旅の途中から

2005年1月9日ひっそりとスタート、旅はまだ続きます。

ランチョサンタフェ

2011-06-29 08:07:57 | Weblog


 

アマゾンの陸の孤島に、な、なんとランチョサンタフェからのお客様でした。

まあただアメリカ人が二人きたのですが、お住まいは?と尋ねると

一人がアローウッドゴルフ場のフェアウエービュー (ちなみにゴルフはあまりやらないならしい)

そしてもう一人が、なんと ランチョサンタフェが家だというではないですか?

小さな声でいいますが、ランチョサンタフェに家を建てる、これが私の大きな夢です。

ちなみに日本の芸能人で言うと、里見孝太郎さん(水戸黄門)がここにアメリカでの居を構えておられます。

ランチョサンタフェ、サンデェイゴの北に位置する ちょっと辺鄙なところですが。

全米一の高級住宅地(住民の世帯年収が全米一高い)として知られているこの街は、サンディエゴ・カウンティ(県みたいなもの)内にありまして、海辺にからは、車で10分ほど内陸に入った高原地帯に位置しています。

噂では

ここには、マイクロソフトのビル・ゲイツ、歌手のジャネット・ジャクソン、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツネッガーなどの有名人たちを始め、トップクラス企業のCEOらの邸宅(別宅も含め)が立ち並ぶ。
一件あたりは数億から数十億円と言われており、写真のような家がいっぱいあります。
(もちろん広大な敷地につき、外のパンピーからは見えず)

プールやテニスコート、乗馬場(各家馬を数頭飼っている)は当たり前。ある人の家には自宅の庭に野球場の内野がある。何でも、彼の息子(小学生)が野球好きで、家にパドレース(サンディエゴのプロ野球チーム)のコーチを招いてここで指導してもらっているとか~

晩飯もお付き合いしたので、誰かセレブの家とか行ったことないですか?

興味深深でお尋ねすると、

フィルミケルソンとうちの息子が同じ野球チームで、よく奴もくるし忘年会で
奴の家に皆で集まったこともあるよとか~

あとあれだなあロッドスチュアートの息子 (元妻もう旦那はいないらしい)
もいるな~

ちなみにこのおっさんアイリッシュでした、多くの会社を立ち上げては売り、また立ち上げては売却を繰り返し、今の資産を築いたとか?

多少なりとも錬金術のエッセンスを嗅いだような気もしますんで、頑張りますわ

帰り際にハワイのコナ(ハワイ島)とカウワイ島に別荘があるので、ハワイに行くなら寄ってくれの嬉しいお言葉も(たぶんいかないけどね)

今週もあと3日~

 

 


送別コンペ

2011-06-27 14:43:53 | Weblog

 

 

 

週末日曜日の午後は、送別コンペでした。

奥様も二人入ってなかなか賑やかなコンペ、送り出される方も同率首位

ネットのスコアは首位と同じも、ハンデ判定で惜しくも2位、気持ちよくプレーされたようです。

ただちょっとひっかかったのは、幹事の方

だいぶ人生の酸いも甘いを知っている年代のゴルフ好きの方ですが、

最初の挨拶が、今日は下手な人が一杯いますので、特別に色々ルールを作りました。

おいおい下手な人が一杯はないだろう~ 物には言い方ってものがあって。ビギナーの方用にとか

スコアだけでなく楽しみましょうとか色々あるんでしょうが、下手な人 下手な人を連呼。

小職はすっかりそれでやる気を無くしてしまいました。

しかもその幹事の方と同じ組、今日は気分が悪いのでもう帰りますという言葉を抑えてのラウンド

正直疲れました。まあそれでも下手な人 下手な人を連呼する幹事の方よりグロスでスコア少なく上がれたので

良しとします。
ちなみにこの幹事の方、以前

大叩きの同伴競技者に、「いくつ叩いた?数えきれないくらい?」とまたまた失礼なことを言ったことが
あってその時は同伴競技者がぶちきれて、そんな言い方されるなら、もう帰りますと言って 平謝りしたことが
ありましたね、自分の口が災いのもとってわかっていても止められないでしょうね、

