ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その2)素面の頭で会社勤務時代を振り返ると・・・?

2014-10-13 13:07:38 | 自分史
 自助グループAAの定期ミーティングで「人付き合い」というテーマの日がありました。しばらくの間、このテーマが釣り針のようになぜか心に引っ掛かり続けました。

 一方で、毎日通院しているアルコール依存症専門クリニックの教育プログラムで、自分の飲酒原因を他者のせいにする「他罰的」という心の障害についての講義を聞いている時、頭の中がピカッと光ったのです。継続断酒8ヵ月目のことです。製薬会社勤務時代の先輩のことが鮮やかに蘇ってきました。

 「他罰的」の講義はその時が初めてではありません。それまでも何回か聞いてはいましたが、私には心当たりがなく、自分には無関係なことだと思い込んでいました。

 「他罰的」という言葉に「人付き合い」という言葉が一緒になって、会社勤務時代のどうにも思い通りにいかないくなった時のことを思い出させてくれたのです。そのどうにもならない原因を苦し紛れに年齢の近いN先輩に転嫁したことがあった、それが「他罰的」に当たるのだろうと思い当たりました。N先輩は私の羨望と嫉妬の対象だったのです。先輩には濡れ衣のような、迷惑この上ない話だと思います。ずっとモヤモヤしていたことが、ひとつ晴れました。

 新聞記事や成書では、退職後は在職中の地位の話題など会社時代に関することをあまり引きずらないよう戒めています。私はその戒めを守っていました。それに加えて、会社勤め時代の酒に纏わる事柄があまりに後ろめたく、あまり思い出したくない記憶であったことから、無意識に内に封じ込め、すべて触れないようにしていたかったのかもしれません。


 その製薬会社には25歳の時に入社しました。最初から臨床開発部門に配属されました。新入社員としては異例でした。普通はまず営業部門に配属というのが当時の人事の慣例でした。臨床開発部門に配属されたのはたったの3人です。会社は当時中堅どころで、社長の号令で医療用医薬品(治療薬)の新薬を自社開発しようと歩み始めたばかりでした。社長は30歳代と若く、中庸ということが嫌いで業界のシガラミとは無縁の人物でした。

 私が29歳の時、会社は自社開発の治療薬1号品Cと治療薬2号品Mの商品化にほぼ同時に成功しました。会社としては本格的な治療薬の臨床開発が初めてのことで、全くの経験不足のために、特に治療薬1号品Cは相当テコズリました。そこで臨床開発の責任者のPMを更迭し、アシスタントPMだったN先輩をPMに据え変えた上で、専門家医師団の方も大物医師をトップに据えた研究会組織に組み替えて、やっとものにした化合物でした。

 大物医師というのは、研究者でもある医師のサイフを握っている人物、すなわち科学研究費補助金(科研費)の選考に強い影響力を持つ人物のことです。その次に大物とされるのは、専門領域の学会の重鎮ということになります。

 医師の世界は、各大学とも教授を頂点として教室・医局から関連病院まで強固なヒエラルキー(ピラミッド型階層組織)を形作り、指揮系統が明確なものです。これらのネットワークが専門領域内の力関係や協力関係を強力に支配しているのです。どのボタンを押せば世の中がどう動くのか、このネットワーク通りに動くのが医者の世界です。逆にこれを弁えていないと必ず失敗する、恐ろしく狭い世界でもあります。このネットワーク情報が医師の人脈情報です。新薬開発業務の重要なノウハウのひとつです。

 N先輩は年齢で3年、社歴で5年しか離れていない私と同年代の人物で、地方の国立大卒でした。在学中は馬術部に所属し、自嘲気味に馬術学部卒と自称していました。なかなかのイケメンでプライドの高い人でした。20歳代後半から30歳代初めの若さで大した業績を上げたのです。この実績からN先輩はアレヨアレヨという間(と、私には思えました)に昇進・昇格し、人事権のあるグループリーダー、さらにはグループの担当部長職になって行きました。そして私が30歳代半ばには直属の上司となったわけです。

 それでも新入社員のころ、当日出張しなければならないことを職場でボヤいていたN先輩を見ていたので、先輩の上げた成果と昇進・昇格は当然自分にもできることだと思っていました。自社開発の治療薬2号品MのPMは臨床開発部門のトップ、正開発部長職になり、後に専務にまで登りつめました。これぞ臨床開発畑からの典型的立身出世物語です。

 新薬の開発では、特に臨床開発が肝腎要で、成功か失敗かしかありません。丁半賭博のような博打的性格が非常に強いのです。この点、通常後継化合物のある基礎研究開発(創薬)とは異なります。臨床開発の責任者は博才のある人物こそが適任と製薬業界では冗談か真か(?)、結構真面目にそう考えられています。

 私が本格的な臨床開発業務に取り組み始めたのは34歳の時からです。この年に起きた歴史的大参事についても触れておきます。

 この年の夏(1985年8月12日)、羽田発大阪行の日航機がダッチロールしたあげく御巣鷹山に墜落し、520名の乗客乗員が死亡した大事故がありました。

 東京出張から帰りの日でした。三島を過ぎた付近で、私は缶ビールを片手に新幹線の窓から雲行きがひどく怪しい空を眺めていました。いつもは見える富士山は見えませんでした。私が寛いで缶ビールを飲んでいたちょうどそのころ、日航機が垂直尾翼を吹き飛ばされてダッチロールしながら上空を飛行中だったのです。猛烈に揺れ続ける機内で人々が囚われた恐怖は如何ばかりのものだったでしょうか。その日航機で帰る可能性もあったのです。

 大阪の会社では、東京出張中で連絡がとれない社員がいることに大騒ぎになっていたといいます。帰宅して初めて会社から連絡があったことを知り、無事に帰れたことにホットしビールを飲み直しました。嬉しくて飲む、悔しくて飲む、不謹慎ですが、私のいつもの飲酒パターンです。このころはまだ飲酒コントロールが出来ていて、飲み出したら止まらない、というものではありませんでした。年一回の健康診断や体調がすぐれない時などには1週間程度の酒断ちはまだ出来ていました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その3)につづく



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