先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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評議会の思想と運動   1927年の労働運動(読書メモ)

2024年01月22日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

上・評議会ポスター「団結とストライキは俺達の武器だ!」

評議会の思想と運動   1927年の労働運動(読書メモ)
参照「労働年鑑」第9集/1928年版」大原社研編
  「協調会史料」
  「二村一夫著作集 第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907~1928」
  http://nimura-laborhistory.jp/iwanamikoza.html
  「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋    
  「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃

 1927年3月からの金融恐慌が生んだ田中義一内閣は、ついに中国侵略、山東出兵を強行したのがこの年であった。権力側の政治主義が新段階に入ったこの年こそ、官憲の労働運動抑圧における転機の年であった(伊藤晃)。このきびしい1927年、日本の先輩労働者、評議会はいかにたたかったのか。
 1925年分裂当時の総同盟1万9千人、評議会は1万2千5百人が、翌年1926年には3万を超えた。1927年も評議会は、各地で多くのストライキを闘った。また政治闘争も活発化させた。1927年の健康保険争議、工場代表者会議運動、五法律獲得運動、対支非干渉運動等奮闘した。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/e6031a7710d9df2bb85bf963ab0122fe

(二村一夫の評議会評価)
〈評議会は創立当初から積極的に争議に関与し、組織を拡大した。内務省調べでも、分裂当時の1万0778人から26年末には2万2361人と組合員を増し、第二次分裂によって減少した総同盟と肩を並べた。総同盟が大阪、東京等の大都市中心であったのに対し、評議会は北海道、東北、中部、中国、九州地方の中都市にまで組織の網をひろげた点に特色がある。総同盟と同じく、主たる組織基盤は中小経営にあったが、京浜地方では石川島造船所、芝浦製作所などにも喰いこんでいた。
 評議会が存在したのは、僅かに3年足らずであった。しかし、その間、評議会が日本の労働運動に新たにつけ加えたものは決して僅かではない。何よりも、一定の理論、政策にもとづいて運動を意識的に組織し、指導することは、評議会によってはじめて本格的にとりくまれたことであった。失業反対運動、健康保険法実施に際し保険料の全額を政府・資本家負担にすること等を要求した運動、5法律(失業手当法、最低賃金法、八時間労働法、健康保険法の改正、婦人・青少年労働者保護法)獲得運動が提起され、実行に移された。また、きびしい弾圧に耐えてストを持続するため、秘密指導部を設け争議日報を通じて争議団を指導すること、工場代表者会議や工場委員会の自主化などは評議会が編み出した組織戦術として周知のところである。
 このような積極的な活動にもかかわらず、それ自体の直接の成果は限られていた。しかし、評議会の活動が日本の労働運動全体に及ぼした影響を無視することはできない。左派が大きな勢力をもっていた日本交通総聯盟はいうまでもなく、組合同盟や総同盟といえども評議会の活動を意識しない訳にはいかなかった。また、評議会の存在こそが支配層に総同盟の役割を評価させる一つの大きな要因であった。その意味でも、1928年4月10日、評議会中央およびその傘下の九地方評議会に対する結社禁止命令は、単に左翼労働運動に対する弾圧にとどまらず、日本労働組合運動そのものに対する禁圧の第一歩となったのである。〉(二村一夫著作集 第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907~1928)

