おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

2023-11-30 18:33:58 | 房総東往還

新旧の建物が続く街並み。

バス停「鳥居前」。赤茶け、字がかすれた標識。この路線のバス停は、ほとんどこういう状態。

バス停名のもとになった「玉前神社」が右手奥にあります。

      「御菓子司角八本店」。

       千葉一宮の御菓子司角八本店は江戸寛政年間、玉前神社の門前、一宮城の城下として栄えた上総之国一宮に生まれました。

 

 

(この項、「同」HPより)

参道には、明治時代に建てられた土蔵造りの蔵をリノベーションしたカフェ「赤七屋」さんがあり、旬の食材のシロップをかけたかき氷と、静岡おでんを主に販売しています。

玉前神社や一宮城跡を見て回るのが、本来。しかし、海岸の方に向かいますので、ここからいったん上総一ノ宮駅に出て、休憩します。

奥にかつての商家が。

宿場や城下町特有のウナギの寝床のような細長い敷地。

奥に煙突。お味噌屋さん?  

「一宮酒場 がけっぷち! 」・九十九里の酒「梅一輪」。

外房線「上総一ノ宮駅」西口。

駅前のようす。寂れている印象。

バス停「一宮駅」。

海岸までの本数がないので、歩いていきます。

駅構内。屋根が素敵な意匠。

けっこう寒い上、風がますます強くなり、ここでゆっくり休憩しているうち、海岸へは別の日に出かけることに。

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

2023-11-29 18:36:20 | 房総東往還

田畑が広がる。

 庭先に、「バビアナ」という名前の植物が。

 

南アフリカを中心に60種あまりが分布する球根植物ですがその大半がアフリカの中でもケープ地方に分布しています。

葉っぱの形はアヤメやグラジオラスに似て細長い剣状で直立し、縦方向に走る葉脈の部分が盛り上がっており葉の表面の凹凸がはっきりと筋のように見えるのが特徴です(葉っぱに光が当たったとき、影ができるのでさらにはっきり見えます)。

球根は繊維状の軟らかい皮にくるまれています。 開花期間は主に4月~5月で、花茎を伸ばして穂状に花を咲かせます。花色は青紫、紫、白など中心ですが、そのほかに黄色い花を咲かせる種もあります。

品種によっては耐寒性が劣るものもあるので、置き場所の移動ができる鉢やコンテナ植え向きですが、一般に出回っているストリクタとその園芸品種なら簡単な霜よけ程度で庭植えも可能です。

(この項、「」HPより)

にぎやかな通りに。

               

          お店の向こうに旧道があるらしい。

長生村と一宮町との境界。

     右に、小さな祠。

       沿道には、道路整備で元の場所から移転された祠があるようです。

バス停「町田」。しかし、1日2便だけ。

「宮原」交差点。

ここに短いですが、旧道が残されています。

すぐ「国道128号」に合流します。

     

「いちのみやはし」。

上流方向。

下流(海側)。

橋を渡ったところ。「海抜5.0㍍」。

街中に入ります。

            

 一宮町は平安時代頃に成立した上総国一之宮・玉前神社を中心に発展してきました。古くから多くの信仰を集めた玉前神社は、一宮町の町名の由来でもあり、今でも一宮町のシンボル的存在です。

※玉前神社の祭神は玉依姫命。神武天皇の母で、すぐ東に広がっている太平洋からこの地に上陸したという伝説も伝わっている。

 現在の一宮町域には江戸時代、一宮本郷村、新笈村、東浪見村、綱田村、宮原村、船頭給村、新地村があり、合併や編入により昭和30年(1955)に現在の一宮町が誕生しました。

 明治時代末期から昭和時代初期にかけて、一宮は別荘地として栄えた神奈川県大磯と比較して「東の大磯」と呼ばれるほどの別荘地として栄えました。首相をつとめた斎藤実・平沼騏一郎をはじめ政財界の著名人たちが軒をそろえ、多いときでは約100軒の別荘が並んでいたといいます。昭和恐慌の煽りを受けて衰退していきましたが、別荘地としての発展は町内の商工業の発展、観光地化に大きな影響を与えました。
 また、綱田地区では明治時代初期に梨栽培が開始されています。今の町の特産品にもつながる礎が作られ始めた時代でもありました。
 戦争末期の昭和19年(1944)から翌年にかけては、一宮海岸から陸軍の秘密兵器・風船爆弾が打ち上げられました。風船爆弾は和紙をこんにゃく糊で張り合わせて作った直径約10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばし、アメリカ本土への攻撃を企図した平気です。一宮の他茨城県の大津(北茨城市)、福島県の勿来(いわき市)の計3か所の基地より合計で約9,000個が打ち上げられたといいます。

(この項、「千葉県一宮町観光協会」HPより)

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

2023-11-28 19:00:29 | 房総東往還

左に入る旧道。

住宅が続く。

長生村のマンホール。中央に村章「ち」を図案化した規格型。

長生村のマンホールには、九十九里浜の荒波と鶴、亀を デザインした汚水管マンホール蓋があるようですが、見つけられませんでした。

(「」より)実にめでたい絵柄です。

左に竹藪が。

           

藪の向こうに、病院の看板。「南洲会長生クリニック」。

まさか「藪医者」というわけではないでしょうが。駐車場には車がたくさん。

※松尾芭蕉の門人である俳人の森川許六が1706年に編んだ『風俗文選』では、汶村による『藪醫者ノ解』において、「養父」(やぶ)が語源とする説が述べられている。それによると、但馬国養父に住んでいたという評判の名医が語源であり、本来は名医を指す言葉であったという。現在の養父に当たる兵庫県養父市は、その名声を悪用して「養父医者の弟子」を騙る者が現れたことで「養父医者」の評判が悪くなり、「藪医者」に変化したのではないかと話している。また、件の名医とは養父出身の旗本である長島的庵(1647年頃-1723年頃)ではないかとしている。ただし、蔑称としての「藪」の字は更に古くから使われており、養父説は学問的には支持されていない