人生人の振り見て我が振り直せともいいますが、なかなか難しいです。
他山の石とせず気をつけたいと自分自身に言い聞かせた日曜日でした。


運動会

2011-06-20 17:20:03 | Weblog

 

昨年も報告しましたが↓

 

http://blog.goo.ne.jp/02975/e/24c11c2659eab6a1af08420187e8a005

 

今年もまた運動会の季節がやってきました。なんでも今年で31回目だそうです。

生徒は30人しかいないのに、各企業対抗のような雰囲気もあるので、バーベキュー等のサービスも出て、観客席の裏側は、まるでF18耐の鈴鹿サーキットの様。 

総参加者は500人ほどの大きなイベント、今年も盛り上がりました。

多くの観客のために今年からは、テンポラリーのトイレまで用意されました。 

企業対抗のリレーとか、おいおいあそこのチームのメンバーは、助っ人が入っているだろう?

なんて小もめもあったりして、主催者側は大変だったと思います。

関係者の皆様のご苦労が偲ばれます。 

各企業の力の入れ方、Tシャツでわかりますかね? 

今年は天気も曇り勝ちで、それでも暑いですが、ここにしては涼しいほうでほぼ時間通りに大きな怪我をする人もなく無事終了しました。 

来年はもうこの光景を見ることもないなあと思うとちょっぴり寂しく思いましたが、また来年の今頃日本で遠い地球の裏側の運動会に思いをはせることになると思います。 

運動会が終わるといよいよ雨季も終わり、これからは気温40度近くになる日が日々続くアマゾンの本格的な夏がきます。

 


天国からの手紙

2011-06-16 08:25:18 | Weblog

 

2011年の僕へ        

 

元気ですか?      

2011年ごろの自分のことを懐かしく思い出します。

僕は85歳で、つまり西暦2048年に寿命を全うして生涯を終えます。

振り返ってみると、良くも悪くも、自分らしい人生だったと満足しています。

だたひとつだけ、過去の自分に、つまり今のあなたに伝えておきたい事があります。

それは2012年のある暑い日の出来事です。

僕は運命に導かれるようにして、アメリカのダラスへ出かける事になります。

そこで人生感を変える大変な出来事に遭遇することになります。

忘れっぽいですから、メモしておいてください。

 

最後にひと言。

85年間生きてみて思ったのは、

「人生の無駄遣いなんてない」ってこと。

 

それでは、またいつか会いましょう。

みんなに、よろしく。

 

ha_genzより 2048年の天国にて

 

こんな手紙が届きました。

あしたは、何が起こるのでしょうか。  

こちらで天国の自分から手紙を受け取ることができます。
http://uremon.com/heaven/


天国のすし屋 寿司太田@San Diego California.

2011-06-10 17:48:09 | Weblog
海もない内陸のアマゾン川に囲まれて日々を過ごしている私にとって、トータル6年間を過ごした、San Diego California は、まさしく天国ですが、そこに

メジャーリーガーイチローも足げく通う 名店があります。

もうだいぶ前に書かれたものですが、もし興味がある方は読んで見てください。お店の名前は、寿司太田 南カリフォルニアに行くチャンスがあった時

は是非行ってみてください。少しイチロー似ている大将が今日も元気にお店を回しているはずです。

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ステータスシンボルとしての1960年代の寿司、70年代のヘルシー志向ブーム、80年代の第1次寿司旋風、そして90年代の創作寿司と、今や日本の寿司文化はすっかりアメリカに定着しました。そして一流と呼ばれる寿司店には必ず、江戸の昔から伝わる技を、静かに確かに継承している生粋の職人がいます。


—— 板前への憧れ

実家はみかん農家で、男6人女2人の末っ子として熊本県天草の静かな山やまあい間の村に生まれました。14戸余りの小さな集落でしたが、村自体が大きな共同体で、慶び事や憂い事があると庭先にカマドを設しつらえて皆で膳を用意する慣わしがありまして、そんな時に私の親父は決まってプロ顔負けの見事な腕前を披露しました。大根で鶴を飛ばし、人参で亀を這わせ、蕎そ ば麦を打ち、大鰻の蒲焼き、刺身、焼き物、揚げ物…。土間には、柳刃、出刃、舟行と10種類以上の包丁が天草砥石を使って見事に研ぎ上げられていました。ですから、母親や姉が作る家庭料理とは一味違う 「和食の粋」 を親父の背中に感じながら育ちました。