(1927年の評議会)
1、ストライキ
 1927年の全国のストライキ数は383件、参加総数は約4.7万人である。評議会組合員は全国の多くのストライキの先頭にたち勇敢に闘った。1927年というたった一年の中で、主なものだけでもこれだけの闘いを繰り広げていた先輩たち。それにしても、すごい数と中身です。https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/b2db6d7796c85aa3ca0675c424eabb64
(評議会の主な闘い)
小樽ゼネスト
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/c834b19136ae14604d55d32e46666c11
北海道各地に勃発するストライキの波
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/58d8ec9ac393facf824d890a2291de38
南海鉄道高野山ろう城争議
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/a922deab97b3ab76a2c27c33904830bf
日本紙業四谷工場争議
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/446887c5cd88b602f80888e39ac19184
神戸2万6千人の5分間ゼネスト 
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/0fce19ac058e790ef50c771b9f228769
東京市従組合のストライキ
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/b3bc1ff3e146cd7049df05c885bfb569
芝浦製作所鶴見工場1,300名ストライキ
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/896117d659e57fa5a71e7045f20611a7
日本毛織加古川・印南工場3,000人ストライキ
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/70426a5431c8ff1e519d8f487c571e45
南千住地方の争議の激発!  検束された19歳青年が警察署留置内で深夜死亡!  日本花木ゴム労働争議
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/c18304117f51aead9b0182f3a3aee140
本所柳原の平田ガラス工場争議
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/bc29d21fefcf2cbf23905883315ced6f
「労働者の血を吸い肉を喰う骨までシャブらんとするガラス工場」労働争議
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/6101b2950ac3a90aeb1fded7895a3ba9
「夜業廃止運動」「寄宿舎制度撤廃運動」「臨時雇用制度撤廃運動」等を決議した東京合同労働組合大会 (1926年) 
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/a0adc1c0f48ad19ec74df03d70561858

 
2、健康保険争議
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/0fce19ac058e790ef50c771b9f228769
 評議会の指導により、健康保険料の資本家全額負担を要求して、全国68争議が闘われた。深川の浅野セメント工場では、東京合同労働組合が指導した350人の労働者がストライキに立ち上がった。日本鋳造や秀英舎では、先手を打った会社側が先鋭労働者を解雇してきたことがきっかけでストライキに入った。日本紙業は120人の出版労働組合員が争議を開始し、全労働者200人の署名も組織している。神戸地方では、工場代表者会議運動として5分間ゼネストで闘われた。

(アメとムチ)
 資本・官憲側の戦術は高等であった(伊藤晃)。アメとムチである。盛り上がった健康保険争議に対して、内務省は「一定の賃金を増してその中から保険料を出せばいい」のアメの方法を推奨した。労働者側の差し当たりの勝利である。その一方で先鋭労働者を解雇することで孤立させ、一般労働者の動揺と分断をはかった。ムチである。また官憲は、争議団の突出部分の総検束を再三繰り返してきた。暴力団もたびたび襲ってきた。

 この健康保険争議を敗北させた主要な力は警察力であった(伊藤晃)。27年の争議に伴う解雇者は9324人(25年7210人、26年10112人)、争議に伴う検挙者は710人(25年331人、26年993人。行政執行法による検束者はこの中には含まれていない)。解雇、検挙などものすごい犠牲者の数だ。政府がいかに評議会の運動の発展を怖れていたかがわかる。それは次の工場代表者会議運動に対する弾圧も同じで
ある。

3、工場代表者会議運動と敗北
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/e0d801ebd7cc5a032c5afa645fc244d7

 1927年評議会の工場代表者会議運動。資本と権力に対して、直接工場を基礎とした闘争で立ち向かう為、未組織や他組合労働者の全労働者の統一した闘争のための契機をつかむのが工代会議であった。まず、工場で労働者の切実な不満・問題を取り上げ、階級的自覚を詫び起こすべくアジテーションを行う。労働者が立ち上がれば、その工場が工代会議の発起工場となる。発起工場を増やしながら、広く未組織の労働者や工場を組織化していく。地域で統一された工代会議は各工場の代表者が参加し、あらゆる工場から動員された労働者が傍聴し、決定された統一闘争は全工場の労働者に撤布された。各工場にはそれぞれ工場委員会が作られた。

