先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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有馬電鉄敷設工事現場1,200人朝鮮人労働者ろう城スト!   朝鮮と日本労働者の共闘 1927年の労働運動(読書メモ)

2023年11月27日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

有馬電鉄敷設工事現場1,200人朝鮮人労働者ろう城スト!   朝鮮と日本労働者の共闘 1927年の労働運動(読書メモ)
参照「協調会史料」(有馬電気鉄道株式会社争議解決ノ件1927年8月)
  「在日朝鮮人運動史」朴慶植

朝鮮と日本労働者の共闘  
 1927年尼崎工業地帯の中小企業では多くの朝鮮人労働者が働いていた。ここには朝鮮人労働者と日本人労働者が共に立上った争議が幾つもある。大阪製麻争議、鈴木商店尼崎製材所争議など、朝鮮人労働者と日本人労働者は解雇手当や民族差別反対の要求を掲げてたたかった。また5月6日には、乾鉄線工事場の日本人労働者約340人と朝鮮人労働者約80人は、団体交渉権の承認、賃金の二重制度の撤廃、最低賃金(日給2円) ・解雇手当の制定、臨時雇・朝鮮人差別待遇の撤廃などの要求を掲げストライキを敢行した。当時の金融恐慌で解雇のおそれにさらされていた朝鮮人の不熟練労働者が中心だった。崔浩俊、朴英柱らが争議団を指導し、神戸朝鮮労働組合が支援・カンパし、日本労働組合評議会の指導した工場代表者会議開催も実現し、労農党や日本労農党の共闘声明など積極的争議応援が行なわれたが、官憲の弾圧と日本総同盟幹部のうらぎりによって朝鮮人を含む65人が解雇され、6月27日争議は敗北した。

有馬温泉、有馬電気鉄道敷設工事労働者1,200人ろう城スト   
 昔から有名な有馬温泉。有馬電気鉄道株式会社の創立は1926年(大正15年)であった。請負業社日本工業会社は、1927年4月から神戸より有馬の鉄道敷設工事のため朝鮮人労働者1,200名、その家族約1,600名を鉄道付近の松林や谷間にバラックを作り生活をさせた。69ヵ所の飯場に分け、それぞれ飯場頭を置き支配した。一日12時間から14時間もの長時間酷使のうえ、宿泊代・食事代として一日分75銭もとり、また飯場の販売所で買わされる日用品や雑貨代は他の店よりべらぼうに高価のため、自分の手もとに残るのはほんのわずかな賃金であり、これでは到底朝鮮の国許にいる妻子に送金することはできなかった。

(スト突入)
 有馬電鉄敷設工事現場の朝鮮人労働者1,200余人は請負業社日本工業会社に対し、賃金値上げなど7か条を要求したが、誠意ある回答がなく憤慨した朝鮮人労働者は8月7日より69カ所の飯場でろう城ストライキに突入した。

(労農党応援)
 労農党のは8月13日付『無産者新聞』は以下のように伝えている。
 
有馬電鉄千三百の朝鮮同胞罷業
     三月から給料不払の会社
       植民地同胞の闘争を支持せよ

 有馬電鉄、神戸有馬間十三哩七鎖の軌道工事に従事している朝鮮人工夫千二百名は去る七月廿九日五名の代表をだして、工事請負の日本工業合資会社に賃金値上、労働時間短縮その他飯代、給金支払等七ヶ条の要求書を提出したが不誠意な会社側の態度に憤激して八日朝より総罷業を行ひ本部を兵庫県武庫郡山田村に置き会社側に対抗しつつある。

 元来日本工業会社は悪辣な行為で有名な会社で今度の工事請負に際しても有馬電鉄から工事費を貰ふ代わりに株券を貰ひ電鉄の株主になることを契約しているような始末でこの間に生じた非常に無理負担を皆労働者におしつけようとしているのだ。
 こんな訳で三月以来六十有余の飯場に働く千二三百人の朝鮮工夫は一厘の金も貰っていない者が多く、しかも一日飯代七十五銭をとられた上会社から供給される法外に高い日用品を買わねばならない。会社は初めから工夫に金をわたさずに飯代と日用品代で差引をしようと云ふべラ棒なことをもくろんでいるのだ。
 この偽瞞政策と虐使に対する工夫の不平が爆発したのが今度の争議だ。かくて七ヶ条の要求が容れられない中は假令餓死するとも闘争を続行すると云ふ悲壮な決意は争議団にみなぎっている。
 今や大阪神戸方面からも続々として応援団員が乗込み争議団の気勢は日増に高まりつつあるが例によって頑迷な警察は『鮮人の争議には特に注意を要する』と云ふ様なトテッもない事を口実に宮崎御影署長を指揮官として神戸市内各署から数十名の応援を求めて山田村に出張し沿道各飯場の警戒の名の下に争議団を圧迫し極端な御用ぶりを発揮しそれのみか沿道民に対し意識的に争議団についての逆宣伝流言をはなちつつある。
 之に対して労農党はかねて工事のために種々たる迷惑を受けつつあった沿線の町民村民と共に村民大会、町民大会を開き会社の横暴、官憲の暴圧を糾弾しようとしている。
(『無産者新聞』1927.8.13)