「板前になろう」 と思ったのは、中学1年の時に見た寿司屋を舞台にしたTVドラマが機縁でした。画面に映った握りの技といなせな職人の世界に憧れを抱いたんです。それで中学卒業と同時にこの道に入ろうと決めました。国語や英語など元来勉強はあまり好きではなかったし、進学には大分お金も掛かります。当時は中卒で就職というのも少なくありませんでしたから、両親もすんなりと許してくれました。私は尼崎で寿司店を開いていた同郷の人の元へ弟子入りしました。


——丁稚奉公

尼崎の寿司屋 「さなみ」 はカウンター席が7つほどのこじんまりとした店で、職場から歩いて10分程の木造平屋のアパートに店を手伝っている親方のご兄弟2人と一緒に住み込ませてもらいました。眠い目をこすりながら親方と一緒に尼崎の中央卸市場へ行き、店に戻って掃除、仕込み、出前持ちと、早朝から深夜まで飛び回っていました。最初の3年間は寿司を握らせてもらえませんでしたが、近くの豆腐屋でおからを譲ってもらい、沢庵をネタにして隠れて練習をしていました。親方はそれを黙認してくれていましたし、お客さんは 「チビ、チビ」 と可愛がってくれました。「あぁ…ぎゃんすっとよかっですね」。九州弁丸出しの田舎坊主だったので、お客様に対する言葉使いに関しては本当によく注意されました。叩き上げの修業の中にも温かいぬくもりが感じられる家庭的な職場でした。

ある日、常連さんがいらして、僕がお茶くみに出たら「大将、ちょっとチビに握らせてよ」 と言って下さったんです。ハタさんというタイル施工会社の社長さんで、それで親方が代わってくれて初めて寿司を握りました。付け台を挟んで直にお客様と接する、その所作を全て顧客の目の前で行わなければならないという非常に緊迫感のある仕事の恐さをその時初めて知って、もう本当に緊張しましてね。ブルブル震える手でお出しした寿司は今でもよく覚えています。


—— 板前修業

追い回し (雑用) 3年、シャリ切り3年、焼き場、向こう板 (補佐)、煮方、脇板 (調理長)、花板 (板前・看板料理人) と、一人前の板前になるには 「10年旅立ち」 と言って、それなりの年季と板場の段階を経なければなりません。親方には4人の兄弟がいて、皆それぞれ独立して神戸近郊に寿司屋を構えていましたので、「さなみ」 を皮切りに11年間に渡って各店を回り、いろいろ勉強させてもらいました。マニアルなんてありませんし、誰も何も教えてくれない。自分で 「盗んで」 覚えていく。与えられた仕事の中で知恵と技を磨いていくワケです。

それでも、一度だけ店を辞めようと思ったことがありました。血気盛んな27歳の主人がなかなか手厳しい人で、気に添わないと私の頭を突いたり、足を蹴ったりするんですね。こちらも小僧のくせに負けん気だけは強かったので、買ったばかりの50ccの単車を飛ばして国道2号線を一路熊本に向かいました。17歳のささやかな反抗という行動でしたが、次第に涙が溢れてきました。ところが、頼みのカブが姫路あたりで壊れてしまい、意気消沈して単車を押していたところを長距離トラックの運転手さんが拾ってくれて…。「陸送が終わったら翌朝またここを通るから、その後で熊本でも神戸でも何処へでも送ってやる」と̶̶̶。「逃げたら終わりだ。とにかく、一つ一つ今出来ることを真剣に取り組むしかない」。それが一晩だけ野宿をして考えた末の結論でした。

