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ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

“話す” って “放す” こと?

2018-06-15 05:55:35 | 自助会
 アルコール依存症者の自助会では、共通して “言いっぱなし・聞きっぱなし” がルールです。このルールがありながら、ミーティングや例会では迂闊なことは言えないと警戒感を持っている人が結構多くいます。下手なことを言ったら後で何を言われるかわからない、というのがその理由です。

 確かに、口外しないよう念を押されると却ってその秘密をバラしてしまう人が結構いますから、こういう懸念は理解できます。が、心配には及ばないのでは、と私は考えています。聞き手の立場から言えば、話がよく飛ぶのであまり覚えていないというのが実態で、印象に残る言葉はあったとしても一言二言ぐらいなのです。これは私だけではないと思います。

 むしろ心配するのは、当たり障りのない悩み事の話でお茶を濁してしまうことの方です。これではミーティングや例会の意味がなくなってしまいます。聞き手の前で悩み事を語って、胸のつかえを降ろすというのが第一義のハズだからです。

 たとえ正直に話そうとしても、あからさまに口にするのが憚られることも現実にはあると思います。そんなときは暗に匂わすぐらいに留めておいても構わないと思います。私も、性的妄想に取り憑かれてAV動画にハマっていたときのことを話した際には、さすがに慎重な言葉選びをしていました。

 隠しておきたい本音というのは、どんなに用心していても、しゃべっているうちに思わず口を衝いて出て来るものです。それがたとえ不本意であっても、一人で抱え込んでいたものを手放せる幸運にもなり得ます。こうしたことで心の奥底に淀んでいた澱のようなものや、腹に溜めこんでいたモヤモヤしたものの正体に気づけたり、スッキリと晴らせたりできたなら、それはそれでいいのではないでしょうか。
  
 「話す」は、声に託して思いを手放す意とも解釈できます。「話す」という言葉は、「咄」という国字があることからも「放す」が語源という説もあると聞きます。目の前に聞き手がいるからこそできることで、同じ “言語化” でも「書く」ことでは得られないことです。

 “言いっぱなし・聞きっぱなし” のルールは、質問や反論、意見を禁じているだけと了解すればいいのです。恥も、外聞も、見栄さえもかなぐり捨てる勇気さえあれば、長年溜め込んでいた胸のつかえさえもキレイサッパリ降ろすことができるハズなのです。

 「最初から思い切って、徹底してやるように、・・・」
(アルコホリク・アノニマス 第5章より)



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ヒゲジイ流解釈 AAの回復のプログラム『12のステップ』(下)

2017-11-03 07:46:44 | 自助会
 前週に続いて、AAの回復のプログラム『12のステップ』を改めて取り上げてみようと思います。今回はステップ11~12について述べてみます。(『12のステップ』についてはこちらをご参照ください。)

 AAの本質は、飲まないで生きる生き方を共通の目標とした同志が集い、言いっ放し・聞きっ放しのルールでミーティングを開催することにあります。ミーティングこそがハイヤー・パワーそのものという考え方もあるようです。

 ステップ11~12は、そのミーティングでの心懸けを述べた部分と私は解釈しています。やたら宗教臭がプンプンする部分ですが、各ステップを踏んだ後の最終ステージと考えるよりもAAに繋がったときから心懸けるべき留意点と考えた方が良さそうなのです。

 ステップ11にはこうあります。
「祈りと冥想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。」

 このステップのキー・ワードは瞑想 (黙想)にあると考えています。ミーティングでは目を瞑り黙想しながら耳を傾けるべき、とまで私には読めてしまいます。

 AAのミーティングでよく経験することですが、目を瞑り黙想したまま聞くでもなしに話を聞いていると、耳に入って来る言葉から思わぬ “気づき” が得られることがよくあります。悟りにも似たこの “気づき” を私はカタルシスと呼んでいますが、言うに言われぬ癒やされた気分に浸ることができます。発言者の顔を見ながらでは到底味わえない心境なのです。ステップ11はこのことを述べているに過ぎないのでは(?)と思っています。

 次のステップ12の記述はこうです。
「これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージをアルコホーリクに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。」

 一見してここでも宗教臭がプンプンしています。このステップは見返りを求めず喜んで奉仕する生き方がキー・ワードと解説にありますが、私は単にミーティングを継続し、それを広めることの大切さを説いたものと解釈しています。

 AAのベテランメンバーの中には、このステップ12こそ科学的と考えている人もいます。再現性が確認されていて、誰にでも有効という意味でのようです。アルコール依存症者同士がミーティングを通じて繋がりを保ってさえいれば、慢心から酒害体験を忘れる恐れも互いに少なくなるという解釈のようです。断酒歴の長い人ほど、フレッシュマンが相手だとその効果が大きいと言います。

 お互いの体験談を聞き、自分でも体験談を語ることで初心に戻れ、分け隔てのない仲間意識を高めてくれるのがミーティングです。一緒に会場設営や後片付けをするのも仲間意識を高めてくれます。こういう意味でミーティングが居場所というのも頷けます。

 当たり前ですが、ミーティングは一人ではできません。1時間のミーティングなら、代わり代わりに体験を語るのに少なくとも7~8人のメンバーが揃っていることが望ましいようです。酒を止めたい一心から思い切って会場を訪ねてみても、会場に一人しかいなかったのでは脱力もので、その反動から再飲酒(?)もしかねません。これでは滑稽を通り越して悲劇そのものです。たとえ聞き役に徹するだけでもいいのです。“枯れ木も山の賑わい” もAAでは大歓迎されること間違いありません。

 かくいう私は、ステップ12の解説にある “two-stepping” (二段目?)段階にあるのでしょうか? たとえばステップ1とステップ12の2つだけなど、少ないステップで満足してしまい、それで12のステップすべてを会得したとしたり顔でいる未熟な人のことをこう言うのだそうです。

