父が習字の塾をやっていたことは、以前ブログで書きました。
塾と言いましたが、「寺子屋」と言った方が正解かもしれません。
半ばボランティアのような安いお稽古代をいただきお習字を教え、子どもが喜ぶ “ぜんざい会” なども開いていました。
まるで、近所の子どもたちの面倒を見ているような感じでした。
始めた頃は、狭い借家の2階で近所の子を集めてやっていたのですが、高度経済成長期でもあり習いに来る子どもが増えて、日曜日の午前中だけ公民館を借りて教えるようになりました。
今は、学校は土日がお休みですが昔はそうではありませんでした。
子どもにとって、日曜日は1週間に1日しかない貴重なお休みの日なのです。
そのお休みの日の半分を、金を払って習いにきた子たちと一緒にじっと正座して習字の練習をすることは、子どもだった私にとって “拷問" 以外の何物でもなかったのです。
遊びに行きたくてソワソワしながら字を書いても、気持ちの入らない “ソワソワした字” にしかなりません。
子どもの私は、
「あと何枚書いたら終わってよかと?」
を、何度も繰り返し尋ねます。
父は私の心の中まで見透かしたように、
「枚数じゃなか、集中して書かんば!」
と、たしなめます。
子どもだった私は泣き出さんばかりの表情で “解放” を求めますが、その要求が叶えられるわけもありません。
そこで、子どもながらに知恵をはたらかせたのです。
習字が始まる前から釣りに出かけ、習字が終わった後に家に帰るのです。
嫌な習字の練習はしなくていいし、好きな釣りを朝早くから昼過ぎまで楽しめるのですから!
もちろん、釣りをしている時は幸せなのですが、子どもながらにうしろめたさはあり帰り道は憂鬱になってしまいます。
それも家が近くなればなるほど…
こんなことを何度か繰り返しましたが、そんな私の楽しみはそう長くは続きしませんでした。
そんな日曜日が数回続いた頃でした。
家に帰り着いた子どもの私は、父からシコタマ怒られ、夜遅くまで父の横で提出するためのお習字の清書をさせられることになったのでした。