毎日毎日寿司を握るだけの生活でしたが、数年が過ぎると季節を肌で感じることができ、寿司というのは板前の感性で創ってい0000く0ものだということが次第に分かってくるんです。ある程度任せられるようになると、責任の重さに押し潰されそうになる一方で心地良さも感じて、 回りもチヤホヤしてくれて、知らず知らずのうちにいい気になってしまうものです。22歳になった頃、天狗になっていた僕の鼻を圧へし折ってくれたお客さんがいました。飲み屋のマスターで、食道楽を自認するご仁でした。未熟さを知らされ、頭から冷水を掛けられたような心持ちでした。それで親方から6か月程の許しを頂き、東京の寿司屋で修業をさせてもらいました。


—— サンディエゴの青空の下

25歳の頃、兄弟子に誘われて大阪の店に移ったのですが、独立に関してその兄貴と店の旦那がもめて、私がげんなりしているところに知人から渡米の話を持ちかけられました。サンディエゴの 「神戸みその」 という鉄板焼ステーキの店が寿司バーの立ち上げに板前を探しているというお誘いでした。それからトントンと話がまとまって、4か月後にはサンディエゴの青空の下で働いていました。ただ、「さなみ」の親方はそんな僕をまるで相手にしてくれず、その点では辛い旅立ちとなりました。

1982年当時、サンディエゴには寿司店と呼べる店は 8軒程しかなかったんですが、時はまさに第 1次寿司ブームがアメリカに到来した時期で、見た目の美しさとヘルシー志向が相まって、寿司は急速に注目を集めるようになりました。職場では面倒見の良い先輩や楽しい同僚に恵まれて、本当に伸び伸びと仕事をさせてもらいました。こちらの人は板前に寿司を握ってもらうことに最大限の好意を示してくれます。僕の拙つたない英語にも耳を傾けてくれて、喜び方が半端じゃない!! この反応は日本では味わったことのない体験でした。
そして、カリフォルニア米も魚もまんざらじゃない。特に、サンディエゴ近海で捕れるウニに惚れ込みました。これなら日本人のお客様にも十分満足して頂ける寿司をお出し出来ると確信して、段々とサンディエゴを自分の住すみか処と宣言できる気持ちになりました。「寿司大田」を開店したのは1990年ですが、お客様がずっと応援して下さったことと、その頃に女房と出会ったことが契機となりました。


——巡り合いが紡ぐ人生

独り立ちするまでは会ってはくれないと分かっていましたから、開店して初めて 「さなみ」の親方にもご挨拶に伺うことができました。元々無口な方ですから何も言ってくれませんでしたが、帰りしなに黙って柳包丁を1本渡してくれました。嬉しかったですよ、本当に。

「開業から13年。後ろを振り返る余裕も無いほど無我夢中で突っ走ってきて、何とか暮らしている」というのが正直な感想です。親父は27年前、私が21歳の時に66歳で他界していますし、母は5年前に82歳で逝きました。齢よわいを重ねて自分が人生の折り返し地点を過ぎてみると、人間の一生はそれほど長くないと感じます。それでも、自分が生きていることを確かに感じさせてくれるものがあります。それを言葉にするなら 「邂かいこう逅=めぐりあい」 とでも言いましょうか…。私にとってそれは寿司であり、親方であり、サンディエゴであり、女房であり、従業員であり、そして私を叱しった咤激励してくれる多くのお客様なのです。

(2003年7月16日)

大田 幸人


星座:みずがめ座
血液型:A型
ストレス解消法:ゴルフ
カラオケ十八番:かぐや姫の「神田川」「なごり雪」
よく観るTV番組:「プロジェクト X」料理番組 (先日はマグロの特集を楽しむ)
個人的に好きな魚:こはだ

1956年熊本県生まれ。中学卒業と同時に尼崎で板前修業を始める。26歳の時にサンディエゴのレストランでの寿司バー立ち上げのために渡米。以来サンディエゴを拠点に寿司職人として活躍。90年に独立し「寿司大田」を開店。板前であると同時に、連日大勢の顧客で賑わう人気寿司店の経営者でもある。

次期首相

2011-06-08 19:06:27 | Weblog

ロイターオンライン調査

次期首相にふさわしいのは

枝野幸男(民主)

