先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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評議会への暴圧ー「 弾圧 ! 徹底的弾圧あるのみと公言する彼等をみよ ! 」 (「協調会史料」より) 1927年の労働運動

2024年01月24日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

評議会への暴圧ー「 弾圧 !   徹底的弾圧あるのみと公言する彼等をみよ ! 」(「協調会史料」より) 1927年の労働運動
参照「協調会史料」

1、評議会への徹底した官憲の暴圧
 評議会の工場代表者会議運動は、官憲による無茶苦茶な弾圧により「会議」の開催自体が潰されるという、こんな弾圧の仕方はかつて見た事もなかったほどだ。なにか具体的な違法行為や犯罪を犯したからという理由で取り締まられるのではない。ただただ評議会の「工場代表者会議」そのものを何が何でも開催させないというのだ。官憲による「弁士中止」や「解散命令」の乱発となりふり構わない大量検束による弾圧であった。弾圧の法的根拠の裏付けは何もなかった。

2、工場代表者会議への弾圧
 1927年の評議会が呼びかけた「工場代表者会議」運動は、たちまち全国で37の工代会議が組織された。恐慌化で苦しんでいた工場労働者は次々とそれぞれの地域工代会議と産別工代会議に結集してきた。東京では7つの産別工代会議と8つの地域工代会議、大阪(市電、地域)、兵庫(神戸、尼ヶ崎)、京浜(地域)、横浜(地域)、名古屋(金属、木材)、京都(染物、地域)、九州(八幡、戸畑、小倉、久留米)、青森、秋田、福島、小樽等であった。神戸地方工代会議は準備会に96工場が参加し。1927年1月16日の第一回工代会議には40余の工場が結集した。1月25日は全市2万6千人の労働者による5分間ストライキが決行された。5月には第二回工代会議が開催され、8月13日全市10分間ゼネストが120工場、約4万人により決行された。https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/0fce19ac058e790ef50c771b9f228769
 
 しかし、政府は評議会の工場代表者会議運動自体を圧殺、弾圧することを決めた。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/e0d801ebd7cc5a032c5afa645fc244d7

 1月16日の神戸第一回工場代表者会議は、臨監の警官が会議の解散を命じ、出席者全員を検束した。 
 5月6月の江東化学工代・城東地域工代・南千住地域工代・荏原地域工代・東京出版産業工代・・・などすべての地域工場代表者会議は官憲により「弁士中止」「解散」が命じられた。
 5月23日の江東化学工代会議は、開会と同時に解散命令がだされた上、代表者数人がたちまち検束された。
 5月28日の全東京金属工代会議は70余の工場の代表が結集した。しかし会場に大量な官憲が動員され、すべての弁士に次々と「弁士中止」、そして集会に解散命令を出してきた。
 5月30日の城東地域工代も会議の開始と同時に解散命令。
 6月3日南千住地域工代に至っては「続々として集合せる代表を(道の)途中から追ひ帰し、尚会場に居合わせたる廿(20)余名の代表者を全部検束・・・暴虐をあへてする・・・」始末だった。
 6月11日荏原地域工代は「大崎沖電気工場の司会が演壇に上がり『これから』と口を切るや中止解散がやられた。」
 6月18日東京出版産業工代は「開会後僅か一分にして解散を命ぜられた。」

3、協調会史料より
 官憲の具体的な弾圧の様子を、協調会史料の「全大阪工場代表者会議新戦線ニュース第五号(1927年6月10日)」と「全大阪金属産業工場代表者会議実行委員会」の同年12月14日のビラから紹介する。

全大阪工場代表者会議新戦線ニュース第五号(1927年6月10日) 
またも今福署の暴圧
「工代」東成地区準備会を解散!
       盛大なりし準備会、参加工場大小20余!

