今、振り返ってみると、私は幼児の時から、臆病で、そんなに活発な子供ではなかったように思う。生家は、田舎の、それでも周りは住宅に囲まれた小さな集落のど真ん中に所在し、他人や親戚には気を遣ってばかりいるくせに噂話が好きな祖父母と両親がいて、父親は役場に勤めていた小役人根性の人で、ほんの少しの農地もあって、母は内職もしたりしていた。私の家は、そんなに余裕のある暮らし向きではなかった。そんな中で成長したが、幼い時には、保育所も近くには無かったので家族以外の他人と話すような機会も少なく、ようやく保育所には就学前の一年間だけ通って、そのためか、小学校に入っても人と話したり遊んだりすることが苦手で、どちらかと言えば自分から人の輪に入ってゆくことも無かった。そのうち、自然と仲間外れになっていったため、休み時間が苦痛で、校舎の裏で一人過ごすことがあった。そんな訳で、中学校になってもクラブ活動には参加せず、高校に入ってもその状態は続いた。高校の担任からは、「全生徒がクラブ活動に参加することになっている」と脅しのような言葉もかけられたが、そもそも、どうやってクラブに入るのかの手続きすらわからなかった。
人は、人との関係の中で社会性を身につけて成長していくというが、私には、学校生活を通じてそんな機会は無かったというか自ら避けていたように思う。そんな私に対して、仲間外れだけではなく、時にはいじめのようなものもあった。そんな中で、クラスメートなどからは無視されるか、気味の悪い存在だと思われていた可能性もあるのではなかろうか。
そんな私でも、就職することによって、同僚・上司などと否応なしに関係することになっていった。以来、40年余り、転職もせずに務めたのだが、年功序列というか、大した能力の無い私でも人並に昇進もしていったが、やはり対人関係に難があり、ある職場にいた時期は、上司に罵倒され、部下からは突き上げられて毎日が苦痛であったこともあった。そんなときには、「いつでも辞めて良いが、自分からは辞職の申し出はしない。」と内心で思って日々を過ごした。
30歳を目前に、両親からお見合いを勧められて、何度も見合いには失敗したが、とうとう結婚することになった。両親からは、長男の私が親の面倒を見るのが当然だというような暗黙の期待をかけられていたが、50代になって、両親と不仲になったというか、事情もあって、市内にマンションを買って別居することになった。その後、両親は相次いで死別することになったが、その前には介護の問題もあってトラブルもあった。そんな時期も経て、今は妻と二人暮らしをしていて、私も妻も還暦を過ぎているが、子供もおらず、コロナ禍もあって、外出は買い物に行くぐらいで、他人との行き来などは、ほとんどなくて生活している。このまま老いていって、行く先には孤独死が待っているのかもしれないとも思うが、今更、人と濃密に関わって生きていたいとも思わない。
そんな私が改めて思うことは、やはり、人との関わりが人間には必要不可欠なものであろうし、成長期には、それに応じた運動経験なども心身の発達に必要不可欠なものだったろうということだが、既に遅すぎたとしか言いようがない。今、人の子供達を見ると、どの子供達も総じて活発で、自己表現をしている。しかし、私は、子供の時には内弁慶で自己表現も苦手であった。しかし、今更後悔しても仕方がない。若い時期には、孤独であることが、つらく苦しかった時もあったし、見合いの席で、そんな自分を相手に見せまいと嘘ばかりついていたこともあった。そんな私でも、自殺もせずに生き残ってこれたのは、ある種の鈍感力のせいかもわからない。子供の時からの孤独な人生でも、空想することによって気を紛らわせることが出来た。SF小説から始まって、例えば、最近では、堂場瞬一の小説シリーズを一週間で9冊読破することもある。後、十年以上生きられるかどうかはわからないが、今更ながらではあるが、出来る範囲で、せいいっぱいの経験をしたいものだ。
私は、高校の体育授業では、ついに泳ぐことは出来なかったが、二十歳過ぎてから、市販の水泳の本を参考にして、一人でプールに行って練習し、平泳ぎでは一時間近く泳げるようになった。私は、何をしても人よりも極端に遅いかもしれないが、自分なりに生きていく権利はあるだろう。老人になって良いことは、若い時ほど人の視線が気にならなくなったことだ。