 ステップ12の解説では、その最後に祈りの言葉がありますが、私はその祈りの言葉をもじり、次の言葉を自分なりの達成目標としています。

  “自分にできることと
  自分にはどうにもならないこと
  この二つを見分けられれば平常心”



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ヒゲジイ流解釈 AAの回復のプログラム『12のステップ』(中)

2017-10-27 06:23:17 | 自助会
 『12のステップ』は、創始者2人の初対面での体験とその後の経験の積み重ねから導き出された経験則で、強いて言うなら帰納法的教義(?)に当たると考えています。私が思うに、彼らの勧める方法は認知行動療法 “言語化” が基本であり、内観療法にも通じるものがあるようです。
 前週に続いて、この『12のステップ』を改めて取り上げてみようと思います。今回はステップ4~9について述べてみます。(『12のステップ』についてはこちらをご参照ください。)

 ステップ4~7は、まさしく “言語化” の実践について述べた部分と思います。

 本来、“言語化” はたった一人でやる孤独な作業です。ともすれば独り言と同じ堂々巡りの循環思考に陥りがちで、自己嫌悪から途中で止めるか自己満足だけで終わってしまう可能性が大なのです。

 そんな独り相撲にならないよう、ステップ5では証人として第三者の設定を義務付けています。その記述はこうなっています。
「神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。」

 このようにわざわざ第三者を証人に設定するやり方はアングロサクソン特有の流儀なのでしょう。成果の客観性を担保できるよう釘を刺していると読めます。第三者が証人となるとなれば生半可な覚悟でできるはずがありません。

 AAではスポンサー・シップを勧めています。スポンサーには断酒歴の長いメンバーが望ましいとされ、何かと指導してもらうことになります。通常、このスポンサーが『12のステップ』を指導して証人にもなるようですが、私は証人代わりにブログへの投稿を選びました。

 ステップ8~9は、自分の酒害で被害を被った人々への埋め合わせを勧めた部分です。少し見方を変えてみると、この部分は自分自身の回復の程度を検証できる方法とも読めます。

 自分の偏った考え方が最も露骨だったのは飲酒時代のはずですが、その被害を身をもって体験させられた人々なら、どの程度自分が回復しているのかも判断できるはずなのです。特にその被害者が家族なら、下手に埋め合わせを急いだりしたら却って逆効果になりかねません。埋め合わせをするにも半端な気持ちではできないということです。そんな意味合いも込められていると読み取れます。

 「精神科医なら皆が皆、患者の目力や言動から回復を診断できる」と自信たっぷりに語った専門クリニックの医師の言葉が思い出されます。アルコールが脳から抜け切ったと実感した頃から、何とかして回復を確認したいと躍起になるものですが、回復したと判断できるのは周りの人たちで、決してアルコール依存症(アル症)の本人ではないのです。

 次のステップ10にはこうあります。
「自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。」

 ここは、酒害を重ねた過去の清算を一先ず終えた後も “言語化” の実践を不断に続けるよう勧めた部分と読めます。自分の言動を日々振り返るようでなければ、慢心からいつ元の木阿弥にならないとも限りません。そうならないために自戒を続けよという解釈です。常日頃、“言語化” に励んでいれば、他者への思い遣りも自然に生まれて来るものだと言外に諭しているとも読めてきます。

 以上、ステップ4~10を概観してみましたが、“言語化” を実践する際の手順と言い、証人の設定と言い、回復の検証方法と言い、実に合理的で科学的な方法だと感心させられました。これらのステップの実践を通じて、大勢のアル症者が回復したというのも頷けます。

 回復者が必ずしも100%でないことから、科学の肝である再現性が担保されていないと主張する人も中にはいますが、生物統計に付きもののバラツキを考慮すれば、これらのステップは科学的と断じて何ら問題ないと考えています。


次の記事もご参照ください。
回復へ―アル中の前頭葉を醒まさせる」(2015.6.05投稿)
人生の “棚卸し” は個人史年表の作成を第一に!」(2016.9.23投稿)
ヒゲジイ流 “言語化” の流儀」(2017.6.16投稿)


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ヒゲジイ流解釈 AAの回復のプログラム『12のステップ』(上)

2017-10-20 06:26:08 | 自助会
 今まで何回かAAの回復のプログラム『12のステップ』を記事に取り上げてきましたが、最近新たに気づいたことがあり、改めて取り上げてみようと思います。今回はステップ1~3について述べてみます。(『12のステップ』についてはこちらをご参照ください。)

 『12のステップ』は、創始者2人が初対面でした体験とその後の経験の積み重ねから導き出された経験則で、強いて言うなら帰納法的教義(?)に当たると考えています。私が思うに、彼らの勧める方法は認知行動療法 “言語化” が基本であり、内観療法にも通じるものがあるようです。

 “言語化” は、もやもやした胸の内を洗いざらい言葉でさらけ出し、煩悩(?)の正体を “見える化” する作業です。中には思い出したくないこともあるでしょうが、たとえ隠しておきたいマイナス感情(怒り、嫉み、恨み、羨みetc.)でも敢えて言葉で明るみに出す作業が “言語化” です。

 私には、これまで “言語化” を実践してきたという自負がありますが、その経験から『12のステップ』をみると次のような解釈が成り立ちます。

 まずステップ1~3ですが、自分自身に対してどこまで “正直に” なれるか、そう覚悟を決めるまでの心構えを述べた部分というのが私の解釈です。『12のステップ』の前段にある「・・・自分に正直になる能力さえあれば・・・回復する」という記述がこのことを如実に表わしています。しかも、“言語化” を実践するには、どうしても自分自身に対し “正直に” なることが必要なのです。