       田舎警察の職権濫用
       ついに全労働者の憤激を買う!
・・・集まる工場、日本エメナル・田中車両・東京建〇・松岡紡績・高瀬染工・川北電気有志等々の大工場をはじめ大小28工場を数えた
 まず中島製作所の田中富松君を議長に推し、各工場代表の挨拶に入るや「俺の工場は賃金三割さげてきた」「俺の工場でも10人が解雇された」「健康保険医が病人を見殺しにした」「工場主が賃金を誤魔化した」「3ヶ月分も給料を支払わぬ」「工場閉鎖」「時間短縮」等と各かく火を吐くごとき熱弁で日頃の大不平を爆発させるや当日午前散々笹村工場の職工大会で悩まされた今福署は、しょうこりもなく、また現れ、会議席上へ数十名の制服私服が踊り込むなり、やにわに議長を引きづりおろし、書類を全部押収した。あまつさえ出席代表の工場名、住所、姓名を強制的に調べあげ「再びこんなところに来ると承知せぬぞ」と脅しつけた。

 この生々しい弾圧の事実をみせつけられた各工場代表はスワッとばかりにいきり立ち、傍聴席まで総立ちとなり、警官めがけて押し寄せたので、逆上した官憲は横暴にもまた解散命令を下し、ついに5名を検束した。

ビラ全大阪金属産業工場代表者会議実行委員会(1927年12月14日)
「すべての鉄工所、造船所、機械工場、その他金属産業の労働者は、一人残らず集まれ!
 首は次から次へと飛ぶ ! 賃金は下がる!時間は長くなる! こんな仕打にダマッテおれるもんか
 さあ、あるだけの不平を持って来い、みんなの不平をかためて資本家と政府にぶつけろ!
  みんなで相談するのだ!
  文句は入らぬ、からだを持ってこい!
   資本家の横暴と無暴をみんなでヤッツケルのだ!
 サアみんな集まって来い、俺たちの要求はこれだ!
****************************
大阪金属産業
工場代表者会議だ
****************************
一、首切り絶対反対だ!
一、解雇手当は最低三ヶ月出せ!
一、勤続手当は一ヶ月に3日分出せ!
一、労働時間延長反対だ!
一、8時間労働制を実行しろ!
一、賃金値下げ絶対反対だ!
一、一切の歩増と賞与を本給に繰り入れろ!
一、臨時雇用制度は絶対反対だ!
一、失業手当法を作れ!
十二月十三日夜七時! 花園橋下車九条会館に押しかけろ!!
全大阪金属産業工場代表者会議実行委員会」
 12月13日午後八時大阪市九条会館において全大阪金属産業工場代表者会議が35名の全大阪の金属工場代表者出席の下開催された。会議がはじまり、開会の辞で「過般の金融恐慌以来不景気は一層深刻になったが、政府は2.3の休業銀行を救済」と発言するやいなや官憲は弁士中止と命令し、ただちに「解散」を命じてきた。抗議し詰め寄る代表者たち35人中11名も検束された。

4、まとめ
 これはもう国家権力が、警察を使って何がなんでも「工場代表者会議」自体を開催させない。会議そのものを破壊するというめちゃくちゃな大弾圧であった。いかに「工場代表者会議」運動がかれらにとって恐怖であったかを証明している。こうした官憲のなりふり構わない大弾圧によって工場体表者会議運動は全体としては失敗、敗北した。評議会への弾圧は、その後も様々な暴圧として降り注いだ。翌年1928年の初めての普選総選挙における労働農民党の選挙運動への弾圧もひどいものだった。全国各地で一度に何百人も検挙されるなど露骨な選挙妨害が繰り広げられた。
 しかし、評議会、労農党と労働者民衆は小樽港のゼネスト勝利など果敢に闘い続けた。
以上

(追伸)
 読者の皆様へ
「1927年(昭和2年)の労働運動」は、ここで一旦節目とします。怒涛のような1927年でした。先輩労働者の奮闘、苦闘など凄すぎてまとめるには私には荷が重すぎました。いよいよ次回から「1928年の労働運動」に入りますが、この年は3.15事件や4.10労農党、評議会などへの解散命令など戦前労働運動への大々大弾圧の年です。この時先輩たちはいかに闘ったでしょう。報告まではしばらく時間がかかりそうです。勉強勉強です。(2024年1月24日長崎)



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