養父市ではこの説にちなみ、僻地医療活動を行う若手医師を対象にした「やぶ医者大賞」を2014年から行っている

国道128号(「伊南房州通往還」)に復帰します。

右に「長生八積医院」。

※「八積」=「やつみ」。長生村唯一のJR外房線の駅名でもある。

この付近の今昔。

                     (現在)国道から左に入る道が旧道。

                     (1880年代)○が現在の分岐点。「藪塚」。

イチョウの葉が、タイヤをたくさん積んだ校庭の遊具に。

「長生村村立八積小学校」。

「忠魂碑」。

右手に畑地が広がる。

左は、満開のコスモス畑。

                  

     

右手に、

               房総特有の方形に近い寄棟造りの大きな屋根。

左手の浅間神社境内に「南部用水組合揚水機 寄贈 柴﨑喜代松様」とある大きなポンプ。

農業用水を汲み上げる装置のようです。

「詳細は石碑に記載」とありましたが、判読不能。

右手には、田畑が大きく広がっています。

畔道の一部に旧道が残されているようですが。

「旬の里 かねだ」。

「金蔵寺」。

見事に調えられた槇。

広い庭に剪定された槇が並ぶ。よく調和されています。奥のおうちも立派。

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本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。

2023-11-27 18:37:45 | 向島百花園

11月25日(土)午後。晴れ。

  

それぞれネーミングがすてきです。

 

         

イチョウもすっかり黄ばみ、足元には落ち葉が。

            

          枯れすすき。

 

ということでもう少し冬支度が始まる頃に訪問する予定です。

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

2023-11-26 14:08:26 | 房総東往還

「長生村」に入ります。「房総横断道路」。 

長生村(ちょうせいむら)

長生村は、千葉県の房総半島九十九里浜に面し、東京から約60キロ、千葉市から約30キロの距離にあり、昭和28年11月3日に八積村、高根村、一松村の3カ村が合併して誕生しました。現在の村域は、東西7.4キロ、南北6.0キロで、面積は28.25平方キロ。太平洋の黒潮による影響を受けて、年間を通して温暖な気候です。

交通は、西部から南部にかけて国道128号とJR外房線が縦貫しており、村内には八積駅があります。千葉駅までは普通電車で約45分、東京駅までは茂原駅からの特急利用で約1時間と、周辺都市への利便性に恵まれた距離にあります。

産業は、温暖な気候と平たんな地形を活用して、稲作や野菜栽培、酪農などのほか、九十九里浜での沿岸漁業を中心に発展してきましたが、昭和57年に西部地区に工業団地が開設されたことにより、工業生産が飛躍的に伸びています。

また、美しい海岸一帯は県立九十九里自然公園内にあり、首都圏の海浜レクリエーション地として知られ、夏季には海水浴客でにぎわいをみせています。

こうした恵まれた条件を活かし、将来に向けて着実な発展をめざしていくため、長生村では平成11年度から都市計画制度を導入し、計画的な市街地の誘導を図り、調和のとれた活力ある利便性の高いまちづくりを進めています。

村の花「ハマヒルガオ」。村の木「ラカンマキ」

(この項、「」HPより)

※長生村~長生きのまち~?

1897年(明治30年)に上埴「生」郡(かみはぶぐん)と「長」柄郡(ながらぐん)の区域で長生郡が発足したことが村名の原点。 1953年に長生郡の高根村・一松村・八積村の3村合併により長生郡長生村が誕生した。 長生きとは関係がなさそうです。

 

「長生村」は最近、こんなことで話題になりました。以下「NHK」ニュースより。

千葉 長生村議会議長 3度目の辞職勧告決議のあと議員辞職

公用車の中で職員をたたきけがをさせたとして罰金刑を受けた千葉県長生村の東間議長は、30日に3度目となる辞職勧告を受け、議員を辞職しました。

長生村の東間永次議長は、ことし4月、私的な歓送迎会から公用車で帰宅する途中、車を運転していた女性職員をたたいて軽いけがをさせたとして罰金20万円の略式命令を受け、30日午前に極めて異例となる3度目の議員辞職勧告を受けました。

東間議長は、これまで議員を続ける意向を示していましたが、昼前に「一身上の都合」として辞職願を提出しました。これを受けて午後1時に本会議が開かれ、辞職が全員一致で了承されました。

東間議長は、1990年の村議会議員選挙以降、これまでに9回当選し、去年5月からは4度目となる議長を務めていました。

東間議長は「長い間ご迷惑とお騒がせし申し訳ありません。心からおわび申し上げます」とコメントしています。

・・・

「㈱合同資源千葉工場」。

バス停「七井戸」。

※「七井土」とも書く。江戸期は七井戸村。地名は「ななこ(斜子)・い(川)・ど(処)」の転訛で川沿いの傾斜地形を指す。

この先の三叉路。左が伊南房州通往還、右は大多喜街道となります。

             「ホームプラザナフコ 茂原長生店」。

左奥には田畑や森。

右手にも田畑が広がる。

来た道を振り返る。

右手に森が広がる。

「ECCジュニアスクール」。

         ヤシの木に囲まれた、しゃれた建物。

「鵜沼堰」。

         

この先、左手に旧道があります。

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