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信長は主権の下降を嗅ぎ取った

2021年02月08日 | 歴史
信長は、通り過ぎて行く諸々の通過者、即ち、旅の僧、商人、芸能人、乞食、浪人、土地を失った農民などを凝視しているうちに、彼等が持つ情報や、物の考え方から、その法則を嗅ぎ取ったのである。嗅ぎ取った法則とは、現代の言葉でいえば、
「主権の下降」
ということである。

主権の下降というのは、そのまま、
「政治は誰のために行わなければならないのか」
という、その「誰」に相当する。

信長がみつめる時、日本の主権というのは、かつては天皇が持っていた。その次は、藤原氏をはじめとする、貴族が握った。その後に、貴族の番犬でしかなかった武士の手に移った。その武士の中にも階層ができて、大大名が握った。将軍というようなものもできた。しかし足利氏に例を見るように、将軍は、半ば貴族化していた。

はるか前の時代でも、それを、そうすまいとして頑張った源家は、結局三代で滅びた。しかし、名目上の将軍はこの戦国時代にも存在していて、陰に陽にちらちらとその影響力を垣間見せる。

信長は、理念を追う武将であったが、決して現実から目を背けなかった。この将軍という、名ばかりの権威にも充分注目していた。
しかし、前に書いた、
「主権の下降現象」
には、それ以上の関心と興味を持った。

織田信長は、足利幕府が作った管領とか、守護の流れを汲む制度からいえば、その守護の番頭の家老的立場にある家の生まれである。早くいえば、陪臣(ばいしん:大名の家臣の称)だ。従って、信長は考えた。
「主権の下降原則によれば、天皇から貴族に移り、貴族から大大名に移り、大大名から小大名に移った主権は、小大名の家臣、即ち陪臣に移ってもいいのではないか。現に三好や松永達は、そのことを実行している。それならば、俺が天下を取っても、何の不思議もあるまい」

これが信長の発想である。従って、信長は、この段階では、まだ人民のためにとか、下層階級に主権を下降させようという意図はない。まず、自分が主権者になろうと考えていた。誰のための天下なのか、誰のための政治なのかと問われれば、信長は、ためらわずに、こう答えたであろう。
「天下は俺のためだ。政治は俺のために行う。即ち、俺が主権者である。そして、俺が主権者になるための戦いを、これから展開する」

こういう見方で、信長から秀吉へ、秀吉から家康へという政権の移動を見ると、分かりやすい。それは、信長は小大名の陪臣の家に生まれて天下を取り、秀吉は農民の身で天下を取った。しかし家康は小豪族の息子である。つまり、小大名の家人であった信長が取った天下は、もっと極端に農民の位置にまで下降し、それを、家康は再び小豪族の位置にまで引き戻したという事である。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

---owari---
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