一日のは始まり

2013-07-31 23:56:16 | 日記
朝、アゲハチョウに会った。ミントだったっけ、ハーブのところを飛んでいた。昨日の雨の後、朝になり、やれやれといった様子かもしれません。今年の夏は、あまり蝶に会っていない気がします。保育園のそばを通ると、今日は、子どもを三人連れて歩いているお父さんに会いました。幾つ位かな?5歳、3歳、2歳かな。一番小さな弟がよちよち歩きしている。ふふ、親子です。その子はお父さんにそっくり。愛想振りまき歩く、その子がとてもかわいい。そして、にこにことその子を振り返るお父さんが、また優しい目をしている。出会った私も幸せを感じます。毎朝よく会う自転車のお母さん、今日もお会いしましたね。通りすがり、いつも私に挨拶してくれます。自転車の後ろに、たぶん子を乗せて走っている方です。(その方に出会うのは、いつも保育園へ子どもを送った後)いつの間にか、互いに挨拶交わすようになりました。この方に、保育園のそばでお会いするのが、私の楽しみになっています。「おはようございます、いってらっしゃい。」今日は、きっといい日、さあ、1日が始まる。

強く雨が降って

2013-07-30 23:59:30 | 日記
今日は、急に大雨になりました。近くの川も、水かさが増していて、いつもの浅い流れと大違いです。「濁流」となって流れています。歩道から下を見ると、怖いくらいです。夏の強い日差しの中、甲羅を干していた亀たちは、どこにいるのでしょうか?我が物顔で泳いでいた鯉たちも、どうしているのでしょうか?雨が土砂降りならば、困っているのは、人だけではありません。ここの亀たちは、ミドリガメがほとんどで、数匹が石亀ですが、流され泳いでいるかと心配です。2 、3日前に、あれ?亀があまり居なくなったと感じたばかりなのに。水の勢いに流された亀は、どこか下流に棲み家を見つけ、陽がある日は、またのんびりと甲羅干しするのでしょうか。豪雨に、激しく流れる川に、全てを押し流す破壊のエネルギーを感じます。水を見て、怖いと感じるのが人(動物)としての本能だと思います。川には、川の神、山には山の神、田んぼには田んぼの神、日の神、月の神、風の神、昔の人は神を恐れ、自然の恵みに感謝して生きていたはずなのに、私は恵みに感謝することを忘れているような気がします。「ありがたい、ありがたい」と唱える昔話のおババは、ちょっと滑稽だけど、そう生きることが、本当は正しいのかもしれません。「ありがとう」という感謝の心を、まず私の心の中でつぶやきないといけません。そして、言ってみないと…。

娘へ(母より)

2013-07-29 23:12:18 | 日記
暑いです。蒸し暑いのでしょうね。ホント、疲れます。数日前、珍しく娘が私に、饒舌で話しかけてきました。「犬を飼いたい。マメ柴がいいな。一緒に寝たい。」と。「ウチは犬を室内で飼えないよ。第一、だれが世話をするの?」「ダメ!!」と私は答えました。娘が言います。「だって、安くしてくれるって。」結局、またいつものように、娘が「いいもん。家を出て一人で暮らすようになれば、犬を飼うものね。」と言って、一件落着。やれやれ、またか、というわけで、私(母)はほっとした。でもね、この間の「犬を飼いたい」には、母は少し、心が震えています。だって、あなた(娘)は言った。「だって、(犬)安くしてくれるって、ちょっと爪がないのとか…を。」と。言葉に出さなかったけど、母はうろたえた。そして、娘に聞きたかった。「あなたは、初めて自分の犬を飼うのに、元気で一番かわいい犬を選ばなくてもよいのか?」と。きっと、縁あって一緒に暮らし始めたら、その犬が一番愛しくなるに違いない。けれども、本当にあなたは、あなたの犬を選ぶとき、売れ残ってしまうその犬を、一番先に選んでやることができるのですか?何も考えていないあなたの言葉ですか?それとも、母は、こころ優しい娘を持ったのですか?もし、こころ優しい娘なら、どうかこの優しいこころを失うことなく、生きて欲しい。そう願います。でも、母はあなたの優しさがあなたを不幸にしないかと、愚かな心配をしています。

再び、蓮畑へ

2013-07-28 20:48:50 | 日記
今日、再び蓮畑、先週とは、別のところに。ここの蓮は大きくて、本当に力強い。大きな緑の葉が夏の太陽をいっぱい浴びようと、その大きな葉を広げているという感じ。植物の強さが伝わってきます。平等院には古代蓮がある。いつだったか、もう、その古代蓮の花が終わりかけていたけども、その花の色を繊細な白だと思った。そのとき、不思議な思いがした。この花は、時を隔てて私の前にある。これと同じ花を、いにしえの人が見ている、花は咲き、直ぐに散るのに、その命は種の中に宿り、時を超えると。当たり前といえば、当たり前。万葉人の見た花と同じものを、私は見る。私たちもそうなのだろうか。自分ひとりのただ一度きりの人生を、もがいて生きていて、こんなに辛くしんどいことはない、と思っても、この生は、時の流れのなか、繰り返しあった生きる苦しみなのだろかと。今、緑の大きな葉をみれば、なんか力がでてきそう。私はちっぽけではないけど、もしかしたら、大きな自然、時の中では、ちっぽけなのかも。私がちっぽけならば、きっと苦しい思いも、ちっぽけなはず。ちっぽけな苦しみは、さっさと飛んでいけ、この夏の空に。

夏、うりを煮る

2013-07-27 23:55:59 | 日記
本日の夕飯には、冷蔵庫に入れてある、昨日作った青うり煮がある。冷たくしとけば、おいしい。お揚げしかいれてないけども、夏の一品。おいしいのだけども、私にとって、何か心がざわめく。その夏、舅(しゅうと)どのが入院している間、姑がウチに泊まりに来た。姑と私の母はその間、おしゃべりをして仲よく過ごしていた。ある朝、私は二人が昼に食べたらいいとうりを煮た。「冷めたら、冷蔵庫に入れて召し上がれ」と、二人に言って出かけた。二人はその日も、いっぱいおしゃべりして過ごしたのだろうか?夕方、私が家に帰ったとき、鍋にあった青うり煮は、食べられることもなく、置かれて、そして傷んで食べられなくなっていた。鍋の中、全部捨てた。むろん、私は怒っていた。それから、数年経ち、母ははっきりと認知症であることがわかった。あの、うり煮を捨てたあの夏、私の母はすでにそうであったのだろうか?「(うり煮)そんなの知らん」と母は言った。でも、台所の流しに冷やしていたのだよ。もう、冷蔵庫にしまわないとわるくなってしまうこと、わからなくなっていたのかなぁ。私が気づかないだけだったのだろうか。