TANEの独り言

日々の生活の中でのつぶやきだから聞き流してネ

父の思い出<習字の練習>

2020-11-16 10:08:00 | 父の想い出
父が習字の塾をやっていたことは、以前ブログで書きました。

塾と言いましたが、「寺子屋」と言った方が正解かもしれません。

半ばボランティアのような安いお稽古代をいただきお習字を教え、子どもが喜ぶ “ぜんざい会” なども開いていました。

まるで、近所の子どもたちの面倒を見ているような感じでした。

始めた頃は、狭い借家の2階で近所の子を集めてやっていたのですが、高度経済成長期でもあり習いに来る子どもが増えて、日曜日の午前中だけ公民館を借りて教えるようになりました。




今は、学校は土日がお休みですが昔はそうではありませんでした。

子どもにとって、日曜日は1週間に1日しかない貴重なお休みの日なのです。

そのお休みの日の半分を、金を払って習いにきた子たちと一緒にじっと正座して習字の練習をすることは、子どもだった私にとって “拷問" 以外の何物でもなかったのです。




遊びに行きたくてソワソワしながら字を書いても、気持ちの入らない “ソワソワした字” にしかなりません。

子どもの私は、
「あと何枚書いたら終わってよかと?」
を、何度も繰り返し尋ねます。

父は私の心の中まで見透かしたように、
「枚数じゃなか、集中して書かんば!」
と、たしなめます。

子どもだった私は泣き出さんばかりの表情で “解放” を求めますが、その要求が叶えられるわけもありません。


そこで、子どもながらに知恵をはたらかせたのです。

習字が始まる前から釣りに出かけ、習字が終わった後に家に帰るのです。

嫌な習字の練習はしなくていいし、好きな釣りを朝早くから昼過ぎまで楽しめるのですから!

もちろん、釣りをしている時は幸せなのですが、子どもながらにうしろめたさはあり帰り道は憂鬱になってしまいます。

それも家が近くなればなるほど…


こんなことを何度か繰り返しましたが、そんな私の楽しみはそう長くは続きしませんでした。

そんな日曜日が数回続いた頃でした。

家に帰り着いた子どもの私は、父からシコタマ怒られ、夜遅くまで父の横で提出するためのお習字の清書をさせられることになったのでした。







父の思い出<網を編む>

2020-10-18 07:16:00 | 父の想い出
5年くらい前のことです。

父と母が使っていた部屋の棚を整理していた時に、こんな物を見つけました。



何か分かりますか?


