「「訳者あとがき」より抜粋
そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独委員会を通して厳選された親独派フランス人となった。このようにヒトラーに面会できる人々は「厳選される」のだから、選ばれたほうは悪い気がするどころか、優越感すら感じたのではないだろうか? 招かれる先はヒトラーの優雅な別荘のあるベルヒテスガーテンかベルリンの首相府。インタビューからは、いかに「厳選された」記者たちが舞い上がっていたのかが実によく伝わってくる。なかなか会えない総統に招待されるという特別扱いを受けてしまえば、いざ取材するときに、気まずくなるような質問をしつこく投げかけることなどできなくても当然だと、自己を正当化してしまうのだろう。私が本書を初めて読んだときに頭に浮かんだのがほかでもない「忖度」という言葉だった。ジャーナリストにとって、時の権力者が自分を「厳選し」、「例外的に」自分のために時間を割いてくれるという前提ならば、それだけでじゅうぶんに「特別扱い」されていることになる。だとしたら、自分の書く記事はいわばその待遇への恩返しとして、権力者の意向を反映して手心を加えてしまうのは大いにありえることだ。本来記者がもつべき批判精神の入る余地がなくなってしまう。私自身、首相が大手メディア各社の記者を集めて会食し、記者側もスクープを得るためならそれに応じるのが当然だと自己正当化するような国に暮らしているからこそ、本書で著者が示唆したことが他人事に思えなかった。実際、ヒトラーに「特別扱い」されたフランス人記者たちは、冷静に国際情勢を分析すればゆゆしき事態になっていたことは明らかなのに、自分の信じたいことを、すなわち「ヒトラーは国内においても国外においても対立を好まず、平和主義者である」と信じようとした。ナチスドイツの異常性の兆候、たとえば、「水晶の夜」のようなユダヤ人に対する暴動や迫害は見て見ぬふりをした。ヒトラーは平和主義者であると信じたいがために、彼(ら)の意向に斟酌した質問しかできず、自国民に懸念を抱かせるような情報は提供しなかった結果、気がついたら国の北半分はナチスドイツに占領され、南半分は親独派フランス人がつくった形だけの独立政府の管轄下というありさまになった。ただでさえ人間は、自分の都合のいいことしか信じようとしない。メディアが時の権力者に懐柔されて、都合の悪い情報をシャットダウンしてしまったら、身の回りで何か異常なことが起きていたとしても、国民の側からすれば気のせいだと正常性バイアスがかかっても当然だろう。本書で著者が採り上げたヒトラーへのインタビューは、日本に限らず現代社会に通じる普遍的な問題提起をしている。なにせここでのヒトラーの発言は、論理的に雑な部分があったとしても、ほとんどがもっともらしいことだからだ。それでもぎりぎりのところで危機感を抱き、警鐘を鳴らせるかどうか、それこそが今の私たちにも問われている。」((https://www.amazon.co.jp/ヒトラーへのメディア取材記録-インタビュー1923-1940-エリック・ブランカ/dp/4562057432 参照 2024年8月5日))