総同盟の分裂まとめ(その二) 関東鉄工組合内の左右の抗争、関東労働同盟会大会、左派4組合の退場事件(読書メモ)
参照「協調会史料」
「日本労働組合物語 大正」大河内一男・松尾洋
(総同盟左右の対立)
1923年6月5日の第一次共産党事件大量検挙、続く9月の関東大震災、朝鮮人虐殺、亀戸事件、大杉事件など大弾圧。この権力の大弾圧にすっかり腰を抜かした総同盟本部右派幹部。1924年(大正13年)2月、総同盟第13回大会「方向転換宣言」は、左右の対立に火をつけた。4月20日、3千名の関東鉄工組合第二回大会が開催された。この大会こそ総同盟内左右の激突がスタートしたことで有名である。関東鉄工組合大会で、杉浦啓一ら左派は組合主事に立候補して9対8で主事をとった。右派は激怒し、「共産党の組合乗っ取りが始まった」と大騒ぎした。これ以降松岡駒吉らを中心に右派は一大勢力を築き上げ、左派の本格的排除を準備した。5月28日の関東車両工組合所属の汽車製造東京支店労働者が、不当解雇撤回を求めてストライキに入った時、職場内の関東鉄工組合所属の右派組合員がストに参加しなかったことで左派は怒り、左右両派の対立がますます激化した。
(岡部電機製作所との「団体協約」)
右派は、のちに関東鉄工組合大崎第6支部の一つとなる労働者100人ほどの「岡部電機製作所」の工場に3人の活動家を就職させ、オルグとして潜り込ませた。3人は工場労働者と共に働きひそかに組合づくりをしながら仲間の不満、怒りを調査し、要求としてまとめた。1924年4月9日、8時間労働制、3割賃上げ、横暴監督の排斥などの要求で公然と争議団を作り会社と交渉し、ストライキに入った。当初会社は工場閉鎖など徹底抗戦で臨んできたが、4月19日までのストライキの結果、社長は争議団代表で右派の土井直作と手を結ぶことにした。会社は、土井を岡部電機の職工係主任、<下請人>親方という名儀にして、団体協約を結ぶことになった。一面では労働者側の勝利であった。しかし、同時に今後は全職工は土井直作に誓約書をいれることになり、しかもその内容は今までの工場主に代わって労働組合=土井直作が労働者をしめつける形になるという重大な問題点を含んでいた。また、<労働者は総同盟鉄工組合に所属し、組合を脱会もしくは除名された時は、会社はただちにこの労働者を解雇する>という内容であった。この「団体協約」に対して早速、左派が非難の声をあげた。左派は「この団体協約は、闘争のための労働者の団結権を資本家から闘いとったものではなく、労働者の闘争を避け、それを懐柔するために、会社が"労働組合"を買ったのである」(谷口善太郎『日本労働組合評議会史』)と糾弾した。よりによって労働組合自身が労働者を会社から追い出すというこの「団体協約」は当時の進歩的労働法学者の末弘厳太郎からも厳しく非難された。
(関東労働同盟会定期大会、左右の対立激化)
1924年(大正13年)10月5日、総同盟関東労働同盟会定期大会開催。総同盟右派は、さる4月の関東組合鉄工組合大会での右派側の主事の追放があって以来、この関東労働同盟会での役員右派独占をねらっていた。24組合、8千人の関東労働同盟会の中には、関東鉄工組合と野田醤油を中心とする関東醸造労働組合が、それぞれ3千人近くを組織し、関東鉄工はわずかに左派が優勢だったが、関東醸造はいずれとも去就が決しておらず、両派のはげしい争奪戦の対象となった。この争奪戦は右派が次期会長を野田から出すことを約束して右派が勝利し、大会を前に大勢は右派が制した。
(関東労働同盟会大会、左派4組合の退場事件)