 ステップ1.には次の記述があります。
「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」

 このステップ1こそ、“正直に” なろうと覚悟を決める前段階の心境を述べた部分と解釈できます。“無力” とは「もう(酒は)無理! 自分(の力)ではどうにもならない!」という心境のことで、“無力”=“どうにもならない” という意味に受け取れます。いわゆる “底着き” となったときの心境がこれに当たるのでしょうか。

 人は、追い詰められなければ自分に “正直に” なって本音を語るなどしません。“どうにもならない” ところまで追い詰められた経験は人それぞれだと思います。ある人は酒で生死の境を彷徨ったとか、またある人は断酒後のクロス・アディクションに苛まれギャンブルや性的妄想などから抜け出せなかったとか、そんな経験をしたアルコール依存症(アル症)者はゴロゴロいます。

 そんな心境となって初めて、「さぁ、どうにでもしてくれ!」と俎の鯉のように誰かに自分を委ねられるのだと思うのです。ステップ2~3はそのことを述べているのであって、AAではその誰かを “神” としているに過ぎません。

 ここで “神” を持ち出していることに私には幾分違和感があり、別に “神” でなくてもいいのでは(?)という思いが拭えません。過酷な酒害体験が俎の鯉の心境に追い詰めたのであって、単にその開き直った思いから酒を断つ決心に至るのだと考えています。

 AAのベテラン・メンバーの中には、ステップ1 だけでもSLIP(再飲酒)防止に十分と言う人が多くいます。何か怪しげな気分になったら、過酷だった “底着き体験” を思い出すことにしていると言うのです。慢心を自戒するにはもっともな話で、断酒歴の長い人に多いのも頷けます。

 ところで私は、必ずしも “底着き体験” にこだわる必要はないと考えています。自分では2度も“底着き” を経験したと思っている私ですが、今ではややもすればその記憶も薄れかけています。こんなふうに “喉元過ぎれば熱さ忘れる” では到底当てにはできません。あくまでも “底着き体験” は個人の主観なので、ないよりもあるに超したことはないのですが・・・。それよりも自分自身に対して “正直に” なることの方が遙かに当てにできる。私はそう思っています。

 AAの勧める生き方の基本は “ありのままの自分を ありのままに受け容れる” であって、これこそ否認の病と言われるアル症の回復への一歩に違いありません。

 実は、この基本がそっくりそのまま “言語化” に当てはまります。ありのままの自分を “見える化” することが “言語化” ですから、自分に正直でなければ “言語化” の実践などできるはずがないのです。ちょっと諄すぎでしたか?


次の記事もご参照ください。
“自分に正直に・・・”って?(“認知のゆがみ” の矯正に)」(2017.6.09投稿)
自分に正直になるには “言語化”」(2017.2.24投稿)


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アル症者がひきずる “自分の古い考え方” とは?

2017-10-13 06:29:18 | 自助会
 AAはアルコール依存症(アル症)者の共同体で、創始者ビルとボブ二人だけのミーティングから始まりました。彼ら創始者の勧める行動指針と考え方は次の言葉に要約されていると私は考えています。

「私たちは、自分がいつもどんなふうだったか、そして何が起こって、いまどうなっているのか、おおよそのところをはっきりさせる。・・・(中略)・・・
自分の古い考え方にしがみつこうとしている仲間もいたが、完全にその考えを捨てないうちは結果は何も生まれなかった。・・・(中略)・・・
ここに一つどんな力でも持っているものがある。それは神である。・・・(中略)・・・私たちは思い切って神に保護と配慮を願った。」
(『アルコホーリック・アノニマス』第5章より。下線部筆者)

 まず、二番目の一文の解釈から始めます。この一文がAAの勧める飲まない生き方の前提条件だろう、というのが私なりの解釈です。

 当初、“自分の古い考え方” とは潜在意識に根ざした考え方では(?)と薄々察してはいたのですが、具体的に何を意味しているのかわかりませんでした。助け船を出してくれたのは専門クリニックの主治医の言葉 “認知のゆがみ” でした。そして、“認知のゆがみ” による典型的な考え方が、何かにつけ “(自分は / で)~(で / し)なければならない” とする思い込みだと知ったのです。思い込み、即ち固定観念のことです。アル症者は大なり小なりこの “認知のゆがみ” を抱えている人々です。

 “自分の古い考え方” を知るには、過去から現在に至る自分の思考パターンを知ること以外他に手段がありません。その手っ取り早い方法が自分の酒害体験を語ることであり、自分史を綴ることだとは容易に理解できます。最初の一文はこのことを言っているに過ぎません。

 かつて勉強のできる子だった私には、「自分は何でもできるハズだから、自分でなんとかしなければならない」という思考パターンが今でも染みついています。この思考パターンでは、どうしても自由な発想が縛られて選択肢の乏しい窮屈な考え方になりがちです。こんな考え方でいると、解決すべき課題が増えるばかりで身動きできなくなるのも当然なのです。主治医のお陰でそのことに思い当たりました。
 
 AAの言う “自分の古い考え方” が “(自分は / で)~(で / し)なければならない” という思考パターン即ち “認知のゆがみ” だと解釈すると、回復への第一歩はそれを捨て去ることから始まることになります。固定観念に囚われさえしなければ自由な発想で選択肢の多い生き方も自然にできるようになる、そういうふうに解釈できるのです。

 後半に出て来るのが固定観念に囚われないためにはどうするかです。ここでは “神” が出て来ますが、自分の将来はすべて自分の意のままにしなければ・・・と執着する代わりに、自然の成り行き(神)に “お任せ” するという緩くて気楽な生き方を勧めていると解釈できます。どうなるかわからないのが将来です。そんなわからないことをクヨクヨ悩むのは “下手な考え 休むに似たり” なのです。

 “認知のゆがみ” は長年色眼鏡を通して培われた見方・考え方です。極端に言えば幻想に囚われている状態とも言えます。幻想から抜け出すには色眼鏡を外せばいいだけの話なのですが、偏った見方・考え方を矯正するのはそう簡単ではありません。ともすれば “なんとかして・・・を直さなければならない” となりがちですが、無理に矯正しようとすると元の木阿弥になりかねないのです。

