おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

西武バス「北大泉」~西武線「ひばりヶ丘駅」。その4。ジグザクコース。飛び出し坊や。飛び地・西大泉町。マンホールあれこれ。(都県境を探ってみる」第6回目。)

2022-11-26 20:21:47 | 都県境を探る

「境橋」を渡りますが、都県境は少しずれています。この農地を横切っている?

この先の道路が都県境に。

          練馬区立大泉西小学校の敷地に食い込むように墓所が。

道路の反対側は、新座市片山3丁目。

新座市のマンホール。

 中央にカタカナの「二」と「ザ」を図案化した市章。周囲にあるのは市の木「モミジ」。

産業道路に合流、「バーミヤン 新座片山店」の先で都県境は右折します。

すぐ隣の住宅開発地は新座市片山。

都県境は、この先も西に向かってジグザクコースをたどります。

公道(もしかしたら私道? )を歩くしかないので、練馬区内の住宅地を歩くことに。

コンビニの脇から右折し、広い道路へ。さらに右折。

懐かしい「飛び出し坊や」。久々に見ました。

旧東海道歩きのときには、三重、滋賀、京都とずいぶん見かけました。行き先々で励まされ、歩きました。

    京都・山科にて。

都内でも有名な飛び地「西大泉町」へ向かうため、住宅地の細い路地を通ります。

この付近の住宅は、新座市片山3丁目。

この農地も新座市。

新座市片山3丁目。

この先、左手の一画が「練馬区西大泉町」。

新座市のマンホールその2。

市章の周りを市の花「こぶし」が取り囲み、その周りを市の木「モミジ」の葉で囲んでいるデザイン。

練馬区のマンホール。向こうは、新座市のマンホール。

都の花ソメイヨシノ、木イチョウ、鳥ユリカモメがデザインされている。

右手が「西大泉町」。

練馬区西大泉町。1179番地のみ存在。

こちらは新座市片山3丁目。

      

閑静な住宅地の一画。

西大泉町1179番地(約1860㎡)が埼玉県新座市片山3丁目の中に飛び地となって存在している。練馬区本体からは100 メートル(徒歩にして1分強)ほど離れている。 かつては、練馬区本体側も西大泉町となっていたが、住居表示の実施により西大泉一・二・四・五・六丁目の全域、西大泉三丁目の大部分、南大泉五丁目・六丁目の各一部、大泉学園町二丁目・五丁目の各一部となり、飛地部分のみが住居表示未実施で残っている。2000年代まで町の南側は畑であったが、2015年(平成27年)に宅地化した

飛び地になった理由は、明治時代の土地所有者が東京の人だったからという伝聞が残されているが詳細は不明。 1974年昭和49年)になり開発業者が農地を宅地化する際、飛び地であることが表面化。練馬区は上水道やごみ収集、教育などのサービスを飛び地の住宅に提供することが困難であると判断、西大泉町を新座市へ編入する方向で調整して同年中に自治体間の合意がなされたが、住民全員の合意を得られていないため、新座市への編入は未実施である。・・・閑静な住宅地の一角だけが飛地であり、新座市片山の「稲荷台」と連続した集落で一見して都県の境界を感じさせないが、区名が記載された消火器があり、東京都内であることを確認できる。また、新座市稲荷台自治会の宅地案内図には各戸の住民の姓を記載しているが、西大泉町の部分はまとめて「東京都」とだけ記されている

(「Wikipedia」参照)

以下は、「読売オンライン」の記事を借用。

練馬区「西大泉町」なぜ飛び地?

何げなく練馬区の地図を眺めていたら、お隣の埼玉県新座市に少し入ったところに「練馬区西大泉町」という地名を見つけた。いわゆる「飛び地」だ。広さはわずか約2000平方メートルでサッカーコートの半分弱ほどしかない。なぜこんな所に練馬区の一部があるのだろう。(高田悠介)

 西武池袋線・大泉学園駅から15分ほどバスに揺られると新座市内に入る。「片山二丁目バス停」で下車し、数分歩くと西大泉町だ。周囲は新座市だが、住宅街のこの一角だけ、民家の表札や自家用車のナンバー、路上の消火器に「練馬」の表示が記されている。

 区総務課によると、この地区には2月現在、12世帯30人が暮らす。ごみ収集は練馬区が担当。敷地が練馬区と新座市にまたがる住宅もあり、固定資産税は面積に応じて東京都と新座市が課税する。上下水道は新座市が管理するが、路上のマンホールの蓋には東京都のイチョウのデザインが刻まれている。

 数十年来、ここに暮らす女性は「水道は新座市、ごみ捨ては練馬区と行政サービスはバラバラだけど、住んでいて不便を感じたことはないですよ」と笑う。

 この地区が練馬区だと区が把握したのは比較的最近のこと。1974年6月、田畑だったこの土地に住宅を建てようとした業者が、練馬区に宅地開発の許可申請をしたのがきっかけだ。東京法務局練馬出張所で戦前の国の土地台帳を閲覧したところ、確かにこの土地には当時から、後に西大泉町となる地名「小作」がついていたことがわかる。

 国の記録と区の認識が食い違ったのはなぜか。練馬古文書研究会の寒河江耕作さん(42)によると、江戸時代、西大泉町を含む一帯には、 小榑こぐれ 村という集落があり、一部は 米津よねきつ 氏という大名が支配していた。寒河江さんは「米津藩は周辺の村々にも飛び地の領地を持っていた。明治以降、市町村の合併・編入が繰り返されるうちに忘れ去られたのかもしれない」とみる。

 小榑村は1889年(明治22年)、隣接の村と合併し、埼玉県の一部となった。しかし2年後には「大泉村」となり、こんどは東京府に編入された。旧小榑村の飛び地も同様に東京府となり、埼玉県内に取り残された。

 区画整理を経て、ほとんどの飛び地は埼玉県に編入されるなどして解消されたが、いまの西大泉町の土地だけ残ったらしい。その理由を寒河江さんは「この一角はずっと田畑で人が住まず、区画整理の対象とならなかったからだろう」と推測する。

 西大泉町の存在を知った区はすぐに解決に乗りだす。区議会や新座市と協議し、西大泉町を新座市に編入する方針を決定。住民たちに通知した。

 しかし、住民側は「住民の意思を無視している」と編入撤回を求める陳情を区議会に提出。区議会は「住民の意思は十分わかるが、新座市に編入されるべきだ」と不採択としながらも、「住民の意向を尊重して、できるだけ配慮するよう要望する」と区側に注文した。その後、編入に向けた住民側との調整は進まず、現在に至る。

 都心への交通の便が良い大泉学園駅の周辺は、自然豊かで閑静な住宅街が広がる一方、最近は駅前の再開発も進んで人気が高まっている。西大泉町を歩くと、「いまさら住所を変えろと言われても抵抗がある」と話す住民に出会った。住民が暮らしやすい環境であることが何より大切だろう。

東京都下水道局マンホール。

練馬区マンホール。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする