先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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総同盟の分裂まとめ(その一)『労働国策と総同盟』(読書メモ)

2024年01月09日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

上・「労働国策と総同盟」日本労働総同盟発行(1939年)パンフ表紙

総同盟の分裂まとめ(その一)『労働国策と総同盟』(読書メモ)
参照『労働国策と総同盟』1939年日本労働総同盟発行
    国会図書館デジタルコレクション
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1441456/2
  「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋

(感想1)
『労働国策と総同盟』、これこそ友愛会以来日本労働運動の中心的存在であった日本労働総同盟が、時の国家権力に屈服した姿だ。同時に日本の中国、アジア侵略、世界戦争への道に、日本最大の労働組合ナショナルセンター・総同盟が全面的に加担した姿でもある。しかし、この国内弾圧のきびしい条件の下でさえ、全国の工場現場の先輩一般労働者は、黙って死を待ったのでなくて、労働者の生活を守り、組織を守るために必死な闘いをつづけた。1927年の労働運動の分裂反対、無産政党結成の運動、そして数多くの労働争議、ストライキがそれを示している。また日中全面戦争勃発の年1937年に全総(総同盟)は、西尾末広の提案で「ストライキ絶滅宣言」をだし、「銃後三大運動」「皇軍への感謝決議」を採択し、右派労働組合幹部はなだれをうって戦争を支持したその年1937年こそ、先輩日本労働者階級は戦前で最高数・最大数のストライキに立ちあがっているのだ。
 
(総同盟分裂)
 1925年(大正14年)4月22日に治安維持法、5月5日に普選法が公布された。国家権力による文字通りの「ムチ」と「アメ」だ。この直後の5月24日、総同盟が政府の弾圧政策に足並みをそろえ、左派を排除した。総同盟から追い出された左派は「日本労働組合評議会」を結成した。総同盟40組合19,460人、評議会32組合12,500人と日本労働運動が真っ二つに分裂した。

 無産政党「労働農民党(労農党)」は1926年3月に当初は総同盟中心の右派が評議会などの左派を排除して結成し活動も低調だったが、その後全国から評議会などの左派への門戸開放の声が急激に高まり、この声に反発した総同盟ら右派が総脱退し、評議会ら左派が加入し、1927年には日農や評議会などを中心に党員も1万5千人と増えた。

 1926年12月総同盟の中間派麻生久、浅沼稲次郎、棚橋小虎らは総同盟右派のかたくなな右傾化や政府に同調した反共主義に反発し、鉱夫組合、関東合同、関東紡績などで「日本労働組合同盟」(1万3千人)、「日本労農党(日労党)」を結成した。総同盟第二次分裂だ。残留総同盟約2万2千人は「社会民衆党」を結成し、1929年9月には第三次分裂で「労働組合全国同盟」が結成された。
 
 1927年各派の勢力
  左派 日本労働組合評議会30,000人
     労働農民党15,000人
  中間 日本労働同盟15,000人
     日本労農党1,000人
  右派 日本労働総同盟30,000人
     社会民衆党18,000人

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『労働国策と総同盟』総同盟発行

 総同盟の大分裂に関して、多くの人が左右の対立のその経過を書いている。たしかに総同盟の分裂は突然に起こったわけではなく、友愛会創設以来長年に及ぶ左右の激烈な対立の過程があり、その学習も必要だとは思う。左派のリーダー渡辺政之輔らも「分裂は間違いであった。(関東労働同盟会大会から左派が自ら席を蹴って退場した事など)自分達にも過ちがあった」「右派幹部追い落とし戦略も一般組合員も含めた全体を右派一丸とさせてしまった」「われわれ左派を労組内の攪乱主義者、共産党の手先と呼ばせてしまった」と後悔しているように左派の側にあったおごりや行き過ぎや、わずか3年後の1928年には政府による「結社禁止命令」で強制的に解散させられたという情勢・権力に対する認識の甘さもあった。
 しかし評議会結成とその後の運動に対し、多くの日本労働者・民衆が熱烈に支持したことも一方の真実であった。それは評議会の組合員の数が結成時1万2千からわずか数年で3万人を越えたことにも表れている。また評議会結成以降多くの労働争議を、東京・共同印刷争議、浜松・日本楽器争議、小樽ゼネスト等を断固として勇敢に闘い抜き、また労農党をはじめ「対支那非干渉」、中国出兵反対運動など社会的な運動にも奮闘した。これら闘いを経験する中で、民衆は、誰が労働者の味方で誰が自分達の裏切者かを知った。だからこそ権力はますますストライキや労働争議に徹底的弾圧を加えてきた。

 総同盟分裂の本当の原因は、やはり国家権力による労働運動、民衆運動への弾圧にあると思う。幸徳秋水らをむごくにも死刑にした大逆事件、朝鮮への侵略・朝鮮人民への残酷な弾圧と鎮圧、労働運動、民衆運動への苛烈な弾圧検挙の日本国家の黒歴史、近くには1923年6月の第一次共産党弾圧、9月大震災時の朝鮮・中国人大虐殺、亀戸事件、大杉事件、朴烈事件・・・、1925年の治安維持法公布、そして数々のストライキに一層牙をむき出した官憲の弾圧圧殺、中国・アジア侵略に向けての軍隊・人民の戦争総動員攻撃に総同盟右派幹部がすっかり腰を抜かし、国家権力に身も心も屈服して左派排除に踏み切ったのだ。
 