 それではどうするか? ことがある度また色眼鏡で見ているのでは(?)と自覚してさえいればそれで十分。「♪ ケセラセラ~、なるよ~うになる~」と気楽でいればそれでいい。これだけで自然に変われるはず。やっと、こう考えるに至りました。

 AAには “神” に祈願する言葉があります。願い事は次の3つからなります。 

 ● 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
 ● 変えられるものは変えてゆく勇気を
 ● そして、2つのものを見わける賢さを

 これらの言葉はお祈りの体裁をとっていますが、無理にしなくて済むよううまく配慮した言葉になっています。AAでは、これら3つをアル症者の目指すべき達成目標としているようです。

 私はこの言葉の意味に気づくまで3年掛かりました。ちなみに私は、この言葉とは別に “ありのままの事実を ありのままに受け止める” を1日1回念ずるようにしています。



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“言いっ放し 聞きっ放し” の効用

2017-10-06 06:03:25 | 自助会
 私がAAに繋がって正味丸3年半が過ぎました。参加したての頃こそ、緊張感と好奇心から何も聞き漏らすまいと耳をそばだてていましたが、集中力が1時間も長続きするはずがありません。当時は記憶障害も酷い状態だったので、ミーティングが終わった途端、ほとんどが記憶に残っていない有様でした。

 これではもったいないと、帰宅後辛うじて記憶に残っていたことをメモし始めたのが10ヵ月目からで、ミーティング中うつらうつらしている方が心に話が響くと気付けたのが2年過ぎた辺りでしょうか。今ではミーティング中は目をつむり、聞くでもなしに話を聞き流すことにしています。(実際にうたた寝していることもあります、念のため)。

 まだまだ経験不足の私ですが、つくづくAAが奇特(?)と思わされたことは “言いっ放し・聞きっ放し” のミーティング・ルールです。

 目をつむり聞き流すように体験談を聞いていると、時に様々な “気づき” があって自分の世界に没頭させられます。そしてなんとも言えない清浄な気分にもさせてもらえます。まどろむほどに寛いだ気分になればなるほど、却って “気づき”  が深まるのも不思議です。

 恐らく瞑想状態とは、こんなときのことを言うのでしょう。この時に脳波を調べてみれば、少なくともα波を、ひょっとしたらθ波をも検出できるかもしれません。α波は瞑想状態やリラックスした状態で、θ波は深い瞑想状態やまどろみの状態で、それぞれ検出される脳波だそうです。

 もしAAに  “言いっ放し 聞きっ放し” のルールがなかったら、こんなに盛んな集会となることはなかったでしょうし、他の依存症にも自助グループが派生するなどなかっただろうと思います。そう考えるに至ったのは次のような経験があったからです。

 以前、専門クリニックの教育プログラムで、一度だけ質問・コメント有りのミーティングに出たことがあります。教育プログラムでも具体的テーマ設定があって、いつもは “言いっ放し 聞きっ放し” のルールで患者に簡単な酒害体験を語らせるのですが、その時に限って相談員の司会者だけに質問・コメント可としたのです。

 司会者と話し手のやり取りを聞いていると、その場の空気がどうしても普段と違って行きました。どうやら聞き手側の気が散っていたようなのです。

 私などは、好奇心から質疑応答の方に気を取られ、自分の酒害体験の掘り起こしが疎かになりました。聞いたばかりの話についても質疑応答分だけ印象が薄まっていきました。そんな散漫な気分に加え、私自身も質問に備えて多少身構えたところがあったようです。このことは他の出席者も似たり寄ったりで、ミーティング後の顔つきでそれとわかりました。結局、集中力散漫となった分だけ何とも味気ないミーティングだったと記憶しています。
 
 話し手の立場からすれば、たとえ質問・コメント有りでも気持ちの持ち様はほとんど変わりません。質問に備える必要のないAAでも、聞き手を目の前にして話すという点では同じで、独り言とは全く違う外向けの論理立てに気を使わねばならないのです。

 こう考えてみると、“言いっ放し 聞きっ放し” の要であるのは、どちらかと言えば “聞きっ放し” の方ということになります。どうやらミーティング中余計なことを考えずに自分の世界に没頭できるのは “聞きっ放し” のお陰のようなのです。

 ミーティングでうつらうつらするのも瞑想状態に入っていた証でしょうか、単なるうたた寝ではなかったのだと自分勝手にこじつけし、意を強くしている私です。



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AAの言う “神” とは?

2017-09-29 07:20:05 | 自助会
 同病のブロガーがこんなことを書いていました。
「(AAの)“神”という言葉、概念に拒絶反応を起こす人は多い」。
私もこれには同感で、AAに参加したての頃は強い違和感がありました。

 AAは米国で生まれたアルコール依存症(アル症)者の自助グループです。国民の大多数がキリスト教という一神教を奉じる精神風土ですから、神という言葉・概念にはあまり抵抗がないと思われます。その一方で、一神教に息苦しさを感じる人もいて、AAの創始者のビルもそんな一人だったようです。

 アル症者は、大なり小なり何か事あるごとに自分にはできるはずという強い思い込みの持ち主で、自分の思い通りにならないことに我慢ならず、気を紛らわすためお酒に走った人々です。そのお酒についても、自分でコントロールできるハズと思いつつ、飲み続けた結果がどうにもならないアル症だったという体たらくなのです。

 かくも傲慢を絵に描いたようなアル症者ですから、唯一、神だけが全知全能であるとする一神教の精神世界に息苦しさを感じても不思議ではありません。神の教えに背いて罪を犯したら罰が当って地獄に落ちるのです。アル症者は飲酒に罪悪感を持ち、罪を犯している後ろめたさをいつも引き摺っています。そんな後ろめたさを引き摺っている息苦しさは推して知るべしなのです。