右派の議長は左派を排除しようと乱暴な議事進行を進める一方、左派代議員からは右派が行った岡部電機製作所との団体協約へ糾弾の意見や議長不信任緊急動議が出されるなど会場は騒然となる中、ついに左派東部合同労組の渡辺政之輔が右派への抗議として、「議場退場」を宣言し、関東印刷組合、横浜合同労組、時計工組合、東部合同労の各代議員27名全員と傍聴席にいた組合員300人など左派が一斉に退席した。待ってましたとばかりに議事は右派の思うままに進み、会場に残っていた関東鉄工組合ら左派はなすすべもなかった。その後の理事会ですべての役員が右派に占められた。
(左派幹部除名)
つづく10月16日、関東労働同盟会第二回理事会は、以下の左派幹部6名を除名にした。
東部合同労働組合 渡辺政之輔
同 相馬 一郎
関東印刷労働組合 春日庄次郎
関東鉄工組合 河田 賢治
同 立花市太郎
同 杉浦 啓一
(右派「前線同志会」結成)
11月、東京鉄工組合など右派は、左派への敵意を隠そうとせず、左派との一戦に備え、大崎労働会館に関東労働同盟会の青年組合員たちが集まって前線同志会という組織を結成した。細谷松太はじめ大崎支部連合会所属の青年労働者が中心で約300人の会員だった。左右の対立はのっぴきならないところまできた。会歌は、左派に対する憎しみと暴力的対峙を隠そうとしなかった。
(前線同志会歌)
奸悪の敵うちくだき
正義の道を開くべく
青年の意気かたまりて
起てる前線同志会
わが戦線をかき乱し
組合信義をふみにじる
獅子身中の虫けらを
いかでこらさでおくべきや
(東京鉄工組合結成と関東労働同盟会の大分裂)
1924年12月7日、関東鉄工組合の右派は新鉄工組合である「東京鉄工組合」を約千名で結成し、左派約2千名は関東鉄工組合に残った。こうして関東鉄工組合は大分裂した。12月20日は関東労働同盟会理事会は、東部合同労働組合、関東印刷労働組合、時計工組合、横浜合同労働組合、関東鉄工組合の左派5組合を21対11票で関東同盟会から除名した。関東労働同盟会も大分裂した。
(左派5組合を総本部直属)
12月18日、総同盟本部は事態の収拾として、左派5組合を総本部直属組合とした。5組合は「関東地方評議会」と称し、総同盟本部の近くに事務所を構え、独自の機関紙「労働新聞」も発行した。間もなく、東京北部合同労働組合、沼津合同労働組合が加わり、組合員は3千余人となった。
(左派の総同盟刷新運動)
1925年3月19日、総同盟中央委員会の右派による左派除名の動きを知った左派の山本懸蔵、渡辺政之輔、杉浦啓一、谷口善太郎、国領伍一郎、鍋山貞親、三田村四郎、野坂参三ら14名の左派幹部は、「総同盟刷新運動」を発足させ、一斉に全国の労働組合オルグを開始した。
(総同盟第一次分裂)
1925年3月総同盟第14年度大会後の3月27日、総同盟中央委員会は、関東同盟会の松岡駒吉による左派6名、中村義明、鍋山貞親、辻井民之介、山本懸蔵、杉浦啓一、渡辺政之輔の6名の除名の動議を提出した。除名理由は「6名は共産党に関係を持ち、いたずらに党中党をつくり、総同盟内において陰謀を企てんとする・・・」と述べた。加藤勘十と浅原健三ら5名は反対し、除名賛成は8名で、三分の二に達せず除名提案は否決となった。しかし、その後、関東地方評議会の解散と機関紙の停止の動議がだされた。これには加藤、浅原らも賛成し、総同盟中央委員会は満場一致で、4月15日までに関東地方評議会を解散させることを決議し、左派に解散命令が伝えられた。急遽、左派は全国25組合と7,500名の署名による除名再審査の為の臨時大会開催を要求した。また東京では3月27日、関東地方評議会加盟の7組合の合同大会を開催し、総同盟中央の右派幹部裏切り糾弾の声をあげた。4月9日、左派25組合は「腐敗せる官僚幹部の専制、・・・彼らの妄動を監視せよ ! 獅子身中の虫を葬れ!」と檄文を発した。4月12日、総同盟中央委員会は臨時大会開催の要求を拒絶した。左派は総力をあげて総同盟革新同盟運動をおこした。
