おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その9。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

2024-02-17 18:48:46 | 房総東往還

かつての宿場町の雰囲気。

長須賀。

「べにや」。

 

右折します。この通りにも昔風の建物があります。

               

 

商家風の建物が多い。

ところで、館山市とは?

中世には戦国大名里見氏がこの地を治め、1580年(天正8年)、里見義頼は、水軍の拠点として利用していた館山湾を望む独立丘に館山城を築いた。現在は城山という名で呼ばれるこの独立丘には、里見氏の築城以前にも城館が構えられ、ここから館山という名で呼ばれていたようである。館山城は曲亭馬琴南総里見八犬伝』の舞台ともなっている。

1591年(天正19年)、里見義康は里見氏の本拠を館山城に移すと、城山の周囲に家臣の居住地を造るとともに、その北側に商人・職人を集めて海に面した城下町を形成した

1781年(天明元年)、稲葉正明が加増を受けて大名となり、1万石の小藩として館山藩が立藩する。ただし、藩士の大部分は江戸屋敷に勤務し、藩行政の中心も江戸にあった。2代藩主稲葉正武は、城山のふもとに陣屋を構え、藩士の屋敷地も設けられた

昭和時代に入ると木更津と並ぶ軍都として発展する。その後、地方港湾特定地域振興重要港湾館山港を有する港湾都市へと整備が進んでいる。

館山湾は別名鏡ヶ浦とも呼ばれ、日本百景日本の夕陽百選、東京湾100選、房総の魅力500選恋人の聖地に選定されている景勝地に市街地が面している。館山市からの富士として、北条海岸城山公園、伊戸下芝などは関東の富士見百景に選定されている。

市中心部は内房線沿線、特に館山駅周辺に住宅地や商店街が立ち並ぶ。安房地域における人口・商業・産業集積の場となっており、政治・経済・文化の中心都市としての性質をもつ。

※上述のように、館山駅付近、海岸付近に商業施設や住宅が並ぶ。かつての往還通りは静かな街並みになっています。

「汐留橋」。

「房総往還(船橋~館山)」との合流地点。ここが終着地ということに。

※「房総往還」は、この先、かつての館山城下町まで続きます。

「汐入川」下流。房総往還が右岸沿いに。

ここで、浜名~大網~茂原~上総一ノ宮~御宿~勝浦~鴨川~館山、と「伊南房州通往還(房総東往還)」を完結。

JR内房線「館山駅」まで戻ります。

昼食に駅前で「クジラ肉カレー」を食べました。肉片が真っ黒。

特急の発車時間にはまだ時間があるので、北条海岸まで歩きます。

穏やかな海。

                  

内房・那古方向。 

「特急・新宿さざなみ」。

               

夕刻迫る館山駅。

          

船橋に戻るころにはきれいな夕日に。

   <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/59/87c6e41e98e1f5f3f5f17dd7761bf60c.jpg">

さて、次回の歩きは? 大網から銚子まで歩くことにしますか。

 

 

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その8。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

2024-02-16 18:36:44 | 房総東往還

海沿いから田園地域へ。

バスは、国道128号線を進みます。

※旧道は残っていて、国道から分かれて進むところがあります。

途中、「伊南房州通往還」旧道を通り、

                      「丸山川」を越えます。

※丸山川 南房総市丸山地区の北端、嶺岡山地中央部愛宕山南西麓の二ツ山に挟まれた谷を水源とする。同じく愛宕山を水源とする愛宕川を合わせた源流部は「千葉県酪農のさと」として公園や観光施設が整備されている。平安時代より軍馬牧場として放牧が盛んであったこの地(峯岡牧)が江戸時代に幕府直轄となり、1728年(享保13年)に八代将軍徳川吉宗がインド産乳牛3頭の飼育を開始し、「白牛酪」として乳製品や傷薬を製造したことが日本における酪農の始まりとされていることから「日本酪農発祥の地」とされ、1963年(昭和38年)5月に千葉県史跡に指定された

「国道128号線」と合流します。「国道410号」がここから南房総方面に進みます。

        

「加茂坂」を越え、館山市に入ります。

「南総文化センター前」バス停で下車し、旧道を進みます。

       左折します。

                     「鈴木屋製菓」。

                                                

「根本嘉美税理士行政士事務所」。

        

この付近は、「房総往還」歩きの最終日に歩いたところと重なります。

内房線踏切。

                  内房線下り方向。

この先が曲尺手(桝形)に。

                 

振り返る。

角にあるおうち。

この付近の今昔。

                             (現在)市街地が大きく広がっている。

                      (1880年代)

「曲尺手(桝形)」が現在も残されている。房総往還の旧道が汐入川沿いに。                              

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その7。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