 こんなアル症の人々に、回復のためとは言え神の概念を持ち込むのは両刃の剣になりかねません。それでも神を持ち出さざるを得ない奇蹟か何かあるのでしょうか? 確かに飲まない生き方を送っているAAのメンバーからは、本人が奇蹟と思わずにいられなかった体験談がよく聞かれます。

 何をやってもどうにもならなかった酒がAAに繋がったことで止まった。あるいは、AAに繋がったお陰でアルコールが完全に脳から抜け、長年煩わされてきた脳のシビレ感が消え失せた、等々。私などは、これらとは別に “憑きものが落ちた” とも言うべき、物の怪のような性的妄想が綺麗さっぱり消え失せたという体験もしています。

 これらの体験の後、“楽になった” これが皆異口同音に語った言葉です。このような体験は、今まであったものが突然消えたということなので、異次元の現象即ち奇蹟と言ってもいいものでしょう。いかにも神の存在を思わずにはいられない摩訶不思議で神秘的な体験なのです。

 これら奇蹟と思われる出来事の頻発が “神” を想定した理由だったのでしょうか? 恐らく、これもその一つだったのでしょう。ここでもう一つ考えておかなければならないことがあります。ミーティングの場で得られるなんとも言えない清浄な心地よさです。

 アル症者にはアル症者でなければわからないことがあります。言いっ放し・聞きっ放しがルールのミーティングで体験談を聞いていると、時に様々な “気づき” が得られ、それがカタルシスとも呼ばれる清浄な気分にさせてくれるのです。

 “気づき” とは過去の出来事(思い出)の意味合いを悟ることですが、こんなとき神が身近にいると感じても不思議ではありません。飲酒が続いていたときでも、ミーティングに出た日だけは酒が止まったという話はこの文脈ならよく理解できます。

 私がAAに繋がって正味丸3年半が過ぎました。その間、神を彷彿させられたエピソードは上に挙げた2つしか思いつきません。

 正直に言えば、奇蹟と思われた出来事は神の奇蹟という宗教的なものではなく、実は自然治癒力の賜ではないかと私は考えています。清浄な気分になれるのも、目的意識が一致している集団ならではの、アル症者同士の共同体に特異なことかもしれません。どちらも神ナシでもあり得る話と考えています。

 私はAAの『回復のプログラム』12のステップを実行するのに神が不可欠とは考えていません。敢えて非難囂々を覚悟で言えば、窮余の策としての方便が “神” だったのではと不埒なことさえ考えています。

 AAの基本的な教えは次のような生き方の勧めと私なりに解釈しています。

― 自分でなんとかしようとする古くからの思い込み(固定観念)を
  捨て、先行きについては自然の成り行き(神)に “お任せ” し
  て生きていくこと

命運を “お任せ” する相手が大自然というのでは拍子抜けして潰しが効かないので、多くの人々に違和感のない “神” とした、私にはこう思えて仕方ありません。

 “自分なりに理解した神” という概念も、誰にでも受け容れやすいものとして担ぎ出されたものと考えています。“神” が大自然の摂理や八百万の神々であってもいいのです。(どちらも包容力ある自然崇拝という点では同じと思え、私たち日本人にはピッタリです。)

 大自然には摂理があるを信奉する私としては “ハイヤー・パワー” という言葉の方がむしろシックリするぐらいです。 いずれにしても 
“信じる者は救われる”。 誰にでも当てはまる言葉です。



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聞き役に徹する訓練も立派なリハビリ

2017-03-03 06:44:47 | 自助会
 前々回の記事では、“自分に正直になる” という切り口から “言語化” がいかに回復(=“認知のゆがみ” の矯正)へのリハビリとして有用かを述べました。今回は、自助会のミーティングを切り口に、聞き役に徹する訓練も回復へのリハビリとしていかに有用かを述べてみます。

 想起障害は老化現象に伴う記憶障害としてよく知られています。「アレがアレして、アーなって」と揶揄されるアレです。言葉にしたいのに肝腎の言葉がなかなか思い出せないことが頻繁に起き、思いが言葉にならない辛さ、もどかしさは「度忘れ」などと笑って済ませられるものではありません。断酒継続中のアルコール依存症者は、程度の差はあれ、想起障害を主とした記憶障害を共通して引き摺っています。

 記憶障害の代表格である認知症の人は、遠い過去の記憶が思いの外鮮明に残っており、逆に近い過去の記憶の方がむしろおぼろげだと聞いたことがあります。遠い過去のことは記憶のネットワークの中でしっかり固定されていて、その一方で、近い過去のことはまだ固定されずにいるという意味に思えてなりません。

 上の傾向は私にとっても当てはまることばかりです。話すにせよ書くにせよ遠い過去の思い出を語るときは、度々言葉に詰まったり話が飛んだりはするものの、一旦始めさえすれば意外にスラスラ進むものです。もし、その話が意図と違ったと気づいたら、すぐにその間違いを正せます。逆に、つい最近のことを語るとなると、思いの外考えがまとまらず、表現や言葉の間違いにも気づけないことが多いのです。老化のせいか急性離脱後症候群(PAWS:記憶障害を伴う)のせいか私にはわかりませんが、これは大なり小なり断酒継続中のアルコール依存症者に共通した悩みだろうと考えています。

 こんな記憶障害に加え、アルコール依存症者は根深い “認知のゆがみ” という問題も抱えています。そのどちらも記憶のネットワークがうまく機能していないことが原因ではないかと私は睨んでいます。