この直後の4月22日に治安維持法が公布、5月5日には普選法の公布があり、文字通り「ムチ」と「アメ」の政策であった。政府のこれらの動きに呼応するかのように、松岡駒吉らを先頭とする右派は猛烈な左派攻撃の宣伝戦をはじめた。関東労働同盟会は「本部の処置全面的支持」を声明し、「労働組合の攪乱者を排撃せよ!」「陰謀と朋党精神とを組合より駆逐せよ!」と公然と左派攻撃をした。大阪機械労働組合も「職業的共産党一派の総同盟内攪乱運動」と声明した。4月27日、関東地方評議会の集会に右派の青年組織前戦同志会500名が殴り込みをかけた。前戦同志会は会場内に200名を潜り込ませ、会場の周辺には300名が包囲し集会に乱入して両者入り乱れての暴力沙汰となった。
5月10日、総同盟大阪連合会は、左派の大阪電気労働組合と大阪印刷労働組合の2組合を除名した。6月、総同盟はついに真っ二つに分裂し、左派は日本労働組合評議会を結成した。
(総同盟第二次分裂)
1926年12月総同盟の中間派麻生久、浅沼稲次郎、棚橋小虎らは総同盟右派のかたくなな右傾化と政府に同調する露骨な反共主義に反発し、鉱夫組合、関東合同、関東紡績などで「日本労働組合同盟」(1万3千人)、「日本労農党(日労党)」を結成した。総同盟第二分裂であった。残留総同盟約2万2千人は「社会民衆党」を結成した。
(1927年岡部電機製作所の8名を残酷に除名・解雇)
1927年3月、岡部電機製作所の労働者が所属している総同盟東京鉄工組合大崎第六支部大会は、総同盟第二次分裂で生まれた組合同盟・日労党を支持する新たな組合結成を決議した。すぐに総同盟東京鉄工組合は、3月23日の再度の支部総会で大崎第6支部支部長ら8名の組合同盟系(日労党系)の労働者を除名決定した。ただちに会社岡部電機製作所は、1924年に組合と交わした「団体協約」の「総同盟東京鉄工組合員にあらざれば雇用せず」に基づき8名を解雇してきた。昨日まで同じ現場で共に働いていた同僚を、自らの組合のリーダーを、残酷に工場から放逐したのは労働組合、総同盟自身だった。排除された労働者は、これが労働組合がやることか、これが労働組合と言えるかと死ぬほど怒った。
(松岡駒吉襲撃事件)
4月7日怒った岡部電機製作所の左派労働者が、松岡駒吉を襲撃、松岡を殴打怪我を負わせ、組合貯金通帳の入った鞄を持ち去った事件まで起きた。
(東京モスリン刃傷事件)
1927年7月、東京モスリン吾嬬工場に於いても、総同盟第二次分裂に伴う左右の対立が激化した。東京モスリン吾嬬工場の多数の紡績女性労働者などは、総同盟の右傾化に怒り脱退し、日本労働組合同盟日本紡織労働組合吾嬬支部に結集した。総同盟は猛烈な巻き返しを起し、総同盟への復帰を迫った。7月3日には数十名の総同盟東京紡織労働組合組合員が、吾嬬支部の事務所に押しかけ、暴力を奮い、ついには短刀で労働者を刺して致命傷を負わせた。組合同盟は「総同盟反動幹部の狂態を見よ」と糾弾した(写真)。昨日まで長年の間、幾十もの熾烈な争議を共に闘ってきた東京モスリンの労働者がいまや血をながすほどいがみあうのである。
総同盟の分裂により全国各地でこのような悲劇が繰り広げられた。誰がほくそえみ喜ぶかはあまりにも明らかであった。
以上
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