正月には、年賀状に返事の電話がかかる。日ごろあまり電話をしない人がおおい。
元日に、姉を介護している友人から電話があった。
長い間、互いに介護の愚痴を言い合ってきた仲間である。
妹の訃報を知り、友人は静かに泣いた。何とも形容のしがたい涙であろうと、推察する。
妹を失った私の気持ちへの涙。
姉よりも早くに亡くなった妹への涙。友人は妹と同い年でもある。
そして、今もなお姉の介護に、昼も夜もない自分の現状への涙もあるだろう。
二人とも電話の距離を置いて、沈黙したままであった。
友人はこの先にも、姉の入所問題や、経済的な問題。自分の老いの問題を抱えていく。
つい3か月前まで私が丸抱えで、苦闘していた現実である。
それがなんの前触れもなく消えてしまった私の空疎を、友人は想像しているのだろう。
私はふいに自分からそういう苦しみが離れたと感じた。
介護の苦労はないけれど、わけのない虚しさが身にくいこんでくる。
その空疎を友人は察しているようであった。介護とはそういうことであるらしい。
どんなに頑張っても亡くなられると、悔いが、むなしさが後を引く。その報われなさが哀しい。
苦労から解放されて良かったね、とよく言われるが、そういうことではない。
取り残されたように友人は泣いている。
お姉さんを大切にしてあげてほしいと私は控えめにいった。
そんなきれいごとではないことを、私はよくしっているのに。
今となっては友人がお姉さんを大切にしてあげてほしいと思う。
お姉さんをささえるのは、あなたしかない。
友人の複雑な思いを私は強く感じる。
私に出来ることなどないけれど、知らん顔はできまい。