 ところで、聞き上手の人はたまに相槌を打つぐらいで聞き役に徹します。大概、一通り話を聞いた後で核心を突く質問や勘所を押さえた客観的な意見をしてくれるものです。土台、聞き上手の人は頭の出来が違うのだろうと、ずっと考えていました。聞き下手の私は、自分自身を引き合いについ話に巻き込まれてしまい、当事者になった気で余計な質問や意見をしては話の腰を折ったものでした。ところが今は、聞き役に徹することこそが肝腎で、終始第三者の立場で話を聞けるようになれれば立派な聞き上手になれるのでは、と思えるようになりました。

 自助会のミーティングには二つの好条件が揃っています。一つは言いっ放し・聞きっ放しの舞台環境が完備していること。二つ目は全員が共通してアルコール依存症者ということです。

 言いっ放し・聞きっ放しのルールで行われる自助会のミーティングでは、現場にいながら話し手に何の負い目も感じずに話が聞け、話を聞いた後で感想や意見を述べなくて済みます。聞きたくなければ聞き流せばいいだけですし、話し手として指名されても「今日は仲間の聞き役でいます」と断ればいいのです。

 生々しい刺激的な話を聞くのにこんな気楽な環境はありません。あたかもラジオを聞くように、第三者の立場で聞き役に徹し切れるところがミソなのです。とは言っても、聞き手の多くはいつ指名されても話せるよう、その準備に半ば気もそぞろで、その分だけ半ば聞き流し状態となっているのが普通です。聞き流していたとしても、琴線に触れた言葉は不思議と記憶に残っているものです。(いずれにしても、聞き上手になるまでにはある程度の年季が要るようです。)
 
 自助会に共通したこのルールに加え、一般的にアルコール依存症者の酒害体験は次のことが共通しています。


 ● 経験した事柄(症状)は個人を超えて意外に共通項が多い
 ● 大抵は遠い過去の思い出なので話し手が気楽に話せる
 ● 聞き手も類似の酒害を経験しているので言外の察しが効く


 これらの共通項が揃っているからこそ聞き手は、経験した者同士にしかわからない引け目や後ろめたさなど、微妙な心理が共有できるのです。自分に似通った体験を聞くことで、埋もれた記憶が刺激され、過去の思い出が鮮やかに蘇るという経験も聞き手全員に共通します。ミーティングからの帰り道、名状しがたいカタルシスに浸れるのはこのお陰だと思います。このことは明らかに記憶機能のリハビリに当たります。

 以上から二つの結論が導き出せます。


 ○ 記憶のネットワークのリハビリには、自助会で聞き役に徹し切る
   訓練が一つの有用な手段であること
 ○ 第三者として聞き役に徹し切れれば聞き上手になれ、同時にもの
   事を客観的に考えられるようにもなれるハズ


 これが帰納法的(?)に導かれた今回の結論です。自助会で酒害体験を聞くことは、よく言われる断酒継続中の “空白の時間” 対策として気軽にできるばかりでなく、記憶のネットワーク回復へのリハビリとしても打って付けだと考えた所以です。

 このことをさらに広げて考えてみます。ありのままに物事を見るには、自分から離れて見ることが肝腎で、全体を客体として第三者の立場から眺めることが欠かせません。この場合の客体とは、もちろん自分自身をも含めての話です。聞き役に徹することで第三者の目を保つことができれば、前々回述べた校正者の目で「自分に正直になる」ことにも通じます。それがひいては回復への王道へ導いてくれるとも思えるのです。

 要は、自分への囚われ(自己執着)から抜け出すことが “認知のゆがみ” の矯正への第一歩。これが帰納法的(?)思考から導き出したもう一つの結論です。この拡大解釈は乱暴すぎるでしょうか?



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グーとパー

2017-02-03 09:12:30 | 自助会
 アルコール依存症者の自助グループには大きく分けて二つの団体があります。アルコホ-リクス・アノニマス(AA )と▼断酒会です。断酒歴14年のAAの大ベテランが、二つの組織の違いについてこんなふうに教えてくれたことがあります。彼はAAに属す前に断酒会にも属したことのある経歴の持ち主です。

 「あのなぁ、知ってるか? AAと断酒会の違いはコレなんだよ。」
と両手でグーとパーを作って見せました。
 「え、何ですかそれ?」
 「見ての通り、グーとパーだよ。グーは必死になって掴む、
  パーは反対に手放す。そういう意味。」
 「はぁー? 古い考えを手放す、というアレですか?」
古い考えを手放すというのは、ミーティングでよく取り上げられる
テーマの一つです。
 「そうそう・・・、何とか自力で酒を断ちたいと、必死になって
  断酒にしがみつくのが断酒会。過去の古い考え方を手放して、
  人知を超えた天にお任せで飲まない生き方を目指すのがAA。
  わかるだろう?」
 「なるほど、二つの違いはそんなイメージなんですね?」
その時は今ひとつシックリせず、曖昧に相槌を打つだけでした。が、
しばらくしてストンと腑に落ちました。

 実は、断酒会について私はほとんど知らなかったのです。私が断酒
会について知っていることと言えば、
  ○ 会長をトップとして実名で会員登録し組織の結束が固いこと
  ○ 月々の会費制で維持費を賄っていること
  ○ モットーが “一日断酒” ということ
  ○ 例会では特にテーマを設けることはないこと
ということぐらいです。言い放し・聞き放しのルールはAAと共通
です。

 これに対しAAでは、
 ● 会員登録などありません
 ● 会員同士ニックネームで呼び合うだけで、匿名で通します
 ● ミーティング当日の献金のみで運営する自主独立した
   共同体です
 ● モットーは “今日一日” です
 ● ミーティングではその都度テーマが設定されます
  (断酒会で例会、AAではミーティングと呼びます)
これらに加え、AAには著作物があることが一番の特徴です。
著作物がメンバーの精神的支柱となっている点が断酒会と決定的
に違います。

 断酒会はAAを雛形にしているものの、組織運営は日本の流儀に合わせていると言われていますが、おそらくそれもAAに漂う一種独特の宗教臭さを嫌ってのものと考えています。AAの著作物には、神とか、ハイヤー・パワーとかいう言葉ばかりでなく、霊的という言葉も頻繁に出てきます。これが宗教臭さを催すのだと思っています。

