の野羊 やぎ の群が居る。濁水の大江に沿うて、黑く茶色なる塔の下に、白い野羊のむれ。亡國の音ともいふべき鳴き聲、遊子の胸をさすやうでありました。
湖南では泪羅に古へを吊うて湘江に入らうとした時、白魚磯の塔が殊に感をひきました。これは塔の形よりも塔の傳説が趣味があつたので。むかしある官人が家族を伴なうて任地に赴かうとする時、こゝで暴風に逢つた―洞庭湖では秋冬の比洞庭かぜともいふべき一種の暴風がある。私等も歸途其風に逢つて困難しましたが―波は高い。風は烈しい。官人の船は今にも沈まむとする。そこで官人の妻が湖神に祈つて、どうか風波がをさまり、わが良人の船の無事な樣にと、寶玉眞珠でよそほうた吾髪を切り、それを江中へ投げ入れた。其眞誠 まこと に天も感じてか、風波靜まり舟は無事であつた。幾年かの後、彼の官人夫妻は轉任して故郷へ歸らうと此処を過ぎた。此度は風もなく波もない。先年の事が思ひ起され、船を磯にとゝめ、夫妻語りあうてゐると、大きな白い魚が船の中へ躍り入つた。かの武王の故事も思はれてこれは祥瑞であらうと早速調理を命じた。然るに思ひきや其白魚の腹中から、彼髪飾りが其まゝ出やうとは。これは天が嘉納まし〱したのであらう。又こゝは有名な難所此後とも船の難破があつてはといふので目じるしに此塔を建てたとの事。昔がたりを聞いてさて塔を見てをりますと、折から船人がうたふ送郎十里亭の歌謠。ふしは卑 ひな びてをるがあはれにきこえました。