 

岡田克也(民主)

 

小沢一郎(民主)

 

仙谷由人(民主)

 

野田佳彦(民主)

 

原口一博(民主)

 

前原誠司(民主)

 

谷垣禎一(自民)

 

石破茂(自民)

 

 

調査結果

 

というのがネットあったので適当に前原さんとか押して

結果を見てみました、結果。次は石破茂首相らしいです。

小泉首相同様、慶応ボーイの首相誕生、別名自民党きっての

防衛オタクとも呼ばれているお方ですが、

う~ん、ちょっと違うような気が

結論 結局誰がやっても

また半年くらいで駄目とかになって1年したらまた振り出しそんな感じがしてなりません。

ガンバレ日本w!!!

次期首相にふさわしいのは

枝野幸男(民主) (4032 , 12%)

岡田克也(民主) (1936 , 6%)

小沢一郎(民主) (6206 , 19%)

仙谷由人(民主) (587 , 2%)

野田佳彦(民主) (602 , 2%)

原口一博(民主) (1184 , 4%)

前原誠司(民主) (4212 , 13%)

谷垣禎一(自民) (1399 , 4%)

石破茂(自民) (7452 , 23%)

その他 (5163 , 16%)


新製品

2011-06-07 09:56:33 | Weblog

http://gigazine.net/news/20110127_ngp/

いよいよ発表、個人的には安い!と思いました。
是非ゲーム好きの方は購入を検討されてはいかがでしょうか?
ちなみに私個人的にはまったく興味がありません。

ブラジル在住の15歳のうちの少年は、夕刻からロスアンジェルスで開かれている会見を模様を数時間食い入るように、ネット中継で見入ってました。

そして大方のプログラムが終わった頃、一言。

勝った!
圧倒的勝利確定!
すご過ぎ!

株価上昇間違いなしと、自分でも自分の親も1株も持ってませんが、まるで何千万株もどこかの会社の株を持っているかのような、大株主かお前のような雰囲気で満面の笑みでした。

発売は年末。
ビジネスの結果はいかに?



新規ビジネス

2011-06-03 15:08:38 | Weblog

 

あっという間に6月ですね、今年の夏が南アメリカ大陸で過ごす最後の夏だと信じています、さて今日の話題

 

以前NB推進室という職場で働いたことがあります。

別にニューバランスの靴を売っているわけではありませんで、

ニュービジネス、新規ビジネスを開拓せよ!との名目でした。

まあ色々やりましたが、今から考えても笑えたのが

ベルリンの壁を売れないか、ベルリンに新しい建物を作るのだけど

そこがちょうどベルリンの壁に繋がる土地で、壁が邪魔になるのでどこか

売れないか?

実際お台場に移る前のフジテレビとかに売り込みに行きました。勿論商談成立すべくもなく

そしてもうひとつ面白かったのが、焼付け技術を使って、写真とかを貼り付けた

骨壷の売り込み、これは私は行かなかったけど上司が実際安い焼き物をやっているタイだかフィリピンに行っていましたね、

結局どれもこれも長続きせずそのNB推進室見事に解散になりました。

最近知り合いからくるメールを見ていると思うのですが、やたら多いのがこの手の名前

新規ビジネス開発室

ニュービジネス推進本部

エマージングマーケット本部

社内ベンチャー開発部

自分が居たときも気づくべきだったのですが、本当に企業のトップはそんなに簡単に新規ビジネスが

あるとは実際は思っていなんだということ、

会社という組織の中ではホットで、新ビジネスをつくりだす。は建前

要は余剰人材受け入れ部門で、自分で儲かる事業を考えよ。がミッション。100にひとつ見つかったらOKだけど

新規開発できなかったらわかっているよな!これが本音のような気がします。

確かにそんなに簡単にあるわけないのです儲かる新規ビジネス、特に40歳以上のサラリーマンの貴方 貴女

新規ビジネス開発、推進そんなような部署に配属されたら自分の行く末を、しっかりと見極めなければならない、

そんな厳しい時代を、今我々は生きているような気がします。

Have a nice weekend! Bom fim de semana!