(官憲と会社のスト攻撃)
 評議会や労農党は積極的に支援の態勢に入った。しかし、御影署をはじめ市内各署は外部の労働組合の応援部隊が現場に近づくやいなやことごとく検束し、ろう城する朝鮮人労働者との接触をさせなかった。会社側は飯場ボスを叱咤し、スト切り崩し工作をすすめたため、スト破りが7日は52名、9日316名、11日384名と職場復帰者が続出した。
 8月11日、県特高課、御影署は争議事件の悪化をおそれて調停に入り、以下の条件で収拾をはかった。
解決条件
一、日給1圓80銭とする
二、勘定は毎月行い、翌月10日までに支払う
三、食料品などの値段は有馬、神戸などの物価値の平均とする
四、飯場家賃は考慮すること
五、労働時間は今までの12時間を10時間に短縮する
六、労働中の負傷または死亡した者に対して慰謝料を贈ること
七、無条件飯場立ち去り命令はしないこと(一方的解雇はしない)

 一旦は解決したかにみえたが、9月に入って会社と朝鮮人労働者の間の飯場頭などのボスが介入し、賃金が労働者の手中に渡らない不払いが頻発した。朝鮮人労働者約500名は憤激して再びストに立ち上った。しかし官憲の弾圧や下請負人、飯場頭の切り崩し工作によって結局妥協した。この争議は朝鮮人下層労働者を中心に、民族差別撤廃の要求をはっきりと掲げた闘争として大きな意義があったといわれている。
 官憲側はこの闘争の民族運動への影響をおそれて11月県社会課の肝煎りで兵庫県内鮮協会をつくらせた。 

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富山の朝鮮・日本労働者の共闘
 1927年10月米沢組請負の富山県営水力電気立山工事場における朝鮮人・日本人労働者60余人は、約40日間もの賃金不払いに対し3日間のストを決行したが、官憲は暴虐の限りをつくし弾圧した。これに対し朝鮮・日本労働者は抗議の共同闘争を展開した。

無産者新聞記事(1927年11月20日)より
富山の山奥で戦慄すべき拷問
   警官野獣の如く日鮮労働者を凌虐

 富山県営水力電気立山工事場の悪請負主米沢組は40日間も人夫に給料をびた一文も支払はず酷使し続けて居たので去る10月14日人夫約60名は3日間のストライキ決行を決議して争議に入った。
 争議団では交渉委員を挙げて、その交渉に当らしたところ、米沢組の部長本問某はその交渉委員の一人を殴打しかけたのを手始めに数名の監督に命じ、交渉員に喰ってかかって来た、この急を聞いた争議団は激昂し直ちに事務所に押しかけ今やその横暴に対して鉄拳をもって抗議するの外なかった。
 米沢組資本家では前々から警察としめし合して居た為め警察隊30数名が来り争議団員を打つ、蹴るの暴行を行ふと共に新庄小学校に検束して来て本間某の金時計と傘がなくなったと云ふのを口実にし、後手に縛り坐らして打ったり蹴ったり、更に靴ベラで顔をかき耳たぼを爪でつめり、 ひげをむしり抜き更に元朝鮮で巡査をして居た奴は朝鮮で働いて居る警官の腕をみせてやると陰茎を紐で以て結び、引っばり尚且つそれを仰向けにして棒で以て叩き、そして尿道に棒をつきさす等全く戦慄すべき野獣のやうな残虐極まる拷問をやった。
 それがため検束者の大体の者に治療四週間余を要する傷害を加へ更に検束された者から一人当り2円60銭を検東費用だと徴収した。尚窃盗罪、騒擾罪をデッチ上げるため今尚鮮人土工1名、日 本人土工5名合せて6名が刑務所につながれて居る。

 労農党富山支部、白衣労働信友会、日本プロレタリア芸術連盟は主となって富山市内日鮮市民共同委員会の開催を提唱し日鮮の労働者に加へられたる富山警察署の暴虐に対し富山警察部長に抗議をつきつけ暴行警官の処罰等を要求し徹底的に闘争を開始すると共にこの暴虐なる富山警察署の如きものを網の日の一つとして操っている専制政府に向って闘争は発展しつつある。 (『無産者新聞』一九二七年十一月二十日)

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京都の朝鮮・日本労働者の共闘
 京都府乙訓郡向日町の新京阪電鉄工事場の朝鮮人労働者約160人は11月1日請負人高田組に対し、14時間半の労働時間のうち1時間半の休憩を与えよ、日給1円70銭を2円にせよ、藁(わら)小屋に10人も寝させる状況を改善せよ、などの要求を掲げて起ち上った。京都評議会、京都合同労組、朝鮮労組などによる共同応援委員会が組織され、また電鉄線敷設で耕作権確立、賠償問題で闘っていた農民からも米・野菜などがおくられてきた。争議団幹部の逮捕、農民の禁足などの暴圧によって争議は終わりを告げ、賃金はわずか10銭の値上げに止まった。

以上



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