マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

世田谷・世田谷代田の戦災痕を辿ってみる (前編)

2024-05-03 | 街歩き・歴史散歩
実はウチの敷地も80年近く前の戦争の最中に焼けた、、らしい。

どうやら、近くに陸軍施設があったために巻き添えを食ったらしいのですが、戦争もいよいよ終盤を迎えると、そういった理由あっての爆撃のような名分も薄れてきて、無差別、、つまり結果が個の気まぐれのようなカタチをとることもあったようです。。



というのも、最近仕事でたびたび歩く機会のある、世田谷代田の台地の下に建つこちらのお寺にたまたま立ち寄ったときのこと。

本堂手前の黒い立木がなんだか異様だな、、と近寄ってみると、終戦の年に当たる5月末の山の手を中心とした大空襲で被災した高野槙の大木が炭化した姿だと分かりました。

当時、まわりは軍事施設どころか工場もない静かで慎ましい住宅地のはずが、何故狙われたんでしょうかね。。。


そんな不運な木を見ているうちに、改めて、戦争を知るのは、ものがたりばかりでなく、こうしたものいわぬ遺物をみる方がやけに説得力があったりするんだな、、🤔と思い始めたのです。

で、この近くにはまだまだ探せば、何かあるんじゃないか❓と。。


早速、この高野槙の残る円乗寺の東側の門を出て、見回してみると、いかにも昭和の造りらしきコンクリートの外壁を見つけました👀

見れば見るほど隣のお寺の黒焦げの高野槙とともに、激しい戦火をくぐりぬけた風情が漂っている気がしませんか❓


近寄ってみると、足元に炭化した木が、、これは電柱の痕でしょうか👀

コンクリートには、木の元型がくっきりと残っているのも、やけに生々しく見えますね。。

なんだか、いきなり大発見をしたような気になってきましたが、こんな簡単に80年前の戦争痕がみつかるのでしょうか⁉️


その後、時間の許す限り、辺りをふらふら見て周りましたが、同空襲で焼失した萩原朔太郎の旧宅の裏手あたりで、当時からありそうな黒ずんで破損したコンクリート壁を唯一見つけたくらいでした。


にしても、戦争痕がわずかでも今なお住宅街のなかに残るのは、この世田谷代田駅周辺が、山の手から少し逸れた穴場の場所だったからでしょうか❓

とにかく、古地図片手にもうちょっと探してみようと思います。


マイマイはバイバイ👋で、次回に続く。。。


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