マイmy巷話

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目黒・松見坂地蔵から始まる歴史散歩③

2021-06-18 | 街歩き・歴史散歩
前回までのはなし:

昭和のはじめに目黒区の松見坂地蔵の近くに建っていた日蓮上人石像の行方を地元の図書館で調べたところ、昭和48年に都の道路工事で危うく地中深くに埋められかけたのを、近くのお寺のご助力で東京郊外に移転したことまで判明しました。



そして、こちらが松見坂の日蓮上人像なんですね👀

《此のたび渋谷道場に程近き松見坂の御祖師様が道路拡幅のため移転することとなり、その昔、松谷行浄上人の世話人たりし縁を以て日本山に御祭りさして頂くことになりました。是は六百五十遠忌に建立された立正安国の等身大石像であります》


…と、目黒区郷土研究会誌の記録通りに等身大の日蓮像は、いまも稲城市の日本山妙法寺の境内に安置されていたのでした。

なんだか、散歩途中にたまたま手にした紙一枚をきっかけに、遥々松見坂からここまで尋ねてきちゃうのも、我ながらすごいな💧、、と思ってますが

立地としても、読売ランドの緑が目の前に広がった、日本庭園さながらの明るく広い境内は、排気ガスだらけの松見坂交差点よりも遥かに霊験新たかに見えますよね。。


台座含めて3メートル半くらいはありそうですが、これが松見坂の町に建っていたわけですから、確かに町での存在感はありそうですね❗️

そんな日蓮像の傍には建立寄付者が刻まれた板碑も移されているので、詳しく見てみることにします。


読みづらい板には、建立年の昭和6年7月30日の横にまずは「庚申堂」と堂守の名が刻まれていますが、昭和6年の建立当初の日蓮像は、松見坂から淡島通りを西へ少し登った先の庚申堂境内に安置された事情から、その名が刻まれているようです。

鬼子母神を祀っていた、、と言われる松見坂の庚申堂は、鷹狩りの頃から徳川家との謂れがあるほどの由緒をもちながら、戦時下の道路改良工事で忽然と消えてしまって、今では窺い知るものはそこに残っていないようですね。。


引き続き、板碑に刻まれた世話人の名前を拾っていきます。

「飯田」さんや「平岩」さんや「辰野」さん等の地元の名士や駒場周辺の地主とともに、松濤に広い土地を所有した鍋島家の名もあることから、どうやら寄付金は当時ずいぶんと寄せられたようですね🤔

また、画像中央の「松谷磐」さんは、先程の抜粋記事のなかで石像移転の世話人として出てきた松谷行浄上人にあたります。
実はこの方は軍職にも就いていて、当時は松見坂から程近い、駒場の陸軍将校用の「偕行社目黒住宅」に住んでいたようです。

そして、最後に日蓮像の発起人で建設委員長の「栗原勇」さんも陸軍大佐。

この方は佐賀藩医師の家柄で大正12年に三重県で軍を退役のあと、妻、息子、娘らの大家族で目黒区駒場へと転居してきたのだとか。。
きっかけは隣接する松濤に居を構える元藩主の鍋島家との縁のようです。
たしかに石像寄付者には鍋島家の名がありましたよね…🤔


と、かなり長くなりましたが、そろそろ松見坂の日蓮上人像のいわれをネタバレしますが、この栗原勇大佐が、2.26事件首謀者で銃殺刑に処せられた栗原安秀元陸軍中尉のお父さんなんですね❗️

「栗原死すとも維新は死せず」

と、処刑される間際に憤怒の情を抑えようとせず、目を見開いたまま29歳で絶命したと、伝説が残る陸軍中尉は、事件勃発のその日まで、松見坂の両親宅の敷地隣に結婚2年目の23歳の奥さんとふたりで住んでいて、事件前日もいつものように、何も知らない若い奥さんに見送られて雪の松見坂から出かけていったんですって。
切ないな。。


お次は、栗原中尉宅と陸軍将校用「偕行社目黒住宅」のはなしに移ります。。🐌


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