私はこれを見て、自分が小学生の頃に父が、私の目の前でして見せてくれたことをふぅーと思い出しました。


虫取り網が破けてしまい使えなくなり、父にそのことを話すと、父はこんな形の道具を何処からか引っ張り出してきたのです。

そして、網と同じくらいの太さの糸をこの道具に取り付けて、破れた網を修理して見せました。

私は、不思議な気持ちで目の前で起きていることを見ていたのでした。


この道具を見つけて、すっかり忘れていた50年近く前のことが鮮やかに蘇ったのでした。

「どうやって網を編むのだろう… 」

私は家のパソコンで調べてみました。

すると、あの道具の使い方や網の編み方まで、写真入りで詳しく解説してあるページを見つけたのです。

嬉しくなり、自分でも網を編んでみたくなりました。

父の部屋で見つけた道具に、道糸(凧糸)を取付けやってみましたが、道具が小さくて充分な長さの糸が取り付けられません。

そこで、たくさんの糸を取付けられるように細長い道具を自分で作ってみることにしました。

材料は竹です。



せっかく網を編むならキレイな色の糸で編みたいと思い、染料を買ってきました。



何種類かの色で糸を染めました。



そして、ついに網を完成させることができました。




この他にも、オレンジやピンクの網も作りました。

編む時、網目が揃うよう指先に力を入れて網目を押さえます。

ギターの練習で指先が痛くなるみたいに、網づくりで指先にタコができました。


父は大正生まれの、おまけに戦地に赴いた人でした。

物資が乏しかった戦地では、身の回りにある物を使って何でも自分でつくっていたのでしょう。

その物づくりの道具でさえ自分でこしらえて…











父の思い出<泳ぎの練習>

2020-10-11 12:05:00 | 父の想い出
私が子どもだった昭和30年代は、高度経済成長期で、私が育った町も短い期間で大きく変わっていきました。

プールは学校にはありましたが、約3km離れたところでしたので、夏休みになると近所の防火水槽が子どもたちにとってプール代わりになりました。

広さも15mほどで、深さも数十cmだったと思います。

足が届く深さなので、小さい子どもの泳ぎの練習にはうってつけのプールだったと思います。

私も私の兄弟もその防火水槽で泳げるようになりました。




私の父は、地域のお世話をいろいろとしていたようで、夏の時期はその防火水槽の水の管理をしていました。

その関係もあってか、私が住んでいる地区の子が泳げる時間帯に、防火水槽に来ていました。

それも海水パンツを履いて…  。




父は水泳がとても上手く、しかも水中で2分近く息を止めることができました。

大人が泳ぐには浅すぎる防火水槽でしたが、地域の子どもたちに混じって水に入り、私たちに泳ぎを教えてくれました。

手の動き、バタ足の仕方、息継ぎ、ターンまで…  。

そして、水泳指導の最後には、自分の背中に私を乗せて泳いでくれました。

私は、必死になって父の首に手を回して振り落とされないよう必死でした。

父は時々水中にもぐり、しばらく潜水を続けることもありました。

背中の私はそれに合わせて息を止め、父が浮き上がるまで必死に息を止めて耐えなければいけませんでした。

これが、小さかった私にはとてもスリルがあり楽しかったことを覚えています。

泳ぎの練習も、その後に控えている父の背中があったので、いつのまにか泳げるようになったのでした。















父の思い出<ミルクセーキ>

2020-09-28 07:28:00 | 父の想い出
昨年の4月、連れ合いと長崎の街を訪ねました。

寺町を通り、坂本龍馬がつくった"亀山社中” の記念館を訪ねてみようということになりました。


分かりにくいところでしたが、細く入り組んだ急な坂道や階段を案内板に従ってしばらく登って行くと「亀山社中資料展示場」の看板を見つけました。



私はともかく、連れ合いは、
「もうこれ以上、坂道は上れません!」
といった表情だったので、たどり着いた時はホッとしたものの、"閉館中” の札がかかっていました。


肩を落とし上ってきた道を引き返しながら、何処かで旨いコーヒーでも飲みたいねという話になり、スマホで検索すると…

少し先に、昔からやっている喫茶店があることが分かり行ってみることにしました。



何と、この店は遠藤周作の小説『砂の城』の中で、

『タナカヤで流行の服を見物したあとは、銀嶺か冨士男という店でやすむ。冨士男は珈琲がおいしい。』

と、店の名前が出てくるほど有名な老舗喫茶店だったのです。

連れ合いはケーキセット、私は何にするか迷い、メニューの中に"ミルクセーキ” の文字を見つけたので注文しました。


これを読んで、
「エッ!いい歳したおじさん(お爺さんかも…)がミルクセーキ?」
と、思われたかもしれません。


実は、ミルクセーキには子どもの頃の特別な思い出がありました。


私の父は、戦地で食料調達と調理の担当もした経験もあり、復員後に家でコンビーフの焼き飯を作ったり、子どもたちと一緒にカルメ焼きを焼いたりしてくれていました。

レパートリーは豊富でドーナツや餃子は生地から捏ね、缶の蓋で型を抜くところからやっていました。

給食のコッペパンでフレンチトーストを作ってくれたこともありました。

中でも私を含めた子どもたちが魅了されたのが"ミルクセーキ” です。

近所の氷屋さんから買ってきた氷をキリや金槌で細かく砕き、練乳のタップリ入ったボールに卵黄、砂糖などを加えて作ったミルクセーキはこの世のものとは思えない美味しさでした。

こんな思い出もあり、メニューに"ミルクセーキ” の文字を見つけた時、反射的に注文したくなったのだと思います。


「珈琲 冨士男」のスタッフは総じて年配の方が多く、連れ合いのケーキセットも少し腰の曲がった年配の女性が運んできてくれました。

少し遅れて、私の注文したミルクセーキが同じ年配女性によって運ばれてきました。

そのミルクセーキをひとすくい口に運んだ瞬間、昔、家族で作ったあのミルクセーキの味が鮮やかに蘇ってきたのでした。

「珈琲 冨士男」の"昭和” な雰囲気と、小説から出てきたような店員さんの存在感が、一瞬にして私を遠い昔に連れて行ってくれたように思えました。


私は、眉間あたりをキンキンさせながら練乳と卵黄の味のするミルクセーキを口に運んでいました。












父の思い出<夏休みの宿題>

2020-09-26 07:48:00 | 父の想い出
私たちが小さかった頃の夏休みの宿題といえば、「絵日記」「読書感想文」「スケッチ画」「習字」などでした。

そして夏休みが終わろうとする8月末は、サボっていた絵日記やら感想文やらを、親に発破をかけられながらも必死で終わらせようとする子どもの姿が見られるのは昔も今も変わらない家庭の風景だと思います。

私の子どもの頃も、夏休みはクワガタ獲りや神社の境内での三角ベースの野球や秘密基地づくりで遊び呆けていて、夏休み最後の夜は眠い目を擦りながらやり残した宿題を片付けたものでした。


私の父は、前にブログで書いていたようにお習字の塾を開いていましたし、絵も上手でしたので我が子のスケッチ画や習字の宿題は放って置くことができなかったようです。

父は、狭い借家の唯一テーブルのある場所で、私の未完成のスケッチ画や習字を"監督” するのでした。

子どもの私は、何とか終わらせようと頑張るのですが、昼間は精一杯遊んでいるので程なく眠くなってきます。

そんな私に父は、顔を洗いに行かせたりするのですが、私の瞼は磁石のようにくっついてしまうのでした。

私は、夢か現実か区別がつかない意識の中に入り込み、気が付くと9月1日の朝を迎えていたのでした。

昨日の夜にスケッチ画を仕上げることができたかどうかも覚えていません。


そして、昨日の夜に睡魔と戦っていたテーブルの上には、明らかに私の手によるものではない「スケッチ画」が渇かしてありました。

私は、夏休みの宿題の全てを持って学校へ行き、うしろめたい気持ちでいつの間にか完成していた「スケッチ画」を担任の先生に提出していたのでした。


「子どもに甘い、何と親馬鹿な父親か… 」と、呆れられたかもしれません。

そう思われても仕方のない話です。

しかし、私が言うのも変ですが、父はただ単に絵を描くのが好きなだけだったように思えるのです。

気になる箇所に筆を入れたら止まらなくなったといった感じです。

我が子のためにではなく、描きかけの絵があったので自分が筆を加え仕上げたように思えるのです。


私はそうやって何度も危機を乗り越えることができました。