 AAの著作物は創始者自身が遺したものなのか、それとも創始者についての伝聞なのか、あいにく私は知りません。著作物のほんの一部しか読んだことがないのですが、著作物には実践を通してしか得られない創始者の神秘的体験が随所に綴られています。

 ビッグ・ブックと呼ばれている『アルコホ-リクス・アノニマス』は、謂わばAAの教典みたいなもので、創始者の経験が凝縮されたものと考えています。中でも回復のプログラム “12のステップ” は創始者が実践した行動の指針とその手順が書かれた回復へのプロトコールと思うに至りました。しかも、自然治癒力を刺激する “言語化” のススメとまで勝手に解釈するようになったのです。

 私の考えでは、AAは以下を基本的なスタンスにしているようです。

 ― アルコール依存症者はアルコールに対し無力であるから人知を超
   えた天にすべてを委ねるのがよい

 断酒にシャカリキになって、足掻けば足掻くほど断酒ばかりに囚われ、他には何も見えなくなります。狭い視野ではそれだけ考えが窮屈になるばかりでうまくいきません。それならいっそのこと天にお任せするぐらいの気持ちで、足掻いている自分自身から少し距離を置いてみる方がよい。そうすれば、気分にゆとりが生まれて視野も広くなりますよ、ということです。

 “なるようになるさ”
 (♪Que Será, Será~ Whatever will be, will be~)

 こんな心境なら “認知のゆがみ” も自然に矯正されるに違いあり
ません。(もちろんこれは私の勝手な解釈ですが、当たらずも遠か
らずと思っています。)

 AAの言う “神” が自然治癒力と解釈するに至った私には、上の考えはとても合理的に思えます。ただし私の場合は、断酒を始めて10ヵ月後に憑きモノのような妄想が消えたことと、完全にアルコールが抜けた実感とがほぼ同時にあり、このことで初めて断酒の囚われから抜け出すことができました。天にお任せと思えるようになったのはこの体験の後のことです(念のため)。

 こう考えると、天にお任せは断酒が定着した後の本当の回復、つまり平常心を保って生きるための心がけなのかもしれません。大ベテランが教えてくれたパーの譬えは、我執から離れ自然に任せる断捨離の考えにも通じ、まさに正鵠を射たものでした。自然治癒力に手応えを感じ始めていた私には実にタイミングがよかったのです。

 ついでながら、人と話をするとき、グーだと交感神経が緊張し、パーだと副交感神経優位となって緊張が解けるそうです。ご参考まで。



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回復の科学 ― AAの“12のステップ”

2016-12-16 10:15:20 | 自助会
 今回も自助会Alcoholics Anonymous(AA)の『回復のプログラム』“12のステップ” を取り上げ、“言語化” との関係をテーマとしてみます。長年アルコールで傷んだ脳と精神をどのように回復させるか、つまり脳のリハビリの手順と方法についてです。改めて私の実践例を振り返り、対照してみようと思います。結論から先に言うと、飲まない生活は勿論のこと、いかにして平常心で生きて行けるかが『回復のプログラム』の達成目標だと考えています。

 “12のステップ” の全体から見て、ステップ1~4は最も解釈に手こずるところで、プロセス上最も微妙な段階に当ります。そこで、ここを重点的に述べてみようと思います。まず、ステップ1~4をお復習いしてみます。ここは次のように記されています。

***********************************************************************************
  ステップ1:私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていた
       ことを認めた
  ステップ2:自分を越えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるように
       なった
  ステップ3:私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした
  ステップ4:恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それを表に作った
***********************************************************************************
 しばらく前までこの部分は、どうやったらアルコールの残渣(毒)が早く抜けてくれるのか、その手順を記している部分と考えていました。つまり、“ガマンの断酒” の早期脱出法だと思っていたのです。改めて私が実践して来た経験に照らしてみると、どうもこの考えには無理があると思えて来ました。ステップ1の「生きていけなくなっていた」、ステップ2の「自分を越えた大きな力・・・信じるようになった」、ステップ3の「神の配慮にゆだねる決心」これらの言葉を吟味してみた結論です。

 私の場合、心境に変化が訪れた時期は “憑きモノが落ちた” 体験(以下、“憑きモノ体験” とします)の後というのが現実でした。「自分なりに理解した神」を自然治癒力に置き換えてみると、まさに “憑きモノ体験” 後の心境にピッタリでした。

 ステップ1の「生きていけなくなっていた」は、原語では「どうにもならなくなっていた」という意味で、過去の過去を表す過去完了形で書かれています。その時制を採った目的は、直前まで続いていた最悪の状態から脱した際に、その以前を振り返ってみた経験を表現するためと考えられます。

 私の場合も「どうにもならなくなっていた」は、“憑きモノ体験” 後にそれまでを振り返ってみて初めて気づいたことでした。渦中にあったときは、正直それどころではなかったのです。ステップ2の「自分を越えた大きな力・・・信じるようになった」は、“憑きモノ体験” が神秘的であったことに符合します。ステップ3の「神の配慮にゆだねる決心」は、自然治癒力を実感した後の当然の帰結でした。

 どうやらAAの『回復のプログラム』のスタートの時期:ステップ1~3は、脳に残っていたアルコールの残渣(毒)が抜け切った心境になれた時のことを意味しているようなのです。たとえアルコールが抜けたといっても、依然としてその後遺症は残ったままです。しかも、後遺症の中には最強とも言える手強い相手がいます。AAの『回復のプログラム』はその最強の障害をターゲットとしているように思えるのです。

