おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

都営三田線「西高島平駅」~西武バス「北大泉」。その7。越後山橋。大泉町・橋戸村今昔。別荘橋。(「都県境を探ってみる」第5回目。)

2022-11-18 22:06:37 | 都県境を探る

さて、再開。目安としては、「東京外環自動車道」まで。

右手に旧家。

大きなお屋敷です。

「笹目通り」土支田交差点。

交差点の向こうは、和光市。

この先、セブンイレブンのところを右折し、住宅地の下り坂を白子川方向へ。

右が和光市白子、左が練馬区土支田。

和光市立西 むかいやま公園。

芝屋橋を渡り、和光市側へ。

白子川が都県境に。

            

越後山橋。

対岸は、練馬区立八坂中学校。

この先、都県境を歩くには、「練馬区立越後山の森緑地」の手前を右に折れて進まなければならなかったのですが、そのまま白子川沿いを進み、練馬区大泉町内を歩いてしまいます。

越後山の森緑地。

この付近は、大泉町ですが、かつては橋戸村だったそうです。

橋戸村は、明治24年まで、埼玉県新座郡に属していた。明治初年の『新座郡各村字届書』には広沢原(ひろさわはら)、越後山、中里、中ノ前、八ケ谷戸(やつがやと)、影山、打越、外山(とやま)と記す。『武蔵国郡村誌』は、それに加えて北原、中耕(なかごう)、中丸、宮久保、愛宕下、谷(や)、前田の記載がある。
 広沢原は中世の郷名で、『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』にも載る。この辺(※)から和光市、朝霞市へかけての広野をいった。
 越後山は大泉町1、3丁目の丘陵部、隣の新倉(にいくら)村にも同じ地名がある。はじめ、越後の人が来て開拓した所という。現在も越後山橋の名がある。
 中里は、むかし橋戸村が白子村と一村のころ、村の中央に位置していたからである。八坂神社の富士塚を中里富士という。
 中ノ前、中耕、中丸は中里の南につづく白子川左岸の耕地、前田は教学院(きょうがくいん)前の田をいう。
 八ケ谷戸は現在の大泉町2丁目、白子川右岸で、谷が多いところからそう呼ばれた。
 影山は小榑(こぐれ)村との境にあって、東に張り出した台地の影にあたっている。
 打越は、ある家が影山から越して来たので、はじめ「家越」とも「内越」とも書いたという。
 外山は、村の南、上土支田村との境にあり、本村から隔たった岡のこと、戸山とも書く。トヤマは、鳥見山(とみやま)を2字化した地名との説もある。いま、外山橋がある。

(この項、「」HPより)

                     2010年代のようす。

都県境は、白子川左岸から離れ、北西に向かっている。

                     1880年代のようす。

当時の都県境は、現在よりも南で、この付近は、新座郡に所属している。

白子川沿いの八坂台児童公園。

別荘橋。

橋の名は「別の荘氏の橋」という意味で、元禄時代まで村名主だった荘一族と、後に帰村した荘氏が異なることに由来すると言われています。現在も橋のたもとには、地蔵像と庚申塔こうしんとうをまつったほこらがあります。写真の左側は、毎年春にはカタクリの花が咲く『清水山の森』として、平成29年に整備されました。

(この項、「」HPより)

      別荘橋からの白子川。

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