先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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総同盟分裂まとめ(その三) 東京市電自治会の分裂と統一(読者メモ)

2024年01月13日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

総同盟分裂まとめ(その三) 東京市電自治会の分裂と統一(読者メモ)
参照「東京交通労働組合史」東交史編纂委員会遍

「醒めよ交通労働者」
(1927年当時1万5千人を数えた東京市電労働者が、
盛んに高唱していた市電自治会組合歌。「メーデー」の節)
一 人類文化の創造は 交通機関の賜(たまもの)ぞ
   天下に示せその権威 醒めよ交通労働者
ニ ここに起ちたる自治会は 我等階級向上の
   第一線の先駆者ぞ 奮え交通労働者
三 永き侮蔑に悩みたる 我が同胞の犠牲(いけにえ)を
   奪還すべきは時は今 醒めよ交通労働者
四 我等の権威確立は 人類社会の幸福を
   決定すべきものなるぞ 奮え交通労働者
五 世界の大勢定まりて 正義は最後の勝利者と
   聞かずや響く鬨(トキ)の声 奮え交通労働者

 1925年総同盟の分裂、労働戦線の左右深刻な対立抗争は全国の多くの労働組合に波及した。東京市電自治会でも左右が激突した。1926年、左派幹部の除名と復帰騒ぎがおきた。

東京市電従業員自治会の除名騒ぎ 1926年の労働運動(読書メモ)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/ef2eee0c777393c59f2d4e5e09f74002

1万2千人東京市電争議 1926年の労働争議(読書メモ) 
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/fe59537c936ebb06a2b836e6be23a288

(1927年市電自治会は再び分裂した) 
 1926年(大正15年)6月の市電自治会大会において、市電自治会は評議会の方針である労農党支持を決定し、全組合員は労農党に加盟、地域の他労組と協力して労農党地域支部の結成に尽力することを激論のすえ可決した。大会で敗れた総同盟派の市電右派幹部は、「かつて日本労働総同盟を分裂させた共産党一派は、・・・労働農民党支持などを持ち出し、共産党指導下に(市電自治会の)本部乗っ取りを策し、各支部に共産党細胞を植え付けようとした。・・組合乗っ取りを策する彼等の陰謀に対し、我々は断乎として闘うものである。・・」と総同盟の赤松克麿らと巻き返しを行って左派を攻撃し、左派幹部と島上善五郎ら書記を除名・解任し、東京市電自治会を大分裂させた。この第一次大分裂に対しも市電の多くの職場組合員から分裂反対の声が彷彿として湧き起こり、どの職場でも「分裂反対同盟」が次々と組織された。ついに2ヵ月半後、自治会本部は分裂反対同盟との合同を決定し、両派は再び団結したかにみえた。

 1927年3月3日には、京浜電鉄400名の賃上げなどを要求する争議に対し、市電自治会として「5分間の全市ゼネラルストライキ」の同情ストライキを敢行し、全東京市内で大々的な応援ビラを配布している。この争議は「歩増の獲得、夜警の人員、馘首者は出さない」等で解決した(上の写真)。
 
 しかし、1927年5月7日、芝公園協調会会館で開かれた東京市電自治会第五回大会で左右の大激突が起きた。たちまち臨監の愛宕警察署長が会場混乱を理由に大会解散命令で弾圧をしてきた。5月9日の交通労働総聯盟第二回大会も臨監警察から解散を命令された。8月4日市電自治会継続大会を本所公会堂で開いたが、たちまちこれも会場混乱を理由に臨監の相生警察署長によって解散させられた。すべて官憲の弾圧で統一の努力や討論や勿論左派の主導権もすべて奪われた。大会すら開かせないという国家権力、当局による露骨な市電自治会、労働組合弾圧であった。
 8月17日夜、官憲の後ろ盾のもと、右派は神田キリスト教青年会館に代議員450名を動員し、「市電自治会現実同盟(現同)」の確立大会をひらき、あらたに新事務所も設立した。こうして市電自治会は再び大分裂した。これが市電自治会第二次分裂であった。官憲のねらい通りであった。その後双方ともいかにして職場労働者を一人でも多く自らの陣営にひきいれるか日夜必死の努力を重ね、職場の仲間たちの日常の不満や怒りを積極的に要求課題に採り上げ、これを当局に要求した。

(感激の合同「東京交通労働組合」結成)
  1928年(昭和3年)3月15日、治安維持法の初の本格的適用となった3.15事件で、市電自治会の本部派(左派)から島上善五郎ら多数の活動家や青年が逮捕投獄された。本部派の力は極端に弱まった。その結果、当局の攻勢が強まり労働者の待遇は日に日に悪くなっていった。その上経済不況が襲いかかった。組合員にとって労働組合の弱体と分裂がいかに労働者に痛みを負わせるか身に沁みて理解されてきた。ついに現場組合員から今こそ統一をとの切実な声が上がり、統一への運動はかつてなく盛り上がった。労働者はくりかえし左右両派の本部に押しかけ、強力に突き上げた。12月、両派は話し合いをはじめ、1929年(昭和4年)6月25日、1年10ヵ月の分裂の苦難を乗り越え、組合名も「東京交通労働組合」とあらため、芝協調会会館において感激の合同大会を開いた。
 以後しばらく東京交通労働組合は戦前の合法的左翼運動の中心的役割を果たしていく。

以上

次回
総同盟の分裂まとめ(その四) 総同盟右派の「団体協約」運動(読書メモ)



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