 だから総同盟の分裂とは、労働運動から資本と闘う思想・人間の排除、労資協調、団体協約締結運動、各労組・職場からまともに闘う労働者の放逐、やがては「罷業(ストライキ)絶滅宣言」、そしてついには「労働奉公銃後三大運動」の戦争・侵略全面協力への国家権力による道作りの一つであったのだ。
 
 総同盟本部が1939年に発表した以下の声明、文章が総同盟分裂について、総同盟自らが一番正直にまとめた記録だと思う。

「労働国策と総同盟」1939年(昭和14年)
国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1441456/2

抜粋
「総同盟は共産主義排撃に幾多の犠牲を捧ぐ」「我らは當時共産主義が我が国産業労働の前途に恐るべき禍害を招来すべきを観取し、當時政府当局すら尚黙視放任せるの時、之が排撃に猛進し、ついに大正14年5月、我が同盟より共産主義影響下の27組合(後に日本労働組合評議会を組織す)約半数の組合員を除名するの犠牲を払うに至った。」

「反共の旗を高く掲げ、・・更に日本労働組合会議を結成し、我が国の労働陣営より共産主義を一掃し、これが健全化を図るために多くの努力と犠牲を捧げ来った。現在我が国の産業労働界のみならず、一般国民の間に幸に共産主義を絶滅し得たる所似のものは、一は政府当局の取り締まりと其の弾圧検挙と矯正なる防共対策の然らしむところなるが、一は産業労働の当事者たる我らが率先始終一貫共産主義排撃のために幾多の深刻なる犠牲と努力を払いつつ奮闘し来り賜なると信じる」

「総同盟は、昭和8年9月、(一)労働行政の一元化、(二)大産業の国家管理、中小産業の組合組織化とこの国家の指導課監督などの国家統制、(三)産業協力委員会の産別地方別並全国的設置による産業協力等を骨子とする『産業及労働の統制に関する建議』を決議した。」

「かくて日支事変の勃発するや、我が同盟は昭和12年(1937年)秋の大会においては「罷業絶滅宣言」を可決しその実現を図り、続いて労働奉公銃後三大運動を起こし、各職場に産業協力委員会愛国貯金委員会、銃後委員会(出征遺・家族の生活保障、慰問救援運動)を組織してその徹底に努力し、越えて昭和13年(1938年)の建国祭には東京を始め全国各地に銃後産業協力大会を労資協力の下に開催、続いて・・・資本、経営、労働の三者を打って一丸とする三協倶楽部を結成して・・・国民精神総動員中央聯盟と協力し、・・・戦時下における労働報国と銃後の守りに万全を期し来ったのである。」

「なお近来労働組合は、自由主義民主主義の所産であって、労働者の利己的欲望のみを追究する事のみ目的とするものなりと断定し、その存在の要を否定せんとするの傾向極めて顕著なるものあるも・・・我らは徒らに労働者の利己的欲求に追随迎合することなく、正義と公正に立脚して常に国家産業全体の健全なる発展のために努力し来ったのである。」

「産業報国会の目的とする所は、・・・皇国の興隆に寄与貢献せねばならぬとするにある。・・・政府が今日産業報国会運動に依って、未組織の労働大衆に一の組織を与えやがて之を産業労働統制の基準たらしめんとすることは、我らも又これを諒解しえる所である。」

「現在我が国の産業労働界のみならず、一般国民の間に幸に共産主義を絶滅し得たる所似のものは、一は政府当局の取り締まりと其の弾圧検挙と矯正なる防共対策の然らしむところなるが、一は産業労働の当事者たる我らが率先始終一貫共産主義排撃のために幾多の深刻なる犠牲と努力を払いつつ奮闘し来り賜なる」

(感想2)
 今の連合芳野会長の反共思想と行動はこの方の単なる思い付きや好き嫌いでやっているのでは決してない。この人の思想は治安維持法暗黒時代の『労働国策と総同盟』思想そのままではないか。ということは、昨日今日の伊達や酔狂で首相や政府幹部と飯を食っているのではない。100年前の総同盟鈴木文治や松岡駒吉や赤松克麿がしたように、政府や会社経営者の力を利用して(借りて)「上から」労働組合を強くしたい、強くできると本気で思っている。そのためには最後には労働組合として戦争協力も辞さないのだ。ある知識人が言った「芳野会長ら、この人たちの思想は化石のようなもの」では決してなく、今でも生々しい、いわば戦前総同盟右派以来の筋金入りの思想であり運動なのだ。だからこの人個人だけをバカにしたり、茶化したりしてこちらが満足している、そんな甘いレベルの状況段階ではないのだ。

 問題は、総同盟が、政府や会社経営者と手を結んで、本当に労働者は幸せになれたのか。ストライキ権を手放して労働者は幸せになれたのか。戦争に協力して労働者は幸せになったのか。とんでもない。自国の労働者民衆何百万、アジアの民衆何千万人が虐殺されていっている。今のウクライナ、パレスチア・ガザで現に殺されている労働者・民衆・子供達と同じように。
 日本においても、なにより労働者は自由を手にしたのか。職場の奴隷的待遇から解放されたのか。国家権力や会社経営者に頼るのではなく、職場の労働者こそに、労働者の真剣な怒りにこそ依拠する労働者自身が立ち上がって、自らの自由と解放を手にする、こんな先輩労働者が願ってやまなかったであろう労働運動を、社会を一刻も早く作りたいと切に思う。

以上

次回
総同盟の分裂まとめ(その二)  関東鉄工組合内の左右の抗争、関東労働同盟会大会、左派4組合の退場事件(読書メモ)



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