 アルコールの後遺症とは、遅発性の離脱症状 ― 急性離脱後症候群(Post Acute Withdrawal Syndrome:PAWS)のことです。主に記憶障害、情動障害、想起障害、思考プロセス障害、認知障害などがからなっています。特に “認知のゆがみ” と呼ばれる認知障害は、性格に “ゆがみ” をもたらす元凶と言ってもいいくらいの手強い障害です。

 アルコール依存症になった人には、この “認知のゆがみ” が全員にみられますし、断酒中のAAのメンバーのほとんどは、アルコールの虜となった誘因が性格の “ゆがみ” にあったと認めています。このように考えるに至り、私はこの “認知のゆがみ” を矯正するプログラムがAAの『回復のプログラム』なのだと結論付けました。

 ステップ4は、本格的な “言語化” 療法の開始段階と考えています。“言語化” とは、自分の悩みや苦しみの大元は何なのか、その正体を言葉で暴くことと考えています。単に、自分の思いを言葉に託して記述すればいいというわけではありません。実践する際は二つのことが必要です。ひとつは、読み手・聞き手を想定して外向けの論理で表現すること。二つ目は、自分の本音に正直であることです。私がブログに投稿を始めてから丸2年経ちましたが、まだ正体の尻尾ぐらいしか掴めていません。正体の全貌を言葉で暴くには、少なくとも数年単位かかるものと覚悟しています。

 自分の思いを書くことは、自分を相手に対話することです。頭の中だけで、独り言の堂々巡りをするのとはまったく違います。書いている時は、必ず読み返しながら書き進めます。「これは本当か? ウッソだろう? 誤魔化していないか? カッコつけるな! 何かズレていないか?」絶えず問い続け、本音と合致するまで書き直すのが普通です。私は、自分の本音との正直な対話こそ “言語化” の鍵と考えています。

 言いっぱなし・聞きっぱなしの場で自分の本音を正直に語ることも、私は立派な “言語化” と考えています。AAのミーティングでは、言いっぱなし・聞きっぱなしが唯一のルールです。質問、批判、反対意見の類は禁じられています。このことが、AAのミーティングは “言語化” の実践道場だと、私が考えている所以です。

 話をステップ4に戻します。ステップ4では叙述による内省が不可欠です。が、アルコールの残渣(毒)が抜け切らない状態では、正直言って冷静な内省は難しいと思います。断酒を継続するのに精一杯で、内省するだけの冷静さや心のゆとりはないはずです。だからと言って何もしないでいいと言うわけにはいきません。

 こんな時期には病状の記録を残すことをお勧めしています。忘れない内に、断酒後に気付いた変化を日付と共に記録しておくことです。慣れてきたら、飲酒時代の酒害体験にまで記録の対象を拡げればいいのです。そして、周辺状況の客観的な史実と共に、それらを正確な個人年表に整理することをお勧めします。これらの作業は “言語化” の立派なウォーミングアップとなります。

 過去の酒害体験を思い起こすと、どうしても罪責感に囚われ、自己卑下や呵責に苛まれることになりがちです。ロクでもないことばかりして来たという、強い思い込みがそうさせるのです。その思い込みを正してくれるのが客観的な個人年表です。客観的な時代背景や、その時々の社会状況(社内事情etc)を見れば、必ずしも個人の責任ばかりでなかったことを明らかにしてくれます。あやふやな記憶による思い違いが、偏った思い込みと重なって罪責感に繋がっていることもあります。私はこの個人年表のお蔭で、意外に逞しく、しっかり生きて来たものだと、自分の生き方に誇りを持てるようになりました。人生の “棚卸し” には個人史年表の作成が欠かせません。

 継続断酒3ヵ月頃から、私は断酒後に気づいた病状の変化と飲酒時代の酒害体験を記録し始めました。それから少し遅れ、AV動画の内容についても文章化し始めました。もうどうにもならない性的妄想に駆られ、AV動画の虜となってしまったからです。その原因はPAWSの情動障害だったと思います。ヤケクソで始めたAV動画の文章化は最終的に20本以上になりました。AAのミーティングに週2回出席するようになったのは、ちょうどその頃のことです。今振り返ってみると、これらは “言語化” 療法のウォーミングアップになったと考えています。自分史『アルコール依存症へ辿った道筋』を書き始めたことが、本格的な “言語化” 療法の始まりに当たります。
 
 断酒を続けていさえすれば、必ずアルコールの囚われから抜けられたと実感する時が来ます。そうなったら、もう迷いはなくなります。ただひたすら自省の思いを書いて、“言語化” に励むことです。それと並行してAAのミーティングに出席することです。AAのミーティングは “言語化” 療法の一端を担っています。数々の “気づき” が得られ、その数だけカタルシスに浸れることになるでしょう。

 ステップ 4 以降に求められていることは明解です。内省を続け、それを文章に綴ることが求められているだけと考えています。つまり、“言語化” の実践です。その実践こそが平常心に近づく道だと説いている、これが『回復のプログラム』の私の解釈です。“言語化” は再現性が確認されている認知行動療法の一つです。私が『回復の科学』とエラそうに謳ったのは、再現性ある “言語化” が科学的方法と確信しているからに他なりません。


 以下にAAの『回復のプログラム』“12のステップ” を臨床試験計画書(プロトコール)の体裁になぞってみました。是非ご参照ください。

自助会AAは科学的?―回復への12のステップ―
 臨床試験で方法と手順が書かれた計画書のことをプロトコール(protocol)と呼びます。また、試験実施後に全記録を成果として残したものを総括報告書と言いま......


アルコールが抜け切るまでの断酒継続には
断酒継続の科学」(2016.12.02投稿)を
“言語化” については
回復へ ― アル中の前頭葉を醒まさせる」(2015.6.5投稿)
自助会AA ― 認知行動療法 “言語化” の実践道場(下)」(2016.8.26投稿)
底着きは2度ある ― 再び“精神的底着き”について」(2016.9.16投稿)も合わせてご参照ください。


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