2024-02-14 18:39:14 | 房総東往還

三原川河口にある「和田サーフ橋」。

国道脇には村社・浅間社の石柱と元禄16年の大地震の記念碑(句碑)があります。ただし、かなり摩滅していて判読できません。

碑の裏には、地震の被害のようす等が記されている、とのこと。解説板を設置して頂けると、ありがたい。

  元禄地震は元禄16年11月23日(西暦1703年12月31日)の未明に発生した。地震の規模はマグニチュードM7・9〜8・2とされ、1923(大正12)年の関東地震(M=7・9)よりやや大きい。
大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。ただし、規模や震源域、地殻変動などは大正関東地震よりも大きいものであった。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。

元禄16年 地震。

大正12年 関東大地震。

※ほとんど重なっています。

南房総の各地には、この「記念碑」と同様の慰霊碑、記念碑があるようです。

歩道が広くなっています。

かつての道は、右に向かい「三原川」を越えていました。その名残か?

     内房線の鉄橋。

この付近の今昔。  

         (1880年代)                  (現在)

「和田サーフ橋」。

               日の出のスポットだそうです。

※三原川は南房総市の西神社付近を源流とし白渚海岸に注ぐ二級河川。全長はおおよそ15km。途中で今平川、西平川と合流し小向ダム経て白渚海岸に注ぐ。

バス停「あさひ橋」。

水準点(6.0)。

下三原交差点。

「←白浜・千倉への道」。

              この先、道路と橋の付け替え工事中。

「温石(おんじゃく)川」河口方向。

「フラワーライン入口」交差点。

「フラワーライン」。

館山市下町交差点から南房総市和田町までの約46kmの海岸線の道路が房総フラワーラインと呼ばれます。
その名の通り、1月から春にかけては菜の花、夏にはマリーゴールドと、季節の花々が道沿いを彩ります。
また、伊戸から相浜までの約6Kmは昭和61年9月3日に「日本の道百選」にも認定されました。このフラワーラインは美しい砂浜の平砂浦海岸沿いにありますが、海岸と道の間には冬季の強い南西の風を防ぐためのクロマツ林が広がっています。この砂防用の松林と砂浜の美しさから、平砂浦海岸は「白砂青松 100選」に選ばれ「平砂浦海岸遊歩道」も整備されています。
そのほかフラワーライン周辺には、洲埼灯台、南房パラダイス、ゴルフ場や館山野鳥の森、安房神社などの観光ポイントが数多くあります。
空気の澄んだ日には富士山や大島・利島などの伊豆諸島を見ながらのドライブが楽しめます。

(この項「」HPより)

槇の生垣が続く道を進みます。

「南三原駅」まで歩き、そこから館山駅行きのバスに乗る予定でしたが、・・・。

目の前のバス停の時刻表を見ると、まもなくバスが来る予定。駅より少し手前ですが、乗ってしまいます。

「(南房総市立)嶺南中学校和田校舎前」バス停。 

内房線は「南三原」から「千倉」など経由して房総半島の南端を回り、館山まで向かいます。

「伊南房州通往還(房総東往還)」はほぼ南西に直線で館山まで。海岸からは離れ、内陸部を進みます。 

と、弁解がましいですが、途中を省略してバス旅に。

館山市街地に入ったら、そこから往還の終着点まで歩く、という算段。

この付近の今昔。

                                     (「今昔マップ」より)                 

 

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その6。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

2024-02-12 18:47:51 | 房総東往還

国道128号を越え、斜めに旧道を進みます。

角のところに、「房州みやげ ひもの かわはぎ くじらのたれ 中村鮮魚店」という看板。

「くじらのたれ」とは? 

「くじらのたれ」は、くじら肉をたれに漬け込んで干した千葉県南房総の郷土料理。見た目は炭や海苔のように真っ黒で、木の皮のような見た目である。「くじらのたれ」に使用されるクジラは体長12メートルほどのツチクジラという種類である。
鎌倉市内の遺跡から出土する多くの鯨骨の存在などから、鎌倉時代後半の13世紀頃から室町時代14世紀~15世紀頃までには、房総で沿岸捕鯨が始められていた可能性が考えられている。各地で「網取り法」での捕鯨が主流になっても、ツチクジラが深くまで潜るため網取り法が適さず、一貫して「突き取り法」でおこなってきたことが南房総地域の捕鯨の特徴的である。
捕鯨は昭和の時代までは全国各地で盛んに漁がおこなわれており、庶民の食べ物であった。一般家庭でも頻繁に食卓に並べられていた食材で、冷蔵庫の無い時代の保存食として「くじらのたれ」がつくられたと言われている。「くじらのたれ」という名前は、クジラをたれに漬け込んで干すことが由来といわれているほか、家の軒先に吊るしたからという説もある。南房総地域の市民にはなくてはならない味で、他県に移り住み里帰りしてきた人は、「くじらのたれ」を買って帰るほど、故郷の味として親しまれている。

(この項、「」HPより)

海岸から少し離れた道を進む。 

              