 全国では37の工代会議が成立した。神戸地方工代会議には60工場、尼崎地方工代会議には30工場が結集した。東京合同労組は「木材工代会議」や「ゴム工代会議」を組織した。深川の木材工代会議は万信製材争議支援のため5分間ゼネ・ストを決議した。1927年5月23日早朝、40工場が同情ストライキに突入した。ゴム・ガラス・セメント・金属の工場も参加した。6月20日に第二回ゼネ・ストが予定されていたが、官憲により阻止された。工代会議は北豊島・北部・豊多摩でも地域でのストライキ波及の源となった。5月には江東ガラス工場懇談会は16工場、江東化学工場懇談会には40工場が参加した。工代会議は、しばしば争議応援機関となった。東京省線電車車庫代表者会議。中野電車庫・神奈川電車庫・品川電車庫等5つの電車庫の労働者が結合した。労働時間改善等で闘い、公休日市出勤拒否闘争を行い、鎌田電車庫では全運転手の辞職連判状でもって闘い勝利した。6月の小樽ゼネストも勝利した。

(官憲の弾圧)
 しかし、大半の工代会議は資本と官憲の弾圧で暴力的に敗北させられている。5月6月の江東化学工代・城東地域工代・南千住地域工代・荏原地域工代・東京出版産業工代・・・すべて官憲により「弁士中止」「解散」を命じられた。70余の工場で組織された全東京金属工代会議も官憲により徹底的に弾圧され、解散させられた。1927年夏には工代会議運動の失敗は明らかになった。

4、五法律獲得・要求運動
 8時間労働法・最低賃金法・婦人青少年労働者保護法・失業保険法・健康保険改正の五法律要求運動が9月にかけて評議会の中心的闘争とされ、職場闘争と政治闘争が広範囲に取り組まれた。

5、中国侵略反対「対支非干渉」運動
(中国・朝鮮情勢)
1.3 中国租界で民衆デモと英軍衝突
2.15 朝鮮 新幹会結成
3.21 上海ゼネスト武装蜂起北伐軍を迎える
3.24 南京北伐軍占領に英米軍隊砲撃
4.12 中国蒋介石クーデター
7.29 英国 同情スト禁止
8.1 中国共産党 南昌武装蜂起 井岡山に革命根拠地建設

 評議会は田中反動内閣の中国侵略・山東出兵に対して「対支非干渉」を運動スローガンとし中国侵略反対の運動に取り組んだ。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/fbda4a0fdd537839d239ee1f7a8c393c
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/0dd8552d434438898b6c4d53e3bc89ab

 朝鮮人労働者との団結を強調した東京硝子(ガラス)工組合結成大会(1926.11)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/5d00b518f3bfe4a9a355b2b5d41a20e7

(1927年世界小史)
日本では、3月金融恐慌が勃発し、半年間で、全国37の銀行が休業した。大銀行の独占支配体制へ。
朝鮮では、民族統一戦線の新幹会が設立され、会員4万人を擁し、その後の元山ゼネストや広州学生事件等に大きな役割を果たした。
中国では、1月に中国租界で民衆デモと英軍衝突し、3月上海で3度目のゼネストと武装蜂起で北伐軍を迎え入れた。英米の軍艦は、南京への北伐軍占領に砲撃を加えた。4月12日蒋介石は南京で残酷なクーデターを起こし、国民政府を樹立した。7月には第一次国共合作終わる。
日本は5月2000名日本軍の第一次山東出兵、中国への侵略を強める。

7月英国で同情ストライキ禁止の労働組合法制定される。
7月ニカラグアでサンディーノ将軍の反米武力闘争始まる。
7月ウイーン・ゼネスト、1月に社会民主党の共和国防衛同盟を右翼武装団体の護国団が襲撃し、労働者3人が殺害される。7月14日容疑者に無罪判決、翌日15日の抗議行動デモに、警官隊発砲で97人が死亡。抗議のため社会民主党は一日ゼネストを宣言したが、武器を取ることに反対したため、このストライキは軍と護国団に無惨にも鎮圧された。
8月中国共産党、南昌で武装蜂起。
10月井崗山に革命根拠地建設。

以上



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