振り返る。

国道に復帰します。

                   後方右奥に「和田浦漁港」。

「題目碑 天下泰平 国土安穏」。

すぐ国道から離れて右の旧道へ。

           

 

しゃれた建物が続きます。

     

石仏や石塔群。

車の行き来が激しい国道に比べのどかな旧道。右手は内房線の線路。

「この場所は列車が通過しますので渡らないで下さい。」との立て看板。

見上げた瞬間、列車が高スピードで通過。

南房総の山。

次第に駐車場が目立つように。皆、サーファー姿。

海にはサーフィンを楽しむ人達の姿。

   

      

ここにも、おしゃれな建物。「サーフィンショップS&S」。

クジラの花壇。左側。

        右側。

バス停「白渚海岸」。「shirasukakaigan」。

 

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その5。(「房総東往還」を歩く。第10日目。)

2024-02-11 18:37:48 | 房総東往還

内房線「和田浦駅」。

                          フェニックスの大木。

    木の元に菜の花。

待合室で休憩。

                抽象画が飾られています。

※「道の駅和田浦WA・O!」に展示されている全長26メートルのシロナガスクジラの骨格標本。

ここ南房総では、17世紀頃から小型船による沿岸捕鯨が行われてきました。 そして現在でも、6月から8月に掛けてツチ鯨の漁が行われています。
シーズンになると、捕獲された鯨とその解体を見る為、各地から多くの人々が訪れます(捕鯨の予定などは、捕鯨の会社外房捕鯨さんのブログに情報が掲載されます)。
捕鯨は早朝出航し、当日の夕方は捕獲した鯨を曳航して港に帰り(当日出航の当日帰港)、鯨はそのまま熟成させるため、一晩寝かせます。
翌日の早朝、鯨の体長などの計測したあと日の明けぬうちから解体が始まります。
解体には、大きな包丁(薙刀のよう)を持った男たちが尻尾から切り落とし、手際よく鯨肉が仕分けされ、最後には地元の人をはじめとする、鯨肉の購入者に小分けして販売されます。 昔からほとんど変わらない鯨の解体作業は、ずっと鯨に親しみ、鯨とともに歩んできた和田漁港の男たちと地元民の暮らしの一部になっているようです。

(この項「」HPより)

※農林水産大臣より許可された沿岸小型捕鯨で捕獲された鯨の鯨体処理場の設置場所は、全国で4か所

北海道の網走、宮城県の鮎川、和歌山県の太地、そして南房総に位置する和田町

房総にある捕鯨基地は、これまで館山市や千倉町、白浜町へ移動してきた後、現在の和田町へと落ち着きました。

・・・調査捕鯨時代は小型捕鯨業における捕獲対象になっていなかった。調査捕鯨時代は、日本政府はIWCにおいて、沿岸捕鯨は小規模捕鯨でアラスカなどが認められている先住民捕鯨と同じであると主張して、大型鯨類に分類されてIWCの管轄下におかれているミンククジラの沿岸商業捕鯨再開を求めたが、アメリカ合衆国オーストラリア南米の反捕鯨国から、ミンククジラの商業捕鯨は認められないとする反対をうけ、IWCでの採択で承認されなかった。また、2009年及び2010年にはIWC総会で調査捕鯨における捕獲頭数の削減或いは休止と引き換えに主に日本沿岸での商業捕鯨をIWCの管理下において認める議長案が出されたが、合意に至らなかった。

(この項「Wikipedia」より)

 時刻表。1時間に上下線とも1本。

「和田町観光マップ」。

しばらく休憩した後で、街道歩き再開。「和田浦駅」前ロータリー

内房線踏切を越えます。

                      「南一号踏切」(次の駅「南三原」の「南」)。

国道128号線を進みます。 

振り返る。「→和田浦海水浴場」。 

海岸沿いには「鹿島鳴秋・浜千鳥」碑があるようです。

鹿島鳴秋(かしまめいしゅう)

東京都深川まれ。明治24年(1891年)5月9日~昭和29年(1954年)6月7日没。本名は鹿島佐太郎。20歳の時に童話に応募して入選し、清水かつららと雑誌「少女号」を刊行する。代表作は「浜千鳥」、「金魚の昼寝」、「お山のお猿」などがある。鳴秋は和田海岸を愛し、療養中の愛娘と和田海岸を訪れていましたが療養のかいなく娘が亡くなり、浜千鳥は娘を偲んで作られたとされています。
 

浜千鳥 作詞:鹿島鳴秋 作曲:弘田龍太郎

青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれ出る
 
夜鳴く鳥の 悲しさは
親をたずねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく
銀の翼の 浜千鳥

(この項「房総タウン。COM」HPより)

右手の背後には岩壁が。

                  梯子が頂上まで。

歴史があるような建物。

                        しゃれた二階のつくり。

和田浦港。

                

     

         南房総の海岸が広がる。捕鯨の時期にはたいそう賑わうそうです。

 

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